第130話 喰って
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
顔を上げた僕の視界で、フィアと、その左腕を走る細い紫電は、初めて別々のものに見えた。
六歩以上先にいるのは、フィア・ヴァルティエだった。
腰を越える長い金髪。
細い黒のカチューシャ。
正面から僕を見据える、澄んだ青い瞳。
その顔も名前も、僕は間違えていない。
それでも、彼女の呼吸と体温には、まだ「喰える対象」という異常な意味が重なっていた。
完全には戻っていない。
けれど、フィア本人と、左前腕の衣服表面を走る細い紫電は違った。
紫電の方が、もっと鮮明だった。
身体から外へ放出され、供給を切られた、有限の魔力。
飢えは僕の意思より早く、それを別の対象として選んでいる。
「フィアと、外の魔力は分けて見える」
僕は視線を逸らさず報告した。
フィアの表情が僅かに動く。
「私も見える?」
「見える。名前も分かる。仲間だってことも分かる。でも、喰えるって意味はまだ重なってる」
「外の方は?」
「もっと強い。君より先に、そっちへ飢えが向く」
左腕の奥へ、冷たい圧迫感が集まっていた。
黒銀色の封魔具は外れていない。
二重固定にも緩みはない。
黒い紋章が肩より先へ伸びる感覚もなかった。
それでも、腹の底から突き上げる飢えは七に近い。
「声は?」
「今は聞こえない」
「分かった」
フィアの左腕を走っていた紫電が薄くなる。
放出量が少ないうえ、体内からの供給はすでに切れている。
あと数呼吸も残らない。
それを惜しいと感じた自分に、背筋が冷えた。
喰えば楽になる。
この飢えを抑えられる。
そんな考えが、確かめてもいない未来を答えのように見せてくる。
僕は右手を握りそうになり、すぐ開いた。
「アルト、止まって」
「止まった。僕はアルトだ」
拘束帯が装具帯を引いている。
固定柱へ通した短い補助縄は、座ることも立つことも許す。
けれど一歩より先へは進めない。
僕の普通の片手剣も、可動範囲の外へ置かれている。
フィアは距離を保ったままだ。
「空腹」
「七」
「見え方」
「変わらない。外の魔力の方が強い」
「左腕」
「冷たい圧迫感。痛みなし。固定維持」
「声」
「なし」
報告が終わるのとほぼ同時に、フィアの左腕から紫電が消えた。
飢えの向きが戻る。
フィア本人へ重なっていた異常な意味が、また前へ出た。
僕は床へ視線を落とした。
「消えた」
「分かる?」
「うん。外の魔力がなくなった。今はまた、君の方が強く見える」
答えるだけで喉が詰まりそうになった。
フィアは逃げなかった。
けれど近づきもしなかった。
それが正しい。
信頼は、危険を無視する理由にはならない。
「もう一度、外へ出す」
フィアが言った。
「駄目だ」
僕はすぐに返した。
「左手も疲れてる。さっきの雷で負荷も増えてる。それに成人監督者がいない」
「分かってる」
「《暴食》を使って確かめる条件じゃない」
「それも分かってる」
声はいつもどおり短い。
僕の反対を軽く扱っているわけではなかった。
「でも、拘束したままでは進めない」
僕は返せなかった。
崩れた点検窪みには戻れない。
後方には追跡役がいる可能性がある。
旧換気塔へ辿り着けなければ、地表非常信号索を使えるかどうかさえ確認できない。
ここへ留まる時間が延びれば、冷気と疲労はさらに身体を削る。
「保存食を食べても、この飢えは止まらない」
フィアが続ける。
「そうだと思う。でも、だからって」
「拘束を外したら、私は危ない」
「……うん」
「外さなければ、二人とも進めない」
フィアは事実だけを並べた。
僕を追い詰めるためではない。
今ある選択肢のどれも安全ではないと、二人で認めるためだった。
「一度だけ」
「一度成功しても、次も安全とは限らない」
「成功記録にはしない。緊急使用で残す」
「帰ったら、成人責任者へ全部報告する」
「する」
フィアは左腕へ視線を落とした。
「私と、外へ出した魔力は分かれて見えた」
「見えただけだ。喰っても分けられるかは分からない」
「だから、量を決める」
「もし僕が止まらなかったら?」
「拘束帯がある。笛もある。私は身体を範囲へ入れない」
