第157話 婚約者になってほしい
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
レイシアは何も言わず、子どもの約束を今の僕の言葉へ変える瞬間を待っていた。
灯具の火が、古い祭壇の前で小さく揺れている。
僕の右手とレイシアの手の間には、指二本分ほどの距離があった。
触れようと思えば届く。
けれど、その距離を埋めるより先に、伝えなければならないことがある。
胸の奥で鳴る鼓動を誤魔化さず、僕は水色の瞳を見た。
「僕はレイシアが好きだ」
礼拝室へ、はっきりと声が届いた。
小さくもない。
聞き返す必要もない。
レイシアの長い耳が、僅かに動く。
重ねられていた指がほどけた。
けれど、返事はない。
驚いたように開かれた水色の瞳が、僕だけを映している。
僕も続きを急がなかった。
最初の言葉が、きちんとレイシアへ届く時間を待った。
「……アルト」
やがて、掠れた声で名前を呼ばれる。
「うん」
「いまのは」
レイシアの声が止まった。
聞き取れなかったわけではない。
意味が分からなかったわけでもない。
それでも、何年も待っていた言葉が突然届けば、すぐに次の言葉を出せないのだと思う。
僕は右手を握り、また開いた。
「孤児院で約束したから言ってるんじゃない」
レイシアは瞬きもせず、僕を見る。
「子どもの頃の約束を、なかったことにはしたくない。僕が騎士を目指した理由も、レイシアの隣へ立ちたいと思ったことも、今までずっと僕の中にある」
小さな庭。
風に揺れる洗濯物。
剣の代わりに握った枝。
立派な騎士になったら、レイシアをお嫁さんにする。
あの言葉は嘘ではなかった。
けれど、あの頃の僕は、レイシアの意思を聞く前に未来を決めていた。
いま同じ言葉を繰り返すだけでは、あの日から何も変わっていない。
「子どもの僕が決めたからじゃない。今の僕が、今のレイシアを選んだ」
レイシアの唇が僅かに震える。
「水蝶騎士団長だからでもない。七大魔法騎士だからでもない。僕を守れるほど強いから、そばにいてほしいんじゃない」
「……うん」
「公の場では誰にでも公平で、自分が苦しくても救助対象を先にして、それでも僕の前では寂しいって言ってくれる。怒る時も、僕を嫌いだからじゃなくて、帰ってきた僕と話すために怒ってくれる」
第143話の面会室で、レイシアは自分の寂しさを隠さなかった。
フィアがいなければよかったのではない。
自分もそこにいたかったのだと。
公の聖女ではなく、僕が孤児院で知っていたレイシアとして話してくれた。
「団旗が違っても、大切なものまで分けなくていいって言ってくれた。僕の第一希望はずっとアルトだって、今の言葉で伝えてくれた」
僕は一度、息を整えた。
「だから僕も、昔の約束だけに隠れず、今の言葉で返したかった」
レイシアの瞳が潤み始める。
まだ涙は落ちていない。
返事もない。
僕は明日の集合封書へ視線を落とした。
夜明け前には、灰鬼の待機室を出る。
レイシアは水蝶の救助線へ。
僕は雷虎成人封印隊の内側へ。
正しい道を利用した罠が、どこに待っているかは分からない。
「明日の任務で、次があるかは分からない」
レイシアの表情が強張った。
「その言い方は、嫌」
「うん。僕も嫌だ」
「死ぬつもりで言ってるの?」
「違う」
すぐに否定した。
「明日も帰るつもりだよ。命令位置を守るし、ローディンの停止命令にも従う。《暴食》も《部分換装》も、許可なく使わない」
「なら、次がないなんて言わないで」
「次がないと決めたんじゃない」
僕は封書からレイシアへ視線を戻した。
「次があると決めつけて、今の気持ちを先送りしないって決めたんだ」
「先送り……」
「もっと立派な騎士になってから言おうと思ってた。左腕のことが全部分かってから。団長と新人じゃなくなってから。何か一つできるようになるたび、次の条件を作ってた」
戦闘順位最下位ではなくなった。
学院を卒業した。
騎士団へ所属した。
救助任務から帰ってきた。
それでも、自分はまだ足りないと言おうと思えば、いくらでも言えた。
