第122話 剣士は火を起こせない
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
旧保守路の奥で見つけたものは、出口ではなく、火の消えた小さな保守室だった。
第四点検区画北側を離れてから、まだそれほど歩いてはいない。
僕たちは狭い旧北側保守路を一列で進み、曲がり角を二つ越えた。
先頭のフィアは、僕の右脚が維持できる歩幅に合わせている。もっと速く進めるはずなのに、背中が遠ざかることはなかった。
僕は右手の手提げ灯で壁を照らし、二つ目の角へ新しい位置札を固定した。
現在地。
通過時刻。
身体状態。
進行方向。
追ってくるはずのローディンたちが迷わないよう、消せない形で記録を残す。
右脚の痺れは、弱いまま続いていた。
歩けなくなるほどではない。けれど、足の裏へ薄い布を一枚挟んだように、踏み込んだ感覚が少し遅れる。
フィアも完全ではない。
右腕は動くものの、冷えた指先を何度か開閉していた。赤い制御紐を切った時の反動は規定内でも、雪崩の冷気は別の負荷として残っている。
そんな僕たちの前に現れたのが、半分開いた石扉だった。
フィアが足を止める。
「奥に空間がある」
「風は?」
「弱い。さっきの通路より冷気も少ない」
確定できる範囲だけを言って、フィアは扉の隙間から手提げ灯を差し入れた。
人影はない。
物音もない。
僕たちは扉を少しずつ押し、外から見える床と天井を確かめた。
室内は、四人も入れば窮屈に感じるほど狭かった。
壁も床も石造りで、奥には黒い煤の残る小さな炉がある。その横には低い石台と、蓋の歪んだ燃料箱。天井近くの壁には、掌二つ分ほどの通気口が設けられていた。
寝台はない。
食料棚もない。
通信設備も、地上へ続く階段もない。
かつて王国土木局の作業員が、休憩や装具の整備に使った場所らしい。
僕は構造図を開き、入口脇の保守番号と照らし合わせた。
「ここだと思う。旧保守路の途中にある保守室。ただ、構造図にも部屋の印しかない。出口へ繋がっているわけじゃない」
「分かった。天井を見る」
フィアが先に入る。
灯りを上へ向け、亀裂と石材のずれを一つずつ確認していく。
僕も右足へ急な体重を掛けないよう気をつけながら、壁際と床を見た。
目視できる範囲では、大きく口を開いた亀裂はない。
床の傾きも僅かだ。
それでも、僕たちは坑道技師ではない。長く滞在しても絶対に安全だとは言えなかった。
天井から新しい雪や小石が落ちていないことを確かめ、最後に通気口を見る。
僕が炉の前へ手提げ灯を置くと、炎の先が通気口の方へ小さく傾いた。
「空気は動いてる」
「完全には塞がってない」
フィアは石台へ積もった埃を指でなぞり、その乾き具合も確かめた。
「でも寒い」
「うん。外よりはまし、というくらいだね」
保守室へ入っても、吐く息は白い。
外套の裾には雪解けの湿り気が残り、手袋の表面も冷たかった。
僕の右脚は休ませた方がいい。
フィアの右腕と指先も、一度温めた方がいい。
このまま歩き続ければ、痺れと強張りが増す可能性がある。指先の感覚が落ちれば、位置札を結ぶことも、装具を扱うことも難しくなる。
低体温は、眠くなってから考えるものではない。
本格的に体温を失う前に、止めなければならなかった。
「炉を使おう」
僕が言うと、フィアも頷いた。
「燃料を確認する」
燃料箱の蓋は錆びていたが、右手でゆっくり持ち上げることはできた。
中には、短い廃木片が数本と、木屑、古い繊維を束ねた着火材が残されている。
どれも構造材ではない。
支柱や梁を切らずに済むのは助かる。
ただし、燃料箱の蓋が歪んでいたせいか、大半が湿気を吸っていた。
廃木片の表面は黒ずみ、指で触れると冷たい。着火材も、乾いた音ではなく、僅かに重い感触を返した。
「使えそう?」
「そのままでは難しいかもしれない。でも、内側まで全部濡れているとは限らない」
僕は答えたものの、すぐに炉へ手を伸ばさなかった。
フィアが着火材を持ち上げ、状態を確かめていたからだ。
「私がやる」
「分かった。灯りはここに置くね」
危険なことを始めたわけではない。
フィアが自分で試すと言っているのに、最初から僕が作業を奪う理由もなかった。
