第15話 無の斬撃
標的が、音もなく二つに割れた。
遅れて上半分が滑り落ち、石床へぶつかる。
けれど僕の目は、切断された標的ではなく、床に落ちた赤い雫へ向いていた。
「フィア、その手……」
「失敗しただけ」
フィアは右手を外套の陰へ隠し、訓練場の出口へ歩き出す。
「見なかったことにして」
「待って」
フィアの足が、ほんのわずかに緩んだ。
「技のことは聞かないよ。でも、その手まで見なかったことにはできない」
「あなたには関係ない」
「昨日までは、そうだったかもしれない。でも僕たちは、三人で帰ってきたから」
背中へ呼びかけても、フィアは振り返らなかった。
「手当てだけでも――」
「必要ない」
短い答えを残し、金色の髪が扉の向こうへ消える。
引き止められなかった僕の足元で、もう一滴の血が黒い石床を濡らした。
◇
翌朝、フィアは何事もなかったように訓練場へ現れた。
腰まで伸びた金髪も、黒いカチューシャも、隙なく整えられている。
右手だけが、いつもと違った。
白い包帯の上から黒い手袋をつけ、傷を完全に隠している。
「おはよう、フィア」
ティアナが声をかける。
「おはよう」
フィアはいつも通りに答え、腰の細剣へ右手を伸ばした。
柄を握った瞬間、その指が小さく震えた。
ティアナは見逃さなかった。
「その手、どうしたの?」
「何でもない」
「何でもない人の指は、剣を握ったくらいで震えないよ」
フィアは答えず、僕を見る。
黙っていることもできた。
けれど、昨日見た傷を隠すことが、本当にフィアのためになるとは思えなかった。
「昨日、訓練場で怪我をしたんだ」
「アルト」
「技のことは話してないよ。でも、怪我は別だと思う」
ティアナの笑顔が消えた。
彼女はフィアの右手を見て、それから訓練場の隅にある小さな自主訓練区画を指差す。
「二人とも、来て」
「訓練がある」
「その手で?」
「使える」
「使えるかどうかじゃありません。来てください」
丁寧なのに逆らえない声だった。
フィアは数秒黙ったあと、諦めたようにティアナの後ろを歩いた。
自主訓練区画へ入ると、ティアナが扉を閉める。
「手を出して」
「必要ない」
「出して」
ティアナが動かないので、フィアは渋々右手を差し出した。
手袋を外し、包帯を解く。
細い指から手首にかけて、幾筋もの裂傷が走っていた。表面の傷だけじゃない。指先が時折痙攣している。
「これ、自分で巻いたの?」
「そう」
「だから緩いんだよ……」
ティアナが手のひらへ小さな種を置く。
淡い緑の光と共に芽が伸び、冷たい葉へ育った。彼女はその葉を傷へ重ね、新しい包帯を丁寧に巻いていく。
「アルトに見られた術が原因?」
「……そう」
「何をしたの?」
フィアはすぐには答えなかった。
手当てをするティアナ。
その隣で待つ僕。
二人の顔を順番に見てから、フィアは静かに口を開いた。
「次に、二人の隣で使うかもしれない」
細剣へ目を落とす。
「知らないまま巻き込まれる方が危険。だから一度だけ見せる」
手当てが終わると、ティアナが訓練区画の奥へ移動した。
土魔法で円形の標的を三枚作り、蔦で一定の間隔に並べる。その周囲にも、斬撃が外へ漏れないよう厚い土壁を築いた。
フィアは標的から十歩離れた場所に立った。
細剣の間合いではない。
「昨日のあれは、雷魔法だけじゃないんだよね?」
僕が尋ねると、フィアは頷いた。
「雷と、無を重ねている」
「無系統魔法……」
無系統魔法とは、火や水のような属性を生み出す術ではない。魔力から性質を削ぎ、純粋な力へ戻す希少な系統だ。
