第125話 助けてと言える剣
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
地下へ続く足跡を背に、僕たちが選んだのは、教団を追う道ではなく、構造図に残る水平の保守路だった。
星冠印の付いた術式部材には触れていない。
位置と形を記録し、番号を振った位置札を離れた壁へ残しただけだ。
何者かが重い部材を地下へ運んだ可能性は高い。けれど、その何者かが今もいるのか、地下に何があるのかは分からない。
分からない場所へ、負傷した二人で踏み込む理由はなかった。
「地上へ通じてる保証はない」
フィアが構造図を見ながら言った。
「うん。でも、下り続ける道よりは目的に合ってる」
僕たちの目的は星冠教団を追い詰めることではない。
生きて戻り、見つけたものを成人隊へ報告することだ。
僕は水平保守路へ向けた矢印と、地下への痕跡を追わなかった理由を記録札へ書き込んだ。それを壁へ固定し、右手で二度引いて剥がれないことを確かめる。
左腕の治療布と黒銀色の封魔具は、その間も外套の内側に収めたままだ。
二重固定に緩みはない。
右脚の痺れも残っているが、小さな歩幅なら進める。
「脚は?」
「昨日より少し重い。でも、歩幅を守れば歩ける。増えたら止まって言う」
「分かった」
フィアも右腕へ目を落とした。
簡易固定具は朝に巻いた位置を保っている。剣を握る右腕は外套の内側で動かさず、手提げ灯は左手に持っていた。
「右は?」
「痺れは同じ。指も動く。剣は使わない」
「分かった」
互いに同じ言葉を返してから、僕たちは水平保守路へ入った。
前日より遅い。
それでも、遅いことを気にする必要はなかった。
速い方が先へ行くのではなく、二人で維持できる速度を選ぶ。僕の右脚が遅れればフィアが歩幅を縮め、フィアが左手で灯りの位置を変えるときは僕が足を止める。
角を一つ曲がるたび、僕は位置札を残した。
救助へ来るはずのローディンたちが、僕たちの移動を追えるように。
成人隊が何をしているのかは分からない。
けれど、雪と岩と支柱材が混ざった崩落を掘り進むには時間がかかる。その間を生き延びることが、今の僕たちにできる仕事だった。
水平保守路には、古い泥と薄い霜が交互に残っていた。
壁際には使われなくなった有線通信線が垂れ、何度か断線している。構造図に記載された中継箱もあったが、蓋が歪み、内部を確認できる状態ではない。
不用意には触れない。
僕たちは外側だけを記録して通り過ぎた。
その次の曲がり角で、フィアが左手を上げた。
僕も足を止める。
聞こえたのは、僕たちの呼吸と、手提げ灯の小さな燃焼音だけだった。
そう思った直後。
こつ。
遠くで、硬い靴底が石を踏んだ。
少し間が空く。
また、こつ、と鳴る。
急いでいる足音ではない。
一歩進むたびに立ち止まり、床を確かめているような、不自然な規則正しさだった。
僕とフィアは顔を見合わせた。
救助隊なら、僕たちの名を呼ぶはずだ。停止笛か信号綱を使い、所属を知らせる。
けれど、声はない。
笛もない。
足音だけが、一つずつ近づいてくる。
フィアは手提げ灯の芯を絞った。
光が小さくなり、彼女の顔へ濃い影が落ちる。細い黒のカチューシャに留められた長い金髪が、外套の内側から僅かにこぼれ、弱い灯りを受けて一本ずつ淡く光った。
青い瞳は、すでに曲がり角の先を見ていた。
「札を見てる」
囁くような声だった。
耳を澄ます。
靴音の合間に、紙が擦れるような音がした。
僕たちが残した位置札だ。
「消す?」
「消さない」
フィアは即答した。
僕も頷く。
位置札を消せば、追跡役を迷わせられるかもしれない。同時に、僕たちを捜す成人隊まで迷わせる。
誰かに追われている可能性だけで、帰還のための道標を捨てるべきではなかった。
僕たちは曲がり角の陰へ身を寄せた。
左腕を石壁へ押しつけないよう、僕が外側に立つ。フィアは右腕を庇いながら身を低くし、左手の灯りを外套の陰へ隠した。
足音が、また一つ近づく。
曲がり角の向こうへ細い影が伸びた。
僕は壁際から、ほんの僅かに顔を出した。
灰色の防寒衣。
成人ほどの背丈。
顔は布に覆われ、性別も年齢も分からない。片膝をつき、僕たちが残した位置札と床の靴跡を交互に見ている。
