第131話 部分換装
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
崩れた梁が軋んだとき、僕たちには、それを支えられる腕が一本も残っていなかった。
そこへ至るまで、僕たちは慎重すぎるほど慎重に進んでいた。
フィアの左腕から放出された、三呼吸分の有限魔力。
それを《暴食》で喰ったあと、僕の飢えは七から四まで下がっていた。フィアへ重なっていた「喰える」という異常な意味も薄れている。
けれど、消えてはいない。
だから僕たちは、すぐには緊急拘束帯を外さなかった。
「空腹、四。見え方は残ってる。左腕の圧迫感は弱い。声は聞こえない」
「分かった」
十呼吸後、もう一度。
さらに十呼吸後、三度目。
報告の内容に変化がないことを確かめてから、僕は右手で固定柱側の結び目を解いた。
短い補助縄を手元へ引き戻し、擦れやほつれがないかを確認する。緊急拘束帯として使ったあとも、縄はまだ携行できる状態だった。
「外す」
「同意する。ただし、距離は残す」
「うん」
僕たちは互いの状態も確認した。
僕の右脚には、崩壊から退避したときに強まった痺れが残っている。小さな歩幅なら進めるが、急に踏み直すのは難しい。
左腕の治療布と黒銀色の封魔具、二重固定に、目で確認できる異常はない。
フィアの右腕も簡易固定具に収まったままだ。
その反対側、左前腕には清潔な布が巻かれている。
布の下には、僕が残した歯形に沿う赤い圧痕と薄い内出血がある。出血はなかったが、圧痛と指先の痺れは残った。
「左手は?」
「痺れはある。動く」
「痛みは?」
「押せば痛い。握るだけなら軽い」
隠さない、正確な報告だった。
僕も同じように、右脚の痺れを小さく言い換えなかった。
二人とも、完全な状態からは遠い。
それでも、ここで止まり続ければ追跡役に追いつかれる可能性がある。冷えも、残り二食分の保存食も、僕たちへ長い猶予を与えてはくれない。
僕たちは一定の距離を残したまま、旧換気塔へ続く枝道を進んだ。
僕が半歩を小さくすれば、フィアも同じだけ歩幅を縮める。
フィアを先へ行かせず、僕も後ろへ残らない。
狭い道に手提げ灯の明かりが揺れた。フィアの腰を越える長い金髪は、外套の背に沿うようまとめられている。
曲がり角ごとに位置札を残した。
そのたびに耳を澄ませたが、追跡役の足音は聞こえない。
聞こえないことは、安全の証明にはならなかった。
やがて、構造図の細い線が二つに分かれる地点へ着いた。
「保守分岐だ」
壁面には王国土木局の古い番号が残っている。
旧換気塔は、この先だ。
けれど、その分岐を渡る前に、石壁の奥から低い軋みが響いた。
ぎ、という短い音。
続いて、重いものが僅かに沈む音。
フィアが青い瞳を上へ向けた。
「梁」
僕たちの頭上より少し低い位置に、横向きの構造梁が渡されていた。
古い梁には斜めの亀裂が入っている。一端は石造りの受け部に載り、中央近くを鉄製の補助支柱が支えていた。
補助支柱そのものは、まだ立っている。
問題は、その脇だった。
梁を固定する古い支持具へ、赤黒い線が何重かに巻かれている。
ただの紐ではない。
細い金属繊維と硬化した黒い材質を撚り合わせた実体のある術式線。その先は、溝の刻まれた小さな金属板に繋がっていた。
「星冠印」
フィアが灯りを絞った。
金属板の端に、小さな星冠の刻印が見えた。
僕たちは触れずに、横から観察した。
赤黒い線は張っている。
その張力に引かれ、梁を留める古い支持具が、少しずつ石壁から抜けていた。
「残った工程が動いてる」
「人はいない」
「うん。誰がいつ動かしたかも分からない」
線が自分で考えているわけではない。
何かを感知して僕たちを狙っている様子もない。ただ、設置された工程を残った力で続けている。
支持具が、また爪の先ほど動いた。
梁が軋む。
僕たちは分岐の入口まで下がり、構造図と現物を照合した。
梁が完全に落ちれば、旧換気塔へ向かう枝道を塞ぐ可能性が高い。
それだけではない。
落ちた重量が中央の補助支柱へ横から掛かれば、隣接する支えまで外れかねない。
