第143話 第一希望のまま
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
七騎士団合同任務の発令が終わると、レイシアは団長の声ではなく、孤児院にいた頃の声で僕を呼び止めた。
「アルト。少しだけ、いい?」
七つの団旗が順に畳まれ、作戦議場から運び出されていく。
各騎士団長も、必要な作戦書を受け取っていた。
レイシアの手元にも、水蝶騎士団の救護線と人員受け渡し地点を記した書類がある。
僕が持っているのは、制限情報照合者用の控えだけだった。
討伐隊員の名簿に、僕の名前はまだない。
「水蝶の準備は大丈夫?」
「副団長へ、半刻分の引き継ぎを済ませてあるよ。正式に面会時間も取ったの」
レイシアは、胸元に留めた面会許可札を見せた。
思いつきで部下を待たせたわけではないらしい。
「ローディン騎士にも確認してあるから、心配しないで」
少し離れた場所で、ローディンが頷いた。
僕たちが入ったのは、作戦議場に隣接する小さな面会室だった。
普通の机と椅子が二脚。
窓の外には、選抜局の内庭が見える。
ローディンは廊下側で待機し、扉が閉じる前に告げた。
「時間になれば、こちらから合図します。体調に変化があった場合は呼んでください」
「分かりました」
扉が閉じる。
僕は左腕を身体へ寄せたまま、椅子へ腰を下ろした。
治療布の下には、黒銀色の封魔具が二重固定されている。黒い紋章も肩の手前で止まったままだ。
長い会議で右脚に薄い痺れが出ていたけれど、座れば少しずつ引いていく。
レイシアは向かいではなく、机の角を挟んだ隣の椅子を選んだ。
遠すぎず、左腕にも触れない位置だった。
水蝶騎士団長の手袋を外し、揃えて机へ置く。
それだけで、議場にいた七大魔法騎士の表情が少し薄れた。
「それで、話したいことって?」
「アルトから先に話して」
促されて、僕は机の上の作戦書を見た。
灰鬼と水蝶の線は、地下隔離区画の出口で繋がっている。
けれど、その線の中に僕が入るかは決まっていない。
話すべきことは作戦ではなかった。
「雪境のこと、まだレイシアにちゃんと話せていないと思って」
水色の瞳が、僕を真っ直ぐ捉えた。
「フィアのこと?」
「うん。あの時、フィアは――」
「弁護しなくていいよ」
穏やかな声だった。
責める響きはない。
「弁護?」
「私がフィアを責めていると思って、説明しようとしているんでしょう?」
言い当てられて、返事が一拍遅れた。
「少しだけ」
「やっぱり」
レイシアは困ったように笑った。
「フィアには、もう直接伝えてあるよ。アルトを守ってくれて、連れて帰ってきてくれて、ありがとうって」
「うん」
「あの子がいなかったら、アルトが今ここへ座っていたか分からない。それは私にも分かってる」
机の上へ置いたレイシアの指先が、僅かに曲がる。
「フィアがした判断を、後から安全な場所にいた私が責めるつもりもないよ」
それでも、言葉はそこで終わらなかった。
レイシアは公の微笑みを作らず、僕を見続けている。
「でもね、寂しくなかったとは言えないの」
窓の外を、書類の束を抱えた成人職員が横切った。
扉の向こうでも、合同任務へ向けた足音が絶えず行き交っている。
その中で、面会室だけが切り離されたように静かだった。
「アルトが寒かった時も、痛かった時も、どこへ進むか決めなければならなかった時も、私は隣にいなかった」
「レイシア……」
「帰ってきたアルトを抱きしめることはできた。でも、その前の四日間には入れない」
声は震えていない。
それでも、机へ置いた手には少しだけ力が入っていた。
「報告を読めば、何があったかは分かるよ。どこを歩いたかも、何を支えたかも、どれくらい苦しかったかも。でも、記録で知ることと、隣にいることは同じじゃないから」
レイシアは一度だけ目を伏せた。
「フィアがいなければよかったのではありません。私も、そこにいたかったのです」
最後だけ、団長の時の丁寧な言葉になった。
抑えようとした感情が、そこへ出たのだと思う。
「その寂しさは、フィアの責任じゃないよ。あの子に背負わせるつもりもない」
「うん」
僕はすぐに慰める言葉を探さなかった。
寂しく思う必要はない、と言えば、レイシアがようやく出してくれた気持ちを、また押し戻すことになる。
「話してくれてありがとう」
レイシアが顔を上げる。
「僕はフィアに救われた。それは変えられないし、変えたくもない」
「うん」
「でも、誰かに救われたことで、レイシアとの約束が薄くなるわけじゃないよ」
水色の瞳が僅かに揺れた。
僕は、遅れて動く左指を治療布の内側でそっと開いた。
その手で何かを証明する必要はない。
いま伝えるべきなのは、もっと前から僕の中にあることだった。
