第121話 二人だけの現在地
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
雪崩に閉じ込められて最初にしたことは、出口を探すことではなく、僕たちに何が残っているかを数えることだった。
僕とフィアは、主要路から壁一枚分だけ奥へ引っ込んだ点検窪みにいる。
分断されてから、それほど時間は経っていない。
崩落地点へ向けて吹いた停止笛には、まだ応答がなかった。
天井沿いの有線通信線は途中で垂れ下がり、断面から細い金属線が覗いている。信号綱も張りを失ったまま、凍り始めた石床へ落ちていた。
けれど、最後の成人測量員を乗せた搬送具が安全扉を越えたことは、この目で確認している。
三人とも成人隊側へ渡せた。
それは救助されたという意味ではなく、僕たちが孤立したという現実を変えるものでもない。
ただ、今の状況を判断するために必要な事実だった。
「先に、上」
フィアが手提げ灯を左手で掲げた。
僕たちはすぐには腰を下ろさず、点検窪みの天井を確認した。
木製支柱に大きな割れはない。
壁と天井の継ぎ目から細かな雪が落ちているものの、岩そのものが動いている様子もなかった。
次に足元を見る。
石床には薄く水が溜まり、その縁が白く凍り始めている。
短時間の確認には使える。
けれど、長く留まれる場所ではなかった。
「座っていい」
フィアが先に壁際へ荷物を下ろした。
僕も左腕へ重みが掛からないよう、右手だけで肩紐を外す。
片手剣は腰へ残した。
使う予定があるからではない。雪と岩の中へ置き忘れないためだ。
「アルト。左腕から」
「うん」
僕は外套の左袖を必要な範囲だけずらした。
治療布の上には黒銀色の封魔具があり、二か所の固定具も崩落前と同じ位置にある。
自分で外そうとはしない。
二重固定の隙間へ雪や石片が入っていないことだけを、灯りで確かめる。
「固定具の外側、見てもいい?」
「お願い」
フィアは僕の許可を待ってから、封魔具の外周へ灯りを近づけた。
左腕や治療布には触れない。
上側、下側、二か所の固定具を順番に見る。
「ずれなし。割れもない。治療布に新しい血も出てない」
「左腕の強い痛みはない。冷たい脈動もないよ」
僕は自分で感じていることを、一つずつ言葉にする。
「紋章が変わった感じもない。空腹は普段どおり。味覚、嗅覚、視覚にも変化なし」
以前なら、まとめて大丈夫だと言っていたかもしれない。
けれど、大丈夫という言葉は、何が起きていないかを伝えてくれない。
今は僕の状態を知る成人側がいない。
だからこそ、隠さずフィアへ渡す必要があった。
「右脚は?」
「今は動く。強い痺れもない。ただ、王都からの移動と坑道内の往復が重なってる。歩き続けたら出る可能性はある」
フィアは短く頷いた。
安心したとも、問題ないとも言わなかった。
「次、私」
フィアは外套の右袖を少し上げた。
学院侵攻から続く右腕の治療は、まだ終わっていない。
先ほど赤い制御紐を斬った時も、負荷は規定内だった。それでも、冷えた空気は負傷の残る腕から先に動きを奪っていく。
フィアは右手を一度開き、ゆっくり握った。
指先の動きに遅れはない。
けれど、二度目に開いた時、僅かに眉を寄せた。
「強い痛みはない。切った時の反動も、規定内」
「指は?」
「冷えて強張ってる。感覚はある。剣も握れる」
「長く使い続けるのは?」
「避ける」
フィアも事実だけを答えた。
僕の左腕と右脚。
フィアの右腕。
二人とも歩ける。
二人とも剣を持てる。
けれど、どちらかがもう一人を背負って長い道を進めるような状態ではなかった。
完全ではない二人が、雪と岩の間に残されている。
それが、僕たちの身体について確認できた現在地だった。
「次は食料」
僕たちはそれぞれの荷物を開いた。
フィアが自分の保存食を、僕が僕の保存食を数える。
「三食分」
「僕も三食分。合わせて六食分だね」
水筒は二本。
王都からの移動中に少し飲んでいたが、どちらも半分以上残っている。
蓋の周囲は冷たくなっているものの、中身はまだ凍っていなかった。
僕は水筒を外套の内側に近い位置へ移した。
「灯りは二つ。油と芯は?」
フィアが荷物の内側から、小さな交換用の油入れと包まれた芯を取り出す。
「一組。封も切れてない」
「僕の灯りは、今のところ問題なし」
「私のも」
火は二つある。
ただし、交換できるのは一度だけだ。
片方が消えたからといって、すぐに予備を使うわけにはいかない。
構造図。
物理的な位置札と記録札。
停止笛が二つ。
短い補助縄。
交換用の治療布と清潔な布。
