第14話 前だけを見る剣
朝の訓練場には、乾いた金属音が響いていた。
僕とティアナが到着した時には、もうフィアの訓練が始まっていた。
腰まで届く金髪が、朝日にきらめく。
足元で雷が弾けた。
次の瞬間、黒いカチューシャだけを残して、フィアの姿が消える。
「速い……」
ティアナが目を細めた。
訓練場を飛び交うのは、魔導標的と呼ばれる訓練用の的だ。魔石を動力にして、不規則に移動したり、攻撃を模した光弾を放ったりする。
六体の標的が、別々の方向へ散開する。
フィアに最も近い一体が、正面から接近した。
けれど、彼女はそれを無視した。
壁を蹴り、雷の軌跡を描いて高く跳ぶ。
細剣が貫いたのは、訓練場の後方へ光弾を放とうとしていた標的だった。
着地と同時に身を翻し、二体目。
そこから三体目へ。
近い順じゃない。
攻撃の準備を終えたものから、正確に核を貫いている。
第八話――初めてフィアの剣を見た時、僕には速さしか見えていなかった。
あれと同じ速さを手に入れれば、僕も強くなれると思った。
だから真似をして、失敗した。
けれど、今なら少しだけ分かる。
フィアの速さは目的じゃない。
彼女が選び続けた結果なんだ。
最後の標的が地面へ落ちる。
フィアは細剣についた光の粒を払い、鞘へ収めた。
呼吸一つ乱れていない。
「フィア」
ティアナが声をかけた。
フィアはこちらを見た。
「何?」
「昨日のこと、聞いてもいい?」
ティアナは一瞬だけ迷い、それでも真っすぐに尋ねた。
「私たちが弱いから、置いていったの?」
責める声ではなかった。
だからこそ、フィアもすぐには答えなかった。
「二人が強いか弱いかは、関係ない」
やがてフィアは、いつもの平坦な声で言った。
「前に危険があるなら、最も速い私が先に行く。私が先にすべて排除すれば、後ろにいる人間は傷つかない。それが一番合理的」
「でも、それで昨日は不合格だったよ」
「私の制圧が不完全だったから」
やっぱりだ。
フィアは、自分たちが足手まといだとは考えていない。
むしろ、僕たちを戦わせる必要すらないと思っている。
「どうして、そこまで前へ行こうとするの?」
僕が尋ねると、フィアは訓練場に転がった標的へ目を向けた。
「誰かが最初に危険へ着かなければならない」
それから、腰の細剣へそっと指を添える。
「なら、私が行く」
短い言葉だった。
けれど、それ以上を尋ねてはいけない気がした。
「僕、前にフィアの速さを真似しようとしたんだ」
「知ってる。動く標的の前で転んでいた」
「見られてたんだ……」
少し恥ずかしくなったけれど、今は伝えたいことがあった。
「でも、間違ってた。フィアは、速さを見せたいから走ってるんじゃない」
フィアの青い瞳が僕へ向く。
「さっきも、一番近い標的じゃなくて、一番後ろを傷つけそうな標的から斬ってた」
僕は倒れた標的を指した。
「フィアの剣は、誰かの真似じゃない。自分が一番前に立つって、フィア自身が決めて作った剣なんだと思う」
フィアの指先が、細剣の柄の上で止まった。
「……変な見方」
「ご、ごめん」
「謝る必要はない」
表情は変わらない。
それでも、僕の言葉を聞き流さずに受け取ってくれたことだけは分かった。
だから、もう一つ伝える。
「でも、前しか見ていなかったら、守れたかどうか分からないよ」
「危険をすべて排除すれば、確認する必要はない」
「僕たちは危険じゃなくて、人だから」
フィアがわずかに眉を動かした。
「転ぶこともある。フィアが知らない場所で、違う誰かを助けに行くこともある。守ろうとしてくれていても、僕たちを見てくれなければ、一緒には戦えないよ」
「守るなら、たまには守られる側の顔も見て」
ティアナも続ける。
「私たち、フィアが思ってる通りには動かないかもしれないから」
「非効率」
「うん。でも、人ってそういうものだと思う」
ティアナが笑う。
フィアはしばらく僕たちを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「一度だけ」
「え?」
「今日の再試験で、一度だけあなたの判断を待つ。それで遅れるなら、次からは私の方法で行く」
十分だった。
「うん。ありがとう」
直後、訓練開始を知らせる鐘が鳴った。
今日の模擬迷宮は、昨日とは通路の形が変わっていた。
動く石壁によって経路を組み替え、本物の迷宮に近い状況を作る訓練区画だ。
入口の前で、バルト先生が腕を組んでいる。
「今回の追加条件は一つだ。三人の距離が規定以上に離れた時点で失格とする」
先生はフィアを見る。
「一人で走れば、その瞬間に終わりだ」
「分かりました」
「役割は決めたか?」
「フィアが前方の敵を判断する。僕が周囲と後方を見て、必要なら声をかけます」
「私は敵を拘束して、退路を守ります」
ティアナが答えた。
バルト先生は短く頷く。
「なら、結果で示せ。始め!」
入口が開いた。
同時に、フィアの足元へ雷が集まる。
前方の通路へ飛び出そうとした彼女へ、僕は声をかけた。
