第139話 三呼吸の左腕
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
三呼吸は、力を得るためではなく、力が得られなくても終わるための上限として決められた。
机の上に置かれた記録紙には、一度の試行につき三つの枠がある。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
その横には、変化範囲、封魔具、黒い紋章、外部魔力、終了理由を記す欄が並んでいた。
「三つ全てを埋める必要はない」
ローディンが紙の上端を押さえた。
「変化がなくても三呼吸で終了。変化が出た場合は、継続する理由がなければ直ちに終了する。維持時間を延ばす訓練ではない」
「はい」
第138話の零段階事前訓練から二日後。
合同ドラフトから三十九日、雪境から救出されて十二日目の午前だった。
灰鬼騎士団本部の封印訓練室には、前回と同じ白い観察線が引かれている。
僕は中央の安全椅子へ座り、治療布に包まれた左腕を普通の木製腕置きへ載せていた。黒銀色の封魔具も二重固定も、そのままだ。
左手は何も握らず、指を開いている。
訓練室には武器も梁も重りもない。
今日確かめるのは、力の強さではなかった。
一度だけ発生した現象が、成人管理下で再び起こるのか。
それだけだ。
「試行は最大三回」
セシリアが細い眼鏡の位置を直す。
「途中で私が継続不能と判断した場合、残りの回数は失効します。明日へ持ち越す権利にもなりません」
穏やかな声だった。
けれど、交渉できる余地はなかった。
「発生範囲は、左手の指先から前腕まで」
成人封印担当が、僕の左腕へ触れずに指し示す。
「上腕より先へ変化が進んだ場合は即時中止。黒い紋章、封魔具、治療布、二重固定のいずれかに変化が出た場合も同じだ」
黒い紋章は衣服の下、肩の手前で止まっている。
今日もそこから先へ広げるつもりはない。
広げられるのかどうかさえ、僕には分からない。
「外部魔力の供給はない。《暴食》、第一覚醒、ほかの戦技との併用も認めない」
ローディンの視線が観察線の外側へ向いた。
フィアはそこにいた。
腰を越える長い金髪が椅子の背へ流れ、細い黒のカチューシャの下から澄んだ青い瞳が僕の左腕を見ている。
右腕の簡易固定具は、まだ外れていない。
左の袖の下には、薄くなった噛み跡と断続的な痺れが残っている。
それでも、フィアの前には魔力を置くための布も、金属導体も、停止笛もなかった。
「フィア・ヴァルティエは立会者だ」
ローディンが明言する。
「魔力供給、停止合図、身体保持のいずれも担当しない。今回の試行結果は、フィアの行動と切り離して記録する」
フィアは一度だけ頷いた。
「分かった」
僕と目が合っても、魔力を渡すとは言わなかった。
名前を呼べば止められるとも言わない。
観察線を越えようともしなかった。
それは距離を置かれたということではない。
僕の制御を、フィアの責任にしないための位置だった。
その隣にはセルフィナがいる。
淡い銀緑色の長い髪の毛先だけが、薄い水色を帯びている。彼女は第138話で自ら署名した立会者として、三つの呼吸欄がある記録紙を前にしていた。
翡翠色の瞳は僕を見ているが、風精霊を近づけてはいない。
アルトが変化した。
アルトが変化しなかった。
自分で確認できる範囲だけを、彼女は記録する。
壁際にはガイ団長がいた。
無精髭の残る顎へ手を当て、雑に羽織った外套の下で腕を組んでいる。
「三回で終いだ」
短い言葉が室内へ落ちた。
「出ても終い。出なくても終い。試すための規定を、成功させるために曲げるな」
「はい」
僕は右手で椅子の縁を軽く押さえた。
成功させなければならない。
そう考えた瞬間、今日の訓練は失敗する。
必要なのは、現象を引きずり出す執念ではない。
出なかった時に終われること。
出た時にも終われることだ。
「第一試行を許可する」
ローディンが告げた。
成人記録官の筆先が紙へ触れる。
セシリアは僕の左側ではなく、医療台へ動ける位置へ立っていた。成人封印担当は、封魔具と肩の双方を視界へ入れている。
