第137話 炎獅子の競争相手
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
炎獅子の前線訓練が始まる前、レグルスは得点表より先に、三つある撤退路を見た。
中央路。
建物の二階を渡る高所路。
資材置き場の裏を抜ける、狭い下部路。
白金の短髪を揺らしながら順に確かめ、最後に前方拠点の赤い指揮旗を見る。
回収すれば高得点になる旗だ。
それでも、紫の瞳がそこへ留まった時間は短かった。
第115話の合同基礎訓練では、前へ出る直前に後方を見ることを覚え始めたばかりだった。
今日は、最初から退く道を数えている。
僕は共同前線訓練区画を囲む安全線の外で、その動きを記録板へ書いた。
左腕には治療布と黒銀色の封魔具がある。二重固定も外れていない。
筆を握るのは右手だけだ。
左手の指は動くが、触れた感覚がわずかに遅れる。長く立てば右脚の痺れも強くなるため、成人記録員が用意した椅子へ座っていた。
今日の僕は、訓練参加者ではない。
記録の照合と見学だけだ。
「全員、聞け!」
イグナシオ団長の声が、模擬市街区全体を震わせた。
大柄な身体に赤金の団長外套をまとい、煙壺、閉鎖板、成人安全要員の位置を一度に見渡している。
「前方の赤旗は得点対象! だが、回収は可能な場合のみだ! 避難者と小隊を置いて帰った奴に点はねえ!」
豪快な声だが、前進だけを命じてはいない。
訓練区画には本物の火を使わない。
石造りの街路を模した壁の裏へ、安全管理された煙壺が置かれている。赤い布は高熱区画、黄色い布は通過制限を示す。
経路を塞ぐ閉鎖板も、成人設備担当が操作する物理設備だった。
「前線判断役、レグルス!」
「はい!」
深紅と黒の新人制服を着たレグルスが、銀槍の石突きを地面へ置く。
「訓練内に限り、混成小隊の進退を預ける。安全停止は俺と成人担当が持つ。俺が止める前に決められるなら、決めろ!」
「承知しました」
レグルスは胸を張るだけでなく、後方門へ視線を戻した。
そこではユリウスが、避難者役へ配られた人数札を照合している。
白と金の勤務服に乱れはない。
「七番が二枚あります」
ユリウスが、よく似た木札を二枚掲げた。
「片方は予備札です。通過人数へ加えてはいけません。開始前に差し替えをお願いします」
成人記録員が番号を確かめ、片方を回収する。
ユリウスは全体の指揮を奪おうとはしない。
自分へ預けられた門と人数だけを、曖昧にしなかった。
中央路では、メルナが色札を壁へ掛けていた。
淡い水色と銀の装具の周囲に、小さな光の矢印が浮かぶ。
幻像の矢印は、青い実物札と同じ方向を示していた。
「煙が濃くても、近くなら光が見える。消えても青札が残る。どっちか片方だけを信じないでね」
避難者役へ笑い掛けながら、閉鎖された経路には赤い投擲輪を掛ける。
幻像は道を伝えるだけだ。
誰かの思考を操ることも、壁へ実体を持つこともない。
救護区画では、ミナが搬送布を広げていた。
負傷者役が現れてから道を作るのでは遅い。
そう言うように、救護箱を壁際へ寄せ、通路へ出ていた箱の角を一つずつ内側へ向けている。
「搬送布は上から順に取らないでください。赤紐が歩行不能役、黄色は肩を貸せば動ける人です」
「先に分けるのか?」
成人補助員の問いへ、ミナは頷いた。
「運ぶ時に迷いたくないので」
学院の魔導具研究会にいた頃とは違う制服を着ていても、物と人の動きを同時に見るところは変わっていない。
変わったのは、それが水蝶騎士団の仕事として磨かれ始めたことだ。
ガルナとフェリナは、すでに別々の位置へ向かっていた。
犬系獣人の姉、ガルナは中央路の地面へ籠手を当てる。
猫系獣人の妹、フェリナは高所路へ続く壁を駆け上がり、手すりの擦れと床面を確認していた。
互いの姿は見えない。
ガルナが地面で知ったことを、フェリナが同時に知るわけでもない。
二人とも、自分の観測を自分の言葉で届ける役だった。
「配置完了!」
ユリウスの声が後方門から届く。
レグルスが振り返る。