立派な騎士という言葉に終わりを作らなければ、僕はずっと伝えずにいられる。
「帰ってから言えばいいって、何度も思った。でも、その帰ってからが来るたび、また次へ送ってた」
レイシアの指先が、長椅子の上で僕の方へ僅かに動く。
「怖くなったから、急いでるんじゃないの?」
「怖いよ」
否定はしなかった。
「本部へ続く道は正しい。だから敵は、その道で待てる。準備しても、何も起きないとは言えない」
「うん」
「でも、怖いからこの気持ちが生まれたんじゃない。明日が怖くなるより、ずっと前から持ってた。怖くなるまで伝えなかった自分を、今夜で終わらせたい」
「私を安心させるため?」
「それだけでもない」
「アルト自身が、安心したいから?」
「僕が安心するためだけなら、返事を求めるのは違うと思う」
レイシアへ断りにくい理由を押しつけていないか。
それは今も怖かった。
明日、別々の道へ入る。
そんな夜に将来を求められれば、僕を傷つけたくないという理由で、本心とは違う返事をするかもしれない。
だからこそ、そこも伝えなければならない。
「断ってもいい」
レイシアの耳が僅かに伏せられる。
「返事を今夜出さなくてもいい。断られても、明日の配置は変えない。僕は限定作業列を守る。レイシアにも捕虜救助線を守ってほしい」
「アルトへの返事と、明日の命令は別?」
「別だよ」
「私が、アルトの望む答えを出さなくても?」
「救護受領点へ戻ってきてほしい。それも変わらない」
レイシアは長く息を吐いた。
僕はもう一度、水色の瞳を見つめる。
逃げるための条件は残っていない。
言葉にしなければ、また明日へ送るだけだ。
右手の指先が、緊張で冷たくなっていた。
左腕の封魔具の下では、遅れて痛みが脈打っている。
それでも、声は震わせたくなかった。
「だから、帰ってからじゃなくて、今言いたい。僕の婚約者になってほしい」
言い切った。
恋人という曖昧な距離でもない。
守る相手という一方的な言葉でもない。
いつか結婚し、その先の人生を一緒に選んでほしいという申し込みだった。
礼拝室が、また静かになる。
外で待つローディンの足音は聞こえない。
中庭を渡った夜風が、細い窓を微かに鳴らした。
レイシアの唇が開く。
返事が来ると思った。
けれど、声より先に水色の瞳から一滴が落ちた。
白い頬を伝い、団長服の膝へ落ちる。
二滴目。
三滴目。
レイシアは驚いたように自分の頬へ触れた。
指で拭う。
それでも、次の涙がすぐに同じ場所を伝った。
「レイシア……」
僕は右手を伸ばしかけた。
けれど、まだ返事を聞いていない。
泣いている理由を、僕が勝手に決めてはいけない。
触れる直前で手を止める。
「違うの」
レイシアが声を絞り出した。
「答えたくないんじゃない。嬉しくて、声が出ないの」
その言葉を聞いても、僕は返事を急かさなかった。
レイシアは何度も涙を拭う。
長い耳の先まで赤くなっていた。
「ずっと……待ってたから」
声が震える。
「魔法鏡へ送っても、返事が来なかった時も。第一希望で名前を書いて、アルトが灰鬼へ行った時も。雪境から帰ってきたアルトを抱き締めた時も」
一つずつの出来事を詳しく語るわけではなかった。
ただ、その全部を通って、レイシアは今夜まで待っていた。
「アルトが私を大切にしてくれてるのは、分かってた。子どもの約束を忘れてないことも聞いた。でも、いつか今の言葉で伝えるって言ってくれたから……そのいつかを、ずっと待ってた」
涙を拭う指が震えている。
「本当に、私でいいの?」
「レイシアがいい」
「子どもの頃の約束を守らなきゃいけないからじゃない?」
「違う」
「私が水蝶騎士団長だからでもない?」
「違うよ」
「守ってもらうためでも?」
「違う」
一つずつ、はっきりと答える。
レイシアは泣いたまま、僕を見続けていた。
「明日が怖いからではないの?」
「怖い。でも、怖いから好きになったんじゃない。好きだと分かっていたのに、怖くなるまで言わなかっただけだ」
レイシアの涙が、また一滴落ちる。
「私が断っても、明日、無茶をしない?」
「しない」
「私を探して限定作業列を離れない?」
「離れない」
