第123話 ひとつの毛布
石の炉へ小さな火が根づいても、保守室の床から這い上がる冷気までは消えてくれなかった。
掌より少し大きな炎が、乾いた木片の端をゆっくり舐めている。
火の近くへ差し出した右手は温かい。
けれど背中には石壁の冷たさが残り、靴底から上がってくる寒気も消えなかった。
燃料箱に残る廃木片は多くない。
湿った着火材を乾かして使い直せても、この部屋を丸ごと暖められる量ではなかった。
僕の右脚の痺れは、歩いていた時より僅かに軽い。それでも、足先を動かすと感覚が一拍遅れて返ってくる。
フィアも石炉へ右手を向け、指を一本ずつ曲げていた。
「強張りは?」
「少し減った。でも、残ってる」
「痛みは?」
「強くない。アルトは?」
「右脚の痺れは残ってる。左腕には変化なし。封魔具も二重固定も、そのまま」
治療布の上から、黒銀色の封魔具の位置を確かめる。
ずれはない。
冷たい脈動も、異常な空腹もない。
それは安心できる報告だった。
けれど、安心しただけで身体が温まるわけではない。
雪解け水を吸った防寒外套は、火の近くでも重かった。上衣の外側にも湿気が残り、動かずにいると冷たさが内側へ染みてくる。
「濡れたまま休むのは危ないね」
僕が言うと、フィアは自分の外套の裾を指で挟んだ。
「まだ冷たい」
「乾かした方がいい。でも、その間に着る物がない」
替えの治療布はある。
清潔な布もある。
けれど、予備の衣服や寝具は持っていない。
僕たちは王都外の正式任務へ来たのであって、何日も雪の下で過ごす野営へ来たわけではなかった。
手提げ灯を持ち上げ、保守室の壁をもう一度照らす。
出口は増えていない。
寝台もない。
食料棚もない。
あるのは石炉、低い石台、通気口、古い燃料箱だけだと思っていた。
その時、フィアが壁際でしゃがんだ。
「アルト。ここ」
指し示された石台の下に、煤で見えにくくなった文字が刻まれていた。
僕は構造図を右手で開き、保守室の番号と照合する。
文字の一部は削れていたが、緊急退避用の物資を示す印だけは読み取れた。
「収納があるみたいだ」
石台の側面を探ると、錆びた物理的な留め具が見つかった。
秘密の仕掛けではない。
作業員ならすぐ分かる位置にある、普通の保守収納だった。ただ長く使われず、煤と霜で境目が隠れていたらしい。
僕が右手で留め具を引く。
一度では動かない。
無理に引けば壊れそうだったので、フィアが清潔な布で周囲の霜を拭った。
「もう一度」
「うん」
今度は乾いた音とともに留め具が外れた。
石台の下から、浅い収納が開く。
中に食料はなかった。
予備の灯りも、薪もない。
残されていたのは、防湿用の包みに入った一つの布だけだった。
包みの表には、王国土木局の古い管理番号と、保温用であることを示す文字が残っている。
「毛布?」
フィアが尋ねた。
「保温布みたいだね。緊急時に作業員が使う物だと思う」
包みを石台へ置き、外側から状態を確かめる。
破れてはいない。
異臭もない。
小さな害虫が入り込んだ痕跡も見当たらなかった。
包みの留め紐を解くと、厚く織られた灰色の布が現れた。
魔法道具ではない。
触れただけで温まるような物でもない。
それでも、防湿包みに守られていた内側は乾いていた。
火のそばで広げてみる。
大人一人なら、肩から足元まで包めそうな大きさだった。
僕たち二人でも使えなくはない。
ただし、並んで普通に座れば、左右の端が大きく開く。
「一枚だけだね」
フィアが収納の奥まで確認する。
「他にはない」
「交代で使おうか。先にフィアが温まって、その間に僕が衣服を乾かす。それから――」
「駄目」
短い声で止められた。
「交代してる間、片方が冷える」
「でも、二人だと端が閉じないよ」
「寄れば閉じる」
迷いのない答えだった。
僕は広げた保温布を見た。
確かに、肩が触れるほど近づけば、二人を包めるかもしれない。
「二つに切るのは?」
「もっと駄目。肩から足まで覆えなくなる」
フィアは切断対象を確認する時と同じ真剣さで、布の長さを目測した。
「一枚で使う」
「……分かった」
言葉にすると簡単だった。
けれど、その前に濡れた物を外さなければならない。
僕は石炉の近くへ短い補助縄を張った。
通気口を塞がず、火の粉も届かない位置を選ぶ。壁に残っていた物理的な装具掛けへ、右手だけで端を結んだ。
左腕には力を入れない。
フィアも縄の張りを確かめると、自分の荷物を石台の端へ寄せた。
「先に向こうを向く」
「うん。終わったら言って」
僕はフィアへ背を向けた。
濡れた防寒外套を脱ぎ、その下の上衣も湿った外側だけを外す。
乾いた長袖の内衣と下衣は残した。
黒銀色の封魔具と二重固定には触れない。
治療布も、そのままだ。
左腕を上げすぎないよう、右手で衣服を補助縄へ掛ける。