坑道全体が崩れるとは限らない。
だが、僕たちが通れる保証も消える。
「線を切れば止まると思う」
僕が言うと、フィアは術式線の位置へ目を凝らした。
「刃が入らない」
赤黒い線は、梁と固定具の狭い隙間に挟まれていた。
露出している部分もあるが、刃を振れば固定具へ当たる。痺れの残る左手だけで、硬い金属の脇へ正確に刃を滑らせるのは危険だった。
フィアは角度を変え、さらに下から確認した。
細い黒のカチューシャの下で、整った前髪が僅かに揺れる。
「梁を上げれば見える」
「どれくらい?」
「指一本」
ほんの僅か。
けれど、その僅かが今の僕たちには重かった。
補助縄を梁と支柱へ通し、てこの代わりにできる箇所がないか探した。石の張り出しも確認する。
しかし、縄を掛けられる角度では、梁を上げる前に補助支柱を横へ倒してしまう。
床に残る古い点検棒も、梁を押し戻すには短い。
僕の右腕だけでは足りない。
未完治の左腕へ重さを掛ければ、固定の内側を壊す危険がある。
右脚の痺れを抱えたまま全身で踏ん張り続けることもできない。
フィアの右腕は、剣を振ることさえ避けるべき状態だ。
左腕も、さっき僕が傷を残したばかりだった。
「私が支えるのは無理」
フィアは迷わず報告した。
「切る方なら?」
「一度だけ。短くなら」
「痛みは?」
「ある。痺れも増える」
それでも可能だと、彼女は言った。
僕は梁を見上げた。
指一本分だけ押し戻し、三心拍ほど止められれば、フィアが線を切れる。
それができる腕は、ここにはない。
そのはずだった。
『貸してやる、器。三つだけだ』
獣じみた声が、左腕の奥から頭蓋へ這い上がった。
空腹とは違う冷たさが、一瞬だけ指先へ集まる。
僕は息を止めなかった。
声へ返事もしなかった。
「今、ベルゼバスが『貸してやる、器。三つだけだ』と言った」
フィアの視線が僕へ向く。
驚きは、青い瞳の奥に確かにあった。
それでも彼女は近づかなかった。
「三つ」
「三心拍だと思う」
第百十八話で、一度だけベルゼバスへ問いを向けたときの返答が蘇る。
喰わずとも、腕ひとつなら、爪を貸す。
実際に使ったことはない。
試したことも、練習したこともない。
現象を整理するため、《部分換装》という仮の名だけが記録された。
「一致してる」
フィアが短く言った。
「でも、安全とは限らない」
「うん。ベルゼバスは保証してない」
「三心拍より前に広がるかもしれない」
「それも分からない」
何も分からない。
貸すという言葉の意味も、代価も、ベルゼバスの目的も。
僕たちは成人の監督下にいない。
本来なら、使うという選択そのものを避けるべきだ。
けれど支持具は、今も少しずつ抜けている。
僕たちがこの道を諦めて引き返せば、追跡役がいる可能性の高い区画へ戻ることになる。旧換気塔から救援信号を送る可能性も失う。
「使えなかったら、すぐ下がる」
僕は先に退避案を口にした。
「梁には入らない。道を捨てて戻る」
「使えても、広がったら中止」
「左手から前腕まで。そこを越えたら離れて」
「私は線を切らない」
「うん」
成功を前提にしない。
僕もフィアも、互いに一つずつ条件を確認した。
「左手の指先から前腕まで」
僕は自分の声で言った。
「上腕へ広げない。肩へ広げない。黒い紋章を動かさない。三心拍だけ。梁を支えるためだけに使う。人には向けない。《暴食》も第一覚醒も使わない。フィアが線を切ったら、すぐ終わらせる」
ベルゼバスから返事はない。
条件が伝わった保証もない。
だからこれは、僕自身が守り続ける境界だった。
フィアは右腕を固定したまま、通常剣の鞘を靴と石床の間へ挟んだ。
左手で柄を握り、ゆっくりと刃を抜く。
途中で一度、指が止まった。
「痛い?」
「痛い」
フィアは隠さなかった。
「でも、一度なら切れる」
長く艶のある金髪が、前へ垂れないよう外套の背へ払われる。
フィアは左手だけで剣を支え、刃先を術式線の直前へ置いた。
右腕は身体の外側へ逃がし、固定具に負荷を掛けない姿勢を取る。