「それでも腕には届く」
「届かせるのは、外へ出した分だけ」
フィア本人ではない。
身体の内側にある魔力でもない。
外へ放出し、供給を切った有限の魔力だけ。
理屈は分かる。
けれど、理屈だけで安全が作れるなら、《暴食》に成人監督条件など付いていない。
「怖くないの?」
「怖い」
フィアは迷わず答えた。
「だから決める」
量。
距離。
拘束。
停止合図。
一つでも曖昧にしたまま進むつもりはないらしい。
「アルトも決めて」
判断を僕だけへ押し付けなかった。
自分だけで決めて、従わせることもしない。
僕は右手で拘束帯の結び目を確認した。
補助縄に新しい断裂はない。
固定柱も傾いていない。
身体をいっぱいに前へ出しても、一歩分しか動けない。
「対象は、体内から切り離した魔力だけ」
「うん」
「糸一筋」
「三呼吸分」
「三呼吸が終わったら、追加しない」
「しない」
「僕が求めても?」
「出さない」
「君が名前を呼んだら止まる。返せるなら、『止まった。僕はアルトだ』と答える」
「返せなければ、もう一度呼ぶ。動いたら笛」
「君の身体は、拘束帯の範囲外」
「左前腕だけ入れる」
「右腕と剣は使わない」
「使わない」
条件を一つずつ口にする。
言葉へ変えるたび、やろうとしていることの危うさが輪郭を持った。
「フィア本人は対象にしない」
「私じゃない」
「肉も、血も、魂も、生命も、記憶も、能力も喰わない」
「体内魔力も」
「うん」
「外へ出した分だけ」
フィアの言葉が、狭い枝道へ残った。
僕は一度、目を閉じた。
やらない方が安全だと言い切れない。
やる方が安全だとも言い切れない。
それでも、何も選ばず拘束されたまま待つことも、一つの選択になる。
追跡役が戻るまで。
寒さで身体が動かなくなるまで。
飢えがさらに強くなるまで。
「一度だけ」
僕は言った。
「緊急措置として。終わったら全部記録する」
「分かった」
フィアは手提げ灯を石床へ置いた。
停止笛は左手ですぐ取れる位置へ移す。
右腕の固定具には触れない。
通常剣も鞘に収めたままだ。
携行品から清潔な布を一枚取り出すと、低い石の張り出しへ広げた。
右腕を使わず、左手だけで布を折り重ねる。
それを左前腕の衣服と手甲の外側へ当て、既存の留め帯へ端を差し込んだ。
布は皮膚を締めつけていない。
歯が直接触れないよう、外側だけを二重に覆っている。
「布、ずれてない?」
「ずれてない」
フィアは左腕を一度下げ、布が外れないことを確かめた。
「私は、ここまで」
彼女は拘束帯の届く境界を靴先で示した。
身体はその外に残す。
差し入れるのは左前腕だけ。
もし僕が全身で進もうとしても、拘束帯が先に張る。
「魔力を出す」
「供給を切ってから教えて」
「分かった」
小さな魔法陣がフィアの左前腕へ開いた。
薄い詠唱文字が、衣服の外側を一周する。
さっき腐食金具へ放った雷よりも、さらに小さい。
糸ほど細い紫電が、二重にした清潔な布の表面だけを走った。
「一筋」
フィアの声。
紫電が安定する。
「三呼吸分」
魔力が外へ置かれる。
その瞬間、フィアの顔から僅かに血の気が引いた。
短時間で魔力を放出したことによる消耗だ。
けれど彼女は膝を崩さなかった。
「供給、切った」
僕にも分かった。
フィアの身体から紫電へ続いていた細い流れが途切れる。
布の外側に残ったのは、すでに分離された有限の魔力だけだった。
それでも、飢えは待たなかった。
左腕の圧迫感が強くなる。
腹の底に開いていた空洞が、布の表面にある紫電を見つけた。
喰え。
言葉ではない衝動が、全身を前へ押す。
「アルト」
フィアが僕の名前を呼んだ。
「私の名前」
「フィア・ヴァルティエ」
答えられる。
「仲間。食べ物じゃない」
「外の魔力は?」
「分離済み。三呼吸分」
「なら」
フィアは左前腕だけを、拘束帯の境界へ差し入れた。
身体は六歩以上先に残っている。
青い瞳は僕から逸れない。
「これだけ。喰って」
その言葉を聞いた瞬間、理性より先に身体が動いた。
僕は立ち上がり、前へ踏み出した。
拘束帯が装具帯を引く。
全身が止められる。
それでも、境界へ差し出されたフィアの左前腕だけは届いた。
