第136話 父と土姫
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
土亀騎士団の訓練場で、ゴウセル団長がティアナへ最初に渡したのは、盾ではなく、足りない物資の一覧だった。
「これだけ?」
蜂蜜色の長髪を背へ流したティアナが、木札を裏返す。
裏には何も書かれていない。
「そうだ」
ゴウセル団長の返答は短かった。
訓練場には、仮設救護区画と三張りの天幕が並んでいた。
水樽、運搬箱、二台の台車。木製支柱は必要数の半分ほどしかなく、天幕布にも予備がない。
東西に延びる搬入路の間には、昨夜から水を入れて作られた泥斜面がある。浅い溝は掘られていたが、排水先までは繋がっていなかった。
どう見ても、完成した拠点を作るための物資ではない。
僕は訓練場を囲う黄色い安全線の外で、記録板を膝へ置いていた。
灰鬼騎士団から与えられた今日の軽作業は、訓練記録の補助と見学だけだ。
左腕には治療布と黒銀色の封魔具があり、二重固定も変わっていない。記録板を支えるのは右手だけだった。
腰へ剣も帯びていない。
長く立っていると右脚の痺れが強くなるため、成人記録員が用意した低い椅子へ座っている。
魔神対話審査の書類は、まだ成人担当者たちの間を巡っている。
僕がベルゼバスへ呼び掛ける予定も、何を尋ねるかも決まっていなかった。
だから今日は、土亀騎士団が新人をどう育てるのかを見る。
それだけだ。
「維持時間は、鐘が三度鳴るまで」
ゴウセル団長が訓練場を見渡した。
「救護、避難、搬入、補給。そのどれも止めるな。完成した砦は要らん」
ティアナが木札から顔を上げる。
「守る場所を完成させるんじゃなくて、動かし続けるんだね」
「判断しろ」
ゴウセル団長は答えを与えなかった。
代わりに、隣へ立つメルトへ別の札束を渡した。
「補給、備蓄、台車を任せる。資材の放出権もお前が持て」
メルトが札束をめくる。
木材、天幕布、水、固定縄、空箱。現在数と配置場所だけが記されていた。
「ティアナから要求されても、出さない判断をしていいんですか?」
「理由があるならな」
「分かりました」
メルトはティアナを見なかった。
すぐに二か所ある物資置き場と、二台の台車の車輪を確認し始めた。
ティアナの補助へ付いたのではない。
自分の区画を預けられた騎士の動きだった。
「始め」
ゴウセル団長の一言で、訓練場が動き出した。
避難者役の成人団員たちが、西の入口から入ってくる。
ティアナは中央救護区画へ駆け、地面へ片膝をついた。
「中央を先に安定させるよ。支柱を六本。天幕布を一枚」
すぐにメルトの声が返る。
「支柱は四本」
「六本あれば、救護台を三列にできる」
「全部は出せない」
メルトは札を一枚抜き、ティアナへ向けた。
「今の配分で六本出したら、予備は二本。次に道が死んだら、救護所の支柱がなくなる」
ティアナは一瞬だけ眉を寄せた。
それから、ゴウセル団長を見なかった。
救護区画の地面を掌で押し、土の深さを確かめる。
「四本でいい。メルト、細い固定縄は?」
「三束まで」
「二束で足りる。残りは持ってて」
「了解」
二人の間で、支柱と縄が動いた。
ティアナの足元へ淡い土色の魔力が広がる。
地面が低く盛り上がり、救護区画の四辺へ細い土の畝を作った。大きな壁ではない。膝よりも低く、ところどころ隙間がある。
その隙間を、地中から伸びた根が縫い合わせていく。
四本の支柱へ荷重を集めず、低い土壁と根へ分ける構造だ。
「東側、土を踏み固めて。西は根へ触らないで、空箱を土留めに使うよ」
ティアナが新人たちへ指示を飛ばす。
自分で全部を作ろうとはしなかった。
二人の新人が東へ走り、成人補助員が空箱を並べる。ティアナは中央へ残り、わずかな傾斜を付けて水の流れを変えていった。
僕は記録板へ、構造変更と書いた。
その横へ、支柱二本を温存、と記す。
しばらくして、東の物資置き場から一台目の台車が出た。
救護布と水桶を積み、中央へ向かっている。
荷を降ろした台車へ、メルトが空箱を載せた。
さらに、曲がった留め具と使用済みの水桶を積み直す。
「それも戻すの?」
台車係が尋ねた。
「空で帰す方が無駄。破損品は東で分ける。水桶は次の便で満たす。これ、次に必要な物」
メルトが要求札を台車の横木へ挟んだ。
「戻ったら、札を東の担当へ渡して」
台車が来た道を引き返す。
荷を送り出したら終わりではない。
帰る動きまで、次の補給へ繋げている。
二台目の台車は西側へ回された。
メルトは支柱と天幕布の予備を二つに分け、一方を東の物資置き場から救護区画近くの低い棚へ移した。
「予備を中央へ置かないの?」
僕の近くにいた成人記録員が、小さく呟いた。