僕は梁の下へ入る前に、治療布と封魔具へ目を落とした。
黒銀色の輪は動いていない。
二重固定も緩んでいない。
黒い紋章は、肩の手前で止まっている。
右手を石壁へ添える。
左脚を前へ置き、痺れのある右脚は後ろで姿勢を補うだけにした。
「フィア」
「準備できた」
「僕も」
梁がまた沈んだ。
支持具が、金属の擦れる音を立てる。
僕は左手を亀裂の下へ差し入れた。
何も起きなければ、すぐに離れる。
そう決めた瞬間だった。
指先の感覚が裏返った。
冷たい。
同時に、熱い。
僕の爪の色が、黒銀へ変わる。
爪先は僅かに伸び、梁の亀裂へ掛けられる短い鉤の形を取った。
変化は指から手の甲へ進み、手首を越える。
薄い黒銀色の異形組織が、左前腕へ重なる。
腕は太くならない。
治療布は裂けない。
封魔具の下から何かが膨れ上がることもなかった。
黒銀の変化は、固定の輪郭を避けるように露出部と内側だけを走り、前腕の途中で止まった。
上腕は僕のままだ。
肩も、胸も、顔も変わらない。
紋章が動く感覚もない。
それでも、左手だけが僕の身体ではないように重かった。
借り物。
その言葉が、恐ろしいほど正確だった。
「範囲」
フィアの声が飛ぶ。
「前腕まで。肩は変わらない。紋章も動いてない」
「始める」
梁が落ちる。
僕は黒銀の爪を亀裂へ掛けた。
一心拍。
ずしり、と左手へ重量が落ちた。
石と鉄の冷たさが、指先から前腕の奥へ突き刺さる。
異形の爪が梁の表面を削り、亀裂の中で止まった。
梁を持ち上げたわけではない。
落下を、その位置で受け止めただけだ。
それでも、本来なら耐えられない重さを、左手と前腕が支えている。
右手で壁を押す。
左脚に体重を乗せ、右脚は崩れないための添え物にする。
異形の腕から、圧力とは違う感覚が伝わってきた。
梁の亀裂。
内部の空洞。
石の受け部へ触れている端。
まるで左手が、自分の指より長くなったような異物感だった。
「止めた!」
フィアが刃の角度を合わせる。
次の心拍までが、ひどく長い。
二心拍。
僕は左脚で床を押し、梁を指一本分だけ押し戻した。
異形の腕に力が満ちる。
全身が強くなったわけではない。
右腕も、右脚も、いつもの僕のままだ。
ただ左手と前腕だけが、梁の重さへ耐え、僅かに押し返す。
梁と固定具の間に、細い隙間が生まれた。
赤黒い術式線が露出する。
「見えた」
フィアの左手が動いた。
華麗な剣閃ではない。
利き腕の速さもない。
噛み跡の痛みで、刃先はほんの僅かに震えていた。
それでも、フィアの青い瞳は切るべき一本だけを見ていた。
短く、正確な一閃。
通常剣の刃が、赤黒い実体術式線へ食い込む。
一度で完全には切れない。
硬い繊維が数本残った。
フィアの表情が痛みに歪む。
「フィア!」
「まだ」
左手首を返す。
右腕は動かさない。
刃を引く動きだけで、残った線を断ち切った。
三心拍。
赤黒い線が弾けるように二つへ分かれた。
爆発はない。
魔力の逆流も、呪いの光もない。
ただ張り詰めていた術式線が力を失い、床へ落ちた。
溝付き金属板の動きが止まる。
支持具を引き抜いていた張力も消えた。
「切った。下がる」
フィアが剣を引き、後ろへ一歩退く。
僕は梁を投げなかった。
壊しもしない。
左手の力を少しずつ抜き、まだ機能している補助支柱と石造りの受け部へ、重さを移していく。
梁が低く軋んだ。
けれど今度は落ちず、石の受け部へ沈んだところで止まった。
その瞬間、左手から力が消えた。
黒銀色の鉤爪が縮む。
薄い異形の外殻が、手の甲から前腕へ逆にほどけていく。
治療布の手前を最後に、借り物の色は完全に消えた。
三心拍。
それ以上は残らなかった。
僕は左手を梁から離した。
次の瞬間、全身が燃えた。
「っ……!」
寒い坑道のはずなのに、額から汗が噴き出す。
首筋を熱が流れ、背中の衣服が急に肌へ貼りついた。
便利な暖かさではない。
身体の内側へ熱した鉄を押し込まれたような発熱だった。
それを追うように、左腕へ激痛が走る。
手のひらから前腕まで、押し潰されてから無理に元へ戻されたように痛んだ。
