第151話 外された封魔具
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
目を開けた時、僕の両手両足は金属枠へ固定され、左腕からは治療布も黒銀色の封魔具も消えていた。
息を吸う。
冷えた空気が喉の奥へ入り、胸の内側を浅く擦った。
身体を起こそうとした瞬間、四つの金属音が重なった。
両手首を囲う枷。
両足首を押さえる枷。
さらに腰へ渡された幅広い固定帯が、僕の背を金属枠へ引き戻す。
「……っ」
手首へ硬い縁が食い込んだ。
力を抜いても痛みは残る。枠そのものが石床へ固定されているらしく、右脚を引こうとすると鈍い振動だけが背中まで伝わってきた。
剣はない。
灰鬼騎士団の騎士服も、役割札もない。
着せられているのは、身体の前面を覆うだけの灰色の検査衣だった。左側の袖だけがなく、指先から肩までが冷たい空気へ晒されている。
そこに黒い紋章があった。
手の甲から前腕を通り、上腕へ伸び、肩の手前で止まっている。
広がってはいない。
色も濃くなっていない。
見覚えのない線が増えている様子もなかった。
それでも、布にも金属にも隠されていない紋章を見るのは初めてだった。
左腕には、いつもあった重さがない。
治療布の柔らかな圧迫も、黒銀色の封魔具の冷たさも、二つの留め具が皮膚の外側を押さえる感覚もない。
何もないことが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
左の指を曲げる。
動いた感覚が一拍遅れて返ってきた。
前腕の奥には、細い刃を差し込まれたような痛みが残っている。けれど、爪も外殻も現れない。黒い紋章も動かなかった。
僕はそのまま、室内を見渡した。
狭い石造りの部屋だった。
壁際には細い金属導管が三本並び、それぞれ普通の物理弁へ繋がっている。床の中央には排水溝。反対側には器具棚と紙の記録板があり、扉には外側から掛ける形の錠が付いていた。
光源は天井から吊られた灯具が一つだけ。
現在地を示す地図も、敵の人数を教える表示もない。
金属枠の右斜め前に、小さな台があった。
その上の金属盆を見て、呼吸が止まりかけた。
治療布。
黒銀色の封魔具。
第一固定と、第二固定。
どれも壊されてはいない。
封魔具には亀裂も大きな歪みもなく、二つの固定具も形を保っている。治療布には切断した痕跡さえ見えなかった。
破壊して剥ぎ取ったのではない。
手順を知る誰かが、一つずつ外したのだ。
「ローディンさん!」
声が石壁へぶつかり、狭い室内で反響した。
返事はない。
もう一度身体を起こそうとする。
手枷が鳴り、腰の固定帯が食い込む。右脚の痺れが膝下から広がっただけで、金属枠は僅かにも動かなかった。
「フィア! ティアナ! レグルス!」
名前を呼んでも、扉の向こうは静かなままだった。
セルフィナの落ち着いた声も聞こえない。
成人騎士が交代する足音も、盾を床へ置く音もない。
僕の周りから、命令線だけが綺麗に消えていた。
どれだけ眠っていたのか。
ここへ運ばれるまで、何があったのか。
思い出そうとすると、頭の奥で白い圧力が膨らんだ。
七本の針。
星冠塔の真下。
第五環。
そこから先へ意識を向けた瞬間、外側の錠が動いた。
金属同士が擦れる。
扉は僅かな抵抗音を立てて、内側へ開いた。
入ってきたのは、一人の成人女性だった。
灰白色の長衣をまとい、片手には紙を挟んだ記録板を持っている。胸元には、細い環と塔を組み合わせた印があった。
武器は見えない。
けれど、無防備には見えなかった。
女性は僕の手枷にも、扉にも目を向けない。
最初から逃げられないと知っている人間の歩き方で、金属枠の横まで来た。
「目覚めましたね、アルト・ロウェル」
静かな声だった。
嘲笑も、怒りもない。
その目は、怪我人へ向けるものではなかった。記録を取る前に器具の状態を確かめるように、僕の顔から左腕へ移る。
「ここは、どこですか」
「あなた方が探し当てた場所です」
女性は記録板へ短い線を書き入れた。
「王都アウレリス中央、星冠塔直下。地下第五環にある星冠教団本部」
第百五十話で特定した場所と一致する。
本部の位置は間違っていなかった。
僕たちは、ここまで来たのだ。
それなのに、どうして僕だけが金属枠へ固定されている。
「あなたは……」
「星門派を預かるマリアベル・ザルルグ」