腰の装具から、赤黒い紐が垂れていた。
立ち上がった拍子に、胸元の留め具が手提げ灯の残光を返す。
円の上へ伸びる、尖った印。
完全には見えなかった。それでも、学院侵攻後に共有された星冠印の記録と輪郭が似ている。
僕は曲がり角の内側へ戻った。
「一人に見える。灰色の防寒衣。星冠印に似た留め具と、赤黒い紐」
「武器は?」
「外からは分からない。後ろに誰かいるかも分からない」
フィアは鞘へ収めたままの剣を見なかった。
以前の彼女なら、相手との距離と最短の斬線を先に測っていたかもしれない。
今は構造図へ視線を落とした。
「戦わない。避ける」
「うん」
迷う理由はなかった。
相手が一人でも、僕たちより弱い保証はない。
仮に勝てたとして、そのあと右腕と右脚が動かなければ帰れない。
勝敗より、生還を優先する。
それは逃げではなく、僕たちが任された救助任務の続きを守る判断だった。
僕は構造図を開いた。
水平保守路の先には、もう一つの交差点がある。その手前から、細い破線が北へ分かれていた。
「点検路がある。裂け目沿いを通って、次の保守区画へ出るみたいだ」
「幅は?」
「二人並ぶのは無理。安全環の印は残ってる」
足音が近づく。
距離は分からない。
ただ、位置札を確認する間隔が少しずつ短くなっていた。
「行く」
フィアが先に動いた。
走らない。
僕も同じ歩幅で続いた。
点検路の入口は、腰ほどの高さまで氷に覆われた石枠の向こうにあった。
古い表示板へ「北側亀裂・点検用」と刻まれている。地上への出口を示す言葉はない。
入口から先を照らす。
人一人がようやく通れる石の縁が、黒い裂け目に沿って延びていた。片側は岩壁。反対側には青白い氷の層が落ち込み、その先は灯りが届かない。
壁には一定間隔で鉄の安全環が打ち込まれている。
新しくはない。
けれど、見える範囲で完全に抜けているものはなかった。
「縄を使おう」
僕は短い補助縄を取り出した。
表面に切れや深い摩耗がないことを右手で確かめる。フィアも左手で縄をなぞり、結び目の位置を見た。
僕の装具とフィアの装具へ両端を固定する。
間の縄を一つ目の安全環へ通した。
「きつくない?」
「平気。そっちは?」
「左腕には触れてない」
フィアが先に点検路へ入った。
左手の灯りを低く掲げ、氷ではなく石の露出した場所へ足を置く。一歩ごとに靴底で軽く荷重をかけ、目視できる範囲だけを確かめる。
僕は縄の長さを保ち、彼女が踏んだ場所を追った。
裂け目の底から、冷たい空気が吹き上がってくる。
水が動く音は聞こえない。
代わりに、どこか深い場所で氷同士が擦れる、細い軋みが続いていた。
二つ目の安全環へ縄を通す。
三つ目へ進む。
背後の水平保守路から、微かな靴音が響いた。
追跡役が点検路の分岐まで来たのかは分からない。
僕たちは速度を上げなかった。
ここで焦って足を滑らせれば、追われるより先に終わる。
フィアが細い石縁を渡り切った。
「次、右寄り」
「分かった」
彼女が踏んだ場所へ右足を置く。
石は動かない。
体重を移す。
その瞬間、氷の下から乾いた音がした。
ぱき、と小さく。
次に、石の内側を引き裂くような鈍い音が重なった。
「アルト!」
右足の下が消えた。
氷の下に隠れていた石縁が、砕けて裂け目へ落ちていく。
右脚を戻そうとした。
けれど、痺れた足は思ったより一拍遅れた。
身体が外側へ傾く。
僕は左腕を胸元へ引きつけ、右手だけを伸ばした。
指先が石の縁を掠める。
掴めない。
腰の装具が強く引かれ、補助縄が張った。
身体が裂け目の途中で止まる。
右手で縄を掴んだ。
左脚の靴底が氷壁へぶつかり、膝が石へ擦れる。手提げ灯は装具の留め具に固定したまま、大きく揺れていた。
下へ光が振れる。
底は見えない。
青白い氷と濡れた石だけが、狭い空間の奥へ続いている。
「アルト。返事」
フィアの声が落ちてきた。
「意識はある。右手で縄を持ってる。左腕は使ってない」
「脚」
「左は壁に当てられる。右は動くけど、痺れが強い」
補助縄の先で、フィアが床へ伏せる気配がした。
縄が僅かに持ち上がる。
けれど、すぐに止まった。
僕の身体を一人で引き上げようとすれば、彼女は固定された右腕まで使わなければならない。
