第129話 私を見て
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
十呼吸ごとの報告を続けていた僕たちの退避場所へ、暗がりから一本の金属杭が飛び込んだ。
金属同士が噛み合う、鋭い音がした。
杭は僕にもフィアにも向かわなかった。
点検窪みの上部に残っていた、古い支保留め具へ突き刺さった。
霜に覆われた留め具が、乾いた音を立てて割れる。
「上!」
六歩以上離れた場所から、フィアの声が飛んだ。
僕は反射的に顔を上げかけ、すぐに視線を壁へ戻した。
フィアを見てはいけない。
《暴食》に刺激された飢えは、まだ零から十で六。
彼女がフィアだと分かっているのに、その存在へ「喰える対象」という異常な意味が重なったままだ。
けれど、今はそれだけを警戒していられなかった。
天井の亀裂から細かな雪が噴き出した。
小石が落ちる。
続いて、点検窪みの上へ渡されていた非構造材が外れ、石床へ叩きつけられた。
僕は立ち上がろうとした。
装具帯が強く引かれ、身体が止まる。
短い補助縄を、緊急拘束帯として壁の安全環へ固定していた。
座ることも、立つこともできる。
一歩だけなら動ける。
だが、崩れ始めた天井から逃れる距離はない。
「影、曲がり角」
フィアが短く告げた。
壁へ向けた視界の端に、暗色の防寒衣が一瞬だけ映った。
成人ほどの体格。
顔は防寒布と坑道の影に隠れている。
第125話と第127話で見た人物と同じかもしれない。
けれど、確かめる時間はなかった。
影はすぐに曲がり角の向こうへ消えた。
追跡役が使った物が何なのかも分からない。
分かるのは、飛来した金属杭が、低温と経年劣化で脆くなっていた留め具を正確に壊したことだけだった。
頭上で、低い金属音が軋んだ。
腐食した鉄製点検板が傾いている。
大人一人が持ち上げるにも苦労しそうな板だ。
その片側を吊っていた二つの金具のうち、一つはすでに外れていた。
残った側が耐えきれなくなれば、点検板は僕の頭上へ落ちる。
右へ避けようとしても縄が張る。
左腕で受ければ、封魔具ごと潰される。
「アルト。動かないで」
フィアの声は近づかなかった。
右腕を固定した彼女が僕まで走っても、点検板を支えることはできない。
僕を引けば、二人とも崩壊範囲へ入る。
一瞬の判断の後、フィアが左手を上げた。
小さな魔法陣が指先へ開く。
長い詠唱はなかった。
魔法として形を完成させるのではなく、雷属性の魔力を外へ押し出すだけの基礎操作。
薄い詠唱文字が一列だけ走り、細い紫電が放たれた。
大きな雷鳴は起きなかった。
指先から伸びた雷は、巨大な点検板ではなく、それを吊るしている最後の腐食金具へ届いた。
青紫の光が金具の表面を走る。
錆びた接続部だけが弾けた。
左右の金具が同時に外れたのではない。
フィアは残った片側を先に切り、点検板が落ちる向きを変えた。
鉄板が空中で傾く。
僕の頭上を外れ、石壁へ角から激突した。
轟音と共に、点検板が斜めに立つ。
直後に落ちてきた雪と小石が、その裏側へ降り注いだ。
鉄板は崩壊を止めなかった。
ただ、僕が押し潰されるまでの時間を数呼吸だけ延ばした。
その数呼吸で十分だった。
紫電が鉄板を流れた瞬間、腹の奥の飢えが跳ねた。
フィアに重なっていた「喰える」という意味が、突然、別の場所へ向きを変える。
金具を焼き、点検板を走り、空気へ散っていく雷。
フィアの身体から外へ放出され、すでに切り離された有限の魔力。
喰える。
飢えが、それだけを追った。
左腕の奥にあった冷たい圧迫感が、雷の軌跡へ引かれる。
けれど僕は《暴食》を開かなかった。
雷へ手を伸ばさない。
吸収しようともしない。
紫電は一瞬で薄れ、通常どおり空気の中へ消えた。
「アルト。拘束、外して」
フィアの声で、僕は崩壊へ意識を戻した。
「分かった」
右手を装具帯へ回す。
緊急時に引けば結び目が解けるよう、僕自身で残していた縄端を掴んだ。
