第11話 守るための剣
「今日は剣を振るな」
早朝の訓練場へ着くなり、バルト先生は僕の手から木剣を取り上げた。
「ですが、昨日は検査だけで――」
「その検査で、右脚の酷使を指摘されたんだろうが」
地面を踏みしめようとすると、右腿から足首まで鈍い痛みが走る。
隠したつもりだったけれど、先生にはすぐ見抜かれた。
「休むのも訓練だ。技を覚えた翌日に脚を壊す馬鹿になるな」
「……はい」
「不満そうだな」
「そんなことは……少ししか」
「十分だ!」
大きな声に肩をすくめると、バルト先生は呆れたように息を吐いた。
「《閃駆》はまだ技と呼ぶにも危うい。焦って二歩目を踏む前に、一歩目で折れた脚を治せ」
反論はできなかった。
僕は木剣の代わりに鞄を持ち、朝の訓練場をあとにした。
剣を振らずに迎える朝は、ひどく手持ち無沙汰だった。
◇
午前の座学が終わる直前、十回生全員へ一枚の紙が配られた。
卒業後の進路希望票だった。
学院を卒業し、必要な実習単位を取得した生徒は、各騎士団の入団選抜を受けられる。
十回生にとっては、これまでの十年間を何へ繋げるのか決めるための紙だ。
僕は迷わず、希望進路の欄へ書いた。
――魔法騎士。
けれど、その下で筆が止まる。
志望騎士団。
十五ある騎士団の、どこを目指すのか。
今の僕には、そこへ名前を書く資格すらあるのだろうか。
迷宮実習の単位は保留中。調査が終わらなければ、入団選抜を受けることさえできない。
「見ろよ。アルト、魔法騎士って書いてるぞ」
「戦闘順位最下位で?」
「《閃駆》だって、一度成功しただけだろ。魔獣も倒せなかったんだし」
聞こえてきた囁きは、間違っていなかった。
一太刀は届いた。
でも、勝てなかった。
僕は志望騎士団の欄を空白にしたまま、進路希望票を折り畳んだ。
「アルト」
隣から、ティアナが覗き込んでいた。
彼女の視線は、空白のまま残った欄へ向いている。
「これは、その……」
説明しようとしたところで、授業の終了を告げる鐘が鳴った。
ティアナは何も尋ねなかった。
ただ、考え込むように僕の顔を見つめていた。
◇
昼休み、学院広場の魔導映像に水色の光が広がった。
遠方の戦場で記録された映像を、魔導通信によって王都へ届けたものだ。
水の蝶が、空を覆っていた。
押し寄せる魔物の群れ。
その前に、一人の少女が立っている。
長い耳の間で、淡い髪が風になびく。彼女が聖剣を振るたび、無数の水蝶が舞い、巨大な魔物が次々と倒れていった。
『水蝶騎士団の働きにより、東部防衛線は守られました!』
広場から歓声が上がる。
「水蝶の騎士だ!」
「やっぱり七大魔法騎士は別格だな」
「僕たちとは、生きてる世界が違うよ」
その言葉を否定できなかった。
映像の中のレイシアは、大勢の兵士に囲まれながら微笑んでいる。
昔と変わらない、優しい笑顔だった。
胸の奥が温かくなる。
同時に、どうしようもなく遠いと感じた。
僕はまだ、F級の魔獣へ一太刀を当てただけだ。
レイシアは、何百人もの命を背負って戦っている。
「……アルト」
呼ばれて振り返ると、ティアナがすぐ隣に立っていた。
「放課後、少し付き合って」
いつもの明るい声だった。
けれど、その瞳は笑っていなかった。
◇
放課後、ティアナに連れてこられたのは、学院庭園の湖畔だった。
僕たちは水辺に置かれたベンチへ並んで座る。
「右脚、見せて」
「え?」
「包帯、緩んでるでしょ」
確かに朝から歩き回ったせいで、足首の包帯が少しずれていた。
「これくらいなら、自分でできるよ」
「できるのと、私がしたいのは別です」
ティアナは僕の前へしゃがみ、慣れた手つきで包帯をほどいていく。
「怪我人は大人しくしてください」
「……はい」
傷へ触れないよう、白い包帯が丁寧に巻き直される。
俯いたティアナの髪が、僕の膝に触れた。
妙に意識してしまい、どこを見ればいいのか分からなくなる。
「痛くない?」
「うん。ティアナ、上手だね」
「アルトが怪我ばかりするから、慣れちゃったの」
包帯を結び終えたティアナが、僕の隣へ戻ってくる。
肩が触れるほど近い。
離れた方がいいのか迷ったけれど、ティアナはその距離のまま尋ねた。
「どうして、騎士団の欄を書かなかったの?」
「……見てたんだ」
「見える位置で書いてたからね」
湖面を風が渡っていく。
僕は鞄から進路希望票を取り出した。
「書けなかったんだ。今の僕がどこへ行きたいかなんて書いたら、夢だけが先に歩いていく気がして」
「その夢って、レイシアさんのこと?」
息が止まりそうになった。
ティアナは僕を見ていない。