右腕を使わず、左手だけで無理に引けば、彼女自身がこちらへ引かれる。
以前のフィアなら、それでも力を込めていたかもしれない。
自分が傷ついても、一人で終わらせるために。
今のフィアは違った。
縄の張り。
安全環の位置。
僕の左脚。
自分の右腕。
それらを一度に確認し、すぐに言った。
「アルト。私一人じゃ上げられない」
言葉は揺れていなかった。
それでも、その次の二文字は、冷たい裂け目の中へ真っ直ぐ届いた。
「助けて」
その言葉を聞くのは、初めてではない。
けれど今回は、追い詰められた末に任せる言葉ではなかった。
自分一人では足りないと認めた上で、僕と二人なら戻れると選んだ声だった。
「分かった。何をすればいい?」
「左足を壁へ。右手は縄。私が引くときに押して」
「右脚は?」
「使わなくていい」
短い指示だった。
僕は左脚を動かした。
靴底が滑る。
もう一度、氷の薄い場所を避け、露出した石の窪みへ爪先を押し込む。
「入った」
「縄を環へ掛け直す」
フィアが左手で縄を動かした。
金属と繊維が擦れる音。
安全環を支点にしたことで、縄の向きが変わる。彼女は右腕を身体の外側へ置いたまま、左手と両脚で引ける位置まで下がった。
「右は使ってない?」
「使ってない」
「固定具は?」
「ずれてない。いく」
フィアが息を吸う。
「一、二、三」
三で、僕は左脚を伸ばした。
同時に縄が引かれる。
身体が少しだけ上がった。
けれど、右手を置ける場所には届かない。
左脚が滑り、元の位置より僅かに高いところで止まる。
「一回目。上がった」
「うん。左脚はまだ使える」
「休む?」
「今は大丈夫」
背後のどこかで、靴音がした。
点検路へ入ったのか、それとも分岐を調べているだけなのかは分からない。
フィアはそちらを見なかった。
「もう一度」
僕は左足の位置を変えた。
今度は縦に走る石の割れ目へ靴先を差し込む。右手で縄を短く持ち直す。
「準備できた」
「一、二、三」
左脚で押す。
縄が張る。
右肩が石縁へ近づき、右肘が縁へ触れた。
けれど、体重を預ける前に表面の氷が砕けた。
右肘が滑る。
僕は縄を離さず、左脚へ力を戻した。
落ちた距離は僅かだった。
「肘は届いた」
「見えた。次で戻す」
フィアの声が近い。
苦しそうではない。
けれど、左手だけで縄を支えている指へ負担が集まっているはずだ。
「フィア、右腕は?」
「変わらない。左も動く」
「無理なら言って」
「言う。アルトも」
「うん」
僕たちは一度、同時に息を吐いた。
次で届かなければ、別の足場を探す。
焦らない。
追跡役が近づいていても、回数を急いで二人とも落ちれば終わる。
僕は右肘を上げられる角度まで縄を持ち直した。
左脚をさっきより高い石へ当てる。
「いける」
「一、二、三」
押す。
引かれる。
右肘が石縁へ乗った。
そのまま右の前腕を横へ滑らせ、身体を支える。左脚でもう一度だけ壁を蹴った。
フィアは立ち上がらず、低い姿勢のまま身体を後ろへ移した。
縄が安全環を擦り、僕の肩が縁を越える。
右膝を点検路へ乗せた。
次の瞬間、僕は石床へ転がり込んだ。
フィアはすぐに縄を緩めた。
僕たちは細い点検路の上で、互いに触れない程度の距離を空けて息を整えた。
裂け目へ落ちた石が底へ着く音は聞こえなかった。
「アルト」
フィアが左手を僕の右肩へ置いた。
青い瞳が、顔から左腕、右脚へ順に動く。
「左腕は?」
「強い痛みなし。冷たい脈動もない。封魔具と二重固定も外から見える範囲では変わってない」
フィアは僕の許可を待つように一度止まった。
僕が頷くと、固定具の外側だけを目視する。
治療布に新しい汚れはない。
黒い紋章が広がった感覚もなかった。
「空腹。見え方。匂い」
「変化なし。右脚はさっきより痺れてる。でも、爪先は動く」
右足をゆっくり曲げる。
痺れは膝の下へ残っているが、感覚が消えたわけではない。
「手」
右手のひらが少し裂け、血が滲んでいた。
膝にも擦れた痛みがある。
骨へ響くような痛みではない。
僕は清潔な布を取り出し、右手で傷を押さえた。フィアが左手で布の端を支え、僕が自分で巻く。
「フィアの右腕は?」
「痺れは同じ。固定具もずれてない。引いてない」