個人用食器。
フィアの荷物には、貸与番号の付いた予備食器も収まっていた。
受領記録と返却札も一緒だ。
フィアは番号を確認し、そのまま袋を元の位置へ戻した。
僕も何も言わなかった。
いま必要なのは笑うことではなく、残っている装備を正確に知ることだった。
「防寒外套は損傷なし」
フィアが自分の裾を確かめる。
僕の外套にも、大きな裂け目はない。
重い野営設備や毛布はない。
日帰りに近い偵察・救助任務を想定した装備だ。
それでも、食料と水と灯りは残っている。
何もないわけではなかった。
「食べよう」
僕が言うと、フィアは保存食を見た。
「今?」
「寒い場所で何も食べずに歩く方が危ない。半食分ずつなら、残りは二人で五食分になる」
フィアは短く考えてから頷いた。
「賛成」
保存食を半分に分けたのではない。
僕たちはそれぞれの一食分から半分だけを取り、自分の分を口へ運んだ。
硬く、塩気が強い。
豪華な味ではないが、噛んでいるうちに身体の内側へ僅かな熱が戻ってくる。
水も少量ずつ飲んだ。
空になった半食分の包みは捨てず、記録札と一緒に荷物へ戻す。
「残り五食分」
フィアが確認する。
「水は二本。両方とも半分以上」
「油と芯は一組」
「補助縄、位置札、治療布もある」
僕たちは同じことを二度言わなかった。
一つずつ確認し、記録へ残した。
次は、僕たち自身ではなく、場所の現在地だった。
僕は右手で構造図を広げる。
現在使われている主要路は濃い線で描かれ、保守対象から外れた道は薄い破線になっている。
フィアが点検窪みの壁へ灯りを向けた。
雪と土で汚れた石壁に、古い数字が刻まれている。
上半分は削れているが、下に残った形は構造図の番号と一致した。
「第四点検区画」
フィアが読む。
「その北側だね」
僕は地図の一点へ右手の指を置いた。
入口側には、ローディンたちとの間を塞いだ崩落がある。
反対側にも別の崩落が起きている。
僕たちは第四点検区画北側にある、短い主要路の一部へ挟まれていた。
場所そのものは分かった。
けれど、場所が分かることと、出口が分かることは別だった。
構造図に描かれている第二退路は、雪崩の向こう側にある第三点検路から伸びている。
僕たちの位置から直接向かう線はない。
「前の雪壁は、すぐには掘れない」
フィアが言った。
僕も崩落側を見る。
雪だけではない。
岩と折れた支柱材が互いに噛み合い、その隙間を圧雪が埋めている。
どれか一つを不用意に外せば、残っている天井まで動くかもしれない。
ローディンたちなら、成人坑道技師と手順を組んで救出へ動くはずだ。
空間魔法を使わなかったのも、岩と雪の向こうに安全な到達位置を確認できなかったからだ。
僕たちを見捨てたからではない。
けれど、安全を確保しながら雪と岩を除くには時間が掛かる。
その時間を、ここで待てるか。
冷たい風が点検窪みへ吹き込んだ。
二つの灯りの火が、同じ方向へ細く傾く。
石床を見ると、さっきまで濡れていた部分が薄い白へ変わっていた。
フィアが手袋越しに床へ指を当てる。
「凍り始めてる」
天井の継ぎ目から、細かな雪と小石が落ちた。
崩落というほどではない。
それでも、ここが安定した待機所ではないことは分かった。
「救援を待つだけなら、僕たちの体温が先に尽きる可能性がある」
僕は構造図を見たまま言った。
「成人側が遅いという意味じゃない。あの崩落を安全に掘るには、時間が必要だから」
「分かってる」
フィアは雪壁ではなく、点検窪みの奥へ灯りを向けた。
「アルト。あれ」
壁の低い位置に、金属板らしい四角い輪郭があった。
表面を霜が覆っている。
僕は清潔な布の端を右手へ巻き、霜を拭った。
文字の一部が現れる。
現在の経路札とは違う、古い王国土木局の表示だった。
「旧北側保守路」
フィアが読み上げる。
構造図をもう一度見る。
点検窪みの奥から、細い破線が北側へ伸びている。
途中で記載が薄くなり、その先は現在の図から消えていた。
以前は支柱や排気口、上部保守口を点検するために使われていたらしい。
現在も地上へ続いているとは限らない。
途中で埋まっているかもしれない。
安全な出口がある保証もなかった。
「入口だけ確認しよう」
僕たちは荷物を置いたまま、点検窪みの奥へ数歩進んだ。
フィアが左手の灯りで支柱を照らす。
僕は右手で壁と足元を確認した。
保守路は、人が一列で歩ける程度の幅だった。
入口付近の支柱に大きな破損はない。
石床には薄く霜が付いているが、主要路ほど強い冷風は流れてこなかった。
星冠教団の物資箱があった方向とも違う。
