第135話 名前を呼ぶ距離
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
救出から六日後、フィアは剣のない腰で灰鬼の門をくぐり、最初の一言で僕の名を呼んだ。
「アルト」
呼び声に、切迫した響きはなかった。
止まれでも、助けてでもない。
門の脇で歩行訓練を終えた僕を見つけたから、ただ呼んだ。
「復帰許可、出た」
フィアが左手に持った札を掲げる。
淡い緑の縁は、本部内の軽作業だけを許可された者へ渡される色だ。
右腕には、救出前からの簡易固定具が残っている。
左袖は噛み跡へ触れないよう少し緩く調整されていた。腰を越える艶のある金髪は真っ直ぐ背へ流れ、細い黒のカチューシャもいつもの位置にある。
ただ、剣だけがなかった。
「おかえり、フィア」
「うん」
フィアは門の内側へ一歩進んだ。
それだけのやり取りが、不思議なくらい普通に終わる。
僕は少し遅れてから、彼女があまりにも自然に名前を呼んだことへ気づいた。
僕の方も、すぐ返事をしていた。
灰鬼の本部へ戻ったからといって、僕たちの治療が終わったわけではない。
僕の左腕には治療布と黒銀色の封魔具があり、二重固定もそのままだ。《部分換装》の後に続いていた痛みは七から四ほどまで下がったが、指先を動かした感覚は今も僅かに遅れてくる。
右脚の痺れも、歩く時間が長くなると戻った。
僕に許可されているのは、短い歩行と座ったままできる記録作業だけだ。
フィアも同じではない。
彼女の復帰札へ書かれているのは、生活区への復帰、座学、記録整理、装具札の確認、訓練見学。
実戦任務も、模擬戦も、魔法訓練も認められていない。
門の内側では、ヴェラ副団長が待っていた。
赤褐色の髪を後ろでまとめ、手にはフィアの復帰記録と灰色の外套を持っている。
「復帰札の記載内容は読みましたね」
「読んだ」
「では、一点だけ」
ヴェラ副団長は外套をフィアへ渡した。
「復帰は、剣を振れるという意味ではありません」
フィアの視線が、自分の空いた腰へ落ちる。
通常剣は治療担当の許可が出るまで、成人側の武器庫に保管されていた。
「剣はまだ」
「まだです」
「見学はできる?」
「札に書かれた時間までなら」
「分かった」
不満がない返事ではなかった。
けれど、フィアは武器庫の方へ行こうとしなかった。
左手だけで復帰用の外套を広げ、固定された右腕へ負荷を掛けないよう肩へ載せる。
首元の留め具を左手で探った。
一度目は金具の端を外す。
二度目で輪へ通す。
三度目で留まった。
フィアは確かめるように肩を動かし、一歩進んだ。
そこで止まった。
腰を越える金髪の一筋が、首元の留め具へ挟まっている。
一歩進んだ分だけ引かれ、髪が真っ直ぐ張っていた。
「フィア、髪が挟まってる」
「どこ」
「首の後ろ。留め具の左側」
フィアは左手を背後へ回した。
触れたのは反対側の金具だった。
「逆?」
「もう少し左」
「見えない」
「うん。後ろだからね」
フィアの青い瞳が細くなる。
僕にではなく、見えない位置にある留め具へ向けた顔だった。
「一度、全部外した方が早いと思う」
フィアは僕の言葉どおり、首元の金具を外した。
張っていた金髪が解放される。
今度は留める前に、自分で髪を全て外套の背へ沿わせた。左手で毛先まで確かめ、金具から離れていることを確認してから留め直す。
もう一歩。
今度は止まらない。
「見えてるなら、先に言って」
「留める前は挟まってなかったよ」
フィアは首元を振り返ろうとして、当然見えず、正面へ戻った。
「次は髪を出してから留める」
「それがいいね」
ヴェラ副団長は笑わなかった。
復帰記録へ何かを書き加えることもしない。