星冠教団全体の最高指導者とは言わなかった。
器成派のヴァレクとも違う。
中央器成院へ現れなかった、もう片方の首領。
「フィアたちは、どこですか」
最初に口から出たのは、その問いだった。
僕をここへ運んだ理由でも、黒い紋章のことでもない。
閉じた隔壁の手前にいたはずの皆が、今どこにいるのか。
マリアベルは答えなかった。
紙へ向いていた視線だけを上げる。
「覚えていないのですか」
胸の奥が冷えた。
「何を、ですか」
問い返しても、彼女は記録板を閉じるだけだった。
金属盆へ歩み寄り、壊れていない封魔具と二つの固定具を順に見る。
それから、何にも覆われていない僕の左腕へ視線を戻した。
「ようやく、装具のないあなたを調べられる」
声の温度は変わらなかった。
待ち望んでいた喜びも、獲物を弄ぶ愉悦もない。
決められていた確認項目へ、ようやく進める。
ただそれだけを告げる声だった。
「僕に、何をするつもりですか」
「それを調べるのです」
マリアベルは黒い紋章へ手を伸ばさなかった。
器具棚の弁にも触れない。
「今日は、あなたが目覚めた時の反応を記録します。検査はその後です」
今はまだ、何も始まっていない。
その事実が、安心にはならなかった。
これから始めるものが用意されているからこそ、室内は整えられたままなのだ。
僕は左手を握ろうとした。
指先は震えたが、拳にはならない。
喰うものを探さない。
身体を別の形へ変えようともしない。
内側にいる存在の名も呼ばなかった。
人間と繋がっているものを対象にしないと決めたのは、拘束されたから消える規定ではない。
それに、目の前のマリアベルは人間だった。
僕が今するべきことは、力を出すことではない。
欠けた記憶を取り戻し、仲間の状態を確かめることだ。
目を閉じる。
星冠塔直下の第五環。
古い石床へ打ち込まれた停止杭。
前を塞いでいた成人騎士の盾列。
『止まれ、アルト!』
ローディンの声。
曲がった鉄柵の向こうで翻った金色。
フィアの髪。
床の継ぎ目へ伸び、二つの流れを分けようとしていた根。
閉まりかけた金属板を押し返す、レグルスの銀槍。
『線の向きが変わっています』
離れた位置から届いた、セルフィナの声。
そこまでは見える。
次の瞬間、壁でも床でもない場所から膨大な魔力が流れ込んだ。
身体の外から押しつけられたはずなのに、左腕の封魔具は内側から押し返されたように重くなった。
指が開く。
視界が傾く。
金属隔壁が落ちる。
成人騎士の盾が、その隙間へ差し込まれる。
誰かが僕の名前を呼ぶ。
けれど、その先だけがない。
誰が倒れたのか。
僕が何をしたのか。
どのように隔壁を越え、誰が封魔具を外したのか。
思い出せなかった。
成人監督の内側にいた。
ローディンがいた。
フィアたちがいた。
さらに外には、複数の騎士団による退路と封印線があったはずだ。
その中から、なぜ僕だけが星門派の手へ落ちたのか。
答えへ触れようとしたところで、時間は七本の針が地図へ置かれた朝まで遡った。
◇
七騎合同作戦議場の長机には、まだ七色の針が立っていた。
王都地図の中央。
星冠塔を示す印と、その真下へ書き加えられた地下第五環の円。
第百五十話の証拠照合を終えた直後、成人記録官たちは帰還票と封印鍵を保全箱へ戻し始めていた。
僕の左腕には治療布が巻かれている。
その上から黒銀色の封魔具が置かれ、二つの固定具が決められた位置を押さえていた。
冷たく、重い。
けれど、それがあることを恐ろしいとは思わなかった。
「七本の針は、全軍投入を意味しません」
統括席に残っていたオルフェンが念を押した。
立ち上がった七人の団長は、誰も異議を唱えない。
「各団は王国各地の防衛人員を先に確保してください。中央器成院の事後処理からも、必要な成人戦力を外してはなりません」
光龍の成人記録官が、別の作戦紙を地図の横へ置いた。
捕虜八人の治療。
ヴァレク・サルディオの移送。
押収した指揮文書と封印鍵の保全。
器成派が軍事的に壊滅しても、終わっていない仕事が並んでいる。
「水蝶の治療隊は残すよ」
レイシアが青い針の横へ、受領区画を示す札を置いた。
「本部に収容者がいる可能性も考えて、別の救護線を組む。中央器成院の八人と同じ場所へ一度に運ぶことはできないから、受入口も分けるね」
次の任務を理由に、今いる捕虜を置き去りにはしない。
