第156話 突入前夜
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
突入は明朝――そう告げられた夜、僕は帰ってから言うつもりだった言葉を、帰れなくなる前に伝えると決めた。
夜明け前の集合時刻が記された封書は、夕刻を少し過ぎた頃に届いた。
開封を許されたのは、作戦参加者本人と直接監督者だけ。
僕はローディンの立ち会いを受け、灰鬼騎士団の待機室で封を切った。
集合場所。
装備確認の開始時刻。
作戦図と異なる命令を受けた場合の照合手順。
封書に書かれていたのは、それだけだった。
地下第五環へ入った後の細かな時刻まではない。
敵が管理する隔壁の周期も、本部内部の構造も、すべてが確認できているわけではないからだ。
「読み終えましたか」
ローディンに問われ、僕は頷いた。
「はい」
「復唱は不要です。封書を戻してください」
折り目に沿って畳み直し、施錠箱へ入れる。
ローディンが番号札を照合し、鍵を掛けた。
これで、明日の突入が本当に決まった。
十三日前。
七本の針が、星冠教団本部の位置へ置かれた。
それから帰還票、輸送図、封印鍵、ローデン評議官の旧記録が再確認され、本部へ続く道も本物だと確定した。
七騎士団は罠を疑い、隔壁一枚ごとに成人担当を残す配置を作った。
僕たち五人も、雷虎成人封印隊の内側で動く限定作業列へ配置された。
準備不足ではない。
誰か一人の直感へ任せた作戦でもない。
それでも、安全になったわけではなかった。
本物の道だから、敵も使い方を知っている。
星門派は、僕たちが第五環へ来ることを予測している。
成人騎士団がどれほど確認を重ねても、敵が何を変えたかまでは、実際に扉の前へ立たなければ分からない。
「アルト」
ローディンの声で顔を上げる。
「左手を机へ置いてください。握らなくて構いません」
言われた通り、治療布に覆われた左手を机へ載せた。
黒銀色の封魔具は二重に固定されている。
治療布に破れはない。
固定具の緩みも、熱も、変形もない。
黒い紋章は、その下で肩の手前まで続いている。
広がった感覚はなかった。
「指を一本ずつ動かしてください」
親指から順に動かす。
動く。
ただし、命令した感覚と実際に動く時機が僅かにずれる。
小指へ至る頃には、前腕の奥で鋭い痛みが脈打った。
「遅延は本日昼と同程度。震えあり。痛みは?」
「少し強くなりました」
「作戦準備による疲労の可能性があります。今夜の自主訓練は禁止。剣も抜かないでください」
「はい」
「面会、相談、祈りなど、身体へ負荷を掛けない行動は認めます。ただし、居場所と終了時刻の申告が必要です」
その言葉を聞いて、右手に持っていた白紙へ目を落とした。
書こうとして、まだ一文字も書けていない。
ローディンは紙を見たが、内容までは尋ねなかった。
「誰かと話す予定ですか」
「レイシアと」
声に出しただけで、胸が速くなる。
「場所は?」
「選抜局の小礼拝室を借りたいです」
「使用記録を確認します」
ローディンは壁際の管理簿を開いた。
小礼拝室に今夜の予約はない。
普段ほとんど使われていない場所で、外側の廊下から成人監督も行える。
「半刻を上限に許可します。私は扉の外で待機します」
「話を聞くんですか」
「聞きません。異常音と、助けを求める声だけを確認します」
「分かりました」
「レイシア団長側にも、離席の引き継ぎが必要です。本人へ直接渡しに行かず、水蝶成人副責任者を通してください」
僕は頷き、白紙へ向き直った。
何度か書き出しを考えた。
明日のことについて。
大事な話があります。
二人で話したいです。
どれも、作戦会議の続きに見えた。
結局、書けたのは短い言葉だけだった。
――今夜、少しだけ話したい。選抜局の小礼拝室で待っています。
自分の名前を書き、紙を二つに折る。
それ以上書けば、伝えるべき言葉まで紙の上へ逃がしてしまいそうだった。
水蝶成人副責任者へ書き置きを預けたあと、僕はローディンと共に小礼拝室へ向かった。
選抜局の奥。
夜になると人通りが途絶える廊下の突き当たりに、古い木製扉がある。
扉の上には、小さな祈りの印が彫られていた。
ローディンが室内を先に確認する。
窓。
長椅子の下。
祭壇の裏。
隣室へ繋がる扉がないこと。
灯具と蝋燭台に異常がないこと。
僕を一人で未知の区画へ入れないという規定は、王国選抜局の中でも変わらなかった。
「問題ありません」
ローディンは廊下へ戻った。
「扉は完全に閉めて構いません。終了時刻になれば二度ノックします」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、面会を終えて予定通り休息へ入ってからにしてください」
「はい」
僕は礼拝室へ入り、扉を閉めた。
古い木の長椅子が二列。
正面には簡素な祭壇。
壁際には使い込まれた祈祷書と、火の点いた普通の灯具がある。
細い窓の向こうには、夜の中庭が見えた。