髪を挟んだことは治療上の異常でも、任務上の事故でもなかった。
ただ、フィアが自分で直せる日常の失敗だった。
本部内へ進む。
フィアの最初の軽作業は、装具庫の札を番号順に確かめることになっていた。
武器そのものには触れない。
整備済み、再確認待ち、使用停止。
三色の札と、武器架へ刻まれた番号を照合するだけだ。
僕は同じ装具庫の端で、返却された位置札を日付順に束ねる。
一緒の部屋にいるが、同じ仕事ではない。
所属班が決まったわけでもなかった。
左手だけで札をめくるフィアの動きは、最初こそ僅かに遅かった。
紙を押さえる右手が使えないため、一枚めくるたびに束が動く。
フィアは二度目から、札の端へ小さな木片を置いた。
重い物ではない。
紙だけを押さえる程度だ。
一度決めると、そこからは速かった。
番号。
札の色。
武器架の位置。
視線が迷わず往復する。
日常の留め具には髪を挟んでも、剣が並ぶ場所では空気が変わる。
半分ほど確認した時、フィアの手が止まった。
見ているのは札ではない。
二列離れた訓練剣の架台だった。
青い紐が巻かれた三本目。
「整備担当」
フィアが近くの成人騎士を呼ぶ。
「青い紐の三本目。鍔が浮いてる」
成人騎士はすぐに武器架へ向かった。
フィア自身は近づかない。
訓練剣を架台へ置いたまま、成人騎士が鍔と柄の隙間を確かめる。
指で押すと、鍔が僅かに揺れた。
「本当だ。固定具が緩んでる」
使用停止の札が掛けられる。
「どうして分かった?」
「隣の剣と影が違った」
フィアはそれだけ答え、手元の札へ戻った。
成人騎士は訓練剣を整備箱へ移す。
大きな事故ではない。
けれど、誰かが振る前に見つかった。
右腕で剣を握れなくても、フィアの目まで鈍ったわけではなかった。
それが少し嬉しかった。
僕が見ていたことに気づいたのか、フィアがこちらへ顔を向ける。
「何?」
「剣を持ってなくても、フィアだなって思った」
「見れば分かる」
「そういう意味じゃないんだけど」
フィアは僅かに首を傾けた。
説明しようか迷ったが、成人整備担当が次の札束を持ってきたため、会話はそこで終わった。
全部を言葉にしなくてもいい気がした。
昼前、僕たちは居住区の生活指導室へ移った。
フィアの軽作業用上着を調整するためだ。
外套より薄く、机仕事や座学で着る灰色の上着で、右腕側は固定具の上から開閉できる形になっている。
左袖も、前腕を強く締めないよう作り直されていた。
リディアが上着を机へ広げる。
「右は今の固定具に合わせた。左は内側の縫い目をずらしてあるから、前より擦れないと思う」
「着る」
「急がなくていいよ。右側は私が布だけ支える」
フィアは頷いた。
固定具そのものには触れさせず、リディアが袖の布を開く。
フィアは右腕を大きく動かさないまま通した。
左腕は自分で袖へ入れる。
手首。
前腕。
肩。
布が噛み跡のある位置を通った時も、表情は変わらなかった。
前を留め、フィアが左肘を浅く曲げる。
「きつくない」
「ここは?」
リディアが左前腕の外側、縫い目をずらした部分を指した。
そして、何気ない声で尋ねる。
「ここ、噛み跡に当たらない?」
フィアの左手が止まった。
留め具を持ったまま、指も動かない。
青い瞳が、自分の左前腕へ落ちた。
正式報告の時には、迷わず答えていた。
誰が決めたのか。
何を外へ出したのか。
どれだけの量だったのか。
何呼吸で止めたのか。
あの時のフィアは、短い言葉で必要な事実を全て出した。
今は、一つの質問に返事がない。
リディアは急かさなかった。
指した手を引き、机の上に置く。
僕が同じ部屋にいるせいかもしれない。
「僕、外で待とうか」
椅子から立ちかける。
