第161話 静かすぎる本部
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
本部の門を越えて最初に見つけたのは、敵ではなく、使われなくなったばかりの生活だった。
認証廊の先には、細長い宿舎が並んでいた。
左右の壁際に置かれた二段式の寝台。空になった衣装箱。人数分だけ掛けられた木の食器。
灯具には新しい芯が残り、洗面鉢の底には濁っていない水が溜まっている。
けれど、人だけがいない。
「先頭、停止。左右を確認」
成人封印隊長の命令を受け、盾役が宿舎の入口を固める。
構造騎士と封印騎士が先に入り、床板、寝台の下、天井の通気口を順番に調べていく。
僕たち限定作業列は、成人隊の内側で待機した。
左腕には治療布と黒銀色の封魔具がある。
二重固定に緩みはない。
指先の震えと感覚の遅れは残っていたが、黒い紋章が肩の手前から広がった気配もなかった。
「誰もいないからって安全とは限らない」
ローディンが、僕のすぐ後ろから言った。
「分かっています」
封印騎士が寝台の一つへ確認札を置く。
「物理線なし。床下にも操作部はありません」
ようやく進入が許可され、僕たちは宿舎へ入った。
寝台からは毛布だけが持ち去られている。
保存食棚も空だった。
壁に掛けられた当番表は黒く塗り潰され、寝台ごとに付けられていた木札からは個人名が削られていた。
僕は一つの洗面鉢を見る。
縁から落ちた水滴が、まだ細い筋を残している。
「ずっと前から空だったわけじゃないですね」
僕の言葉を聞き、成人記録官が床へ視線を落とした。
「乾燥状態から見て、清掃は最近です。靴跡も新しい」
荷を引きずった二本の跡が、宿舎の入口から深部方向へ続いている。
衣類、毛布、保存食。
持ち出すものは選ばれていた。
慌てて逃げたなら残るはずの物まで、順序よく消えている。
「敗走ではない」
成人封印隊長が告げる。
「外縁区画を捨てる時期を、事前に決めていた」
宿舎を抜けると、天井が高い輸送区画へ出た。
太い金属管が壁沿いに何本も走り、切替弁と圧力札が一定の間隔で並んでいる。
王都中央へ運び込まれた熱材と魔力器材は、この管を通って各区画へ送られていたのだろう。
けれど、外縁側へ伸びる管は冷え切っていた。
土亀の構造騎士が手袋越しに管の表面を確認する。
「外縁供給なし。ただし、長期停止ではありません」
成人輸送記録官が管の根元へ定規を当てた。
「熱による変色が新しい。下部の結露も乾いていません」
管が壊された跡はない。
継ぎ目も塞がれていなかった。
物理弁だけが、手順どおり閉じられている。
「切替弁は深部側」
輸送記録官が、矢印の刻まれた金属札を示した。
「外縁への供給を止め、流れを内側へ集めています。本部全体を停止させたのではありません」
「用途は?」
封印隊長が尋ねる。
「この場所からは確定できません。熱路、保守設備、別の輸送区画。どれにも接続できる構造です」
深部へ集められた熱と魔力器材が、何に使われているのかは分からない。
僕の左腕とも、《暴食》とも結びつけられる証拠はなかった。
「アルト、管から離れろ」
ローディンに言われる前から、僕は確認線の外側にいた。
「触れていません」
「その位置を維持しろ」
封魔具も身体も、未知の設備へ接続させない。
それは出発前から変わらない規定だった。
輸送区画の端には、小さな記録卓が残されていた。
卓上の金属盆には、割られた木札と薄い金属札、端だけを焼かれた紙札が積まれている。
成人記録官が手袋を着け、一枚ずつ並べ始めた。
「分類番号が削られています」
一枚の紙札には欠けた星の印が残っていた。
けれど、発行者名に当たる部分は切り取られている。
別の金属札も、区分印だけを残して真ん中から割られていた。
僕に求められたのは、その印の確認だけだった。
「器成派の命令札とは違います。星門派の区分印です」
ローディンが僕の発言を記録する。