僕は一度、息を吐いた。
雪境の保守分岐を思い出す。
亀裂の入った梁。
抜けていく支持具。
刃を入れられない赤黒い術式線。
僕の右腕では支えられず、フィアの両腕にも余裕がなかった。
梁が沈んだ音。
左手へ伸びた、黒銀色の爪。
あの時の切迫感を、胸の内へ呼び戻そうとした。
一呼吸。
左手は開いたままだった。
指先にあるのは、治療後も残っている鈍い痺れだけ。
ベルゼバスの声はしない。
二呼吸。
梁が落ちる光景を強く思い浮かべる。
もし、今すぐ支えなければ誰かが傷つく。
そう思い込もうとするほど、封印訓練室の静けさが際立った。
目の前に梁はない。
フィアもセルフィナも、成人たちも、観察線の外にいる。
今すぐ救わなければならない者はいない。
三呼吸。
何も起こらなかった。
黒銀色の爪も、外殻も、冷たい圧迫もない。
「終了」
僕が告げると、ローディンが即座に引き取った。
「第一試行終了。全員、その位置を維持」
セルフィナの筆が三つの欄を順に進む。
変化なし。
変化なし。
変化なし。
成人封印担当が僕の左腕と肩を見比べた。
「黒い紋章、外見上の変化なし。封魔具、固定、治療布にも変化なし」
「緊急状況の想起による再現は確認されず」
成人記録官が記す。
「想起が発生条件ではない、と断定はしない。今回は発生しなかった、までだ」
何も起きなかっただけなのに、肩から力が抜けた。
失望はあった。
けれど、それを隠す必要はない。
同時に、焦って次を求めてはいけなかった。
セシリアが僕の左手を正面から見る。
「指を閉じないでください。そのまま休止します」
僕は開いた手を腕置きへ置いたまま、呼吸を整えた。
右脚の痺れは増していない。
左腕の痛みも、開始前と大きく変わらなかった。
観察線の向こうで、フィアの左手が膝の上に置かれている。
魔力はない。
雷の光もない。
僕の中の異常な飢えは、静かなままだった。
《暴食》へ近づこうとする気配もない。
一定時間が過ぎると、セシリアがローディンへ視線を送った。
「第二試行を妨げる変化はありません」
ローディンが成人封印担当を見る。
「封印側も同じだ」
「第二試行を許可する」
一度目と同じことを繰り返しても意味はない。
僕は梁のことを考えるのをやめた。
代わりに、左腕の内側へ意識を向ける。
第131話以来、封魔具の下には冷たい圧迫感が残っている。
痛みとは違う。
骨や筋肉の内側に、僕のものではない何かが収まっているような感覚。
それを探る。
触れようとはしない。
ただ、どこからどこまで存在しているのかを確かめる。
一呼吸。
指先へ細い痛みが走った。
瞬間、僕はそれを変化の始まりだと思いかけた。
黒銀色へ変わる直前も、指の骨を内側から削られるような痛みがあった。
けれど、目の前の左手は人間の皮膚のままだ。
爪も変わっていない。
治療布の端も動かない。
二呼吸。
痛みが手首へ上がった。
冷たい圧迫ではない。
いつもの感覚遅延に、僕が意識を集中しすぎたことで輪郭がついただけだ。
それでも、もう少し続ければ何か起きるのではないかという考えが浮かぶ。
三呼吸目まで許されている。
あと一度、息を続けても規定違反にはならない。
けれど、痛みを異形化の兆候だと決めつけたまま進むのは、制御ではなかった。
「終了します」
二呼吸目で、僕は告げた。
ローディンの声が重なる。
「第二試行終了」
変化は起きなかった。
成人封印担当も動かない。
セシリアだけが僕の横へ来て、左手の指先へ触れない距離から震えを見る。
「痛みは開始前より増えていますね」
「はい。指先から手首までです。前腕は、ほとんど変わりません」
「終了判断は適切です」
それ以上の慰めも称賛もなかった。
セルフィナが二つ目までを変化なしと記し、三つ目へ試行終了と書く。
「異形化の兆候と、既存の負傷感覚を区別できなかったため自主終了」
成人記録官が読み上げる。
「区別できなかった、でいいか」
「はい」
僕は答えた。
分からなかったものを、分かったことにはできない。