僕の属性適性がないこととは、まったく意味が違う。
「最初に、雷で剣と腕を加速させる」
フィアの細剣へ青白い雷が走った。
「振り抜く瞬間、無で光と音と熱を削る」
「雷を消してるの?」
「違う」
フィアが腰を落とす。
「雷の速さだけを、斬撃へ残している」
雷鳴が訓練区画を震わせた。
次の瞬間。
すべての光と音が途絶えた。
フィアの細剣が横へ振り抜かれる。
刃は標的へ届いていない。
それでも、一枚目と二枚目がほぼ同時にずれ落ちた。
三枚目には、横一文字の浅い亀裂が走っている。
「すごい……」
ティアナが呟いた。
僕も言葉を失っていた。
フィアの剣は速い。
けれど、これは速いという言葉だけでは足りなかった。
音も光も、刃が通った痕跡さえない。気づいた時には、すでに斬られている。
「っ……」
フィアが右手を押さえた。
新しい包帯へ、赤い染みが広がっていく。
「傷が開いた!」
ティアナが駆け寄る。
「まだ浅い」
「浅くないよ。もう終わり」
「一度しか使えないなら意味がない」
フィアはティアナの手を避け、再び細剣を構えた。
「実戦で敵が一体とは限らない。前線を守るなら、連続して使えなければならない」
「その手で、もう一度使うつもり?」
「使えるか確かめる」
「駄目だよ、フィア」
僕も彼女の前へ出た。
「どいて」
「その術が必要なのは分かる。でも、このままじゃ――」
「危険を後ろへ通すくらいなら、右手一本の方が安い」
あまりに迷いのない声だった。
ティアナの表情が強張る。
「勝手に自分を安くしないで」
フィアがティアナを見る。
「フィアが傷ついたら、私たちが平気だと思ってるの?」
「二人が無事なら問題ない」
「僕たちにとっては問題だよ」
僕が言っても、フィアの構えは解けなかった。
「止めなければ、もっと多くが傷つく」
その言葉だけは、揺らがない。
誰よりも前へ行くと決めたフィアにとって、自分の手は危険を止めるための道具なのかもしれない。
「一度しか使えない剣では、守れない」
フィアの右腕へ再び雷が走る。
「待って!」
ティアナの制止より早く、フィアが踏み込んだ。
雷光が膨れ上がる。
光と音が消失した。
目の前から、一瞬だけ何もかもが抜け落ちる。
直後、三枚の標的が同じ高さから切断された。
すべてを斬った。
けれど、フィアの右腕で青白い雷が暴れた。
「――っ!」
手袋が内側から裂ける。
細い腕に赤い線が走り、血が噴き出した。
フィアの指から細剣が滑り落ちる。
僕は咄嗟に手を伸ばし、刃ではなく柄を掴んだ。
同時にティアナが倒れかけたフィアの身体を抱き止める。
「フィア!」
「離して。まだ……」
「もう剣も握れてないよ!」
ティアナの腕の中でも、フィアは右手を伸ばそうとする。
けれど五本の指は震えるばかりで、思うように動いていなかった。
「次も使えなければ……後ろへ抜ける」
「フィアがいなくなったら」
僕は受け止めた細剣を床へ置いた。
「後ろに残るのは、守られた人じゃない。置いていかれた仲間だよ」
フィアが僕を見上げる。
「止めなければ、もっと多く傷つく」
「だから三人で止める方法を探すんだ」
僕は血に濡れた右手を見る。
「フィアの右手だけに、全部払わせる必要はないよ」
「この剣に代わる方法があるの?」
「……今は、分からない」
言い切れる答えなんて持っていない。
僕には雷も無も使えない。
フィアと同じ剣を振ることもできない。
それでも、頭の中には引っかかるものがあった。
雷で加速する。
無で性質を削る。
残った斬撃を前方へ放つ。
一つだけなら、あれほどの現象は起こらない。