「通信が切れても、確認前に隔壁を越えない?」
「越えない」
「私にも、救助線を守れって言える?」
胸が痛んだ。
それでも、頷いた。
「守ってほしい。僕だけを探すために、捕虜や負傷者を置いてこないでほしい」
レイシアは目を閉じた。
二本の涙が、同時に頬を流れる。
「本当に、今のアルトなんだね」
「うん」
「今の私を選んでくれたんだね」
「うん」
「団長としてじゃなく?」
「レイシアとして、一緒にいてほしい」
その返答を聞いたレイシアが、ゆっくりと手を伸ばした。
僕の左腕には触れない。
長椅子の上で止めていた右手を、両手で包む。
温かかった。
強く握っているのに、痛くはない。
その手を通じて、彼女の震えだけが伝わってくる。
「はい。私を、アルトの婚約者にしてください」
今度こそ、返事が届いた。
泣き声に掠れていても、聞き間違える余地はない。
冗談でも、作戦前だけの励ましでもない。
レイシア自身が選んだ答えだった。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
胸の奥へ溜まったものが大きすぎて、用意していた言葉が一度に消えてしまう。
レイシアは泣きながら、少しだけ笑った。
「私の方が、ありがとうだよ」
「どうして?」
「ずっと待ってた。子どものアルトとの約束じゃなくて、今のアルトが、今の私を選んでくれる日を」
右手を包む指へ、少し力が加わる。
「もう一度聞かせて、とは言わないよ。ちゃんと聞こえたから」
「うん」
「でも、嬉しいって何度言ってもいい?」
「何度でも」
「嬉しい」
一度。
「すごく、嬉しい」
二度。
「アルトの婚約者になれるのが、ずっと夢だった」
三度目で、また涙が溢れた。
僕は今度こそ、右手の親指でレイシアの指をそっと撫でた。
触れていいという答えは、もう受け取っている。
「ただ、指輪は用意できてない」
正直に伝えると、レイシアが涙の中で瞬いた。
「指輪なしで申し込んだの?」
「形だけ急いで、誰かに用意してもらうのは違うと思った。今夜は言葉を先送りしたくなかった」
「怒ってないよ」
レイシアは首を横へ振る。
「少しだけ、アルトが選んだ指輪も見てみたかったけど」
「帰ったら選ぶ」
「アルトが?」
「明日の任務が終わって、二人で帰ったら、ロウェル孤児院へ報告に行こう」
水色の瞳が大きくなる。
「孤児院へ?」
「うん。子どもの頃の約束を、今の二人で結び直したって報告する」
レイシアの指が、僕の右手をさらに強く包む。
「それから、一緒に指輪を選んでほしい」
「一緒に?」
「僕がいくつか選ぶ。その中から、レイシアが一番気に入ったものを決めてほしい」
「全部気に入ったら?」
「その時は相談する」
「アルトが一つ選んで」
「責任が重いね」
「婚約者になるんだから、そのくらいは持って」
泣きながら笑う声が、静かな礼拝室へ広がった。
さっきまで重かった沈黙が、少しだけ柔らかくなる。
「孤児院の次は、ガイ団長へ報告?」
レイシアが尋ねる。
「うん。オルフェンと、水蝶騎士団にも」
「必要な手続きも確認しないとね」
「分からないことが多いから、一緒に調べよう」
「アルトは灰鬼のまま?」
「そのつもりだよ」
「私も水蝶団長のまま」
「うん」
「婚約したからって、アルトを水蝶へ移したりしないよ」
「九十九通の申請書も?」
第143話で交わした会話を思い出し、尋ねた。
レイシアが僅かに頬を膨らませる。
「出さない。たぶん」
「たぶん?」
「婚約者を近くへ置きたいと思うことまで、禁止しないで」
「思うだけなら」
「でも、命令は守るよ」
レイシアの表情が真剣なものへ戻る。
右手は包んだままだった。
「明日も私は救助線を守る。アルトのところへ勝手には行かない」
「うん」
「通信が一つ切れても、成人指揮官の確認前に同じ隔壁へ入らない。アルトだけを探すために、救助対象を置いていかない」
一つずつ言葉にするほど、胸は苦しくなる。
婚約者になったからこそ、すぐに駆けつけてほしいと思ってしまうかもしれない。
けれど、それを約束にしてはいけない。