「通過予定人数は?」
「避難者六名。負傷者役二名。訓練参加者五名。安全要員は別記録です」
「確認した」
レグルスは前方へ向き直った。
イグナシオ団長が開始鐘を鳴らす。
煙壺から白い煙が流れ始めた。
最初に動いたのはメルナだ。
中央路へ青い幻像矢印を並べ、実物の色札を壁の低い位置へ残していく。
その後ろを避難者役が進む。
ミナは救護区画に残り、二種類の搬送布を取れる向きへ並べ直した。
「中央路、床は安定!」
ガルナの声が響く。
「高所路、今は使える。西から煙が寄ってるけど、まだ薄い!」
フェリナの報告は、ガルナと同じ内容ではない。
レグルスは両方を聞き、銀槍を横へ構えた。
中央路の途中には、軽い障害板が斜めに立てられている。
穂先を人へ向けず、板の下へ石突きを差し入れた。
「中央を開ける。高所は予備のまま維持!」
銀槍を梃子にして、板を持ち上げる。
成人補助員が固定具を差し込み、人一人が通れる幅を確保した。
以前のレグルスなら、開いた瞬間に自分が先頭へ出ていたかもしれない。
けれど今日は、後方門を見た。
ユリウスが最初の避難者札を掲げる。
「一名通過!」
二枚目。
三枚目。
「中央班、前進!」
確認を待った時間は短い。
慎重になりすぎて機会を失うこともなく、レグルスは煙の中へ踏み込んだ。
銀槍の周囲へ細い風を流し、煙がどちらへ引かれるかを見る。
前方拠点の赤旗が、白い煙の向こうに見えた。
まだ遠い。
第一段階では、避難者役三名が後方門へ到達した。
メルナの矢印も、中央路を正しく示している。
ミナの搬送布は未使用のままだ。
訓練は順調に進んでいるように見えた。
二度目の鐘が鳴るまでは。
中央路の床下から、低い振動音が響いた。
ガルナの獣耳が立つ。
籠手を石床へ押しつけ、すぐに顔を上げた。
「中央の閉鎖板が動いた! 予定より早い! 近づいてる!」
それとほとんど同時に、高所からフェリナの声が飛ぶ。
「上は駄目! 煙が逆流した! 床も濡れて滑る。通せない!」
高所路の手すりへ黄色い布が下ろされた。
崩れたわけではない。
それでも、避難者役を通せる状態ではなくなった。
二つの報告が、別々の方向から届く。
中央路は閉じ始めた。
高所路は使えない。
残るのは、資材置き場の裏へ通じる狭い下部路だけだ。
前方では赤い指揮旗が揺れている。
レグルスから、あと数歩。
手を伸ばせば届く距離だった。
後方門からユリウスの声が響く。
「未通過四名! ミナ、メルナ、負傷者役二名!」
条件変更を示す赤布が、救護区画へ掲げられていた。
負傷者役の一人は歩行不能。
もう一人も、肩を借りなければ移動できない。
ミナとメルナが搬送を始めている。
イグナシオ団長はまだ停止を命じていない。
右手は安全停止索の近くにある。
判断が遅れれば、団長権限で訓練を止めるつもりなのだ。
レグルスは赤旗を見た。
次に、閉じ始めた中央路。
煙で消えた高所路。
最後に、後方門へ戻っていない四人を見た。
迷いが消える。
「赤旗は捨てる!」
銀槍が、旗ではなく下部路へ向いた。
「全員、下部路へ! 負傷者を先に通せ! 後衛は二人一組。単独で残るな!」
成人停止命令より早かった。
イグナシオ団長の手が、安全停止索から離れる。
「了解!」
ユリウスは門の位置を動かず、人数板を下部路側へ向けた。
メルナが中央路の青い幻像を消す。
使えない道へ矢印を残せば、それ自体が罠になる。
赤い投擲輪を中央路入口へ掛け、下部路には新しい青札を置いた。
その上へ、小さな光の矢印が重なる。
「こっち! 幻像が消えても、青札を追って!」
ミナは赤紐の搬送布へ歩行不能役を乗せていた。
成人補助員と二人で両端を持つ。
メルナはもう一人の肩へ腕を回し、下部路入口へ導く。
「一人目、入ります!」
「先へ!」
レグルスが答える。
中央路の閉鎖板が、壁の間から姿を現した。
まだ完全には下りていない。
だが、ガルナの報告どおり速い。
「中央へ寄るな! 振動が強くなってる!」
ガルナは地面から手を離し、自分も下部路へ向かう。