メルトには聞こえていない。
答えは、すぐに訓練場へ現れた。
一度目の鐘が鳴る。
南側の搬入路へ、赤い旗が立てられた。
「南路、使用不能!」
訓練担当者の声が響く。
同時に、西の入口から避難者役が増えた。腕へ白布を巻いた救護対象も三人いる。
二台目の台車が南路の手前で停止する。
中央だけに予備を置いていれば、その台車に載った物資は回収できなかった。
「西の集積所を開ける!」
メルトは南へ向かわない。
手元の札を組み替え、西側の担当へ指示を渡した。
「水は半樽だけ中央へ。空箱を積み上げないで、帰りの台車へ載せて。東へ送る」
「救護布が足りない!」
中央から声が上がる。
ティアナが振り返った。
土の畝で囲った救護区画は崩れていない。
けれど、三列目の救護台を置く場所がない。最初に諦めた二本の支柱があれば広げられる。
「メルト、支柱を二本!」
「一本だけ」
「三人増えたよ!」
「知ってる。西の天幕が沈み始めてる。一本はそっち」
メルトは声を荒らげなかった。
ティアナも、奪いに行かなかった。
救護区画と、その外側へ作った低い土塁を見比べる。
「……中央土塁を崩す」
近くの新人が目を丸くした。
「今、作ったばかりです」
「築いたから残す理由にはならないよ。北半分だけ解体。土を救護台の足場へ回す」
ティアナが掌を地面へ当てた。
根が緩み、低い土塁の北半分が崩れる。
ただ壊れたのではない。
土は細い流れとなって救護区画の外へ伸び、三人分の足場へ形を変えた。根も地面の下を通り、新しい足場と残った土塁を結び直していく。
「支柱一本でいい。残りは西へ回して」
「出す」
メルトが即答した。
二人の判断が重なり、中央救護区画が横へ広がった。
完璧な天幕ではない。
端の一角は布が届かず、救護対象役の足元へ陽が差し込んでいる。
それでも、人の流れは止まらなかった。
二度目の鐘が鳴る前に、別の問題が起きた。
西の集積所から届いた木札が、泥に汚れて読めなくなっていた。
台車係が二枚の札を持ち上げる。
「どっちが水で、どっちが固定縄だ?」
薄い墨は泥水に滲み、ほとんど同じ黒い板に見える。
メルトが札を受け取った。
言い訳はしなかった。
腰の作業具から小さな刻み刃を抜き、札の縁へ切り込みを入れる。
一本。
もう一枚には二本。
「水は一つ。固定具は二つ。天幕布は角を落とす」
「今から全部やるのか?」
「戻ってきた札から。次の便を待たせないで」
メルトは自分で一枚を直すと、残りを物資担当へ渡した。
「文字が読める時も、切り込みを確かめて。泥はまた付くから」
最初から分かっていたわけではない。
失敗して、止まる前に直した。
記録板へ書こうとした僕の左手の指が、遅れて僅かに震えた。
右手へ持ち替えた筆先から、小さな墨の点が落ちる。
僕もそれを隠すように擦らず、点の横から記録を続けた。
南路の閉鎖で、水が泥斜面の下へ集まり始めていた。
台車が一度通るたび、車輪が深く沈む。
「このままだと、西から中央へ入れない!」
台車係の声に、ティアナが駆けた。
泥斜面の端へしゃがみ、手を差し入れる。
排水溝を伸ばすには、斜面の中ほどまで入らなければならない。
安全要員の成人団員が固定縄を腰へ通した。
「単独では入れません」
「一緒にお願い。根を置いたら、二十数え以内に出る」
ティアナが泥へ一歩踏み入れた。
その時だった。
安全線近くに立っていたゴウセル団長の身体が、半歩だけ前へ出た。
大きな手が木柵を掴む。
節の浮いた指へ力が入り、乾いた木が小さく軋んだ。
けれど、ゴウセル団長は訓練場へ降りなかった。
一拍置いて、低い声を通す。
「二十数えで交代」
ティアナが斜面の途中から顔を上げた。
「続けろ。ただし一人で抱えるな」
「はい、ゴウセル団長」
ティアナは迷わず泥へ向き直った。
足元に土色の魔力が広がる。
泥の下へ根が走り、沈みかけた土を薄く束ねる。ティアナは根だけで斜面を固めず、中央土塁から運ばせた土を細長く配置した。
「土を全部落とさないで! 三分の一は排水溝へ。残りは足場!」
新人たちが籠から土を下ろす。
成人補助員が溝の先を掘り進めた。
ティアナの仕事は、根を出すことだけではない。
誰が、どこへ、どの量を置くのか。
変わり続ける地面の上で、それを決め続けている。
十五数えを過ぎた頃、ティアナの肩が一度だけ大きく上下した。
ゴウセル団長の指が、再び木柵へ沈む。
「交代まで五つ!」
安全要員が告げた。
「根の先を固定したら出る。次、北側から土を押さえて!」
ティアナは後続の新人へ位置を示した。
二十数え目。
彼女は決めた通り、斜面から足を抜いた。
泥まみれの長靴が平地へ戻る。