葉の落ちた木。
水を止められた噴水。
石畳へ伸びる窓枠の影。
蝋と古い木の匂いがした。
その匂いは、ロウェル孤児院にあった小さな礼拝室へ少し似ている。
雨が強くて外へ出られない日に、僕たちはそこで時間を潰した。
レイシアは古い祈祷書を読めたけれど、僕は難しい字を追う途中で眠くなった。
目を覚ますと、いつも彼女の肩へ寄りかかっていた。
それより先の記憶を辿れば、小さな庭へ行き着く。
洗った布が風に揺れ、僕が拾った枝を剣のつもりで握っていた庭。
幼い僕は、まだ剣の構え方も知らなかった。
それでも、いつか立派な騎士になると言った。
そして、その先に続けた言葉がある。
今夜伝えたいものは、あの頃の繰り返しではない。
子どもの僕が決めた約束を、今のレイシアへ押しつけるためでもない。
僕は祭壇に近い長椅子へ座った。
左腕を身体へ寄せ、右手を膝へ置く。
胸の奥が落ち着かない。
明日の戦闘を考えた時とは、違う速さだった。
剣を抜く時なら、見るべきものがある。
相手の足。
肩。
武器。
退路。
けれど今夜は、決められた型も成人騎士の確認札もない。
僕が自分の言葉を選ぶしかなかった。
扉が、控えめに二度鳴った。
「アルト。入るよ」
「うん」
扉が開く。
淡い銀青の長髪が、廊下の灯りを受けて揺れた。
レイシアは水蝶騎士団長の正装のままだった。
胸元には団長章。
左腕には捕虜救助線の作戦書を抱えている。
右手には、僕と同じ夜明け前の集合封書があった。
「副責任者への引き継ぎは済ませてきたよ」
「急に呼んでごめん」
「急だとは思ったけど、来ないという選択肢は最初からなかったから」
口元へ薄い笑みが浮かぶ。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
僕が軽い話のために呼んだのではないと、もう分かっているのだろう。
レイシアは扉を閉め、僕の右側へ座った。
左腕へ触れない位置。
昔から変わらない距離の選び方だった。
少しの間、二人で祭壇を見る。
灯具の火が微かに揺れた。
「ここ、孤児院の礼拝室に似てるね」
レイシアが先に言った。
「僕も、入った時に思った」
「長椅子はこっちの方が硬いかな」
「孤児院のも、十分硬かったよ」
「アルトはよく眠ってたから、分からなかっただけじゃない?」
「そんなに寝てた?」
「私の肩に寄りかかるくらいには」
「覚えてない」
「私は覚えてるよ」
レイシアが、少しだけ頬を膨らませる。
水蝶騎士団長が人前で見せる表情ではない。
僕だけが知っている、孤児院にいた頃のレイシアだった。
「明日の装備確認は終わった?」
僕が尋ねた。
「担架と医療器材は終わったよ。地下出口側の受領札も揃えた。中央器成院へ残す成人治療隊への引き継ぎも、あと一項目だけ」
「捕虜八人の状態は?」
「まだ長く立たせられない人もいる。意識が戻っても、記憶や感覚の確認には時間が必要だって」
完全に助かったと断定できる状態ではない。
だから水蝶騎士団は、次の作戦だけへ全員を連れていかない。
「アルトは?」
「限定作業列の装備は揃えた。封魔具と治療布は明朝、もう一度確認する」
「痛みは?」
「昼より少し強い」
水色の瞳が左腕へ向く。
触れはしない。
治療布と二重固定が維持されていることだけを確かめる。
「今夜はもう剣を振らないでね」
「ローディンにも止められた」
「私が言う前に?」
「うん」
「なら、二人分守って」
「分かった」
会話が途切れた。
作戦についてなら、まだ話せることはいくつもある。
隔壁の担当。
救護受領点。
限定作業列の停止条件。
それでも、どの話も今夜の中心にはならなかった。
レイシアの膝には、水色の線を引かれた作戦書がある。
僕の進む正規帰還路とは別の経路だ。
「明日も、配置は変わらないんだよね」
レイシアが呟いた。
「うん」
「私は捕虜救助線。アルトは限定作業列」
「同じ第五環へ入っても、内部では別の道を進む」
「分かってる」
言葉は穏やかだった。
不満が消えたわけではない。
それでもレイシアは、自分の札を動かさなかった。
「もし、僕たちの通信が切れても」
僕は続けた。
「成人指揮官の確認前に、同じ隔壁へ入らないで」
レイシアの指が、作戦書の端を握る。
「分かってるよ」
「救助対象を置いて、僕だけを探しに来ないで」
「……分かってる」
二度目は、少しだけ声が硬かった。
「アルトも同じだからね」
「うん」
「私の救助線から連絡がなくても、限定作業列を離れない。ローディンの停止命令へ従う。《暴食》も《部分換装》も、勝手に使わない」
「守る」
「救護受領点へ戻ってきて」
「戻るよ」
レイシアは小さく息を吐いた。
絶対に何も起きないとは言えない。
必ず無傷で帰るとも約束できない。
だから僕たちは、守れることを一つずつ言葉にした。
命令位置を離れない。
確認前の隔壁へ入らない。
未知の力を使わない。
帰還のための判断をする。