二つの魔法を正しい瞬間に重ねたから、刃の届かない場所を斬れた。
僕の《閃駆》も同じだ。
身体強化。短距離加速。魔力纏い。
どれも第一階位の小さな魔法でしかない。
けれど順番に繋げた一瞬だけ、学院最下位だった僕の剣が、生きた魔獣へ届いた。
僕には、大きな魔法を使うだけの魔力がない。
それでも、小さな効果を正しく繋げれば。
結果だけは、大きくできるのかもしれない。
「アルト?」
ティアナの声で我に返る。
「ごめん。フィアの術式が、どう繋がっているのか考えてた」
「直せる?」
フィアが尋ねる。
期待した声ではない。
できるかどうか、事実だけを確かめる声だった。
「今の僕には、直し方は分からない」
誤魔化さずに答える。
「でも、その傷は必要な代償じゃないと思う」
「同じこと」
「違うよ」
僕は首を振った。
「それは、まだ完成していないってことだ」
フィアの瞳がわずかに細められる。
「雷で加速する段階と、無へ変える段階。それを一つずつ分けて考えれば、傷つかずに届く方法が見つかるかもしれない」
「見つからなければ?」
「それでも探す。僕とティアナも一緒に」
「私の剣なのに?」
「三人で戦う時に使うなら、三人の問題だよ」
フィアはすぐには答えなかった。
ティアナが彼女を壁際へ座らせ、裂けた手袋を外す。
冷たい葉を新しい傷へ重ね、再び包帯を巻き始めた。
「痛かったら言ってね」
「平気」
「平気でも言ってください」
「……痛い」
フィアが小さく答える。
ティアナは少しだけ笑った。
「うん。ちゃんと言えたね」
包帯を巻き終えるまで、フィアは抵抗しなかった。
「約束して」
ティアナが包帯の端を結ぶ。
「もう一人で、あんな使い方をしないって」
「必要なら使う」
「フィア」
「……少なくとも」
フィアは包帯に覆われた右手を見つめる。
「三人一組でいる間は、一人で全力を使わない」
仲間という言葉はなかった。
それでも、今は十分だった。
「分かった。約束ね」
フィアは立ち上がり、左手で細剣を拾った。
出口へ向かう前に、一度だけ僕たちを振り返る。
「アルト」
「何?」
「分けて考えるという話。次までに続きを考えておいて」
「う、うん。頑張るよ」
「期待はしていない。でも、聞く」
それだけ告げ、フィアは訓練区画を出ていった。
扉が閉じる。
僕が息を吐いた瞬間、ティアナに両手を取られた。
「アルトもだよ」
「え?」
ティアナの指が、剣を振り続けて硬くなった僕の手のひらを包む。
「自分の身体を勝手に安くしないでね」
「僕はそんなこと――」
「迷宮で一人で落ちて、魔獣との訓練で脚を動かなくして、秘密の稽古で痣を作った人が言う?」
何も言い返せなかった。
ティアナの手は温かい。
腰の剣へ目を落とすと、鞘に結ばれた緑の組紐が揺れていた。
「うん。約束する」
「破ったら?」
「もっと強く止めて」
「じゃあ、ずっと手を離さないからね」
ティアナは僕の手を包んだまま笑った。
◇
翌日。
僕が訓練場へ入ろうとした、その瞬間だった。
銀色の槍が目の前を走り、僕の足元へ突き立った。
訓練場の空気が静まる。
槍を握っていたのは、学院制服を隙なく着こなした少年だった。胸元には、名門貴族であることを示す紋章が輝いている。
少年はティアナにも、周囲の生徒にも目を向けない。
ただ僕だけを見ていた。
「次の模擬戦、僕が相手だ」
銀の穂先が持ち上がり、真っすぐ僕の胸へ向けられる。
「今度こそ、僕を見ろ――アルト」
「面白かった!」
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