骨が折れた感覚ではない。
だが、息を整えることさえ難しい。
「アルト。梁から離れて」
フィアの声が、右側から聞こえた。
僕は右を向いた。
誰もいない。
フィアは左前方にいる。
「声が……違う方から聞こえた」
隠さず報告する。
左手には、まだ梁の冷たさが残っていた。
もう触れていないのに、重さまで手のひらへ載っている。
右手を壁へ当てているはずなのに、一瞬、壁へ触れているのが左手なのか右手なのか分からなくなった。
視界はある。
名前も、場所も覚えている。
けれど、身体の位置だけが薄い霧の中で入れ替わっていた。
「座れる?」
「座る。自分で」
右手を壁に沿わせ、ゆっくり腰を下ろす。
右脚の痺れが強く主張したが、折れることはなかった。
短い補助縄を取り出し、右手だけで壁の固定環へ通す。腰の装具帯に掛け、倒れないための姿勢保持に使った。
首にも、腕にも巻かない。
フィアはすぐには近づかず、僕の返答が届く位置へ立った。
彼女自身も両腕に制限がある。
僕を背負うことも、抱えて運ぶこともできない。
だから声で確かめる。
「名前」
「僕はアルト」
「現在地」
「フィアと、旧換気塔手前の保守分岐にいる」
「右手はどこ」
問いに答える前に、僕は目で確かめた。
壁に触れている手。
指の形。
袖の向き。
「右手は壁」
「左手は動く?」
僕は意識して左の指を曲げた。
遅れて、人差し指と中指が震えながら動く。
異形の爪はない。
黒銀色の外殻もない。
「左手は動く。でも痛い」
「痛みは?」
「強い。手のひらから前腕。熱と圧力が戻った感じ」
「見え方」
「見える。声の方向だけ、まだずれる。梁の重さも残ってる」
フィアは短く頷いた。
名前を答えられたからといって、感覚の混濁は消えない。
けれど、何がずれているかは確認できた。
今度は僕が尋ねる。
「フィアの左腕は?」
「切ったときに痛みが増えた。指先の痺れも少し強い」
「剣は握れる?」
「今は長く無理。一度なら終わった」
右腕についても確認する。
固定具はずれていない。痺れの範囲も変わっていない。
フィアは剣先を床へ向け、鞘を靴で固定した。
左手だけで角度を合わせ、ゆっくりと通常剣を収める。
刃が鞘口へ入ったところで、彼女の指が僅かに震えた。
それでも右腕は使わなかった。
「水」
フィアが水筒を床へ置き、僕の右手で届く位置まで靴先で押した。
僕は栓を開け、ほんの少しだけ飲んだ。
喉は冷たい水を感じた。
味も匂いも、普段と変わらない。
身体の熱は下がらない。
水筒はまだ十分に残っている。栓を閉め、手元へ置いた。
呼吸が少し整ってから、僕は右手で左腕を確認した。
封魔具の外周。
一つ目の留め具。
二つ目の固定。
どれも外れていない。
黒銀色の封魔具が熱を持っている様子も、歪んでいる様子もなかった。
治療布にも裂け目はない。
「留め具、見える範囲は破損なし」
僕が報告すると、フィアも距離を保ったまま目を凝らした。
「二重固定、ずれてない。布も破れてない」
肩の手前に止まる黒い紋章も確認する。
線は増えていない。
色が濃くなった様子もない。
肩より先へ広がってもいなかった。
「紋章、変化なし」
「外見は戻ってる」
「中は分からない」
「帰ったら検査」
「うん。全部報告する」
僕は左手をもう一度開こうとした。
指は動く。
ただし遅く、震えがある。
強い痛みも残ったままだ。
三心拍だけ梁を支えられた。
それは事実だ。
だからといって、使えるようになったわけではない。
僕が望めば、もう一度同じ変化を起こせるのか。
ベルゼバスが次も貸すのか。
三心拍が安全な限界だったのか、それとも単にベルゼバスが決めた時間なのか。
四心拍目まで続けば、何が起きたのか。
次も左手と前腕だけに収まるのか。
封魔具と二重固定が、もう一度耐えられるのか。
何一つ分からない。
「もう一度はしない」
僕は言った。
フィアが即座に答える。
「しない」
「爪の強さも試さない」
「必要ない」
「記録では、仮称のままにする」
「《部分換装》」
それは技の名前ではない。