高所のフェリナは最短距離で飛び降りなかった。
黄色い手すりを伝い、決められた降下路から地上へ戻る。
「下部路の入口、右壁に新しい擦れ! 狭くなってるけど、一人ずつなら通せる!」
「搬送布は?」
レグルスが尋ねる。
「傾ければ入る。横にはするな!」
レグルスはミナへ向き直った。
「布の前を上げろ。右壁へ当てるな!」
「分かった!」
ミナと成人補助員が搬送布の角度を変える。
狭い入口を抜け、煙の溜まった下部路へ入った。
その直後、奥から白煙が押し返してきた。
メルナの幻像が薄くなる。
実物の青札は見えるが、その先が白く塞がれていた。
レグルスが銀槍を立てる。
風が穂先の周囲へ集まった。
「風よ、閉ざされた熱を攫い、命の道を空へ穿て――第二階位・風魔法《旋流排気》」
渦を巻く風が下部路へ走った。
人を押し倒すほど強くはない。
煙だけを奥へ攫い、細い視界を作る。
石床に置かれた青札が、順に姿を現した。
「視界は三呼吸――」
レグルスが言いかける。
奥から戻る煙を見て、すぐに修正した。
「いや、二呼吸! 止まるな!」
一人目の負傷者役が抜ける。
続いて、メルナが支える二人目。
「未通過二名!」
ユリウスが告げる。
数には安全要員を含めていない。
訓練参加者の誰が残っているかを、札と顔の両方で確認している。
「ミナ、通過!」
「未通過一名!」
メルナが後方門へ入る。
「訓練参加者、残りはレグルス!」
ガルナはすでに門の内側へ戻っている。
フェリナも反対側から滑り込み、壁の青札を一枚回収した。
レグルスの隣には、指定された成人後衛役がいた。
一人ではない。
「後衛、下がる!」
レグルスは赤旗へ背を向けた。
成人後衛役と並び、下部路へ入る。
風で開いた視界はもう狭まり始めていた。
銀槍の石突きで青札の位置を確かめ、走りすぎずに退く。
後方門を越えた瞬間、ユリウスが最後の札を返した。
「全員通過。人数一致!」
直後。
重い音と共に中央路の閉鎖板が下りた。
煙の向こうで、赤い指揮旗だけが残る。
回収点は得られない。
それでも、閉鎖板の向こう側に人影は一つもなかった。
終了鐘が鳴る。
レグルスは銀槍を下ろし、大きく息を吐いた。
額に汗が浮かんでいる。
魔力を使った疲労はあるが、倒れるほどではない。
成人治療員の確認位置へ自分から移動し、指示された給水を受け取った。
イグナシオ団長が、訓練区画の中央へ進み出る。
赤旗を一度見る。
それからレグルスへ向き直った。
「赤旗を捨てたのは正しい」
「はい」
「全員を戻した。成人停止より先に退いた。後衛も組にした。そこまでは合格だ」
レグルスの表情は緩まない。
続きがあると分かっている。
「だが、満点じゃねえ。高所を切る判断が一呼吸遅い。メルナへ表示変更を出すのも遅れた」
「確認を重ねすぎました」
「確認するなとは言わん。何が揃えば切れるのか、先に決めとけ」
「はい」
「《旋流排気》の見積もりも最初は甘かった。自分で二呼吸へ直したのはいい。次は、声へ出す前に削れ」
レグルスは赤旗を失ったことへ言い訳をしなかった。
「次は、その一呼吸を削ります」
「削れ。旗まで取れるのは、その後だ!」
イグナシオ団長の大声に、レグルスはまっすぐ頷いた。
訓練が終わっても、同期たちの仕事は残っていた。
ユリウスは人数札と通過記録を照合し、開始前に除いた重複札が正式に回収されたか確認している。
メルナは幻像を全て消した後も、実物の青札をすぐには片づけなかった。
「煙が晴れる前に魔力が切れることもあるから、実物だけで出口まで辿れる並べ方に変えたいな」
誰へ近況を説明するでもなく、実際の間隔を測っている。
ミナは使用済みの搬送布を、最初に広げる面が上へ来るよう折り直していた。
赤紐と黄色紐を内側へ巻き込まず、次に取る者が迷わない形へ積み直す。
ガルナは中央路の振動が強くなった位置を、床図へ太い線で記した。
フェリナは高所路の煙と擦れを、別の用紙へ細かく書き込んでいる。
「一枚にまとめる?」
ガルナが尋ねた。
