第126話 同じ寝床
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
追跡役を隔てた安全扉から距離を取り、僕たちは日が沈む前に、旧保守路の脇へ残された廃監視所を見つけた。
地下にいる僕たちに、空の色は見えない。
それでも、出発してからの経過と身体に溜まった疲労を考えれば、地上では夕刻へ差しかかっているはずだった。
安全扉からここまで、背後に足音は聞こえていない。
だからといって、追跡役を振り切ったとは考えなかった。
扉を開ける方法や、別の迂回路がないとは限らない。相手が一人だった保証さえなかった。
僕たちは位置札を残しながら、同じ歩幅で進み続けた。
ただ、その歩幅は第125話の初めより、さらに小さくなっていた。
裂け目から戻ったあと、僕の右脚に残る痺れは膝の下まで広がっている。歩けないほどではないが、長く進むほど爪先の感覚が鈍くなった。
フィアの右腕も、簡易固定具に支えられたままだ。
指は動く。
痺れも急激には増えていない。
けれど、補助縄を引いた左手にまで疲労が出ていた。
「右脚」
フィアが足を止めた。
「さっきより重い。でも、動く」
「痺れは?」
「広がってる。隠してないよ」
「分かった」
フィアも固定された右腕を見下ろした。
「右は同じ。左手が少し張る」
「痛みは?」
「強くない」
二人とも歩ける。
二人とも、完全な状態ではない。
だからこそ、壁へ取り付けられた古い表示板を見つけたとき、素通りしなかった。
文字の半分は錆と粉塵に覆われている。
僕は右手に持った布で表面だけを拭った。
『北側第三監視所』
その下には、王国土木局の古い標章が刻まれていた。
構造図にも、小さな四角が残っている。坑道の亀裂、支柱、通行状況を確認するための監視所だったらしい。
出口を示す記号はない。
地下へ続く特別な道もない。
「確認する?」
「うん。休める場所かもしれない」
僕たちは扉の正面を避け、左右の壁と床から先に調べた。
新しい靴跡はない。
赤黒い制御紐も、星冠印の付いた部材も見当たらなかった。
フィアが左手で扉の取っ手を押す。
動かない。
僕が右手を添え、二人で少しずつ力を加えた。
乾いた音を立て、扉が内側へ開いた。
舞い上がった埃が、手提げ灯の光を白く濁らせる。
僕たちはすぐには入らず、入口から天井と床を照らした。
室内は狭かった。
壁際に古い記録棚。
低い机。
坑道側を確認するための細い観察窓。
蓋が外れた有線通信箱。
そして、奥の壁に寄せられた寝台が一つ。
「中、右側に亀裂」
フィアが言った。
灯りを向ける。
壁の表面に細い亀裂はあるが、床や天井まで続いてはいない。新しく粉塵が落ちた跡もなかった。
僕は構造図の監視所番号と、壁の表示を照合した。
「番号は合ってる。少なくとも、別の施設じゃない」
「天井も落ちてない」
「絶対に安全とは言えないけど、見える範囲では大きな崩落の兆候はなさそうだね」
フィアが頷いた。
僕たちは室内へ入り、まず扉の裏側を確認した。
内側には太い横木が残っている。
腐食はあるが、中央まで折れてはいない。僕が右手、フィアが左手を使い、扉へ横木を掛けた。
手提げ灯は机の端へ置く。
僕の片手剣とフィアの剣、停止笛は寝台から手の届く位置へ並べた。
壊れた通信箱は外側から見るだけに留める。
有線通信線は壁の中で切れていた。工具も専門知識もない僕たちが、触って直せる状態ではない。
「外に札を残してくる」
「私も行く」
「扉から数歩だよ」
「一人では出ない」
短い言葉だった。
僕は反論せず、フィアと並んで監視所を出た。
入口横の壁へ位置札を固定する。
アルト、右脚の痺れ増加。歩行可能。
右手と膝に軽い擦り傷。
左腕の封魔具、二重固定に変化なし。
フィア、右腕固定継続。痺れは維持。
左手に軽い疲労。
保存食四食分、水筒二本。
監視所へ一時退避。