「見える範囲は通れる」
フィアが告げた。
「その先は?」
「曲がってる。未確認」
フィアは勝手に先へ行かなかった。
曲がり角の手前で止まり、僕の返事を待った。
旧保守路へ進むことは、星冠教団を追うことではない。
出口を見つけたと決めつけることでもない。
ここへ留まれば冷気と二次崩落の危険があるから、より冷気の弱い確認可能な道へ移る。
危険なら、戻れる範囲で引き返す。
そのための移動だった。
「位置札を残す」
点検窪みへ戻り、僕は記録札へ書き始めた。
アルト・ロウェル。
フィア・ヴァルティエ。
第四点検区画北側。
二人とも意識清明。
僕の封魔具と二重固定は維持。
左腕に新しい異常なし。
右脚に疲労あり。
フィアの右腕に冷気による強張りあり。規定以上の反動なし。
第一覚醒、《暴食》、《部分換装》は未使用。
保存食は五食分。
水筒二本。
灯り二つ。
冷気流入と石床凍結のため、旧北側保守路へ移動。
移動開始時刻と方向も書き込む。
最後に、曲がり角ごとへ追加の位置札を残す予定だと記した。
「確認して」
フィアへ記録札を渡す。
彼女は一行ずつ読み、僕の右脚の項目で止まった。
「疲労だけ?」
「今は痺れてない。出る可能性があるという意味」
「なら、そのままでいい」
フィアが記録札を返した。
僕は崩落地点から見える位置と、点検窪みの壁に一枚ずつ固定した。
成人側がこちらまで到達した時、僕たちが消えたようには見えない。
行き先も、理由も、残った物資も分かる。
痕跡を隠す必要はなかった。
荷物を背負い直す。
僕は左肩へ掛かる紐を調整し、重みが右側へ寄るよう留め直した。
フィアは自分の荷物を自分で持つ。
僕の食料や水まで引き受けようとはしない。
代わりに、右腕を休ませるため、手提げ灯を左手へ持ち替えた。
「構造図と記録は僕が持つ。右手で扱えるから」
「私は前の足場を見る」
「一人で曲がり角を越えないで」
「越えない」
それで役割は決まった。
僕たちは旧北側保守路へ入った。
最初の数歩は、主要路よりも風が弱かった。
ただ、床には薄い霜があり、足を置く位置を選ぶ必要がある。
フィアが半歩前で支柱と足場を確認する。
僕は右手の灯りで構造図と壁の印を見比べた。
十歩。
二十歩。
緩やかな下りへ入ったところで、右脚の足裏に細い違和感が走った。
痛みではない。
冷たい糸を足裏から脹ら脛へ通されたような、弱い痺れだった。
歩ける。
けれど、無視して進めば強くなる可能性がある。
「フィア、止まって」
フィアはすぐに足を止めた。
「右脚?」
「うん。軽い痺れが出た。足裏から脹ら脛まで。力は入るし、歩ける」
「増えてる?」
「今は同じ。歩幅を小さくして、三歩ごとに右足の感覚を確認したい」
自分で続けられる条件を伝える。
フィアへ判断を押し付けるつもりはなかった。
彼女は僕の右脚を見てから、自分の立ち位置を一歩戻した。
「それで進む」
「フィアはもっと速く歩けるよね」
「歩ける」
迷わず認めた。
そのうえで、フィアは続ける。
「先に着いても、一人なら意味がない」
灯りを持つ左手が、僕と同じ位置まで戻る。
「遅くしてるんじゃない。合わせてる」
フィアの口調はいつもどおり短かった。
心配だからと長い説明をすることも、僕の腕を取ることもない。
ただ、次に踏み出した歩幅が、さっきまでより小さくなっていた。
僕の右脚で無理なく続けられる幅だった。
「右腕は?」
今度は僕が尋ねる。
「強張りは同じ。痛みは増えてない。灯りは左で持つ」
「変わったら止まろう」
「アルトも」
「うん」
どちらかだけが報告するのではない。
どちらかだけが支えるのでもない。
僕は三歩ごとに右足の感覚を確かめた。
フィアはそのたびに振り返らず、僅かに足を止める。
急かさない。
先へ行かない。
曲がり角へ着くと、二人でその手前に立った。
フィアが灯りを差し出し、見える範囲の床と支柱を確認する。
僕は構造図と古い壁印を照合した。
出口は見えない。
安全だとも言えない。
それでも、現在地より冷気は弱かった。
僕は曲がり角の壁へ、二枚目の位置札を固定した。
移動方向と時刻。
身体状態に変化がないこと。
右脚へ軽い痺れが出たため、歩幅を調整したこと。
フィアの右腕の強張りは増えていないこと。
事実だけを残す。
フィアが札を確認し、短く頷いた。
それから、僕と同じ幅で次の一歩を踏み出した。
僕たちは二人だけの現在地を壁へ残し、同じ歩幅で旧保守路の暗闇へ踏み出した。
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