「違う」
フィアの返事は速かった。
けれど、続きが出ない。
左手が上着の端を僅かに握る。
「僕がいると話しにくいのかと思った」
「それは……」
また止まる。
自然に整っていた前髪の下で、フィアの眉が僅かに寄った。
危険な術式線を見つけた時とは違う。
分からないものを斬る角度ではなく、言葉にする順番を探している顔だった。
「アルトは、そこにいて」
「うん」
僕は椅子へ座り直した。
フィアが息を一つ吐く。
「痛くはない」
左手の指が、袖の上から噛み跡の少し外側へ触れる。
「押すと痛い。痺れは、たまにある」
「なら、縫い目はもう少し前へずらそうか?」
リディアが尋ねる。
「今のままでいい。当たってない」
必要な答えはそれで終わっている。
それでもフィアは、左前腕を見たままだった。
「報告書なら言える」
「今は報告書じゃないから?」
僕が尋ねると、フィアはゆっくり頷いた。
「今は……違うから、困る」
その違いが何なのか、僕には分からなかった。
正式報告では、対象、時間、同意、負傷の全てに欄があった。
今の部屋には、用紙も記録官もいない。
灰色の上着と、昼前の光と、僕たちしかいない。
そこで噛み跡と言われることは、報告書へ書くのとは違うらしい。
リディアは上着の裾を整えた。
「着ていて当たらないなら、今日の調整は終わり。言葉にする方は、今日中に終わらせなくていいよ」
「分かった」
「ただし、布が擦れたら上着は脱いで持ってきて。そこは服の問題だから」
「それも分かった」
リディアは別の作業へ戻った。
からかう言葉はなかった。
僕とフィアは生活指導室を出る。
回廊には、昼の鐘を待つ静かな時間が流れていた。
窓の外では、成人騎士たちが荷車の車輪を点検している。
フィアは僕の半歩前を歩き、やがて速度を落とした。
僕の右脚に合わせたわけではない。
彼女自身も、長く歩く許可を受けていなかった。
結果として、同じ歩幅になる。
「噛み跡のこと、無理に話さなくていいよ」
僕から言った。
フィアは足を止めなかった。
「隠したいわけじゃない」
「じゃあ、言い方が分からない?」
「それもある」
「ほかにも?」
返事はすぐには来なかった。
窓から入る光が、フィアの長い金髪を細く照らす。
「任務中は、決めたことだけ考えればよかった」
「決めた量と、止まる時間?」
「そう。ほかは考えなかった」
あの三呼吸。
僕たちは、考えるものを減らさなければ止まれなかった。
対象は外へ出した魔力だけ。
時間は三呼吸。
フィア本人へ広げない。
それ以外を考える余裕はなかった。
「今は?」
僕が尋ねる。
フィアの左手が、袖の上から前腕へ近づき、触れる前に下りた。
「考える時間がある」
それ以上は続かなかった。
僕にも、何を考えているのかまでは分からない。
噛み跡が残ったこと。
僕が噛みついたこと。
フィアが名前を呼び続けたこと。
どれが彼女を固まらせたのか、一つではないのかもしれない。
「急いで決めなくていいと思う」
フィアは横目で僕を見る。
「アルトは気にならないの?」
「気になるよ。でも、僕が答えを決めたら違うだろ」
少し考え、フィアは前へ向き直った。
「なら、まだ決めない」
「うん」
「でも、いなくならなくていい」
危機の時の言葉ではなかった。
僕が近くにいることと、彼女が考えることは、両立するらしい。
それだけ分かれば十分だった。
午後の休憩は、新人居住区の共用室で取った。
僕は回収済みの経路札を右手で日付順にまとめる。
左手は机の上に置いたままだ。
指先で紙を押さえようとすると、動いた感覚が僅かに遅れてくる。
無理には使わない。
フィアは向かい側で、復帰者向けの生活指導冊子を読んでいた。