「僕も成人封印隊の内側から出ない。ローディンの停止命令に従う。《暴食》も《部分換装》も、許可なく使わない」
「私を探して、決められた経路を離れない?」
「離れない」
「帰るための判断をして」
「うん」
「救護受領点へ戻ってきて」
「レイシアも」
「戻るよ」
絶対に無傷で帰るとは言わない。
誰にも保証できない約束を、愛情の証明にはしない。
守れる命令を守る。
退路を捨てない。
助けるべき人を置いていかない。
その先で、二本の線が繋がる場所へ戻る。
それが明日の僕たちにできる約束だった。
「そこで会おう」
僕が言うと、レイシアは頷いた。
「婚約者として、最初に再会する場所だね」
「うん」
「その次は孤児院」
「それから指輪」
「忘れないでね」
「忘れない」
「記録札に書いておきたいくらい」
「それは作戦記録に残るから駄目だよ」
「分かってる。私の中に覚えておく」
レイシアは僕の右手を包んでいた両手を、ゆっくり離した。
立ち上がるのかと思った。
けれど、彼女は一度だけ左腕の封魔具を見てから、僕の右側へ身体を寄せた。
「抱き締めてもいい?」
「うん」
僕は動く右腕を開いた。
レイシアは左腕へ触れないよう、僕の右肩と背へ両腕を回す。
淡い銀青の髪が頬へ触れた。
治療布も、黒銀色の封魔具も圧迫されていない。
僕は右腕だけで、レイシアの背を抱いた。
強い抱擁だった。
けれど、任務から帰った時とは違う。
生きていることを確かめるためだけではない。
これから一緒に生きると決めた人へ触れる抱擁だった。
「アルト」
「うん」
「婚約者なんだよね」
「うん。帰ったら、正式に報告しよう」
「夢じゃない?」
「夢じゃない」
「明日の朝になっても?」
「変わらない」
「任務が終わっても?」
「変わらないよ」
レイシアの腕へ、さらに力が入る。
僕の右肩へ、温かい涙が落ちた。
「ずっと、この日を待ってた」
「待たせてごめん」
「遅いよ」
「うん」
「でも、間に合った」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
明日へ間に合ったという意味だけではない。
子どもの頃に置いた約束へ、今の僕たちが辿り着けたという意味だった。
レイシアの背へ回した右手を、一度だけ動かす。
彼女の呼吸が落ち着くまで、急かさず抱き返した。
やがて、扉の外から控えめなノックが二度響く。
「面会終了時刻です」
ローディンの声だった。
レイシアはすぐには離れなかった。
最後に一度だけ僕の右肩へ頬を寄せ、それから自分の意思で腕を解く。
「戻らないと」
「うん」
レイシアは指先で涙を拭った。
けれど、何度も流れた跡までは消えない。
それを恥じるように顔を伏せることもしなかった。
「正式な報告は帰ってからだね」
「二人でしよう」
「それまでは、私たちだけの婚約?」
「ローディンは聞いていないはずだから」
「扉を開けたら、泣いた顔は見られるけど」
「理由までは聞かないと思う」
「聞かれても、任務後に報告しますって答える」
レイシアは団長用の作戦書を抱え直した。
僕も長椅子から立ち上がる。
右脚に薄い痺れが走ったが、姿勢を崩すほどではない。
扉を開けると、ローディンが廊下の定位置に立っていた。
僕たちの顔を順に確認する。
レイシアの涙については尋ねなかった。
「左腕の痛みに変化は?」
「ありません」
「歩行は?」
僕は一歩進み、右脚へ体重を掛けた。
「来た時と同じです」
「では、灰鬼待機室へ戻ります」
ローディンはそれだけ告げた。
レイシアも水蝶の待機区画へ戻らなければならない。
廊下の分岐で、僕たちは別々の方向へ立った。
明日も同じだ。
僕は限定作業列。
レイシアは捕虜救助線。
婚約しても、作戦図の札は隣り合わない。
「おやすみ、アルト」
「おやすみ、レイシア」
「次は救護受領点で」
「うん。そこから一緒に帰ろう」
レイシアは涙の跡を残したまま、嬉しそうに頷いた。
返事より先に零れた涙が乾かないまま、レイシアは、僕が帰って人生を共にする婚約者になった。
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