一度引く。
雪の重みで縄が張り、結び目が途中で止まった。
天井から拳ほどの石が落ち、斜めに立った鉄板を叩く。
「もう一度」
フィアの声は乱れなかった。
僕は右脚ではなく、動く左脚へ体重を移した。
縄へ掛かっていた力が僅かに緩む。
その瞬間に右手で縄端を引き切った。
装具帯の固定環から補助縄が抜ける。
「外れた!」
「右の側道」
フィアが左足を動かした。
僕の剣は、拘束帯の可動範囲外へ置かれている。
彼女は屈まず、鞘に収まった剣の端を靴で正確に蹴った。
僕の普通の片手剣が石床を滑り、崩壊範囲の外にある側道へ入る。
「先に行って!」
「同じ歩幅」
フィアは一人で側道へ消えなかった。
六歩以上の距離を残したまま、僕が動き出すのを待つ。
僕は補助縄の端を右手で掴み、鉄板の陰から出た。
左腕は身体の脇へ寄せる。
右脚を大きく踏み出さず、左脚を軸に進む。
一歩。
頭上から雪が落ちる。
二歩。
背後で非構造材が折れた。
三歩目で右脚の痺れが膝まで走り、足を置くのが遅れた。
「右、半歩」
フィアの声が位置を示す。
僕は壁へ肩を向け、右脚を引き寄せた。
すぐ横へ小石が落ちる。
フィアは僕を引かなかった。
僕も彼女へ手を伸ばさなかった。
彼女の声と、自分の足で側道へ入った。
フィアも僕と同じ速度で後退する。
腰を越える長い金髪を外套の背へ沿わせ、崩れた材木へ引っ掛けないよう身体の向きを変えていた。
僕たちが局所崩壊の範囲を抜けた直後、鉄製点検板の向こうへ雪と石が積もった。
点検窪みの天井が落ちる。
入口の半分が埋まり、壁に残っていた保守番号も見えなくなった。
坑道全体が崩れたわけではない。
旧換気塔へ続く枝道も残っている。
けれど、さっきまで僕たちが緊急停止に使っていた場所は、もう入れる状態ではなかった。
曲がり角の向こうにいた影は見えない。
崩落へ巻き込まれた音も、立ち去る足音も聞こえなかった。
倒したとも、退かせたとも判断できない。
「止まる」
フィアが告げた。
側道の張り出しには、王国土木局が残した固定柱があった。
豪華な避難場所ではない。
二人がすれ違える程度に幅が広く、頭上に新しい亀裂が見当たらないだけの場所だ。
絶対に安全とは言えない。
それでも、今の身体を確認する時間は作れる。
僕はフィアへ背を向けたまま、その場で停止した。
「今、飢えがフィアじゃなく、放出された雷へ向いた」
問いかけを待たずに報告する。
言葉にした直後、フィアの足音が止まった。
「雷に?」
「うん。君の身体から外へ出て、金具と点検板へ流れた方。雷が消えたら、また君へ重なって見えるようになった」
「喰った?」
「喰ってない。《暴食》は使ってない。ただ、飢えの向きが変わった」
「空腹」
「崩れた瞬間に七まで上がった。今は六と七の間。通常の空腹とは違う」
僕は左腕へ視線を落とした。
治療布は汚れているが、破れてはいない。
黒銀色の封魔具も外れていない。
二重固定の留め具を、右手だけで上から順に確認する。
「左腕は冷たい圧迫感あり。強い痛みなし。新しい脈動なし。固定は二つとも維持。紋章が広がる感覚もない」
「声」
「今はない」
「右脚」
「痺れが少し強くなった。歩ける。急ぐと踏み直しが遅れる」
僕が答え終えると、フィアも自分の状態を確認した。
固定した右腕を動かさず、左手の指を一度ずつ曲げる。
「右腕、変化なし。痺れは残ってる。固定具もずれてない」
「左手は?」
「少し重い。雷はもう一度使える。でも、大きくは無理」
「大きく使うつもりはないよね」
「ない」
即答だった。
フィアは崩壊を止めたわけではない。
最低限の雷で一点だけを変え、僕が自分で逃げる時間を作った。
右腕を悪化させず、自分まで崩壊へ入らない判断だった。
「助かった。ありがとう」
「アルトも、自分で外した」
「うん」
どちらか一人だけの功績にはしなかった。
フィアの雷がなければ、僕は点検板を避けられなかった。