「僕がどこで誰と任務をしたかで、レイシアが大切じゃなくなることもない」
「……本当に?」
「うん」
「灰鬼で、新しい仲間ができても?」
問いかけは短かった。
誰かの名前を並べて、選ばせようとする言い方ではない。
「それと、レイシアが大切なことは別だよ」
レイシアは小さく息を吐いた。
「別にしてくれるんだね」
「一つしか残せないものじゃないから」
「アルトは、そういうところだけ急に大人みたいなことを言う」
「そういうところだけ?」
「痛いことを隠す時は、孤児院にいた頃と同じなのに」
少しだけ頬を膨らませる。
その顔は、水蝶騎士団を率いていた時には見せないものだった。
「今は隠してないよ」
「分かってる。だから、昔より少しだけ立派になったね」
「少しだけなんだ」
「全部立派だって言ったら、アルトはすぐ無理をするでしょう?」
レイシアの視線が、僕の左腕へ向かう。
触れはしない。
ただ、治療布と黒銀色の封魔具がそこにあることを確かめてから、机上の作戦書へ戻った。
作戦書には、七騎士団の担当線が別々の色で引かれている。
水色と灰色は地下出口で接していた。
けれど、僕の配置欄は空白だ。
レイシアはその空欄へ指を置かなかった。
「私は、アルトを水蝶へ移したいと言いに来たんじゃないよ」
「分かってる」
「本当に? 私ならまだ、選抜局へ百通くらい申請書を出すと思ってない?」
「百通は出さないと思う」
「九十九通なら?」
「出すかもしれない」
「ひどい」
口ではそう言いながら、レイシアは少し笑った。
「灰鬼で剣を学ぶと決めたアルトを、私は否定しないよ。ガイ団長のところでなければ伸ばせないものがあることも分かってる」
「うん」
「でも、団旗が違うからって、私まで遠くへ置かないで」
その言葉で、作戦書に引かれた線が別のものに見えた。
騎士団の所属。
任務上の持ち場。
正式な命令系統。
どれも必要で、勝手に跨いではならない。
それでも、僕たちの間にあるものまで、同じ線で分ける必要はなかった。
レイシアは机の上で両手を重ねる。
「ドラフトの第一指名は終わったよ。アルトは灰鬼の新人騎士で、私は水蝶の団長。それは変えない」
「うん」
「でも、指名書の話だけじゃないの」
真っ直ぐな水色の瞳から、目を逸らせなかった。
「騎士団が違っても、私の第一希望はずっとアルトです」
議場で聞いたどの命令より、胸の奥へ深く届いた。
第一希望。
その言葉を、レイシアは合同ドラフトよりずっと前から持っていたのだ。
僕にも、思い当たる日がある。
孤児院の小さな庭。
洗った布が風に揺れていて、僕は拾った枝を剣のつもりで握っていた。
まだ正しい構え方も知らない。
レイシアは木箱へ腰掛け、僕が何度も同じ振り方をするのを見ていた。
僕は、守られてばかりなのが悔しかった。
泣いた時に手を引いてもらうのも、転んだ時に起こしてもらうのも、いつも僕の方だった。
だから、今度は僕が守ると言った。
レイシアのような騎士になるのではなく、レイシアの隣へ立てる騎士になるのだと。
そして、最後に。
「僕が立派な騎士になったら、レイシアをお嫁さんにする」
幼い僕は、レイシアの返事を聞くより先に言い切っていた。
意味をどこまで分かっていたのかは、今となっては自信がない。
それでも、その時のレイシアの顔は覚えている。
驚いた後、誰にも見せないほど嬉しそうに笑った。
「覚えてる?」
現在のレイシアが尋ねる。
「忘れてないよ」
「一度も?」
「一度も」
返事をすると、レイシアの長い耳の先が僅かに赤くなった。
「私は、待ってるって答えたの」
「うん」
「それも覚えてる?」
「覚えてる」
「なら、どうして今まで、その先を言わなかったの?」
責める声ではなかった。
けれど、曖昧な返事では通してくれない目をしている。
「レイシアが嫌になったからじゃないよ」
「それは分かってる」
「レイシアが、ずっと遠くに見えたから」
六歳で学院へ入り、九歳で飛級卒業し、十一歳で騎士団長になった。
いまは王国を守る七大魔法騎士の一人だ。
対して僕は、長い間、学院の戦闘順位で最下位だった。
けれど、それだけではない。
「幼い僕は、レイシアの気持ちを聞く前に決めていたから」
レイシアの瞳が瞬く。
「お嫁さんにするって、僕一人で決めていいことじゃない。いまのレイシアが何を望んでいるかを聞かないまま、昔の約束だけで決まっていると思いたくなかった」
「だから、言わなかったの?」
「それに、僕自身がまだ、あの時に思っていた騎士には届いていない」
左腕の封魔具は外れていない。
ベルゼバスから借りた一呼吸の爪も、自分の力として制御できてはいない。
討伐作戦へ出られるかさえ、僕一人では決められない。