「終わったよ」
「こっちも」
振り返ると、フィアの外套と上衣も補助縄へ掛けられていた。
火へ近すぎない。
通気口も塞いでいない。
金の髪の先には僅かな湿り気が残っていたが、フィアは気にするより先に石炉の燃料を確認した。
「火、弱くなってる」
「細いのを一本だけ足そう」
フィアが炉の外縁で乾かしていた木片を選ぶ。
第122話で教えた通り、炎を塞がない角度で置いた。
火は一度揺れ、それから木片の下へ回り込んだ。
もう、太い物を急いで載せたりはしない。
一度教わったことを、フィアは忘れなかった。
濡れた外層を外したことで、身体へまとわりついていた冷たさは少し減った。
その代わり、保守室の空気が今まで以上に鋭く感じられる。
フィアの肩が小さく震えた。
僕の腕にも、寒気が走る。
「早く使おう」
「うん」
石炉の正面にある低い石台へ、荷物を傷めないよう並べる。冷えた石へ直接、長く身体を預けないための僅かな間だった。
片手剣とフィアの剣は、どちらも右手または左手を伸ばせば届く位置へ置く。
手提げ灯は二つとも壊れていない。
交換用の油と芯も一組。
水筒は二本。
保存食は五食分のまま。
停止笛と位置札もある。
何も増えてはいない。
保温布一枚を見つけただけだ。
それでも、今夜を越える可能性は少し増えた。
僕が石台の左側へ座ろうとすると、フィアが位置を変えた。
「アルトは左」
「どうして?」
「左腕を外へ置ける」
そう言って、フィアは僕の右側を示す。
彼女がそこへ座れば、フィアの治療中の右腕も反対側の外へ置ける。
僕の健康な右側と、フィアの左側が合わさる形になる。
「なるほど」
「負傷した側を挟まない」
「それがいいね」
フィアが先に石台へ腰を下ろす。
僕も左腕へ圧力が掛からないことを確かめながら、その隣へ座った。
最初は、肩一つ分の隙間を残していた。
保温布を二人の肩へ掛ける。
僕が右手で自分の側を引き、フィアが左手で反対側を閉じた。
けれど、中央から冷たい空気が入り込んできた。
左右の端も届かない。
「やっぱり、少し狭いね」
「少しじゃない」
フィアが言った。
次の瞬間、彼女の身体がこちらへ寄る。
僕の右肩へ、フィアの左肩が触れた。
薄い内衣越しに、冷えていたはずの体温が伝わってくる。
フィアはさらに僅かに距離を詰めた。
肩だけではない。
腕と背中の端も触れ、二人の間にあった隙間が消える。
保温布の左右が、ようやく閉じた。
「これなら入らない」
「冷気が?」
「そう」
フィアの答えは、いつも通り短い。
僕は保温布の端を右手で押さえた。
露出していた手首が、フィアの左手首へ一度触れる。
互いに少しだけ動き、それぞれ布の端を持ち直した。
それだけの接触だった。
それなのに、心臓の音が急に近くなったように感じた。
雪崩の音を聞いた時とは違う。
ベルゼバスへ問いを投げた時とも違う。
恐怖ではない。
けれど、何と呼べばいいのかは分からなかった。
ただ、近い。
フィアの呼吸も、身体の僅かな震えも、保温布を通して分かるほど近かった。
「アルト」
「なに?」
「震えてる」
「フィアもだよ」
「知ってる」
少し鋭い返事だった。
でも離れようとはしなかった。
僕も離れなかった。
石炉の火は小さい。
それでも、保温布の中へ閉じ込められた熱は、さっきまでより逃げにくくなっていた。
僕の右側から伝わる体温と、僕から返っていく体温。
どちらが多いかを比べる意味はない。
一人分では足りないから、二人分を重ねている。
それだけだった。
少なくとも、最初はそう考えていた。
しばらくすると、指先の震えが少し弱まった。
右脚へ残る痺れも、鋭い冷たさから鈍い違和感へ変わっていく。
完全には消えていない。
歩き出せば、また強くなる可能性もある。
フィアは保温布の中で右手をゆっくり開閉した。
「指は?」
「さっきより動く。でも、まだ硬い」
「痛みは増えてない?」
「増えてない。アルトの脚は?」
「少し軽い。でも残ってる」
互いに良く見せる必要はなかった。
この部屋には、僕たち二人しかいない。
異変を小さく言えば、困るのも二人だった。
フィアの左肩から伝わる震えが、少しずつ間遠になる。
僕も肩へ入っていた力を抜いた。
その時、炉の中で木片が小さく崩れた。
炎が低くなる。
「燃料を足さないと」
手の届く位置には、細い廃木片を数本置いてある。
けれど、少しだけ前へ身を出す必要があった。
僕は保温布の端をフィアへ渡し、立ち上がらずに身体をずらそうとした。
その途端、フィアの左手が僕の右袖を掴んだ。
強く引かれたわけではない。
それでも、僕の動きは止まった。
「離れないで」
声は小さかった。
命令のように鋭くもない。
助けを求めて叫ぶ声でもない。
ただ、僕に届く距離で、フィアがそう言った。