成人記録官は紙札の焼け方を確かめた。
「同じ位置だけが処分されています。発行者、撤収先、受領番号。全て意図的に消されている」
「燃やし損ねたんじゃないの?」
フィアが確認線の内側から尋ねる。
「違うでしょう」
記録官は、焼かれていない区分印を指した。
「不要な情報は残し、追跡に使える情報だけを消しています。重要な札そのものは持ち去られたようです」
星門派は、自分たちの本部を空にしたわけではない。
外縁で王国側に拾われても困らない物と、深部へ持っていく物を選別していた。
静かすぎるのは、誰もいないからではない。
残す音まで選ばれているからだった。
成人盾列が先へ進む。
僕たちも輸送管区画を抜け、深部へ続く分岐へ入った。
そこで、フィアが足を止めた。
「待ってください」
声は小さかったが、成人封印隊長が即座に手を上げた。
全隊が停止する。
「何を確認した」
「音です。右側の扉の奥から……金属を擦るような音がしました」
全員が黙る。
すぐには何も聞こえなかった。
やがて、石床の下を這うような弱い音がした。
一度。
少し間を空けて、もう一度。
鎖のようなものが床を擦っている。
「特殊な感知じゃないな?」
「はい。普通に聞こえました」
成人盾役が右側の閉鎖扉へ向きを変える。
だが、誰も駆け寄らない。
その時、セルフィナが隣の通気口を見た。
「薄紙を使ってもいいですか」
成人責任者が頷き、確認用の薄紙を渡す。
セルフィナは扉に触れず、通気口の前へ紙を近づけた。
紙は一定方向へ流れず、わずかに引かれては戻る動きを繰り返す。
「風ではありません。動く間隔が揃っていません」
成人確認員が代わり、別の薄紙でも同じ動きを確かめる。
格子の奥には、呼気で生じた曇りもあった。
さらに奥の扉から、かすかな咳が聞こえる。
一つではない。
成人確認員が普通の集音筒を扉へ当て、位置を変えながら耳を澄ませた。
「呼吸音を複数確認。右側二室以上」
扉の下から、痩せた指が一本だけ現れた。
「水……」
ほとんど息だけの声だった。
フィアの身体が前へ傾く。
けれど、彼女は成人盾列を追い越さなかった。
「救助対象の可能性あり。罠確認を開始」
成人封印隊長の命令で、担当者が動く。
盾役が中央通路と深部側を警戒する。
封印騎士は扉周辺の床板、錠、物理線を確認した。
構造騎士は天井の落下式隔壁と支柱を調べ、導管が捕虜区画へ接続されていないかを記録する。
成人医療員は担架が曲がれる通路幅と、後方受領線までの距離を確かめた。
「扉周辺に射出口なし」
「床下の操作線なし」
「隔壁は手動式。停止杭を入れます」
「捕虜と導管の接続は確認できません」
罠が見つからないことと、安全が確定することは違う。
それでも、扉の向こうに人がいる事実も消えなかった。
「開錠。盾役を先に入れる」
成人封印騎士が物理鍵を回す。
扉は外側から施錠されていた。
開いた隙間へ盾役が入り、左右を確認する。
「敵影なし。拘束者あり」
部屋の中には、壁際へ座らされた人々がいた。
手首を鎖で繋がれた男。
保守服を着た女性。
床へ横たわり、自力では身体を起こせない人物。
全員が衰弱していた。
けれど、生きている。
成人医療員が最初の男性へ膝をつく。
「聞こえますか。王国騎士団です。今から状態を確認します」
返事はない。
それでも胸は浅く上下していた。
医療員が呼吸と脈を確かめ、少量の水を唇へ含ませる。
別の封印騎士は拘束具を調べている。
「普通の物理錠です。身体への接続なし」
「手首の傷は?」
「数日前のものではありません。古い拘束痕が重なっています」
作戦直前に演技のため繋がれた人々ではない。
本当に、ここへ閉じ込められていた。
光龍の記録担当が、保守服の胸元にある番号札を照合した。
「王国地下保守局の行方不明記録と一致。少なくとも一名、本人確認」
残る人々の身元は分からない。
星門派へ反抗した信徒がいるのかもしれない。