揺れる湖面を見つめながら、答えを待っていた。
「……うん」
幼いころ、孤児院の裏庭で、僕たちは毎日のように木の枝を振っていた。
レイシアは昔から強かった。
僕が十回振る間に、彼女は二十回振れた。
ある日、手の皮が破れても剣を離さないレイシアへ、僕は古い布を不器用に巻いた。
『もうやめようよ。痛いでしょ』
『でも、強くなりたいの』
『じゃあ、僕も強くなる』
『アルトも?』
『うん。一緒に強くなろう』
指切りさえしなかった、ただの口約束。
それでも僕にとっては、ずっと消えない約束だった。
「レイシアは九歳で学院を卒業した。それから二年で騎士団長になって、今では七大魔法騎士だ」
「うん」
「僕は、まだここにいる」
同じ場所から走り始めたはずなのに、彼女の背中はもう見えないほど遠い。
「レイシアが弱いから、守りたいわけじゃないんだ。僕よりずっと強いし、きっとこれからも追いつけないくらい強くなる」
それでも。
「みんな、レイシアなら大丈夫だって言う。でも、その“大丈夫”を誰が支えるんだろうって思うんだ」
遠い戦場で微笑む彼女を思い出す。
手の皮が破れても、痛くないふりをしていた少女。
「レイシアが誰にも助けてって言えなくなった時に、僕の剣が届いてほしい」
「だから、魔法騎士に?」
「うん。守られてばかりだった僕が、今度は隣に立ちたいんだ」
ティアナはしばらく黙っていた。
やがて、膝の上で指を重ねる。
「アルトは、レイシアさんが好きなんだね」
誤魔化そうとは思わなかった。
「うん。ずっと好きだよ」
ティアナの指が、きゅっと握られた。
いつも浮かべている笑顔が消える。
「……そっか」
湖へ向けられた横顔は、少しだけ泣きそうに見えた。
「ちゃんと聞くと、思ってたより痛いね」
「ティアナ……?」
「謝らないでね。アルトが誰を好きかは、悪いことじゃないから」
先に言われて、口にしかけた謝罪を飲み込む。
「でもね、私、ただ応援するだけのいい子にはなれそうにないみたい」
ティアナは僕へ向き直った。
「レイシアさんが嫌いなわけじゃないよ。すごい人だと思うし、たくさんの人を守ってる」
その瞳には、普段と違う強さがあった。
「だけど、簡単にアルトの隣を譲るつもりもないから」
「それは……」
「今は分からなくていいよ」
戸惑う僕の左手を、ティアナが両手で包んだ。
剣を振り続け、硬くなった手のひらへ、柔らかな指先が触れる。
「アルトがレイシアさんを守りたいなら――じゃあ私も守らせて」
「え?」
「アルトが一人で無茶をして、壊れてしまわないように。アルトと、その夢を守らせて」
ティアナの頬が、わずかに赤くなる。
「その代わり、アルトも私を守ってね」
守るために、強くなりたい。
ずっとそう思ってきた。
けれど僕は、誰かに守られることを拒み続けていたのかもしれない。
一人で立てなければ、レイシアの隣には行けないと思っていた。
でも《閃駆》のあと、動けなくなった僕を支えてくれたのはティアナだった。
「うん。僕もティアナを守る」
包まれた手を、そっと握り返す。
「でも……僕のことも、守ってほしい」
「もちろん」
ティアナがようやく笑った。
今度の笑顔は、無理に作ったものではなかった。
彼女は手首につけていた緑色の細い組紐を外すと、僕の剣の鞘へ結び始めた。
「これは?」
「ただの組紐。特別な魔法も、守護の力もありません」
緑の結び目が、黒い鞘の上で小さく揺れる。
「また一人で全部背負いそうになったら、これを見て」
ティアナは僕の肩へ、そっと頭を預けた。
「私が隣にいること、忘れないでね」
「忘れないよ」
肩越しに伝わる温かさへ、心臓が速くなる。
それでも、離れようとは思わなかった。
「それとね」
「うん?」
「応援することと、諦めることは別だから」
「何を諦めないの?」
ティアナは顔を上げ、少しだけ意地悪そうに笑った。
「今は分からなくていいよ」
◇
夜。
寮の自室へ戻った僕は、窓がわずかに開いていることに気づいた。
施錠したはずの窓辺に、一枚の灰色の羽が置かれている。
その下には、折り畳まれた書き置きがあった。
第零層。
学院の公式地図には存在しない、あの祠がある封印深部を、灰鴉はそう呼んでいた。
僕は鞘に結ばれた緑の組紐へ触れ、書き置きを開く。
そこには、たった二行だけ記されていた。
『今夜、鐘が十二を打ったら第零層へ来い。剣を持て』
『お前がこれまで覚えた剣を、今夜、壊す』
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