炉の中には古い灰が薄く残っている。
フィアはそれを端へ寄せ、石床を出した。
それから湿った木屑と繊維を、左右対称に並べ始める。
一本の乱れもない。
太さの近いものを選び、中央へ向かって揃え、外側には同じ角度で廃木片を置く。
剣の柄巻きか、切断すべき術式線を整理しているようだった。
見た目だけなら、とても美しい。
そして、隙間がほとんどなかった。
フィアは手提げ灯の蓋を必要な分だけ開き、炎を着火材へ近づける。
木屑の表面が黒くなった。
細い煙が一本、立ち上る。
フィアが灯りを離す。
橙色の点は、一呼吸も保たずに消えた。
「……」
フィアは無言で炉の中を見た。
眉間へ、ほんの少し皺が寄る。
それでも着火材を投げ出したりはしない。
並べ方を崩し、黒くなった部分と、まだ使える部分を分けた。
「太すぎた」
短く結論を出すと、腰の通常剣を抜く。
刃に何も纏わせず、燃料として置かれていた廃木片だけを石台へ載せた。
フィアの剣先が滑る。
薄い木片が、ほとんど同じ幅で切り出されていった。
右腕の強張りがあるため、動かす回数は最低限だ。それでも切断面は揃い、ささくれも少ない。
剣士としての技術には、何の問題もなかった。
フィアは細くした木片を炉へ戻した。
今度は一度目より細かい。
ただし、やはり整いすぎていた。
均一な木片が中央へ密集し、互いを支え合うように固められている。
手提げ灯の火が移る。
小さな炎が二本の間を走った。
今度こそ、と僕も息を止める。
けれど炎は内側へ入れず、表面だけを舐めて消えた。
残ったのは焦げた匂いと、さっきより少し多い煙だけだった。
フィアは煙の行方を見上げた。
通気口へ流れていることを確認してから、炉へ視線を戻す。
「細さだけじゃない」
「そうみたいだね」
僕は余計なことを言わず、手提げ灯の蓋を元へ戻した。
二度目には、フィアなりの修正があった。
失敗の原因を一つ潰している。
ただ、火は剣術の試験と違って、正確に切れば応えてくれるわけではないらしい。
三度目。
フィアは木片同士の間を僅かに開けた。
一度目と二度目より、明らかに空気の通る余地がある。
灯りから移った火が木屑へ残った。
小さな炎が、一呼吸。
二呼吸。
今度は消えない。
フィアの表情が僅かに緩む。
火を大きくするため、次の燃料へ手を伸ばした。
考え方そのものは間違っていない。
火が弱いうちに燃える物を加えなければ、着火材だけで終わる。
ただ、彼女が選んだ木片は太かった。
しかも表面が湿っている。
木片が小さな炎の上へ置かれた瞬間、火が潰れた。
じゅ、と頼りない音がする。
煙が二筋上がり、その下で橙色の光が消えていった。
フィアの手が止まる。
しばらく、炉と木片を見比べていた。
「剣なら、三度も同じ場所で止まらない」
真剣な声だった。
僕は口元が緩みそうになるのを抑えながら答えた。
「火は斬られても、負けたと思わないからね」
フィアが僕を見る。
怒っている様子はない。
ただ、ほんの少し考えてから言った。
「相性が悪い」
「火との?」
「たぶん」
笑ってはいけない状況なのは分かっている。
燃料は有限だ。
身体は冷えていて、救援がいつ到達するかも分からない。
それでも、僕は小さく息を漏らした。
フィアもすぐに炉へ視線を戻したが、張り詰めていた横顔は少しだけ柔らかくなっていた。
そして、現実は変わらない。
指先は冷える。
右脚の痺れも残っている。
火を起こせないまま時間だけを使えば、次は笑えなくなる。
フィアは三度使った着火材を捨てなかった。
焦げた木屑も、湿った繊維も、まだ燃やせる部分を残して炉の端へ集める。
けれど、四度目を始めようとはしなかった。
「アルト。分かる?」
「少しなら。孤児院で何度かやった」
「教えて」
その言葉は短く、いつもの調子だった。
失敗を誤魔化すでも、僕へ全部押しつけるでもない。
分からないところを、分かる相手へ尋ねただけだ。
以前のフィアなら、自分だけで答えへ届くまで試し続けたかもしれない。
いまは残った燃料と僕たちの体温を数え、自分から手を止めた。
「うん。一緒にやろう」
僕は炉の前へ座り直した。
左腕を火から遠い位置へ置き、黒銀色の封魔具と治療布に火の粉が飛ばない角度を取る。