それでも、明日について話すほど、今夜言わなければならないことが近づいてくる。
「アルト」
レイシアが僕の顔を覗き込んだ。
「作戦の確認をするために呼んだんじゃないよね」
「うん」
「配置を変えてほしいわけでもない」
「違う」
「能力の許可でもない」
「それも違う」
「じゃあ、何?」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ道を塞ぐためではない。
僕が言葉へ辿り着くのを待つための問い。
それでも、すぐには答えられなかった。
明日が危険だから伝える。
それは正しいのか。
恐怖を利用して、レイシアを断りにくい場所へ立たせることにならないか。
孤児院の約束を持ち出して、今の彼女へ義務を背負わせないか。
僕の生存を、レイシアだけの責任へ変えてしまわないか。
「僕は、今夜言うことが卑怯じゃないか、ずっと考えてた」
ようやく口にした。
レイシアの長い耳が僅かに動く。
「卑怯?」
「危険な任務の前なら、断りにくいかもしれない。僕を不安にさせたくないと思って、本当とは違う返事をさせるかもしれない」
「私が、自分で選べないと思ってる?」
「そうじゃない」
「なら、アルトが私の返事まで先に決めないで」
静かな声だった。
「言わないことで私を守ろうとするのも、先に選択肢を取り上げることだから」
「……うん」
「私は団長としての命令と、自分の気持ちを分ける。明日の配置も変えない。アルトが何を言っても、それを理由に救助線を捨てたりしない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるから、怖いんだ」
レイシアの瞳が少しだけ見開かれる。
「僕が何を言っても、レイシアはレイシアの責任を守る。それでも、気持ちだけは受け取ってほしいと思ってる」
沈黙が落ちた。
夜の中庭で、風が枯れ枝を揺らす。
細い窓の向こうを、木の影が横切った。
「帰ってから言うつもりだった」
僕は続けた。
「ずっと、そう思ってた。もっと立派な騎士になってから。左腕のことが分かってから。団長と新人じゃなくなってから」
言い訳にできる条件はいくつもあった。
一つを越えても、次の条件が現れる。
立派な騎士という言葉に終わりがないように、僕は伝える日を先へ動かし続けられる。
「でも、明日が必ずあると思って、大切な言葉を明日へ押しつけ続けるのも違うと思った」
レイシアの表情が僅かに強張る。
「遺言みたいな話なら、聞きたくない」
「遺言にするつもりはない」
すぐに答えた。
「死ぬつもりで呼んだんじゃない。明日も帰るために命令を守る。レイシアにも帰ってきてほしい」
「それなら、どうして今夜なの?」
「帰った後の未来を、言葉にしてから行きたいから」
レイシアは何も言わない。
僕も、すぐには続けなかった。
幼い頃、僕はレイシアの返事を待たずに約束を口にした。
立派な騎士になったら。
その先に、子どもなりの未来を置いた。
けれど今は、僕一人で決めてはいけないと分かっている。
レイシアには、レイシアの意思がある。
子どもの頃の約束を大切にしてくれていても、それが今の答えと同じだとは限らない。
「前に、言ったよね」
レイシアが口を開く。
「次に言う時は、聞こえないくらい小さな声では駄目だって」
「覚えてる」
「私が聞き返せないくらい、ちゃんと言ってって」
「うん」
「私は、まだ待ってるよ」
水色の瞳は逸れなかった。
「子どもの頃の約束を、そのまま繰り返してほしいんじゃない。今のアルトが何を望んでいるのか、聞かせてほしい」
胸の奥が強く鳴る。
「どんな答えでも、明日の配置は変えない?」
「変えない」
「僕を守るためだけの返事はしない?」
「しない」
「団長としてじゃなく、レイシア自身で答えてくれる?」
「うん」
迷いのない声だった。
僕は右手を膝から離し、長椅子の上へ置いた。
レイシアの手との間には、指二本分ほどの距離がある。
触れようと思えば届く。
けれど、その距離を先に埋めることはしなかった。
言葉を伝える前に、触れることで答えを求めたくなかった。
レイシアも手を動かさない。
ただ、待っている。
孤児院の庭で、枝を振る僕を見ていた時のように。
けれど、今の僕はあの頃の子どもではない。
灰鬼騎士団の新人騎士で。
危険な力を内側に抱え。
一人では判断を許されないこともある。
それでも、自分の気持ちを選ぶことまで、誰かの許可へ預ける必要はなかった。
外で待つローディンの足音は聞こえない。
面会終了の合図も、まだ鳴らない。
礼拝室には、僕とレイシアの呼吸だけがある。
一度、深く息を吸った。
今度は聞き返されないように。
恐怖へ押された言葉ではなく、帰った先の未来を選ぶ言葉として。
僕は、子どもの頃の約束を今の自分の言葉へ変えるため、レイシアの名を呼んだ。
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