「フィア、待って」
雷が弾ける寸前で止まった。
フィアが振り返る。
僕とティアナが横へ並ぶまで、彼女はその場で待っていた。
「行ける」
「うん」
「いつでも!」
三人で通路へ踏み込んだ。
最初に現れたのは、厚い盾を構えた魔導人形だった。
フィアの細剣では、正面から核を狙えない。
「ティアナ、盾と右脚を!」
「任せて!」
床から伸びた蔦が、魔導人形の脚へ絡みつく。
さらに一本が盾を引くが、訓練用とは思えない力で抵抗された。
僕は盾の内側へ剣の鞘を差し込み、全身の重さを乗せた。
「今!」
盾がわずかに外へ開く。
その隙間を、細い雷光が通り抜けた。
フィアの細剣が核を貫き、魔導人形が停止する。
「次、左から来る!」
通路の陰から、もう一体が現れた。
動きは遅い。
けれど、その進行方向には僕がいる。
フィアが反射的に踏み込もうとする。
「これは僕に任せて」
雷が止まった。
フィアは一瞬だけ僕を見た。
「……分かった」
初めて、僕へ敵を任せてくれた。
剣を抜き、正面から魔導人形と向き合う。
魔力纏いを刃の先へ集めた。
一太刀目。
核を狙った剣は、硬い胸板に弾かれた。
手のひらが痺れる。
僕一人では、まだ足りない。
「アルト、右へ!」
ティアナの蔦が魔導人形の左腕を引いた。
身体が傾き、胸の核が露出する。
「ありがとう!」
僕は踏み込み直し、二太刀目を同じ場所へ重ねた。
乾いた音と共に核が砕け、魔導人形の動きが止まる。
僕一人の力じゃない。
ティアナが隙を作り、フィアが待ってくれたから届いた剣だった。
「先へ進もう」
フィアが言った。
少しも褒めてはくれなかったけれど、その声には急かす響きがなかった。
最後の直線へ到着する。
その先が中央区画だ。
フィアの足元へ、再び雷が集まった。
一人なら、数秒で魔導核まで到達できるはずだ。
けれど、フィアは走らなかった。
僕たちへ背を向けたまま、ほんの一瞬だけ止まる。
そして振り返った。
「二人とも、来られる?」
ティアナの顔が明るくなる。
「うん。行こう」
「僕も行ける」
三人で同時に地面を蹴った。
もちろん、僕たちの速度は揃わない。
フィアは何度も歩幅を緩めた。
ティアナの蔦が前方の罠を止め、僕が後ろから来た魔導人形を知らせる。
最後は三人で中央の魔導核を停止させ、誰一人欠けることなく出口へ戻った。
記録板に表示された時間は、昨日よりずっと遅い。
「記録だけなら平凡だ」
バルト先生が結果を見上げる。
僕は息を整えながら、次の言葉を待った。
「だが今回は、三人一組として合格だ」
ティアナが小さく拳を握る。
「やった……!」
「遅くなったんじゃない。一人では持てなかったものを、三人で持って帰ったんだ」
フィアは記録板を見つめていた。
満足しているようには見えない。
それでも、不合格だった昨日より長く、その数字を見ていた。
「……次は、もっと速く三人で帰る」
一人ではなく、三人で。
その言葉が聞けただけで、今日の再試験には意味があったと思う。
訓練場を出た後も、僕はフィアの背中を眺めていた。
あの真っすぐな剣について、もう少し考えていたかった。
すると、横からティアナの顔が視界へ入り込んできた。
「フィアのこと、ずっと見てるね」
「剣を見てたんだよ」
「本当に剣だけ?」
ティアナは少しだけ頬を膨らませた。
「うん。すごく真っすぐな剣だから」
「ふうん」
なぜか納得していない。
次の瞬間、ティアナが僕の腕へ自分の腕を絡めた。
柔らかな温もりが制服越しに伝わり、歩き方が分からなくなる。
「ティ、ティアナ?」
「じゃあ、見すぎて私を置いていかないようにね」
僕は少し考えた。
置いていくつもりなんて、最初からない。
「ティアナはずっと隣にいるから、見失わないよ」
「――そういうところだよ、アルト」
ティアナの顔が赤くなる。
なぜ怒られたのか分からないまま、僕は腕を組まれて寮への道を歩いた。
放課後。
訓練場へ剣帯を忘れたことに気づき、僕は一人で戻った。
扉の向こうから、かすかな雷鳴が聞こえる。
中にいたのはフィアだった。
フィアは標的から離れた場所で、一人、細剣を構えていた。
右手の周囲へ雷が集まっている。
朝に見たものよりも細く、鋭い光。
けれど次の瞬間、その雷が消えた。
光だけじゃない。
音も、魔力の気配さえも。
フィアが細剣を振り抜く。
刃先は標的まで届いていない。
何も起きなかったように見えた。
「っ……」
フィアが右手を押さえる。
細い肩が上下し、乱れた呼吸が静かな訓練場へ落ちた。
「フィア?」
僕の声に、彼女が振り返る。
青い瞳が一瞬だけ揺れた。
「見なかったことにして」
それだけ告げて、フィアは僕の横を通り過ぎる。
引き止めることができなかった。
床へ、赤い雫が落ちた。
フィアの手袋の先からこぼれた血だった。
その時。
彼女の細剣が触れてさえいなかった標的が、音もなく二つに割れた。
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