作業は右手だけで行う。
ロウェル孤児院では、冬や雨の日にも炉へ火を入れなければならなかった。
子供たちも年齢に応じて、薪を運び、灰を掃き、着火材を用意した。
もちろん、最初から上手くできたわけではない。
湿った木を詰め込みすぎて煙だけを増やしたこともある。火が付いたと思って薪を載せ、朝の分を丸ごと消したこともあった。
火が遅れれば、湯も食事も遅れる。
だから皆で失敗しながら覚えたのだ。
「孤児院で教わったことと、学院の座学を合わせると、必要なのは三つだよ」
僕は右手の指を三本立てた。
「燃える物。火を保つ熱。それから、空気の通り道」
フィアが炉を見る。
「細くしたのは合っていた?」
「うん。細い方が火は移りやすい。ただ、固めると空気が入らない。あと、最初の火が弱いうちに太くて湿った木を載せると、熱を奪われる」
「順番が早かった」
「たぶん。僕も専門家じゃないけど、孤児院では細い物から少しずつ足してた」
僕は燃料箱から一番太い廃木片を一本選んだ。
表面は湿っているが、割れ目の奥は色が薄い。
「外側より、内側の方が乾いていると思う。フィア、これを薄くできる?」
「できる」
「右腕は?」
「強い痛みはない。指先の強張りは残ってる。あと数回なら、規定以上の負荷にはならない」
曖昧な返事ではなかった。
僕は頷き、廃木片を石台へ置く。
フィアは通常剣の刃を入れた。
表面の湿った部分を避け、内側から薄い削り片だけを切り出していく。
一枚。
二枚。
三枚。
火起こしは苦手でも、切断は見事だった。
削り片の厚さは揃い、炎が移りやすいよう端が薄い。僕が頼んだ量へ達すると、フィアはすぐ剣を収めた。
無駄に切り続けない。
「これで足りる?」
「まずは十分だと思う」
僕は削り片を右手で受け取った。
今度は束ねない。
石炉の中央へ、互いに寄りかかる程度の角度で立てる。
下には細かな木屑を少しだけ置き、横から空気が通る隙間を残した。
三度の失敗で湿った着火材は捨てず、炉の火が届かない外縁へ広げる。
火が付けば、余熱で少しずつ乾かせる。
フィアが僕の手元を見ている。
「整ってない」
「うん。崩れない程度でいい。火の通り道を残す方が大事だから」
「整えすぎると消える」
「たぶん、火に関しては」
フィアの眉がまた少し寄った。
均一に整えることが役立たない場面は、彼女にとって珍しいのかもしれない。
僕は手提げ灯を持ち上げた。
「灯りを支えてもらえる? 通気口からの風も少し避けてほしい」
「分かった」
フィアが左手で灯りを受け取る。
右腕を休ませながら、炉の入口へ火を近づけた。もう一つの手提げ灯は、室内を照らせる位置に置いてある。
フィアの身体が直接風を塞がないよう、石台の板片を風除けとして立てる。
僕は炎の先を薄い削り片へ移した。
最初は黒くなるだけだった。
それでも離さずに待つ。
端が赤くなり、糸のような炎が立ち上がる。
僕は横から短く息を送った。
強く吹けば、せっかくの熱まで散ってしまう。
一度。
間を置いて、もう一度。
橙色の炎が削り片の縁を這った。
フィアの指が、細い木片へ伸びる。
けれど、すぐには置かない。
炎が一枚から二枚へ移るまで待っている。
「いま」
僕が言うと、フィアは一番細い木片を隙間の上へ置いた。
今度は押し込まない。
炎を塞がないよう、片端だけを削り片へ掛ける。
火が揺れた。
消えない。
細い木片の表面から水気が逃げ、僅かな煙が上がる。その煙は炉の奥から通気口へ吸われていった。
僕はもう一度だけ息を送る。
炎が木片の下へ潜り込み、少しだけ太くなった。
「次は?」
「同じくらいの物を、反対側へ」
フィアは自分で選び、自分で置いた。
さっきまでと違い、木片同士の間にきちんと隙間がある。
炎が定着するまで、太い物へ手を伸ばさない。
待つ。
ただ待つだけなのに、フィアの指先が一度だけ動いた。
剣なら、自分から踏み込み、次の一撃で結果を作る。
火は急かせば消える。
それでもフィアは、同じ失敗を繰り返さなかった。
細い木片の端へ炎が回る。
乾いた内側が、ぱち、と小さく鳴った。
「もう少し太いのを置ける」
僕が言う前に、フィアも火の強さを見て判断していた。