到着時刻と進行方向。
確認できた事実だけを書いた。
追跡役を振り切ったとは記さない。
救助へ来る成人隊が、ここから先の判断を誤らないように。
室内へ戻り、再び横木を掛ける。
そこで僕たちは、監視所にある唯一の寝台を改めて見た。
大人一人なら問題なく眠れる。
二人で並べば、肩が触れるどころか、少し動くだけで片方が床へ落ちそうな幅だった。
敷布は薄い。
けれど乾いている。
目立つ汚れや異臭はなく、害虫が動いた跡も見当たらなかった。
僕は寝台の板と脚へ、右手だけで少しずつ荷重を掛けた。
軋みはするが、すぐに折れそうな音ではない。
「使えそうだね」
「一人なら」
「僕は床で寝るよ」
「駄目」
返事が速かった。
「でも、一つしかない」
「見れば分かる」
フィアは冷えた石床へ灯りを向けた。
入口に近い部分には薄い霜が残っている。監視所は旧保守路より風が弱いものの、暖かいわけではなかった。
「床で冷えたら、明日歩けない」
「交代で使うのは?」
「片方が休めない」
「寝台を半分ずつ使う?」
「最初からその話」
どうやら僕だけが、遠回りしていたらしい。
フィアはそれ以上説明せず、寝台の端を左手で軽く押した。
「二人で使う」
「狭いよ」
「知ってる」
「たぶん、かなり近くなる」
「第123話の毛布より?」
「……同じくらいかもしれない」
「なら、できる」
判断が早い。
僕はまだ寝台の幅を見ていた。
フィアが青い瞳を細める。
「アルト」
「分かった。二人で使おう」
それで話は決まった。
休む前に、保存食を半食分ずつ口へ入れた。
固く、味も薄い。
それでも空腹のまま眠るより、身体を温める助けになる。
水も二本の水筒から、それぞれ少量ずつ飲んだ。
残る保存食は三食分。
水筒は二本とも空ではない。
手提げ灯も二つ。
交換用の油と芯は、まだ一組残っている。
物資を記録札へ書き直してから、僕たちは身体の状態をもう一度確認した。
左腕に強い痛みはない。
冷たい脈動もない。
黒い紋章が肩の手前から広がった感覚もなかった。
異常な空腹や、味、匂い、見え方の変化もない。
右脚の痺れは残っている。
フィアの右腕も、固定後から大きな変化はない。左手の張りはあるが、指は動いている。
「夜の途中で増えたら言う」
「うん。僕も」
一つの手提げ灯だけを弱く残し、もう一つは消した。
油を使い切るわけにはいかない。
交換用の油と芯には触れず、そのまま荷物へ戻した。
靴を脱ぎ、寝台の下へ並べる。
片手剣と停止笛は僕の右側。
フィアの剣は、彼女が左手でも柄へ届く位置へ置いた。
右腕を圧迫しないよう、フィアは寝台の右端へ横になる。
僕は左腕を外側へ向け、左端へ身体を横たえた。
負傷していない僕の右側と、フィアの左側が中央で並ぶ。
寝台が、二人分の重さを受けて長く軋んだ。
僕たちは同時に動きを止めた。
音は収まった。
「大丈夫そう」
「今は」
フィアが左手で、腰を越える長い金髪を片側へまとめた。
艶のある髪が寝台の上を静かに流れ、弱い灯りを細く返す。細い黒のカチューシャに留められた前髪の下で、澄んだ青い瞳が僕を見た。
近い。
そう思ったのは、たぶんフィアも同じだった。
二人で一枚の保温布を肩から掛ける。
端を閉じるには、互いの健康な側を寄せるしかない。
衣服越しに肩が触れた。
ほんの少し動けば、腕まで重なる。
僕は天井を見た。
フィアも天井を見た。
二人とも、まるで姿勢を直された訓練生のように真っ直ぐ横になっていた。
「アルト」
「なに?」
「端」
僕の右肩が、少しだけ彼女を押していた。
「ごめん。これ以上左へ行くと落ちる」
フィアが自分の右側を確認する。
「私も落ちる」
「じゃあ、動かない方がいいね」
「そうして」
数呼吸ほど、二人とも本当に動かなかった。
寝台は狭い。
それでも、石床よりはずっと温かい。背中から熱を奪われないだけで、右脚の強張りが僅かに緩んでいく。
