第10話 迷宮の視線
《閃駆》を使った翌朝、僕の右脚は自分のものではないみたいに重かった。
「ゆっくりでいいからね」
「うん。ごめん、ティアナ」
「こういう時は、ごめんじゃなくてありがとうって言うの」
ティアナに肩を借りながら、学院の正門をくぐる。
少し歩くたび、右脚の奥に鈍い痛みが走った。
ただの筋肉痛とは違う。
魔力を一瞬に集中させたせいか、足先にはまだかすかな痺れも残っている。
「ありがとう、ティアナ」
「どういたしまして」
僕の腕を肩へ回したティアナが、満足そうに笑った。
身体が触れ合うほど近い距離に緊張してしまうけれど、今は一人で歩けそうにない。
登校してきた生徒たちが、僕たちを横目で見ていく。
「なあ、あいつだろ。昨日、F級魔獣と戦ったの」
「学院最下位が一太刀当てたって?」
「でも、結局はバルト先生に助けられたらしいぞ」
「少し速くなっただけだろ」
声を潜めているつもりなのだろうけれど、僕の耳にはしっかり届いていた。
一太刀当てた。
その事実だけが広まるなら、少しは嬉しかったかもしれない。
でも、僕の頭に浮かぶのは、その直後に動けなくなった自分の姿だった。
「気にしちゃ駄目だよ」
ティアナが僕の腕を引き寄せる。
「事実だから」
「一太刀当てたのも事実でしょ?」
「それは……そうだけど」
「なら、そこはちゃんと喜んでいいと思う」
ティアナと話しながら廊下へ入った時だった。
「おはよう、噂の剣士君」
横から明るい声をかけられた。
振り向くと、同じ十回生の女子生徒が笑っている。
ミナ・ベルク。
戦闘順位は中位より少し下だったと思う。特定の集団に所属している印象はないのに、いつも誰かと話している、不思議なくらい人懐っこい少女だ。
「噂の剣士って……僕?」
「ほかに誰がいるの?」
ミナは僕の右脚を見て、少しだけ眉を下げる。
「ずいぶん無茶したみたいだけど」
「魔獣は倒せなかったよ」
「知ってる。一太刀当てた直後に動けなくなったんでしょ?」
「うん」
「なら、一太刀でも、一太刀は一太刀でしょ」
ミナはあっさりと言った。
「昨日まで届かなかったなら、ちゃんと前進じゃん」
僕は返事に迷った。
大げさに褒められたわけじゃない。
慰めようとしているようにも見えなかった。
ただ、起きたことをそのまま認めてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。次は倒せるといいね」
「簡単に言うね、ミナ」
ティアナが笑う。
「簡単に言ったほうが、次も挑戦しやすいでしょ?」
ミナは僕の背中を軽く叩こうとして、ティアナに止められた。
「今は駄目。立ってるだけでも痛いんだから」
「ごめんごめん。じゃあ、回復したら改めて」
「改めて叩く必要はないよ」
僕が言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
その声を聞いていると、廊下の噂が少しだけ遠くなる。
「ほら。ちゃんと見てる人もいるんだよ」
ティアナが小さな声で言った。
学院全体から認められたわけじゃない。
僕は今も戦闘順位最下位だ。
それでも、昨日までとは少しだけ何かが違っていた。
「アルト!」
廊下の向こうから、バルト先生の太い声が響いた。
反射的に背筋を伸ばそうとして、右脚に痛みが走る。
「いっ……」
「無理に立つな!」
先生は僕の前まで来ると、右脚を上から下まで確認した。
「まだ痺れているな?」
「少しだけです」
「少しだけで、まともに歩けないのか」
「今日は軽い素振りくらいなら――」
「駄目だ」
言い終わる前に却下された。
「今日は剣を振るな。医務室で魔力経路と右脚を診てもらえ」
「でも、《閃駆》を忘れないうちに――」
「技を覚えた翌日に脚を壊したら意味がない」
先生の声は厳しかった。
「一度できたことを、焦って二度目に繋げようとするな。身体へ覚えさせる前に、まず身体を守れ」
「……はい」
「検査結果を俺――」
先生は一度言葉を切った。
「私のところへ持ってこい。異常がなくても、今日は休め」
バルト先生はそれだけ言い残し、訓練場のほうへ歩いていった。
ティアナが僕の顔を覗き込む。
「今、こっそり訓練しようと思ったでしょ?」
「少しだけ」
「駄目だよ」
「はい……」
ティアナは医務室の前まで一緒に来てくれた。
「中にも入ろうか?」
「検査だけだから、一人で大丈夫だよ」
「本当に?」
「終わったらすぐ出てくる」
ティアナは少し迷ってから、僕の制服の袖を掴んだ。
「ここで待ってるからね」
「うん」