左手だけで頁をめくる。
右腕の固定具へ冊子が当たらないよう、机の中央より少し左へ置いている。
時々、重要な行へ目を止める。
軽作業の時間。
休息の間隔。
武器庫へ単独で入らないこと。
内容を声に出して確認することはなかった。
一度読めば覚えるつもりらしい。
昼の休憩が終わる鐘が鳴り、フィアが冊子を閉じた。
「次、記録棟」
「復帰札が必要だね」
「ある」
フィアは装具帯の左前へ手を伸ばした。
復帰札を入れるための薄い札入れがある。
中を開く。
空だった。
フィアの手が止まる。
次に机の上を見る。
冊子。
空の器。
筆記具。
束ねた札。
復帰札は見えない。
外套の左側を探る。
今度は内側。
右側へ手を伸ばしかけ、固定具を動かさないよう途中でやめる。
「さっき、ヴェラ副団長から受け取った後は?」
「装具庫で出した。生活指導室でも持ってた」
「共用室に入った時は?」
「机へ置いた」
フィアは机の縁を見る。
床へ落ちていないか、椅子を引かずに覗き込む。
慌ててはいない。
ただ、青い瞳がさっきまで読んでいた頁より真剣になっていた。
僕の位置からは、閉じた冊子の上端が見える。
紙の間から、淡い緑色が少しだけ突き出していた。
「フィア、それ、冊子に挟まってる」
フィアが冊子を見る。
表紙を開く。
ちょうど半分ほどの頁に、復帰札が真っ直ぐ挟まれていた。
折れてもいない。
汚れてもいない。
栞としては、とても正しく使われている。
フィアは左手で札を抜いた。
「置いた場所は覚えてた」
「本の中とは覚えてなかった?」
「……冊子を閉じる前は、見えてた」
「閉じたら見えなくなったんだね」
「そうみたい」
僕は少しだけ笑った。
フィアは怒らなかった。
札と札入れを見比べる。
今度は装具帯の左前にある正しい場所へ差し込んだ。
留め具まで閉じ、軽く引いて抜けないことを確かめる。
「次は札入れに戻す」
「その方が探す場所は一つで済むね」
「分かってる」
返事は少し鋭い。
けれど、その口元は不満そうではなかった。
以前のフィアなら、僕が気づく前に探し出そうとしたかもしれない。
見つからなければ、誰もいない場所まで戻って、一人で全ての机を調べたかもしれない。
今は、僕の目の前で札を探した。
冊子から見つかっても、最初からそこへ挟むつもりだった顔をしなかった。
日常的な失敗が増えたのではなく、隠されなくなっただけなのかもしれない。
記録棟での作業を終えた時、外は夕方へ近づいていた。
フィアの復帰初日は、剣を一度も握らずに終わった。
魔法も使っていない。
戦場へも出ていない。
それでも、緩んだ鍔を一つ見つけた。
新しい上着を着た。
外套へ髪を挟み、復帰札を冊子へ挟んだ。
どれも討伐記録には残らない。
けれど、生活へ戻るというのは、きっとこういう時間を取り戻すことだった。
新人居住区へ続く廊下を、僕たちは並んで歩く。
僕の部屋が中央。
左隣がフィア。
右隣はセルフィナの部屋だ。
部屋が近いからといって、同じ班ではない。
明日も同じ仕事になるとは限らない。
階段の前で、フィアが足を止めた。
「アルト。明日もいる?」
「朝の治療が終わったら、記録棟にいると思う」
「私も午後は記録棟」
「じゃあ、また会うね」
「なら、また」
フィアはそれだけ言い、左側の廊下へ進んだ。
危険はない。
助けも必要ない。
停止させるものもない。
それでも、僕の名が呼ばれた。
「かつて助けを求めるために絞り出されたフィアの『アルト』は、今では小さな失敗まで隠さず見せられる距離から、ごく自然に僕へ届いていた。」
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