三度目に使った物より細く、表面の湿り気が少ない木片を選ぶ。
空気を潰さない角度で、二本の上へ渡した。
炎は一度小さくなり、それから木片の側面へ伸びた。
「付いた」
フィアが言った。
「うん。今度は大丈夫そうだ」
まだ焚き火と呼べるほど大きくはない。
石炉の中央で、掌ほどの炎が揺れているだけだ。
けれど、手提げ灯を離しても消えなかった。
僕たちは少しずつ燃料を追加した。
細い物から。
乾いた内側が出ている物から。
火が新しい木片へ移るのを待って、次へ進む。
フィアは一度教わった配置を、自分の手で再現していった。
左右対称ではない。
太さも完全には揃っていない。
それでも空気の道があり、火は呼吸するように明るさを増した。
最後に少し太い木片を一本だけ加える。
炎がその下へ残ったのを確かめてから、二人とも炉から手を離した。
フィアが火を見つめる。
「剣士は関係ない」
「え?」
「私が苦手なだけ」
「そこまで正確に訂正しなくてもいいと思う」
「事実は分けるべき」
真顔で言われ、また少しだけ笑ってしまった。
今度はフィアも、ほんの僅かに口元を緩めた。
けれど、すぐに火と通気口へ視線を戻す。
「煙は抜けてる」
「燃料箱は離そう。火もこれ以上は大きくしない方がいい」
「分かった」
フィアは燃料箱を石炉から離れた壁際へ動かした。
僕も右手で失敗した着火材を広げ直し、炉の外縁へ置く。
熱を受ければ少しずつ乾く。
次に燃料を足す時、無駄にせず使えるはずだ。
二つの手提げ灯も確認した。
どちらも壊れていない。
交換用の油と芯も一組、そのまま残っている。
保存食は五食分。
水筒は二本。
火が付いたからといって、出口が見つかったわけではない。燃料がいつまで保つかも分からなかった。
それでも、次の判断をするまでの時間は得られた。
僕たちは炉を挟み、別々の石台へ座った。
外套の裾を火から離した位置へ広げ、手袋も焦げない距離で温める。
湿り気が、少しずつ薄れていく。
「右脚は?」
フィアが尋ねた。
僕は足先を動かし、床を軽く踏んだ。
「痺れは残ってる。でも、さっきより少し軽い。歩ける状態のまま」
「左腕」
「強い痛みなし。冷たい脈動もない。空腹や見え方にも変化はない。封魔具と二重固定もそのまま」
自分で外したりはせず、外套の隙間から固定具の外側だけを見る。
黒銀色の封魔具にずれはない。
治療布にも新しい汚れはなかった。
「フィアの右腕は?」
フィアは右手をゆっくり開き、指を一本ずつ曲げた。
「強い痛みはない。指先の強張りは少し軽くなった。でも、完全には戻ってない。長い切断は避ける」
「うん。次に動く時も、急がない方がいいね」
「同じ歩幅で行く」
迷いのない返事だった。
火の向こうで、黒から暗い茶色の髪が橙色に照らされている。
雪崩の前なら、フィアは危険な制御紐を誰より正確に見つけ、迷わず切った。
旧保守路では、僕の歩幅へ合わせて進んだ。
そして今は、僕が孤児院で覚えた小さな手順を伝え、フィアがその通りに火を育てている。
戦える方が、いつも支える側とは限らない。
生活の中で知っていることも、生きて帰るためには剣と同じくらい役に立つ。
僕一人では、あれほど薄く均一な削り片を短時間で作れなかった。
フィア一人では、湿った燃料を炉火へ育てるまでに、もう少し材料と時間を使っていたかもしれない。
不完全な二人が、足りないところを少しずつ埋めた。
その結果が、目の前の小さな火だった。
「アルト」
「なに?」
「次に火を起こす時は、一度で付ける」
「次も湿っていたら、一緒にやろう」
フィアは少し考えた。
「それなら、もっと確実」
石炉の中で木片が小さく弾けた。
通気口の向こうで、冷たい風が鳴っている。
成人隊との通信は切れたまま。
旧保守路がどこへ続くのかも分からない。
この保守室が朝まで安全かどうかさえ、僕たちには断定できなかった。
だからこそ、火を絶やさず、身体を温め、次に動ける状態を保つ。
いま出来ることは、それだけだった。
出口はまだ見えなくても、石の炉には、僕たち二人を凍らせないための小さな火が確かに灯っていた。
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