ゴウセル団長は五百年前の地下構造図を広げ直した。
「第五環へ通じると記録された保守路は、現行図と一致せん。地下全体を掘り返すわけにもいかぬ。土亀は支柱、排水、熱路を分けて調べる」
「正面から塔を割る案は最初から捨てるぞ!」
イグナシオ団長の声が議場へ響く。
大きな声でも、内容は突撃ではなかった。
「塔の上も周りも王国区画だ! 炎獅子は開けていい壁と、触っちゃならねえ柱を先に出す!」
シルフィ団長は王都中央へ入る複数の道路を細い指で辿った。
「星門派の荷車が民間の流れへ混じっていますわ。避難を早く告げすぎれば、敵まで地下へ集めることになります。外周観測と住民誘導の時機は分けます」
「拘束線も同じだ」
ギルバート団長が応じた。
「星冠塔の王国側職員と、教団の認証を持つ者を同列に扱うな。身元確認の手順を先に作る」
アーサー団長は鞘に収まったエクスカリバーへ触れず、三枚の封印鍵を入れた保全箱だけを見ていた。
「封印鍵は入口の存在を示しました。しかし、その先の安全まで保証していません」
「本物の鍵なら罠じゃねえ、とはならねえからな」
ガイ団長が地図の第五環を指で叩く。
「場所が正しいことと、入った道から帰れることは別だ。灰鬼は退路を一本扱いにしねえ」
七騎士団が同じ場所へ集まって、一つの扉を力任せに叩く計画ではなかった。
避難。
構造。
突破。
封印。
外周。
拘束と記録。
前衛と退路。
それぞれの線を切らさず、本部へ届かせるための準備だった。
オルフェンは地図の空欄を見渡した。
「突入時刻は決めません。侵入経路も、参加人数も未定です。集結を急いでいるのは星門派も同じですが、未確認の地下へ焦って入ることは認めません」
穏やかな声だった。
「提出されるのは、作戦案です。出陣命令ではありません」
団長たちが短く承知を返す。
僕は証拠卓の末席で、そのやり取りを聞いていた。
指先を動かすと、感覚が僅かに遅れる。
左前腕には三呼吸の負担が残り、熱を持った痛みが骨の近くを通っていた。椅子から急に立てば、右脚の痺れも強くなる。
ローディンは僕の右斜め後ろに立ったまま、議場の時計を確認した。
「退室まで十五分だ」
「分かっています」
「作戦参加の審査時間じゃない。今日の出席は、情報の食い違いを確かめるためだけだ」
「はい」
地図に僕の配置はない。
前衛にも、後方にも、本部待機にも名前は書かれていなかった。
それを不当に外されたとは思わない。
《暴食》を一対象、一呼吸で終えられたことも、《部分換装》が三呼吸で消えたことも、次を保証しない。
僕が第五環で役に立つかどうかより、命令を守って帰れるかどうかを先に確認しなければならない。
オルフェンが僕へ視線を向けた。
「アルト君。中央器成院と共通する刻印が見つかった場合、照合をお願いする可能性はあります」
「分かりました」
「ただし、それは突入参加の承認ではありません」
「はい。決定には従います」
自分だけが本部を開けられるとも、自分の力が必要だとも言わなかった。
帰還票と封印鍵が場所を示したのは、僕がいたからではない。
四種類の物証と、成人記録官たちの照合があったからだ。
レイシアの水色の瞳が一度だけ僕へ向いた。
けれど、団長権限で僕の名前を地図へ書き加えようとはしなかった。
「アルトの審査と、私の作戦案は分けます」
統括席へ向けた声は、公平だった。
「参加が認められた場合だけ、灰鬼の持ち場へ水蝶の救護線を接続する案を出します」
「それでお願いします」
オルフェンが頷く。
フィアも反対側の席に座っていた。
右腕の簡易固定具は残ったままだ。指先を机へ置き、剣には触れていない。
自分の名前が空欄であることを見ても、勝手に線を引こうとはしなかった。
僕と目が合う。
フィアは何も言わず、机上の帰還線を指先で一度だけ示した。
僕も小さく頷いた。
勝手に行かない。
決められた位置から帰る。
それだけで意味は通じた。
「アルト、移動するぞ」
ローディンの声で椅子から立った。
右脚へ体重を掛けた瞬間、膝下が鈍く痺れる。
僕が姿勢を戻すまで、ローディンは腕を掴まなかった。倒れそうになった時だけ支えられる距離を保ち、そのまま議場に隣接する封印確認室へ僕を連れていく。
室内には、成人封印担当とセシリアが待っていた。
「時間どおりですね」
セシリアは細い眼鏡の奥から僕の顔色を見た。
「確認が終わったら休息です。会議へ戻ることも、別の打ち合わせへ参加することも認めません」
