第12話 灰羽の稽古
『お前がこれまで覚えた剣を、今夜、壊す』
灰鴉から届いた書き置きを、もう一度読み返す。
寮の魔法時計が示す時刻は、十一時半を少し過ぎたところだった。
剣を手に取ると、鞘に結ばれた緑色の組紐が揺れた。
『私が隣にいること、忘れないでね』
ティアナの声が蘇る。
一方で、朝のバルト先生から言われたことも忘れてはいない。
『今日は剣を振るな』
右脚には、まだ《閃駆》の反動が残っている。
歩くだけなら問題ない。けれど、強く踏み込めば鈍い痛みが走る。
それでも、灰鴉の呼び出しを無視することはできなかった。
彼は僕の中にいるベルゼバスを知っている。暴食の力に呑まれずに済む方法を知っているかもしれない、数少ない人だ。
「……行ってくるね」
緑の組紐へ小さく告げ、僕は剣を腰へ差した。
◇
鐘が十二を打つ直前。
僕は人気のない学院棟を抜け、以前灰鴉から教えられた秘密の通路を下っていた。
湿った石段の先にあるのは、第零層。
学院迷宮の公式地図には存在しない、古い祠のある封印深部だ。
暗い通路を抜けると、灰色の外套をまとった男が壁際に立っていた。
「遅刻はしていないようだな」
灰鴉は僕の顔ではなく、足元へ目を向けた。
「右脚を痛めているな」
「分かるんですか?」
「歩幅が左右で違う。隠せていると思ったか」
灰鴉は僕の腰にある剣へ視線を移した。
「今夜は魔法を使うな。右脚にも頼るな」
「それで、どうやって戦えば……」
「それを覚えるために呼んだ。強く踏み込んだ時点で、稽古は終わりだ」
鋭い視線が僕を射抜く。
「今夜は身体強化も、加速も、魔力纏いも使うな。右脚へ頼った時点で、稽古は終わりだ」
「それで、何をするんですか?」
「羽を出せ」
言われるまま、呼び出しに使われた灰色の羽を差し出す。
灰鴉はそれを受け取ると、自分の胸元へ差した。
「今夜の目的は一つだ」
灰色の羽が、外套の上でわずかに揺れる。
「これを俺から奪え」
「羽を?」
「剣でも手でも構わん」
灰鴉は武器を持っていない。
構えることさえせず、両腕を下ろしたままだ。
「……本気で行きますよ」
「その台詞は、羽へ触れてから言え」
挑発されても、怒りは湧かなかった。
ただ、胸の奥に小さな悔しさが生まれる。
僕は右脚を後ろへ置き、痛みが出ない姿勢で剣を抜いた。
狙うのは胸元の羽。
刃を横へ振るえば危険だ。剣先だけを近づけ、羽を外套から弾き飛ばす。
「行きます」
一歩、前へ出た。
剣先が羽へ伸びる。
次の瞬間、灰鴉の姿が僕の視界から消えた。
「え――」
剣を握る手首へ、硬い指が添えられる。
強く掴まれたわけではない。
ほんの少し外側へ押されただけなのに、剣先が灰鴉の横を通り過ぎた。
肘の内側へ衝撃。
指から力が抜ける。
剣が落ちるより先に足を払われ、僕の背中が石床へ叩きつけられた。
「がっ……!」
息が詰まる。
灰鴉の手には、僕の剣があった。
「三つだ」
「何が……ですか」
「手首、肘、重心。たった三か所を崩しただけで、お前は剣も足場も失った」
灰鴉が剣を投げ返す。
「立て」
二度目は、手首を取られないよう剣先を小さく動かした。
今度は灰鴉の肩が僕の胸へ触れる。
触れただけに見えた。
けれど、その瞬間には身体が浮き、石床へ転がされていた。
三度目は剣を奪われまいと、柄を強く握った。
その力を利用され、壁へ押しつけられた。
四度目。
五度目。
何度挑んでも、羽どころか外套にすら触れられない。
灰鴉は、一度も魔法を使っていなかった。
◇
「場所を変える」
連れていかれたのは、人一人が剣を振るのも難しいほど狭い石造区画だった。
左右には壁。
天井も低い。
「構えろ」
僕は剣を正面に構えた。
灰鴉が距離を詰める。
横薙ぎを放とうとした刃が、壁へ当たった。
甲高い音が響く。
その間に灰鴉は剣の内側へ入り、僕の喉元へ二本の指を当てていた。
「剣を振れない距離へ入られたら、どうする」
「距離を取り直します」
「後ろに守る相手がいてもか?」
息を呑んだ。
背後は壁。
ここにティアナや孤児院の子どもがいたなら、退くことはできない。
「迷宮では足場が崩れる。壁へ剣を取られる。武器を落とす。仲間が背後にいて退けない。得意な脚を潰されることもある」
まるで、今の僕そのものだった。
「学院の型は、お前の骨だ」
灰鴉は、僕の剣を壁から押し戻した。
「型を捨てろとは言っていない」
次の瞬間、剣を握った僕の手ごと、柄頭が胸へ押し込まれる。
「型しか使えないお前を壊す」
息が詰まり、膝をついた。
「剣を振れないなら、柄を使え」
灰鴉の手が、僕の柄頭を押す。
「柄も使えないなら、肩をぶつけろ。手首を掴まれたら、後ろへ引くな。相手の懐へ入れ」
実際に手首を掴まれる。
僕は教わった通り、左脚で灰鴉の内側へ踏み込んだ。
けれど、肩を当てる前に腰を押され、床へ転がされた。
「倒れたら終わりだと思うな」
灰鴉の足が近づく。
床へついたまま左脚を振り、足首を狙う。
簡単に避けられた。
「狙いが見えすぎる。鞘を使え」