僕が自分で拘束帯を外せなければ、フィアの作った時間を生かせなかった。
二人で戻るために、それぞれができる部分を担っただけだ。
僕は右手に持っていた補助縄を確かめた。
表面に新しい擦れはある。
だが、途中で切れかけてはいない。
固定柱へ通し、もう一度、装具帯の固定環へ回す。
左腕、手首、首、右脚には触れさせない。
呼吸を妨げない程度に締め、座れるだけの遊びを残した。
剣は側道から右手で拾い、鞘に収まっていることを確認する。
それから、拘束帯をいっぱいに伸ばしても届かない場所へ置いた。
「固定した」
「結び目、見える」
フィアは六歩以上離れたところにいる。
右腕の固定具はそのまま。
通常剣も鞘に収めたままだ。
停止笛は左手で取れる位置にある。
「アルト、止まって」
僕は縄の状態を確かめていた右手を止めた。
「止まった。僕はアルトだ」
「空腹」
「六と七の間」
「見え方」
「フィアだと分かる。喰える対象って意味が重なってる」
「左腕」
「圧迫感だけ。固定維持」
「声」
「なし」
停止笛は鳴らなかった。
手順が崩壊で途切れても、なくなったわけではない。
僕たちは同じ距離と同じ合図を、もう一度作り直した。
フィアは記録札を取り出した。
左手の疲労で、筆記具を持つ指が僅かに止まる。
それでも、事実だけを短く書いていく。
孤立三日目。
追跡役らしき人物から物理的な金属杭による攻撃。
点検窪みが局所崩壊。
二人とも生存。歩行可能。
フィアが最低限の雷属性魔力を放出。
《暴食》が放出雷へ反応。
第一覚醒、《暴食》、《部分換装》は未使用。
旧換気塔へ未到達。
追跡役の正体と現在位置は不明。
フィアは記録を読み返し、固定柱の見える位置へ札を残した。
救助側が見つければ、僕たちが点検窪みを離れた理由を理解できる。
追跡役にも見られるかもしれない。
それでも、嘘の道筋を残して成人側からも見失われるわけにはいかなかった。
「さっきの雷」
フィアが言った。
僕は壁から目を逸らさないまま答える。
「うん」
「私じゃなく、外へ出た方へ向いた」
「そう見えた。でも、一度だけだ。安全とは決められない」
「体内には?」
「分からない。少なくとも、僕が強く感じたのは放出された後の雷だった」
過去に安全対象として確認できたものは限られている。
身体から放出され、分離された魔力。
魔物由来の漏出魔力。
安全に切り離された呪い。
人の身体も、魂も、記憶も、能力も、体内魔力も喰っていない。
第一覚醒のときでさえ、仲間と成人防衛隊が対象を一本へ絞り、僕は外へ放出された再生魔力だけを数呼吸喰った。
今は成人監督者がいない。
対象へ印を付ける者も、分離を維持する者も、失敗した僕たちを回収する盾列もない。
「《暴食》を使って確かめるのは駄目だ」
僕は先に言った。
「分かってる」
「雷を出せば治るとも限らない」
「それも分かってる」
フィアの返答は短い。
けれど、話を終える気配はなかった。
「見るだけなら?」
「何を?」
「私と、外へ出た魔力」
僕は答えられなかった。
フィアは説明を急がず、左腕へ視線を落とした。
「さっき、雷へ向いた」
「一瞬だけだよ」
「だから、同じにしない。もっと小さくする」
「左手は疲れてる」
「糸一本なら出せる」
「君の近くに残すのは危険だ。放出した後も体内と繋がっていたら、どこまで対象に見えるか分からない」
「供給を切る」
フィアは左前腕の外側を示した。
乾いた上衣と薄い手甲に覆われている。
肌を出す様子はない。
「袖の外。出して、切る。数呼吸で消える量」
「それを僕にどうさせるの?」
「喰わせない。見るだけ」
はっきりした答えだった。
僕の飢えが、フィア本人と身体から切り離された有限の魔力を区別できるか。
確かめるのは、それだけ。
《暴食》を開かない。
吸収しない。
近づかない。
「それでも危険だ」
「今も危険」
「だからって増やす必要はない」
「減らすために見る」
フィアは一歩も近づかなかった。