「駄目。あんたが見たのは床。私が見たのは上。混ぜたら、どっちの観測か分からなくなる」
「そっか。じゃあ別で出す!」
二人は同じ風鷹の制服を着ている。
それでも、提出する記録は一人一枚だった。
僕が記録板を成人担当へ返す頃、レグルスも銀槍の点検を終えた。
こちらへ歩いてくる途中、成人記録官に呼び止められる。
灰色の封筒が一通、渡された。
「将来の合同任務候補者に対する制限共有です。閲覧はこの場のみ。内容の持ち出しは禁止します」
レグルスは封を確認してから開いた。
そこに記されているのは、雪境で起きた全てではない。
フィアの左前腕の負傷も、有限魔力を対象にした緊急措置も含まれていない。
共有されたのは、今後同じ任務へ立つ可能性がある騎士に必要な安全情報だけだ。
僕の左手の指先から前腕まで、一度だけ異形化が発生したこと。
継続は三心拍。
亀裂の入った梁を支える目的だけに使い、人へ向けていないこと。
黒い紋章は広がらず、封魔具と治療布、二重固定も壊れなかったこと。
そして使用後、発熱、激痛、感覚混濁が起きたこと。
再現性も安全性も未確認で、再使用許可は出ていない。
レグルスは最後まで読み、封筒を成人記録官へ返した。
紫の瞳が、僕の左腕へ向く。
封魔具の上ではなく、僕の顔まで戻ってきた。
「三心拍か」
「一度だけだよ」
「梁を支えた」
「それ以外の方法がなかった。でも、安全だったわけじゃない。今も痛みと遅れが残ってる」
僕は右手で記録板の跡が付いた膝を払った。
「使えるようになったとも思ってない。再使用の許可もない。まず治療と審査だ」
レグルスは、見せてみろとは言わなかった。
ベルゼバスへもう一度借りろとも言わない。
少し離れた訓練路では、置き去りにされた赤い指揮旗が成人担当者によって回収されていた。
レグルスもそれを見る。
「今日、あの旗は取れた」
「うん」
「だが、取れることと、取るべきことは同じではない」
銀槍を持つ手が僅かに締まる。
「君の《部分換装》も同じだ。出せるかもしれない。それだけで君の力になったとは言えない」
レグルスは僕から目を逸らさなかった。
「新しい力を得ることだけが実力ではない。使うか、使わないか。どこまで使い、どこで止めるか。それも含めて君の実力だ」
慰める声ではなかった。
使えない僕へ勝ちを譲る声でもない。
「制御できない三心拍を、僕は君の勝ち星に数えない。だからといって、君との競争を降りる理由にもならない」
「待ってくれるつもりもない?」
「当然だ。僕は今ある槍と風、それに今日足りなかった一呼吸を磨く」
レグルスらしい答えだった。
僕が動けない間、同じ場所に立って待つつもりはない。
それでも、ベルゼバスの力を持った僕を競争の外へ追い出すつもりもなかった。
「なら僕は、治すところから追うよ」
「治療を飛ばして近道をするなら、競争以前に失格だ」
「そこまで言われなくても分かってる」
「君は梁を前にして、未知の腕を借りた実績がある」
否定できなかった。
僕が黙ると、レグルスの口元が僅かに上がる。
勝った顔ではない。
次も競う相手が、まだ自分の前にいると確かめた顔だった。
《部分換装》を使えるようになるかは分からない。
ベルゼバスが次も身体を貸すのかも、三心拍が本当に限界なのかも不明だ。
今の僕にできるのは、許可されていない力へ手を伸ばさず、左腕を治し、審査を受けることだけだった。
それも競争の一部だと、レグルスは言った。
力を出すことだけではない。
取れる旗を捨てること。
進める場所で退くこと。
使えるかもしれない力を、今は使わないこと。
自分の意思で選び、止まるところまでが実力なのだ。
レグルスが競っていたのは、ベルゼバスから借りた三心拍の爪ではなく、それを自分の意思で扱おうとするアルト・ロウェルだった。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
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