一枚の保温布の下には、二人分の体温が残った。
第123話の夜と似ている。
けれど、あのときは低体温を避けることだけで精いっぱいだった。
今は、隣にいるフィアの呼吸まで分かる。
僕が顔を向けると、フィアもこちらを見ていた。
近くで見る青い瞳に、手提げ灯の火が小さく映っている。
僕は何を言えばいいか分からず、先に扉へ目を戻した。
「僕が最初に休む。途中で交代しよう」
「分かった」
フィアはまだ眠らない。
見張りのため、観察窓と扉が見える向きを保っていた。
それでも、しばらく沈黙したあと、彼女は不意に口を開いた。
「アルト」
「うん」
「どうして、あのとき私の剣を見たの」
「あのとき?」
「最初に。学院で」
どの一撃だったかは、すぐに分かった。
フィアが一人で前だけを見ていた頃。
誰より速く、誰より正確に、けれど自分が傷つくことを計算へ入れていなかった頃だ。
「どうしてって言われると……」
僕は少し考えた。
特別なことをした記憶はない。
ただ、目の前で振られた剣を見て、僕が感じたことを言っただけだ。
「フィアが選んで振った剣だったから」
フィアは黙っている。
「速かったし、強かった。でも、それだけじゃなかった。何を斬るかも、何を斬らないかも、フィアが決めてた」
「昔は、斬らないものまで見てなかった」
「それでも、フィアの剣だったよ。失敗も、選び直したことも含めて」
フィアの青い瞳が僅かに揺れた。
視線が、手の届く位置へ置かれた自分の剣へ移る。
「みんな、速さを見てた」
短い声だった。
「雷も。家の名前も」
「うん」
「勝ったか、負けたか」
フィアは左手の指を、保温布の上でゆっくり閉じた。
「アルトだけが、私の剣を見た」
寝台が狭いせいで、彼女の声はすぐ隣から届く。
「初めてだった」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
フィアは誰にも助けを求めなかった。
負傷しても進み、自分一人で完成しようとしていた。
強かったからだけではない。
周囲が見ていたのが彼女自身ではなく、速さや雷や家の名前だったのなら、一人で進むしかないと思っていたのかもしれない。
「僕は、今も見てるよ」
フィアがこちらを向いた。
顔が近くなる。
僕は距離を取ろうとしなかった。取れば、どちらかが寝台から落ちるという理由もあった。
けれど、それだけではなかった。
「第125話で剣を抜かなかったことも、助けてって言ったことも、フィアが選んだことだから。僕は、そういうところまでフィアの剣だと思ってる」
「剣を使ってないのに?」
「使わないと決めるのも、剣士の選択だよ」
フィアはしばらく僕を見ていた。
凛とした顔立ちはいつもと変わらない。
けれど、瞳の奥にある硬さだけが、少し薄くなったように見えた。
「だから、アルトには頼める」
「僕に?」
「アルトには、言える」
第125話と同じ言葉だった。
けれど、意味はもう少し深い場所まで届いていた。
僕が強いからではない。
何でもできるからでもない。
フィアが、自分の剣を見ている相手だと思ってくれたから。
「僕も、フィアには言うよ」
「助けてって?」
「うん。歩けなくなる前に。左腕に何か起きる前に」
「隠したら怒る」
「分かってる」
「ならいい」
それで会話は終わった。
フィアは長く説明しない。
けれど、その短い言葉の一つ一つが、一枚の保温布の内側へ残っていた。
僕は目を閉じた。
最初の見張りはフィアだ。
深く眠りすぎないようにしようと思っていたが、右脚と左腕の疲労は、思った以上に身体へ溜まっていた。
次に目を開けたとき、手提げ灯の油は目盛り一つ分ほど減っていた。
「アルト」
フィアが僕を呼んだ。
「交代」
「何かあった?」
「何もない。扉も同じ」
僕は身体を起こさず、観察窓と扉を確認できる向きへ顔を向けた。
横木は掛かったまま。
観察窓の向こうにも動く影はない。