清潔な布の表面に紫電が走っている。
僕はそこへ勢いよく噛みついた。
布越しに、硬い圧力が返る。
フィアの皮膚を破った感触はない。
血の味もしない。
味覚そのものに変化はなかった。
あるのは、布の外側に残された魔力だけ。
《暴食》が開く。
第一覚醒ではない。
左腕の黒い紋章も広がらない。
爪も、鱗も、外殻も現れない。
紫電だけが細い流れとなり、属性の形を失いながら消えていく。
フィアの雷属性が僕へ移ることはない。
莫大な通常魔力へ変わることもない。
飢えの空洞へ、ほんの僅かな熱だけが落ちていく。
「一呼吸」
フィアの声が聞こえた。
左前腕へ力を込めて引くことはしない。
急に引けば、布がずれ、皮膚や僕の歯を傷つける。
代わりに、布の先へ出ている左手が僕の外套の肩口を掴んだ。
横へぶれかけた身体を支える。
右腕の固定具は動かない。
右腕で僕を抱え込んでもいない。
左手と肩だけで、僕を拘束帯の内側へ留めていた。
「っ……!」
フィアの息が短く詰まる。
噛まれた圧力と、一度に魔力を放出した消耗。
身体の内側から熱が引いたように、彼女の指先が僅かに震えた。
それでも腕を引かなかった。
「アルト」
名前が届く。
僕は返そうとした。
けれど口は布越しの左前腕を噛んだままだ。
飢えは、消えかけている紫電を一欠片も残すなと迫る。
フィア本人へは広げない。
布の内側へは入らない。
外にあるものだけ。
僕はその境界を、頭の中で繰り返した。
「二呼吸」
紫電の大半が消えた。
フィアの左手から力が抜けかける。
肩口を掴んでいた指が一度緩み、すぐに掛かり直した。
「アルト。私の名前」
フィア。
仲間。
僕の剣を見てくれた相手。
一枚の毛布の下で、離れないでと言った少女。
自分の剣を初めて認めたのが僕だったと伝えてくれた相手。
食べ物ではない。
「三呼吸」
最後の紫電が消える。
《暴食》が、次の対象を探そうとする。
布の向こうにはフィアの左前腕がある。
熱も、魔力も、生命もある。
けれど、それは最初から対象ではない。
差し出されたのは、もう消えた「これだけ」だ。
「アルト、止まって」
フィアの声が鋭く響いた。
噛む力を抜こうとする。
半呼吸だけ、顎が動かなかった。
飢えが、まだ足りないと訴える。
拘束帯が僕の身体を止めている。
フィアの左手が肩を支えている。
そして、もう一度、名前が届いた。
「アルト」
僕は顎の力を抜いた。
清潔な布から口を離す。
後ろへ一歩下がると、拘束帯の張りが緩んだ。
「止まった。僕はアルトだ」
息を切らしながら答えた。
フィアはすぐに左前腕を拘束範囲の外へ戻した。
身体ごと二歩退く。
その動きには僅かな揺れがあった。
「フィア」
「立てる」
短く答えたものの、顔色は白い。
左手を開こうとして、途中で指が止まる。
「状態を教えて」
「左手、痺れてる。腕は痛い。少し目眩。右腕は変化なし」
「血は?」
「出てない」
「布は?」
「破れてない」
僕も自分の状態を確認する。
異常な飢えは消えていない。
けれど、七近くあった強さが四ほどまで下がっていた。
フィアへ重なっていた「喰える対象」という意味も薄くなっている。
なくなったわけではない。
意識すれば、まだ飢えはそこにある。
「空腹、四。知覚異常は弱くなったけど残ってる。左腕の圧迫感も少し軽い」
封魔具の留め具を右手で確かめる。
「封魔具と二重固定、維持。紋章の拡大感覚なし。第一覚醒なし。《部分換装》なし。爪も出てない」
「何を喰った?」
フィアが尋ねる。
「外へ放出されて、供給を切られた魔力だけ。肉体へ対象は広がってない。血も喰ってない。魂、生命、記憶、能力も対象にしてない。体内魔力へ繋がった感覚もない」
「雷は?」
「僕に残ってない。属性適性も変わってない」
「全部、断定できる?」
僕は一度息を止めた。
フィアの問いは正しい。
自分の感覚だけで、全てを安全だと証明することはできない。
「できない。今報告できるのは、僕の知覚と、見える結果だけ。成人封印担当と医療担当の確認が必要だ」
「なら、それも記録」
「うん」
フィアは低い石の張り出しへ座った。
左前腕の留め帯を左手だけで外そうとするが、痺れた指がうまく動かない。