僕は腰の鞘を抜き、灰鴉の足首へ押し当てようとする。
今度は手首を蹴られ、鞘が床を滑った。
「剣も鞘も失ったら、肘を使え。膝、肩、体重、壁、床。生き残るために使えるものはすべて使え」
「でも、これは……」
僕は痛む胸を押さえながら立ち上がった。
「騎士の戦い方には見えません」
灰鴉の目が細くなる。
「礼儀正しく死んだお前を、守られなかった者が喜ぶのか」
鞘に結ばれた緑の組紐が目に入った。
「獣はただ暴れるんじゃない。牙が届く一瞬まで身を低くし、最も弱い場所だけを狙う」
灰鴉は両手を下げ、再び無防備に立つ。
「見栄を捨てろ。だが、理性まで捨てるな」
◇
何度、床へ倒されたか分からない。
頬は熱を持ち、左腕には痣が浮かんでいる。
息を吸うだけで脇腹が痛んだ。
『無様だな、アルト』
頭の奥で、獣じみた声が笑う。
『喰え』
左腕の紋章が熱を持った。
『その男の力を奪えば、羽どころか喉へ届く』
灰鴉を見る。
けれど、何も感じない。
魔導灯から漏れる魔力も、放たれた魔法もない。
灰鴉は一度も魔法を使わず、魔力を身体の外へ漏らしていなかった。
喰えるものが、何もない。
『守りたいのだろう? ならば強い者から奪え』
「違う……」
左腕へ意識を向けた瞬間、灰鴉に手首を掴まれた。
背中から床へ落とされ、左腕を押さえつけられる。
「喰える力がなければ、何もできないか」
冷たい声だった。
でも、その奥には試すような響きがあった。
僕は床へ右手をついた。
左脚を立てる。
「……僕のままで」
痛みを堪え、上半身を起こす。
「僕のままで、立ちます」
灰鴉の手から左腕が解放された。
「なら、立て」
◇
次が最後だと言われた。
僕は剣を拾い、灰鴉と向かい合う。
灰色の羽は、今も胸元にある。
剣を奪われる。
取り返そうとして動きを止める。
それを何度も繰り返してきた。
剣を失ったら、僕は剣士ではなくなると思っていた。
でも、守りたい誰かがいる場所では、剣士であることより、生きていることの方が大切だ。
灰鴉が動く。
剣を握る僕の手首へ、指が伸びた。
今までなら、柄を握り締めていた。
僕は指を開いた。
剣が床へ落ちる。
灰鴉の視線が、ほんの一瞬だけ下がった。
左脚で内側へ踏み込む。
右手に持った鞘で、灰鴉の手首を外へ押す。
空いた胸元へ肩をぶつけた。
岩に衝突したような衝撃が返ってくる。
灰鴉の腕が僕の身体へ回った。
投げられる。
それでも、僕は右手を伸ばした。
指先に、柔らかな感触。
直後、視界が回転する。
背中から床へ叩きつけられた。
灰色の羽は、まだ灰鴉の胸元にある。
奪えなかった。
けれど、石床へ一本の細い羽枝が落ちていた。
灰鴉はそれを拾い上げる。
「合格ではない」
「……はい」
「だが、剣を手放しても戦いをやめなかった」
灰鴉は羽枝を僕の胸へ落とした。
「今夜覚えた動きを、技だと思うな。生き残るための選択肢が一つ増えただけだ」
「学院で覚えた剣は……捨てるんですか?」
「言ったはずだ。あれはお前の骨だ。捨てるな」
灰鴉は背を向ける。
「俺が教えるのは、その骨を折られたあとでも立つ方法だ」
そして、振り返らずに告げた。
「俺の前では、許可なく暴食を使うな。次に呼ばれるまで、学院の基礎を磨け」
「また、呼んでくれるんですか?」
「勘違いするな。まだ弟子にしたわけじゃない」
「それでも、また来ていいんですよね」
少しの沈黙。
「次も生きて来られたらな」
◇
翌朝。
「アルト。顔、こっち向けて」
学院へ着くなり、ティアナに顎を掴まれた。
「ち、近いよ、ティアナ」
「逃げないで」
彼女の顔が、すぐ目の前にある。
僕の頬に浮かんだ痣を見て、ティアナの眉が寄った。
「守らせてって言った翌日に、その顔?」
「ごめん」
「誰にやられたの?」
「誰に教わったかは、まだ言えない」
ティアナの瞳を見て、誤魔化さずに続ける。
「でも、危険な力に頼らず、生き残るための稽古だった」
ティアナはしばらく僕を見つめた。
やがて小さく息を吐くと、冷気を帯びた葉を僕の頬へ当てた。
「冷たっ」
「我慢して」
ティアナの指が、葉越しに頬へ触れる。
「誰なのかは、話せる時に聞く」
「うん」
「でも、帰ってきたら傷だけは見せて」
ティアナは、僕の剣に結ばれた緑の組紐へ目を向けた。
「アルトを守る約束の半分は、私のものだから」
「……分かった。約束する」
◇
その日の午前。
学院内で行われる模擬迷宮訓練の組み合わせが、中央掲示板へ張り出された。
実際の学院迷宮ではなく、地上の訓練区画を迷宮に見立てた三人一組の連携訓練だ。
迷宮実習を停止されている僕も参加できる。
「アルト、あったよ!」
ティアナが人混みの中から手招きする。
彼女の隣へ並び、掲示された三人の名前を見上げる。
一人目は、アルト・ロウェル。
二人目は、ティアナ。
そして僕の名前の隣には、学院最速の少女――フィアの名が記されていた。
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