最後まで自分で仕上げようとはしなかった。
引き継いだ新人が根の位置を確かめ、排水溝の縁を固める。そこへ一台目の台車がゆっくり進入した。
車輪は沈んだ。
それでも止まらず、中央救護区画まで抜けた。
「通った!」
声が上がる。
ティアナは息を整えながら、すぐに次の配置を見た。
「西の天幕は?」
「支柱を一本入れた。でも留め具が足りない」
メルトが自分の札を確かめる。
「東から戻る便に載ってる。あと少し」
「中央の縄を一本外せるよ」
「外さない。今抜いたら救護台が傾く」
「じゃあ、根で仮留めする」
「魔力は?」
ティアナの返事が一瞬遅れた。
自分の掌を見る。
まだ使える。
けれど、最後まで自分を資材として数える顔ではなかった。
「私じゃなくて、第二施工の二人に頼む。私は位置を決める」
メルトが一度だけ頷いた。
指示を受けた新人二人が西へ走る。
ティアナは離れた位置から地面を示し、根を通す深さを伝えた。
やがて東から台車が戻った。
空荷ではない。
新しい留め具と水桶を積み、横には泥を拭われた要求札が並んでいる。札の縁には、一本と二本の切り込みが入っていた。
メルトが温存していた最後の支柱も、西の救護区画へ運ばれる。
三度目の鐘が鳴った。
訓練場の動きが止まる。
中央救護区画は予定より狭い。
西の天幕は完成が遅れ、最後の避難者役が入ったのは鐘の直前だった。
泥斜面の足場も平らとは言えない。
それでも二台の台車は動いていた。
水は届き、救護区画は維持され、避難者役は全員が天幕の内側にいる。
ゴウセル団長が木柵から手を離した。
訓練場へ降り、泥と根と解体された土塁を順番に見る。
ティアナとメルトが、その前へ並んだ。
二人とも土と汗に汚れている。
ゴウセル団長は、まずティアナへ目を向けた。
「初動は作りすぎだ」
「うん。中央へ集めすぎた」
「返事は騎士団式でしろ」
ティアナの背筋が伸びる。
「はい」
「自分の魔力を最後の資材に数えるな。尽きれば、次の判断をする者が消える」
「はい、ゴウセル団長」
「土塁を捨てた判断はよい。後半の引き継ぎもだ」
褒める言葉も、必要な分だけだった。
次にゴウセル団長はメルトを見る。
「補給は止まらなかった」
「はい」
「だが、文字だけに頼った札は泥で死んだ」
「切り込みを全札へ追加します。物資ごとに位置も変えます」
「次も直せ」
「はい」
ティアナを助けたから評価されたのではない。
メルト自身の失敗と修正、その先の仕事が見られている。
ゴウセル団長は懐から二枚の任務札を取り出した。
一枚をティアナへ渡す。
泥の付いていない札には、北斜面復旧実地訓練、第二施工班と記されていた。
成人騎士同行。
新人枠。
本部の安全な机ではなく、実際の斜面へ立つ配置だった。
ティアナの緑金の瞳が、札とゴウセル団長の顔を往復する。
「これは、土亀の新人への札?」
「他に何に見える」
「……ううん。確認したかっただけ」
口元に浮かびかけた笑みを、ティアナは隠さなかった。
ゴウセル団長はもう一枚をメルトへ渡す。
「第二倉庫、台車運行表の改訂。備蓄札も作り直せ」
メルトが内容を読む。
「ティアナとは別ですか?」
「お前の仕事に施工指揮は要らん」
「はい。そっちの方が集中できます」
メルトは即答し、任務札を自分の装具帯へ収めた。
寂しがる様子はない。
ティアナも引き留めなかった。
同じ騎士団へ入り、同じ場所だけを歩く必要はないのだ。
成人団員たちが資材の回収を始める。
ティアナは泥の付いた長靴のまま、安全線の外にいる僕のところへ来た。
「アルト、記録係はどうだった?」
「僕が土を運びたくなるくらい忙しかった」
「運んだら、灰鬼と治療担当の両方に怒られるよ」
「だから座ってた」
ティアナは笑ってから、振り返った。
ゴウセル団長は解体された中央土塁の前で、成人担当者と次の修正点を話している。
「父親の顔、してた?」
声は明るかった。
けれど、冗談だけで尋ねたわけではないと分かった。
「一度だけ。君が泥斜面へ入った時」
「でも、止めなかった」
「うん」
ティアナは任務札の端を指でなぞった。
「なら、それでいい」
ゴウセル団長がこちらを見た。
最初に目を向けたのは、ティアナの顔ではない。
泥に濡れた長靴。
次に、魔力を使った両手と肩の動き。
最後に、彼女の装具帯へ収められた任務札だった。
心配していないはずがない。
それでも札を取り上げず、成人同行と交代条件を記した次の予定を、記録官へ渡している。
ゴウセル団長は父親の目で娘の疲労を追いながら、それでも次の任務表から、土姫の名を外さなかった。
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