「左手は?」
「少し痛い。動く」
無理に大丈夫だとは言わない。
互いに分かる範囲を、そのまま伝える。
それが今の僕たちの強さだった。
こつ。
足音が響いた。
さっきより近い。
僕たちは同時に顔を上げた。
「動ける?」
「歩幅を小さくすれば。フィアは?」
「行ける」
補助縄を安全環から外す。
表面を右手で確かめると、擦れた跡はあるが、切れかけた箇所はない。僕たちは再び装具へ固定し、点検路の先へ進んだ。
フィアが先。
僕が同じ足場を追う。
今度は一歩ごとに、石縁だけでなく安全環の位置も確かめる。
背後の足音は止まった。
追跡役が崩れた石縁を見つけたのかもしれない。
引き返したのかもしれない。
別の道を探しているのかもしれない。
どれも推測にすぎなかった。
点検路の終わりには、厚い木材へ鉄板を重ねた安全扉があった。
壁の表示には、火災や崩落時に危険区画を閉じるための扉だと刻まれている。
鍵はない。
代わりに、内側から掛ける太い物理留め具が残っていた。
「閉める」
フィアが左手を取っ手へ掛けた。
僕も右手を隣へ置く。
下の溝には薄い氷が張っている。
僕たちは一度に引かず、足元を確かめながら少しずつ扉を動かした。
「せーのは?」
「いらない。ゆっくり」
「分かった」
扉が石の溝を擦る。
低い音を立てながら、点検路を塞いでいく。
最後の隙間が閉じた。
僕が右手で留め具を持ち上げ、フィアが左手で位置を合わせる。
二人で横木を落とした。
鈍い音が、狭い通路へ響いた。
これで追跡役を倒したわけではない。
扉を開ける方法が反対側にないとも限らない。
別の迂回路がある可能性も残る。
それでも、時間は作れる。
僕たちは安全扉から二つ先の曲がり角まで進み、壁の点検窪みへ入った。
僕は新しい位置札を取り出した。
星冠教団側の可能性がある人物を一名目視。
正体、性別、能力は不明。
正面戦闘を避け、氷裂け目沿い点検路へ移動。
アルト、軽い擦り傷と右脚の痺れ増加。歩行可能。
フィア、右腕固定維持。痺れ変化なし。
安全扉を閉鎖。追跡を遅延した可能性あり。
現在の進行方向。
時刻。
確認できた事実だけを書いた。
追跡役を振り切ったとは書かない。
僕は位置札を壁へ固定した。
「フィア」
「何?」
「さっき、言ってくれてありがとう」
フィアが僅かに眉を寄せた。
「何を」
「助けてって」
青い瞳が僕を真っ直ぐ見た。
「フィアが一人で引こうとしてたら、右腕を悪くしてたかもしれない。フィアまで落ちてた可能性もある」
「分かってた」
「うん。だから、言ってくれてよかった」
フィアはすぐには答えなかった。
左手を僕の右肩から離し、自分の固定された右腕へ一度だけ目を落とす。
以前なら、その腕が動かなくても、動くと言い張ったかもしれない。
自分一人で終わらせることだけが、剣の強さだと思っていたかもしれない。
けれど今は、できないことを隠さない。
足りない力を、僕へ求める。
「一人では戻れない。だから言った」
短い言葉だった。
それだけで十分だったはずなのに、フィアは僕を見たまま、もう一言だけ続けた。
「アルトには、言える」
胸の奥が、僅かに熱くなった。
石炉の火も、一枚の毛布も、ここにはない。
それでも、その声は冷たい点検窪みの中で、不思議なくらい近くに残った。
僕はその意味を、恋だとは思わなかった。
ただ、フィアが剣を握る右腕だけではなく、自分一人では足りないという事実まで、僕に預けてくれたのだと思った。
「僕も言うよ」
「何を?」
「歩けなくなる前に。左腕に何か起きる前に。フィアへ助けてって」
フィアは一度だけ頷いた。
「なら、戻れる」
必ずとは言わなかった。
出口も見えていない。
安全扉の向こうにいる追跡役が、どこまで迫っているのかも分からない。
それでも僕たちは立ち上がった。
フィアは左手で灯りを持つ。
僕は右手で構造図を開く。
負傷した腕を隠さず、痺れる脚を誤魔化さず、互いに足りないものを伝えたまま、次の道を選ぶ。
フィアの剣はもう、一人で斬り抜けるためだけの剣ではなく、僕と生きて戻るために『助けて』と言える剣になっていた。
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