第118話 魔神が返事をした
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
地下迷宮から連れ戻された二日後、僕は今度こそ、ローディンへ行き先も目的も告げた上で椅子に座っていた。
場所は灰鬼騎士団本部の封印診察室。
厚い物理扉の前にはヴェラ副団長が立ち、退室経路と救護通路をもう一度確認している。
僕の普通の片手剣は、手の届かない武器架へ預けてあった。
左腕には治療布と黒銀色の封魔具。
二か所の固定具も外していない。
部屋の隅では、成人記録官が新しい記録紙へ時刻と立会人を書き込んでいた。
無断外出の事情聴取は、昨日までに終えている。
どの退避口を使ったのか。
どの経路を進んだのか。
身体に何が起きたのか。
能力を使用したか。
聞かれた事実には答えた。
地下迷宮へ行ったことは、僕自身の規則違反として記録された。現在も訓練参加は停止され、居住区の外へ出る時には成人監督者の許可が必要になっている。
あの夜に答えを求めたことが、正しくなったわけではない。
だから今回は、先にローディンへ話した。
第一覚醒の三呼吸目。
仲間へ向けるな、止まれという意味の言葉を口にした直後、飢えの向きが僅かに揺らいだように感じたこと。
ただし、その時にはフィア、ティアナ、セルフィナ、レグルス、ユリウス、成人防衛隊の動きも重なっていたこと。
僕の言葉だけが原因だとは言えないこと。
合同訓練後に起きた冷たい脈動は一度だけで、その後は再発していないこと。
黒い線の一時的な濃色化も残っていない。
空腹、味覚、嗅覚、視覚に変化はない。
ベルゼバスの声も、あの時から一度も聞いていない。
僕は、自分が実際に感じたことだけを報告した。
その上で頼んだ。
「今度は一人で確かめません」
ローディンの灰色の瞳を見て言った。
「許可されないなら、勝手にはやりません。成人監督の下で、一つだけ問いを投げさせてください」
ローディンはすぐに答えなかった。
僕が二日前に破ったものは、退避口の確認封だけではない。
主監督騎士へ先に報告するという、もっと大切な手順も破っている。
信じてもらえないなら、それも受け入れるつもりだった。
それでもローディンは、僕の申請を自分一人で握り潰さなかった。
ヴェラ副団長、セシリア、成人封印担当へ回し、最後にガイ団長の判断を求めた。
何度も条件を詰めた結果、一度だけの確認が認められた。
「勘違いするなよ」
壁際に立つガイ団長が、腕を組んだ。
無精髭も、整えきっていない髪もいつもどおりだ。団長外套も片側が少しずれている。
けれど、その目に普段の気怠さはなかった。
「地下へ抜け出したことと、調べるべき異変があることは別だ。これは褒美でも免罪でもねえ」
「はい」
「規則違反の記録は残る。今回の結果がどうなろうが消えねえ」
「分かっています」
「その上で、一度だけ、こっちの決めた条件で確認する。治療はセシリア、封印は封印担当、停止はローディンの判断が優先だ。最後の責任は俺が負う」
ガイ団長はそこで言葉を切った。
「お前が欲しい答えを持ち帰るためじゃねえ。生きて椅子から立つための手順だ」
僕は深く頷いた。
診察室の内側には、必要な成人担当者しかいない。
レイシアは床へ引かれた観察線の外側に立っていた。
第116話で冷たい脈動が起きた時の監督役だったため、正式な情報共有の範囲で立ち会っている。
淡い銀青色の長髪が、白い肩掛けの上へ流れていた。
澄んだ水色の瞳は僕の左腕を見ていたけれど、レイシアは自分から封魔具へ近づかなかった。
医療にも、封印にも手を出さない。
僕と目が合うと、その表情が少しだけ柔らかくなった。
「今度は、ちゃんと先に話してくれたね」
「うん」