信頼しているから拘束を外す、とも言わない。
僕なら絶対に大丈夫だとも言わない。
危険があると認めたまま、物理的な距離と拘束を残している。
それがなければ、僕は話を続けることさえ拒んでいた。
「確認だけで終わる?」
「終わる」
「僕が使うと言っても?」
「止める」
「返答が遅れたら?」
「笛。一度、長く」
「それでも動いたら?」
「近づかない。退く」
「魔力は?」
「先に消す」
フィアは自分が取る手順を迷わず答えた。
僕も自分の条件を続ける。
「空腹が七を越えたら中止。左腕に新しい脈動か、紋章の変化を感じても中止。ベルゼバスの声が聞こえたら、その内容を先に報告する」
「分かった」
「僕は壁を見たまま始める。君が魔力の供給を切ったと報告してから、一度だけ見る」
「一度でいい」
「見分けられなくても近づかない」
「近づけない」
フィアの視線が補助縄へ向いた。
僕は右手で結び目を確かめる。
固定柱。
装具帯の固定環。
一歩分だけの遊び。
六歩以上離れたフィアには届かない。
剣も範囲外。
停止笛も準備されている。
危険がなくなったわけではない。
それでも、感情だけで進む形にはしなかった。
「フィアは怖くないの?」
第128話でも同じことを聞いた。
そのとき彼女は、怖いと答えた。
今回も、答えは変わらなかった。
「怖い」
青い瞳が僕へ向いた気配がした。
「でも、アルトは言った」
「何を?」
「私が食べ物に見えるって」
胸の奥が痛んだ。
「ごめん」
「謝る話じゃない」
少しだけ鋭くなる。
「見えたものを隠さなかった」
フィアは左手の指を一度開いた。
「次も、見えたまま言って」
僕が彼女を人として見分けられなかったとしても。
放出魔力と身体の境界が曖昧だったとしても。
その事実を隠さず告げれば、二人で次の手順を選べる。
「分かった。全部言う」
「ならいい」
フィアは右腕を固定したまま、六歩以上先へ立った。
腰を越える長い金髪を外套の背へ沿わせる。
細い黒のカチューシャの下で、顔が僅かに動いた。
僕はまだ、その表情を見なかった。
床に刻まれた古い傷だけを見つめる。
「始める」
「うん」
左側で、ごく小さな魔力の気配が生まれた。
大きな魔法陣ではない。
フィアの左前腕、その衣服と手甲の外側へ収まるほどの小さな円。
薄い詠唱文字が一つだけ浮かび、糸ほど細い紫電が表面を走った。
雷撃として放ったものではない。
誰かを攻撃する力もない。
フィアはごく僅かな雷属性魔力を身体の外へ押し出し、袖と手甲の上へ置いた。
「供給、切った」
すぐに報告が届く。
フィアの体内から続いていた気配が断たれる。
外側に残ったのは、数呼吸で消える有限の魔力だけだった。
腹の奥の飢えが反応した。
左腕の冷たい圧迫感が、糸のような紫電へ向きを変える。
喰える。
確かに、そう感じる。
けれど《暴食》は開いていない。
僕は右手を動かさない。
拘束帯も緩めない。
「空腹、七。左腕の圧迫が強くなった。声はない」
「見え方は?」
「まだ見てない」
「魔力は残ってる。あと数呼吸」
フィアの声には、僅かな硬さがあった。
怖くないわけではない。
それでも彼女は退かなかった。
自分を差し出しているのではない。
身体の外へ切り離した魔力と、フィア本人。
二つを僕が二つとして見られるか、確かめようとしている。
僕は床を見たまま、呼吸を整えた。
一。
僕はアルトだ。
二。
ここは旧換気塔へ向かう枝道。
三。
目の前にいるのはフィア・ヴァルティエ。
四。
仲間。
五。
食べ物ではない。
六歩以上先で、細い紫電が微かに鳴った。
その向こうから、フィアの静かな声が届いた。
「アルト。私を見て」
「面白かった!」
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「今後どうなるの!!」
と思ったら
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