二度目も再現には失敗した。
それでも、三呼吸目へ進まなかった判断まで失敗にするつもりはなかった。
「休止を延長します」
セシリアが決めた。
「三度目を行うかは、その後に判断します」
僕は椅子へ背を預けた。
左手の震えは、意識すれば見える程度だった。痛みは指先から手首へ残っている。
フィアは立ち上がらない。
近づかない。
代わりに、青い瞳だけを僕へ向けていた。
「まだ二回失敗しただけ」
フィアが言った。
「回数を使い切ることが目的じゃない」
「うん」
それだけだった。
魔力を渡す提案も、次は止めるという約束もない。
僕の代わりに三度目を決めようともしなかった。
セルフィナは二枚の記録を見比べている。
「一度目と二度目は、同じ失敗ではありません」
成人記録官が顔を上げた。
「理由は?」
「一度目は、三呼吸の上限まで変化がありませんでした。二度目は、アルトが負傷感覚を発生兆候と断定せず、三呼吸目を使用していません」
セルフィナの視線が、二度目の空いた欄へ落ちる。
「発生しなかった事実と、使用しなかった呼吸は分けて記録すべきです」
「採用する」
三呼吸目は、失敗して空いたのではない。
使わないと決めたから空いた。
その違いが紙の上へ残った。
休止の終わりに、セシリアが僕の額へ触れ、続いて指の震えを見る。
治療布は外さない。
封魔具にも触れない。
必要な範囲だけを確かめ、ローディンへ向き直った。
「体温上昇なし。震えは開始前の範囲へ戻っています。痛みは残っていますが、三度目を妨げる増悪ではありません」
成人封印担当も、封魔具と肩の手前を確認する。
「黒い紋章、変化なし。封魔具、二重固定、治療布にも異常なし」
ローディンはすぐには許可を出さなかった。
セシリアと成人封印担当の記録を自分で確かめ、最後に僕を見る。
「アルト。三度目を行う理由は、成功させたいからではないな」
「はい」
「では、何を変える」
答えを試されているわけではなかった。
僕自身が、同じ失敗を繰り返そうとしていないか確かめる問いだった。
「切迫感も、痛みも、発動条件だと決めつけません」
僕は開いた左手を見る。
「受け入れる範囲と、受け入れない範囲だけを決めます。それで何も起きなければ終わります」
ローディンはセシリアを見る。
セシリアが頷く。
成人封印担当も続いた。
「第三試行を許可する」
室内の空気が、一段だけ重くなった。
ガイ団長は腕を組んだまま動かない。
フィアも、セルフィナも、観察線の外にいる。
誰の魔力も僕へ届いていない。
誰の手も僕へ触れていない。
安全椅子の周りには、僕と成人管理の空白だけがあった。
僕はベルゼバスの名を呼ばなかった。
返事を求めない。
貸せとも、力を寄越せとも言わない。
心の内側へ、境界だけを置く。
左手の指先から前腕まで。
それ以外は受け入れない。
何も喰わない。
外から魔力を取らない。
一呼吸で返す。
息を吸った。
ベルゼバスの声はしない。
笑いも、囁きもない。
僕はゆっくりと吐き始めた。
一呼吸。
左手の人差し指、その爪の根元に黒い点が生まれた。
「変化確認」
成人封印担当の声が飛ぶ。
黒い点は爪を染め、ほかの指先へ走った。
人間の爪が僅かに伸びる。
長大な武器ではない。
けれど、それが僕の身体の形ではないことだけは、見間違えようがなかった。
黒銀色の硬い光が指から手の甲へ広がる。
皮膚を裂かず、血も流さず、薄い外殻が人間の手を覆っていく。
手首。
治療布の端。
その下へ、冷たい圧迫感が一気に駆け上がった。
前腕まで。
黒銀色の境界は、封魔具の手前で止まった。
治療布は裂けない。
二重固定も動かない。
封魔具は熱を持たない。
肩の手前にある黒い紋章から、新しい線が伸びることもなかった。
左腕は巨大化していない。
爪は誰にも向いていない。
開いた手のまま、腕置きの上にある。
僕は何も掴まなかった。
力を確かめようともしなかった。
観察線の向こうで、フィアの金髪がわずかに揺れた。
けれど、雷はない。
魔力は来ない。
彼女は僕の名を呼ばない。