それでも、もう最下位だった頃の僕と同じではなかった。
できないことを隠して前へ出るのではなく、できないと認めた上で、自分の役割を選べるようになってきた。
「約束を捨てたわけじゃない。いつか、今の僕の言葉でもう一度伝える」
レイシアは何も言わず、続きを待った。
「レイシアが、その時も同じ未来を選んでくれるなら」
「選ぶよ」
迷いのない返事だった。
「今も選んでる。だから第一希望なの」
「レイシア」
「でも、今すぐ形にしてとは言わないよ」
レイシアは少しだけ寂しそうに、それでも穏やかに笑った。
「団長命令で恋人になってもらっても、嬉しくないから」
「そんな命令、出せるの?」
「出せない。出せても出さない」
「よかった」
「そこは、少しくらい残念そうにしてほしいな」
「命令じゃなくて、レイシアに選んでほしいから」
今度は、レイシアの方が言葉を失った。
水色の瞳が大きく開き、耳の先だけではなく頬まで赤くなる。
しばらくして、レイシアは視線を机へ落とした。
「そういうことを、急に言うのはずるいよ」
「ごめん」
「謝るところでもないの」
小さく息を整えてから、レイシアは顔を上げた。
「待つのはできる。ずっと待ってきたから」
重ねた指が、ゆっくり解かれる。
「でも、子どもの約束だったことにして捨てないで」
「捨てないよ」
「それから、まだ立派じゃないって、自分で勝手に条件を遠くし続けるのも駄目」
「それは……」
すぐには答えられなかった。
立派な騎士という言葉に、終わりはない気がする。
どこまで進んでも、もっと強い人や、もっと多くを守れる人はいる。
「ほら。もう遠くへ動かそうとした」
「気をつける」
「アルトが立派かどうかを、アルト一人だけで決めないで。少なくとも、約束した相手の意見は聞いて」
「分かった」
「本当に?」
「うん。いつか改めて伝える時は、レイシアの答えもちゃんと聞く」
それでようやく、レイシアの肩から力が抜けた。
彼女は机の上へ右手を伸ばす。
僕の左腕ではなく、何も持っていない右手の隣へ、自分の手を置いた。
指先同士が僅かに触れる。
僕が右手を返すと、レイシアの手が重なった。
強く握らない。
離れないように縛るのでもない。
そこにいると確かめるだけの触れ方だった。
「もう一つ、約束してほしいことがあるの」
「何?」
「今回の任務を、あの約束の証明にしないで」
机上の作戦書。
その参加欄には、まだ僕の名前がない。
「中央器成院へ入れば立派になれるとか、危険な力を使えれば私の隣へ近づけるとか、考えないで」
「考えない」
僕は空欄を見たまま答えた。
「参加するかは、医療と封印と監督と作戦側の審査を受ける。許可されなければ勝手についていかない」
「うん」
「前線に出ることだけが、騎士の役目じゃないことも分かってる」
レイシアの指が、僕の右手へ少しだけ強く重なる。
「《暴食》も《部分換装》も、約束のためには使わない。そもそも許可も出ていない」
「それでいいよ」
「僕の夢も変わってない。レイシアの隣へ、自分の足で立つことだ」
その言葉を聞いたレイシアは、静かに笑った。
涙は落ちなかった。
ただ、水色の瞳の奥に、長く待ち続けてきた時間が滲んで見えた。
「うん。待ってる」
扉の外から、控えめな合図が二度鳴った。
面会時間の終わりだ。
レイシアはすぐには立ち上がらなかった。
重ねていた手を見つめ、それから自分の意思でゆっくり離す。
「戻らないと」
「水蝶の準備?」
「救護班の編成と、土亀との搬送路確認。やることがたくさんあるの」
机に置いていた団長用の手袋を取る。
片方ずつ手を通し、皺を伸ばす。
最後に水蝶騎士団の作戦書を抱えた時、そこにいたのはもう、七大魔法騎士を務める団長だった。
それでも扉を開ける直前、レイシアは一度だけ振り返った。
「アルト」
「何?」
「次に言う時は、聞こえないくらい小さな声じゃ駄目だからね」
「分かった」
「私が聞き返せないくらい、ちゃんと言って」
「約束する」
レイシアは満足そうに頷いた。
扉の向こうで待っていたローディンへ、面会終了を告げる。
それから水蝶騎士団長として、作戦準備の続く廊下へ歩き出した。
淡い銀青の長髪が、背中で静かに揺れている。
孤児院の庭で見送った頃より、ずっと遠くまで進んだ背中だった。
けれど、もう届かないとは思わない。
僕は右手を胸元へ当てた。
そこには灰鬼騎士団の団員証がある。
水蝶とは違う色。
違う団旗。
違う任務。
それでも、僕が目指す場所まで変わったわけではなかった。
灰鬼の団員証を胸にしても、僕の第一希望は、孤児院で約束したあの日からレイシアのままだった。
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