僕は拘束帯の内側から見ていることしかできなかった。
「手伝えない」
「今は、近づかない方がいい」
「分かってる」
フィアは急がなかった。
布の端を石台へ固定し、左腕をゆっくり引く。
二重に巻かれていた清潔な布が緩み、必要な部分だけが見えた。
皮膚は破れていない。
血も流れていない。
それでも、僕が噛んだ位置には赤い圧痕が並んでいた。
歯形に沿って薄い内出血も浮かび始めている。
数時間では消えない。
おそらく、数日は残る。
胸の奥が強く縮んだ。
「僕が付けた」
「そう」
フィアは否定しなかった。
傷を軽く扱いもしない。
「痛い?」
「押すと痛い。指先まで痺れてる」
「ごめん」
「同意した」
「それでも、傷は傷だ」
「うん」
何も悪くなかったことにはしない。
危険がなかったことにも、完全に成功したことにもしない。
僕は決めた量で止まった。
けれど半呼吸、遅れた。
拘束帯とフィアの声がなければ、その先へ進んでいた可能性は残る。
「同じことを、勝手には繰り返さない」
僕は言った。
「帰ったら、成人責任者へ全部話す。許可された手順にはしない」
「分かった」
「僕一人でも使わない」
「うん」
フィアは布を巻き直した。
今度は噛み跡の位置を圧迫しすぎないよう、少し緩く留める。
右腕は固定具の中。
左腕には噛み跡と痺れ。
両腕に制限が残った。
それでも彼女は、痛みを隠して立とうとはしなかった。
目眩が治まるまで石台へ座り、自分の呼吸を確かめている。
僕も拘束を外さない。
飢えが四まで下がっただけで、安全になったわけではない。
「位置札を書く」
「私が書く」
「左手、痺れてる」
「なら、アルトが言って。私が短く書く」
一方へ全て任せるのではなく、使える部分を組み合わせる。
フィアは左手で筆記具を持った。
文字はいつもより少しだけ硬い。
僕は事実を読み上げた。
孤立三日目。
異常な飢え、七前後。
フィア本人の同意により、体外へ分離した有限魔力を三呼吸分だけ対象化。
《暴食》による吸収あり。
肉、血、魂、生命、記憶、能力、体内魔力は対象外と認識。
第一覚醒、《部分換装》は未使用。
封魔具と二重固定は維持。
フィアの左前腕に出血のない噛み跡と痺れ。
右腕は固定継続。
飢えは四前後。知覚異常は残存。
帰還後、成人責任者へ全記録を提出。
旧換気塔へ未到達。
「成功とは書かない」
フィアが言った。
「うん。緊急使用。安全性は未確認」
最後にその一文を加える。
位置札を固定柱の見える場所へ残した。
保存食は二食分のまま。
水筒は二本。
手提げ灯も二つ。
交換用の油と芯、保温布、停止笛、剣も失っていない。
僕たちは生きている。
けれど、フィアの両腕には新しい制限が増えた。
それを成果と呼ぶことはできなかった。
「次は成人監督下でしかやらない」
僕が言うと、フィアは少し黙った。
「帰った後は」
「うん」
「でも、孤立中にまた来たら」
青い瞳が僕を見た。
「次も、最初に私へ言って」
「手順を知っているから?」
フィアの返答までに、ほんの僅かな間があった。
「それだけじゃない」
「じゃあ、何?」
「今は言わない」
口調は普段と変わらない。
けれど視線だけが逸れなかった。
僕の危険を独占して管理したいという意味ではない。
成人監督者の代わりになるという意味でもない。
それでも、僕が最も隠したくなる異常を、他の誰かより先に自分へ渡してほしい。
そんな響きが残った。
「分かった。最初に言う」
「ならいい」
フィアは左腕の布を確かめた。
僕も自分の左腕と拘束帯を確認する。
まだ旧換気塔へは進めない。
救援信号も送れていない。
追跡役がどこにいるかも分からない。
飢えも消えていない。
それでも僕たちは、危険を隠さず、差し出す対象を一つに決め、決めた量で止まった。
フィアの腕に残った噛み跡は、僕が彼女ではなく、彼女の差し出した『これだけ』を選べた証になった。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
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