今起きた現象を、帰還後に成人責任者へ伝えるための札だった。
フィアが記録札を取り出す。
左手では文字が乱れるため、僕が右手で書いた。
孤立三日目。
旧換気塔手前の保守分岐。
赤黒い実体術式線が、古い支持具を引き抜いていたこと。
フィアが左手の通常剣で術式線を物理切断したこと。
僕の左手から前腕までに、一時的な異形化が発生したこと。
継続は三心拍。
目的は梁の支持のみ。
人にも、敵にも向けていない。
《暴食》と第一覚醒は未使用。
黒い紋章の拡大なし。
封魔具、治療布、二重固定の破損なし。
解除後、発熱、左腕の激痛、感覚混濁あり。
仮称《部分換装》。
安全性、再現性、再使用条件は未確認。
旧換気塔へは未到達。
帰還後、全記録を成人責任者へ提出する。
書き終えた記録札を、分岐の見える位置へ固定した。
切断された赤黒い術式線と金属板の位置も添える。
成功した新技の記録ではない。
危険な現象を、一度だけ緊急に使った記録だ。
フィアは札を読み、短く頷いた。
「抜けてない」
「フィアの左腕も書く」
僕は追記した。
右腕の固定継続。
左前腕の噛み跡、圧痛、痺れあり。
術式線切断後、左手の痺れが増加。
二人とも歩行可能だが、直ちに移動はしない。
「これでいい?」
「いい」
僕は壁へ背を預けた。
熱はまだ高い。
左腕の痛みも、少しも消えていない。
フィアの声が時折、実際より半歩ずれた場所から聞こえる。
手のひらには、もう触れていない梁の重さが残っている。
旧換気塔は、この分岐の先にある。
けれど今は進めない。
焦って立ち上がれば、右脚の痺れと感覚の混濁で、次の危険を増やすだけだ。
フィアもそれを急かさなかった。
互いに運べない身体だからこそ、互いの報告を待つ。
「十呼吸後、もう一度」
「うん」
「空腹も」
僕は自分の内側を確かめた。
「四。変わらない」
フィアへ重なる異常な意味も、弱いまま残っている。
《部分換装》を使ったことで消えたわけではない。
《暴食》が治ったわけでもない。
ベルゼバスが僕を助ける存在になったわけでもない。
あの力が、僕の意思だけに従った保証すらなかった。
三心拍の間、僕が守れたのは、範囲と目的と、フィアと合わせた手順だけだ。
その先へ踏み込まなかったことだけが、今の僕たちに確かめられる全てだった。
フィアは僕の正面ではなく、少し斜めの位置へ座った。
右腕を外側へ置き、左腕も膝へ載せない。
互いの負傷へ余計な重さを掛けず、それでも声は届く距離だった。
「アルト」
「聞こえる。今度は正しい方向」
「左手」
「動く。痛みはまだ強い」
「熱」
「高いまま」
「意識」
「僕はアルト。フィアと旧換気塔手前にいる」
フィアの青い瞳が、僕の返答を受け止める。
「分かった」
その一言で、僕たちはまた十呼吸を数え始めた。
救援信号はまだ送れていない。
旧換気塔にも届いていない。
追跡役がどこにいるかも分からない。
それでも、落ちかけていた梁は補助支柱と石の受け部へ収まり、赤黒い術式線は切れている。
道はまだ閉じていなかった。
ただし、僕たちがそこを進めるのは、発熱と感覚の混濁が少し落ち着いてからだ。
僕は痛む左腕を動かさず、右手で位置札の固定をもう一度確かめた。
帰還できたなら、この一回を余さず報告する。
できたことだけではない。
分からなかったことも、痛みも、恐怖も、ベルゼバスの声も。
それまでは、二度と試さない。
三心拍だけ梁を支えた左腕は元へ戻っていたが、その発熱と激痛は、《部分換装》がまだ僕の力ではないと告げ続けていた。
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「今後どうなるの!!」
と思ったら
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面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
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