静かだから安全とは限らない。
それでも、少なくとも今すぐ移動しなければならない異変はなかった。
「交代する。休んで」
「うん」
フィアが目を閉じる。
長い金髪は右側へまとめられたまま、寝台の端から僅かに垂れていた。
僕は扉と観察窓を交互に確認した。
同じ姿勢を続けると右脚が固まるため、ゆっくり爪先を動かす。
左腕に異常はない。
冷たい脈動も、空腹の変化もなかった。
時間が過ぎるにつれ、隣から聞こえるフィアの呼吸がゆっくりになる。
眠ったらしい。
僕は保温布の端が開いていることに気づき、右手で僅かに引き上げた。
そのときだった。
フィアの左手が、保温布の下で動いた。
探すように数度指を曲げ、僕の右腕へ触れる。
手ではない。
袖口だった。
フィアの指が、僕の右袖を軽く握った。
力は強くない。
眠っている呼吸も変わらない。
僕が右腕をほんの少し動かすと、袖を掴む指が僅かに強くなった。
僕は動くのをやめた。
起こせば、フィアはすぐに手を離すだろう。
袖を抜くこともできる。
けれど、そうしようとは思わなかった。
前夜、フィアは「離れないで」と言った。
今日、裂け目の上では「助けて」と言った。
そして、さっきは「アルトには、言える」と話した。
眠っている今、この手が何を意味するのかは分からない。
寒さの中で近くにあるものを掴んだだけかもしれない。
寝台から落ちないためかもしれない。
僕に、その答えは出せなかった。
ただ、フィアが掴んだ袖を、無理に振りほどきたくなかった。
僕は右腕をその位置へ残したまま、扉を見た。
一人で守っているとは思わない。
フィアも自分の不調を伝え、起きている間は僕を見張ってくれた。
今は僕が起きている番だ。
互いに足りない時間を、交代で補っているだけだった。
灯りの火は小さい。
監視所の外がどうなっているかも分からない。
それでも、同じ寝台と一枚の毛布の中にいる間だけは、僕たちが離れていないことを確かめられた。
長い夜の終わりは、空の明るさでは分からなかった。
身体が休息の区切りを告げ、手提げ灯の油がさらに減ったことで、朝と呼べる時間が来たのだと判断した。
フィアの呼吸が変わる。
青い瞳が、ゆっくり開いた。
最初に扉を見る。
次に、固定された右腕を見る。
そして、自分の左手が僕の右袖を握っていることへ気づいた。
フィアの動きが止まった。
ほんの一呼吸だけ。
僕が何か言う前に、フィアは静かに指を開いた。
袖から手を離し、天井を見たまま言う。
「覚えてない」
「まだ何も聞いてないよ」
「ならいい」
「そっか」
それ以上は追及しなかった。
フィアは身体を起こし、右腕の固定具を確認する。
動作は普段どおりだった。
ただ、僕と目を合わせるまでに、いつもより一呼吸だけ長くかかった。
「右腕は?」
「痺れは残ってる。増えてない」
「左手は?」
「昨日より軽い」
僕も右脚を曲げ伸ばしする。
一夜休んだことで、痺れは裂け目から戻った直後より僅かに軽くなっていた。それでも完全には消えていない。
左腕と封魔具、二重固定にも変化はなかった。
僕たちは寝台を降り、靴を履いた。
一枚の保温布を畳み、持ち出し記録へ監視所で使用したことを追記する。
保存食は三食分。
水筒は二本。
手提げ灯は二つ。
交換用の油と芯は一組。
武器、停止笛、位置札、治療用品も揃っている。
寝台の敷布を元へ戻し、監視所内へ身体状態と出発予定方向を記した札を残した。
フィアは普段と変わらない顔で、左手に手提げ灯を持つ。
僕も構造図を右手へ持った。
それでも、右袖には小さなしわが残っている。
眠ったフィアの指が、夜の間ずっと掴んでいた跡だった。
フィアは『覚えてない』と言ったけれど、僕の袖に残った小さなしわまで、なかったことにはできなかった。
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