セルフィナも精霊を近づけず、黒銀色へ変わった範囲を目で追っている。
成人封印担当の手が既存の封印設備へ掛かる。
セシリアは一歩で僕へ届く位置にいる。
三呼吸まで許可されていた。
けれど、もう続ける理由はなかった。
発生した。
範囲は前腕で止まった。
それ以上を確かめるのは、今日の許可ではない。
「終了します」
吐き終えた直後、僕は告げた。
まだ二呼吸目を吸っていない。
「第三試行終了!」
ローディンの声が室内を切る。
その声とほとんど同時に、黒銀色の光が前腕から退いた。
治療布の下を通り、手首へ戻る。
手の甲の外殻が薄くなり、指先の爪が元の長さへ縮む。
黒銀色の最後の一点が、人差し指から消えた。
左腕は人間の形へ戻った。
異形の爪も外殻も残っていない。
僕が返したのか。
ベルゼバスが一呼吸だけ貸したのか。
分からなかった。
声は最後まで聞こえなかった。
次の瞬間、熱が左腕の内側から噴き上がった。
「っ……!」
指先から前腕まで、細い刃を何本も差し込まれたような痛みが走る。
左手が大きく震えた。
触れていないはずの腕置きが、皮膚へ食い込んでいるように感じる。それなのに、本当に接している指の側面は、感覚が遅れていた。
冷たい圧迫感も、封魔具の下で強くなる。
けれど、意識は清明だった。
僕は訓練室にいる。
観察線の向こうにフィアとセルフィナがいる。
目の前にはローディンと成人封印担当がいる。
「以後の試行を禁止します」
セシリアが即座に告げた。
もともと四度目はない。
それでも彼女は、成功後の追加確認まで含めて明確に切った。
「握力、荷重、耐久、攻撃の検査も行いません。医療観察へ移ります」
「はい」
フィアは観察線を越えなかった。
右腕の固定具を残したまま、左手を膝の上へ置いている。
「一呼吸で戻った」
短く言い、僕の左腕を見た。
「次も同じとは限らない」
「うん。僕が戻したのかも、まだ分からない」
それ以上、フィアは説明しなかった。
自分が魔力を渡さなかったことを、功績にも不足にも変えなかった。
セルフィナの筆が、三度目の最初の欄を埋めていく。
左手指先から前腕まで、黒銀色へ変化。
上腕、肩、全身への拡大なし。
黒い紋章に変化なし。
封魔具、治療布、二重固定に破損なし。
外部魔力供給なし。
フィアの雷属性魔力使用なし。
《暴食》使用なし。
一呼吸で終了。
二つ目と三つ目の欄には、同じ短い言葉が記された。
未使用。
「終了意思と解除時機は一致」
成人記録官が読み上げる。
「ただし、アルト・ロウェルによる任意解除か、ベルゼバス側の終了かは確認できず」
成人封印担当が続けた。
「任意発動も未確認だ。三度目に現象が発生した事実だけを残す。条件が成立したとは断定しない」
ローディンは三枚の記録を横へ並べた。
一枚目には、三つの変化なし。
二枚目には、二つの変化なしと、一つの試行終了。
三枚目には、一つの発生と、二つの未使用。
「一般使用、実戦使用、単独使用は引き続き禁止する」
ガイ団長が記録を見下ろす。
「次があるとも決めねえ。まず反動と封印記録を調べる。今日の一回を、技に数えるな」
「はい」
僕の左腕はもう元へ戻っている。
それでも、熱と痛みは残っていた。
一度目も、二度目も起こらなかった。
三度目だけ起きた理由は分からない。
範囲を僕が限定したのか。
ベルゼバスが、その範囲しか貸さなかったのか。
一呼吸で僕が返したのか。
最初から一呼吸しか貸されていなかったのか。
確認できたのは、起きたことだけだ。
フィアから魔力を受け取らなかった。
誰も喰わなかった。
成人の管理から外れなかった。
三呼吸を使い切らなかった。
その結果が、セルフィナの筆によって最後の欄へ記される。
「三呼吸まで許された左腕は、一呼吸で元へ戻り、成功ではなく『再現一回、制御未確認』と記録された。」
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークといただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