別の場所から連れてこられた労働者かもしれない。
潜伏信徒が混じっていないとも断定できない。
それでも、救命を身元確認より後へ回す理由にはならなかった。
「歩行可能者二名。担架対象は複数。救護予備隊を要請」
成人医療員の報告が後方へ送られる。
僕たち限定作業列は、その場を動かなかった。
捕虜を助けたい気持ちはある。
けれど、僕が担いで隊列から離れれば、ローディンも監督位置を変えなければならない。
それは事前に決めた作戦を崩す行為だった。
救助は、準備された成人救護員が行う。
「アルト、左手」
ローディンが短く言う。
僕は指を開いた。
反応は遅いが、動く。
「変化なしです」
ローディンは確認だけを記録し、捕虜の側へ離れなかった。
後方から担架と保温布が運び込まれる。
鎖を外された捕虜は一人ずつ医療員へ渡され、自力で歩ける者にも成人護衛が付いた。
尋問は行わない。
弱った彼らに、星門派首領の名や深部の構造を問い詰める者もいなかった。
「水蝶救護受領線へ接続。地上までの移送札を付ける」
最初の担架が、僕たちの来た道を戻っていく。
門と隔壁に残された成人騎士が、順番に受領記録を渡す。
退路は空になっていない。
前衛も全員が搬送へ回ったわけではなかった。
救助のために作っておいた線が、初めて実際に使われている。
ほどなく、三方向から伝令が届いた。
「水蝶捕虜救助線より。外環側の閉鎖室で複数の拘束者を発見。罠確認後、救助を開始。身元確認済み一名、ほかは未確認です」
レイシアのいる作戦線でも、本物の捕虜が見つかっている。
僕はその名前を口にしなかった。
今は彼女も、自分の救助線を守っている。
「灰鬼核心進入線より。中央通路脇の二室から生存者を確認。搬送具は残されていません」
「炎獅子側保守区画より。拘束者を発見。星門派守備役は接触前に深部へ後退」
人数も状態も違う。
けれど、配置には共通点があった。
どの捕虜区画も、王国側が進む通路の脇にある。
深部へ続く道だけは開けられ、搬送用の担架や荷車は一つも残されていない。
救助するなら、王国側が人員と器材を出さなければならない。
「偶然の置き去りじゃない」
成人記録官が三枚の報告を並べた。
「救助を始める位置まで、一定の間隔があります。作戦線ごとの進行速度をずらす配置です」
担架が通れば、狭い通路の一部は塞がる。
医療員と護衛が後方へ戻る。
伝令の往復も増える。
そのたびに前線は止まり、深部の星門派には時間が生まれる。
「捕虜が罠なんじゃない。僕たちが助けることまで、敵は使っているんだ」
僕の言葉に、封印隊長が頷く。
「そうだ。だが、使われているから見捨てるという判断はしない」
地上統括指揮所へ送った報告の返答が届く。
オルフェンの命令は明確だった。
「救助は継続します。ただし、前線人員を崩してまで敵の定めた速度へ合わせてはいけません」
救護予備隊を順番に使う。
隔壁担当と退路担当は動かさない。
後方の受領能力を超えた場合は、捕虜を残すのではなく前進を止める。
一つの作戦線だけを突出させない。
王国側が選んだのは、速さではなかった。
だからといって、無秩序な善意でもない。
誰も置き去りにせず、誰も勝手に持ち場を離れず、その両方を守る。
最後の担架が後方へ引き渡される。
成人封印隊長が、深部へ続く中央通路を見た。
「救護受領を確認。前進を再開する」
成人盾列が再び先頭へ立つ。
僕たち限定作業列も、その内側で歩き始めた。
冷えた輸送管は、奥へ進むほど本数を増している。
どこへ繋がり、何へ使われているのかは、まだ分からない。
静かな通路の先で、敵が次の準備を進めている。
それでも僕たちは、助けた人々を後悔しなかった。
星門派は救助を妨げていたのではない――僕たちが救助を優先することそのものを、後退の手順へ組み込んでいた。
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