石炉へ木片を足す必要があることは、彼女も分かっている。
燃料は手を伸ばせば届く。
少しくらい身体を離しても、すぐ戻れる。
それでもフィアの指は、僕の袖を掴んでいた。
「……うん。離れない」
僕は身体を元の位置へ戻した。
フィアの肩が、また僕の肩へ触れる。
保温布の隙間が閉じた。
僕は右腕だけを炉の方へ伸ばした。
フィアが左手で布の端を持ち、冷気が入り込まないよう支える。
僕の指が一番細い木片を掴んだ。
そのまま炎を潰さない位置へ置く。
火が木片へ移るまで待ち、腕を保温布の中へ戻した。
一度も離れずに済んだ。
フィアは僕の袖から手を離した。
けれど、その手は遠くへ戻らず、僕の右腕の近くで毛布の端を握った。
なぜ離れないでほしかったのか。
寒いから。
体温を逃がさないため。
一枚しかない保温布を正しく使うため。
どれも間違いではない。
だから、僕はそれ以上尋ねなかった。
尋ねれば、フィアも答えを探さなければならなくなる気がした。
いま必要なのは、名前の付いた答えではない。
身体を温め、火を守り、二人で帰ることだ。
石炉の炎が再び少し高くなる。
補助縄へ掛けた外套から、細い湯気が上がっていた。
まだ乾いてはいない。
燃料も、いつまで保つか分からない。
保守室の外には、出口の保証がない旧保守路が続いている。
雪崩の反対側で、ローディンたちがどこまで作業を進めているのかも分からなかった。
救助を諦めたとは思わない。
切れた通信線と崩落を越えるには、時間が必要なのだ。
その時間より先に、僕たちが動けなくならないようにする。
それが今夜の役割だった。
「見張りを交代しよう」
僕が言う。
「一刻ずつ。片方が火と通気口を見る。休む方も、毛布からは出ない」
「分かった。私が先に見る」
「右腕が冷えてたから、フィアが先に休んだ方がいいよ」
「アルトは右脚が痺れてる」
「それだと決まらないね」
フィアが僅かに目を細めた。
「半刻」
「え?」
「半刻で交代。短くする」
「それなら公平かな」
「公平」
フィアはそう決めると、石炉へ視線を戻した。
自分が先に見張るとも、僕を先に眠らせるとも言わない。
二人とも身体の状態を確かめながら、短く交代する。
一方だけが無理をしないための決め方だった。
僕が最初に目を閉じることになった。
眠り込むつもりはない。
呼吸を整え、右脚と左腕を休ませるだけだ。
「異常があったら、すぐ起こして」
「起こす」
「フィアの右腕に痛みが出ても」
「言う」
「火が弱くなっても」
「言う。分かってる」
説明を重ねすぎたらしい。
僕は小さく笑って、石壁へ頭を預けようとした。
けれど冷たさが伝わってきたので、すぐにやめる。
その動きを見たフィアが、僅かに姿勢を変えた。
彼女の左肩が、さっきより近い位置へ来る。
「こっち」
「いいの?」
「壁より冷たくない」
もっともな理由だった。
僕は左腕を圧迫しないよう注意しながら、右側へほんの少し重みを預けた。
フィアも押し返さない。
二人の肩が支え合う位置で止まる。
保温布の中へ溜まった温かさが、首元から逃げないよう端を直した。
「重くない?」
「重くない」
「右腕は?」
「外側。触れてない」
確認する声も、すぐそばから聞こえた。
僕は目を閉じる。
暗闇になっても、フィアがいることは分かった。
肩から伝わる体温。
僅かに動く呼吸。
石炉で木片が弾ける音。
一人ではないと確認できるものが、全部近くにあった。
少し前までのフィアなら、寒さも痛みも一人で耐えようとしたかもしれない。
助けを求めるより、自分だけで先へ進むことを選んだかもしれない。
そのフィアが、火の起こし方を僕へ尋ねた。
一枚の保温布を二人で使うと決めた。
そして、僕の袖を掴んだ。
何かが変わっている。
それが信頼の続きなのか、もっと別のものなのか、僕にはまだ分からない。
分からないままでも、離れる理由にはならなかった。
「アルト」
「起きてるよ」
「ならいい」
フィアの声から、僅かな硬さが消える。
僕は目を閉じたまま答えた。
「フィアも、何かあったらすぐ言って」
「言う」
炉火の熱と、隣から伝わる体温。
どちらも強くはない。
けれど、二つを重ねれば震えを弱めることはできた。
僕たちは完全ではない。
出口も見つけていない。
通信も戻っていない。
明日まで火が保つ保証もない。
それでも今は、互いの気配を失わずにいられる。
フィアの肩へ預けていた重みが、いつの間にか同じだけ返ってきていた。
僕は動かなかった。
フィアも離れなかった。
一枚の毛布の下で、フィアの『離れないで』という言葉だけが、小さな炉火より長く僕の胸に残った。
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