「分かりました」
普通の木椅子へ座る。
左腕は専用の台ではなく、布を敷いた平らな腕置きへ載せた。
成人封印担当は留め具へ手を掛けない。
治療布の外側から位置を確かめ、黒銀色の封魔具との隙間を薄い確認札で測る。
「封魔具、外見上の破損なし。亀裂、変形、加熱痕なし」
紙の記録板へ筆が走った。
「治療布の破れなし。第一固定、第二固定、ともに緩みなし」
肩近くでは、治療布の端から黒い紋章の終点だけを確認する。
「紋章は肩の手前で停止。濃化、新しい線ともにありません」
セシリアは僕の指先の震えを見た。
「昨夜より強くはなっていません。ただし、消えてもいません。微熱も継続です」
完全に治ったという言葉はなかった。
成人封印担当は、新しい赤縁の確認札を取り出した。
そこには本部侵入時の禁止項目が書かれている。
敵設備へ封魔具を接続しない。
未知の導管へ左腕を入れない。
封印台へ直接触れない。
現場で治療布、封魔具、二重固定を解除しない。
「第五環の認証設備が、金属装具を外すよう要求する可能性があります」
成人封印担当が言った。
「王国施設でも、異物検査のために武器や籠手を外す場所はあります。しかし、この封魔具は通常装備として扱いません」
「外す必要がある経路なら?」
僕が尋ねると、ローディンが先に答えた。
「敵の扉が外せと要求しても、外さない。解除を条件にした時点で、その経路は捨てる」
迷いのない声だった。
「別の入口を探すんですか」
「そうだ。見つからなければ撤退する」
「僕だけ残して、装具を外した状態で通す案は」
「案に入らない」
ローディンは赤縁の札を僕の参加審査書へ重ねた。
「お前の封魔具へ触れられるのは、指定された成人医療員と封印担当だけだ。敵の鍵穴にも、導管にも、認証台にも左腕を置くな」
成人封印担当も頷く。
「封魔具は万能な安全装置ではありません。ですが、外した状態で何が起こるかも未確認です。未知を通行料にはできません」
封魔具を外せば、必ず暴走する。
そう断定されたわけではない。
反対に、外しても何も起きないという記録もない。
確認されていないことを、安全な方へ決めつけない。
中央器成院で何度も守られた規定と同じだった。
「分かりました」
僕は赤縁の札を見る。
「封魔具を外す必要があるなら入りません。現場で解除を命じられても、ローディンさんと成人封印担当へ確認します」
「敵地じゃ、確認そのものができねえ場合もある」
「その時は撤退します」
答えると、ローディンは一度だけ頷いた。
扉の外で足音が止まった。
確認を終えたレイシアとフィアが、開いたままの入口からこちらを見ていた。
レイシアは室内へ踏み込まない。
「捕虜の治療線へ戻るね」
団長としての持ち場がある。
「うん」
「アルトも、終わったら休んで」
「分かってる」
レイシアの視線が一瞬だけ封魔具へ落ちた。
不安を隠し切れてはいなかったが、自分で固定を確かめようとはしない。
「外さない規定になったんだね」
「現場では絶対に外さない」
僕が答えると、彼女は静かに頷いた。
「なら、その規定を守って帰ろう」
長い約束にはしなかった。
フィアも右腕の固定具を左手で支えたまま、短く言う。
「入るために外すなら、その入口が間違ってる」
「ローディンさんも同じ判断だった」
「ならいい」
二人は同じ場所を奪い合わない。
それぞれの治療と持ち場へ戻っていった。
成人封印担当が最後の記録を書き終える。
「確認終了。現場解除禁止。敵設備への接続禁止。参加可否は引き続き未承認です」
「記録を受領する」
ローディンが署名した。
僕の名前は、まだ本部突入名簿にはない。
星門派首領の名も、内部構造も、罠の位置も分からない。
分かっているのは、本部が第五環にあること。
星門派がそこへ集まりつつあること。
そして、僕の左腕を未知の設備へ差し出してはならないことだけだった。
椅子から立つ前に、右手を左腕へ運ぶ。
治療布の上から、黒銀色の封魔具の外縁へ触れた。
第一固定。
第二固定。
どちらも決められた位置にあり、指で押しても動かなかった。
その朝の僕は、治療布の上から二重に固定された黒銀色の封魔具が、敵の手で外される日をまだ知らなかった。
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