医務室の奥にある検査室には、円形の台座と一枚の金属盤が置かれていた。
魔力測定盤。
身体を流れる魔力の量や経路を調べるための魔導具で、学院生なら年に一度は検査を受ける。
「こちらへ手を置いてください」
医務係の指示に従い、手袋を外す。
左腕の紋章は、制服の袖に隠れている。
見えていない。
そう自分へ言い聞かせながら、両手を測定盤へ置いた。
「力を抜いてください。魔力を使おうとしなくて結構です」
「はい」
測定盤から青白い光が伸びた。
指先から手首へ。
腕を通り、肩、胸、脚へと、僕の魔力経路をなぞっていく。
右脚へ光が集まると、測定盤の上に注意を示す黄色い文字が浮かんだ。
「やはり、右脚の経路を酷使していますね」
「治りますか?」
「数日休めば問題ありません。ただし、同じ使い方を繰り返せば経路そのものを傷つけます」
その時だった。
左手から伸びていた青白い光が、突然消えた。
「え……?」
光は途切れたのではない。
制服に隠れた左腕の一部へ、吸い込まれていた。
台座にはめ込まれた小さな測定用魔石が、一瞬だけ黒く染まる。
心臓が跳ねた。
気づかれた。
頭の中に、その言葉だけが浮かぶ。
「今のは……」
医務係が測定盤へ顔を近づける。
僕は左手を引きそうになるのを、必死にこらえた。
ここで不自然に動けば、余計に怪しまれる。
白い衝立の向こうから、微かな金属音が聞こえた。
「失礼。古い測定器の不調です」
医務係は測定盤の側面を軽く叩いた。
「魔力切れと右脚の酷使以外、異常はありません」
「本当に……何もないんですか?」
「はい。三日ほど激しい運動を控えてください」
検査は、それで終わった。
手袋をはめ直しても、指先の震えが止まらなかった。
検査室を出ると、ティアナが椅子から立ち上がった。
「アルト?」
「待たせてごめん」
「それはいいけど……顔、真っ青だよ」
「少し疲れただけだよ」
横を通り過ぎようとした僕の左手首を、ティアナが掴んだ。
黒い紋章の近く。
思わず腕を引きそうになる。
ティアナは、その反応を見逃さなかった。
「何かあった?」
「……何もないよ」
また、嘘をついた。
ティアナを利用しない。
置いていかない。
そう約束したのに、僕は一番大事なことを話せないままでいる。
ティアナはしばらく僕を見つめていた。
けれど、手を離そうとはしなかった。
「話せる時に聞くって約束したから、今日は聞かない」
「ティアナ……」
「でも、一人で怖がるのは禁止だからね」
彼女は僕の手首から制服の袖へ指を移し、そっと掴み直した。
「次の授業、一緒に行こう」
「うん」
僕は何も話せなかった。
それでも、ティアナが隣を歩いてくれるだけで、呼吸が少し楽になった。
◇
放課後。
学院の地下へ続く階段を、一つの足音が下っていった。
その手には、「故障」として取り外された測定用魔石がある。
石は本来の透明な色を失い、中心だけが黒く濁っていた。
足音は、一般生徒の立ち入りを禁じられた扉の前で止まる。
封印を解除し、その奥にある迷宮観測室へ入った。
壁一面に並ぶ水晶板には、学院迷宮の各層で観測された魔力変動が記録されている。
潜入者は、一枚の水晶板を起動した。
映し出されたのは、迷宮崩落が起きた日の記録。
封印深部で周囲の魔力が一斉に消失し、黒い空白だけを残した波形だった。
そこへ、医務室から持ち出した魔石を重ねる。
黒い光が脈打つ。
二つの波形は、寸分違わず重なった。
「……見つけた」
潜入者は、衣服の下から小さな紋章を取り出した。
星と冠を組み合わせた印。
星冠教団。
大災害を世界の終わりではなく、穢れを消し去る救済と信じる違法宗教。その信仰は王国から禁じられているが、信徒は学院の内部にまで入り込んでいた。
紋章から、暗い光が浮かび上がる。
『報告を』
光の奥から、正体を隠すように歪められた声が響いた。
「対象を特定しました」
潜入者は黒く染まった魔石を握る。
「アルト・ロウェル。十五歳。属性適性なし」
『確証は』
「迷宮深部の反応と一致しています」
短い沈黙。
『魔神因子か』
「間違いありません」
潜入者は、水晶板に映る黒い波形を見つめた。
「――器が目を覚ました」
『今は捕らえるな』
歪んだ声が命じる。
『監視を続けろ』
「承知しました」
『器が自ら飢えるまで、学院の中で育てろ』
通信の光が消えた。
暗くなった観測室で、水晶板に小さな黒い光だけが残る。
その夜から、アルトが迷宮を見ているのではなく、迷宮の側がアルトを見始めた。
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