「地下へ行ったことを、これで許したわけじゃないよ」
「分かってる」
「すごく心配したし、まだ怒ってる」
レイシアは穏やかな声のまま、そこを曖昧にしなかった。
それでも、僕を責める言葉だけで終わらせなかった。
「怖くなったら、答えを持ち帰れなくてもいいから戻ってきて」
水色の瞳が、僕から逸れない。
「返事より、アルトが戻ってくる方が大事だから」
「うん。今度は戻る」
「ローディンの停止命令は?」
「必ず従う」
レイシアは僅かに息を吐いた。
安心したわけではない。
けれど、僕の言葉を受け取ってくれた。
「では、開始前確認を行います」
ヴェラ副団長の声で、室内の空気が切り替わった。
成人封印担当が、僕の左腕を物理的な灯りの下で確認する。
治療布は必要な部分だけ開かれた。
黒い紋章は肩の手前で止まっている。
線の本数にも、濃さにも、二日前から明確な変化はない。
黒銀色の封魔具は正常。
二重固定にもずれはない。
再び治療布が整えられた。
セシリアが僕の右手首へ指を当てる。
「現在の痛みを、零から十で答えてください」
「左腕は二です。引きつるような痛みが少しあります」
「右脚は」
「痛みは一です。痺れはありません」
「空腹は」
「普段と同じです」
「味覚、嗅覚、視覚の変化」
「ありません」
「意識が遠のく感覚は」
「ありません」
セシリアは記録紙へ確認印を付けた。
「開始時点で、医療上の新しい悪化は認めません。ただし、呼吸の乱れ、応答停止、痛みの上昇があれば終了を勧告します」
「分かりました」
ヴェラ副団長が、別の紙を僕の正面へ置いた。
「許可するのは、契約境界へ意識を向けることだけです。《暴食》の発動、第一覚醒の誘発、封魔具への干渉は禁止します」
「はい」
「問いは一つ。返答の有無にかかわらず、定めた時間で終了します。問いへ対応した返答を認識した場合は、その時点で終了です」
「はい」
「成人側への報告が二呼吸以上途切れた場合も終了します。追加質問は禁止。紋章、封魔具、空腹、知覚のいずれかに変化を感じた場合、アルト本人にも即時報告義務があります」
ヴェラ副団長の琥珀色の瞳が細くなる。
「復唱してください」
「《暴食》と第一覚醒は使いません。封魔具と二重固定へ触れません。問いは一つだけ。返答があれば復唱し、ローディンの停止命令へ従います。異変があれば、すぐ報告します」
「確認しました」
ローディンが僕の斜め前へ椅子を置いた。
手を伸ばせば届く距離だ。
けれど、身体を押さえつけるためではない。
僕の呼吸と目の動きを確認し、成人側の声を確実に届けるための位置だった。
「アルト」
「はい」
「境界の奥へ追うな。返事がなくても失敗ではない」
「分かりました」
「戻れと命じたら」
「すぐ戻ります」
ローディンは短く頷いた。
成人記録官が時刻を書き込む。
「意識境界確認、開始します」
僕は背もたれへ身体を預けた。
両足を床へ置く。
右手は膝の上。
左腕には力を入れない。
一度、息を吸う。
ゆっくり吐く。
二度目の呼吸で、診察室の音を一つずつ拾った。
紙へ筆が触れる音。
セシリアが時間を数える音。
ローディンの静かな呼吸。
観察線の外側にいるレイシアの衣擦れ。
すべてが、いま僕のいる場所へ繋がっている。
目を閉じた。
暗闇が広がる。
けれど、別の場所へ移動したわけではない。
僕は椅子へ座っている。
足の裏には床の硬さがある。
右手の指も動かせる。
その感覚を残したまま、自分の空腹へ意識を向けた。
朝食から時間が経った身体の空腹。
それとは別に、左腕の奥へ沈んでいるもの。
冷たいわけでも、熱いわけでもない。
底の見えない穴のような飢え。
意識を向けるだけで、喉の奥が狭くなる。
怖い。
ベルゼバスが何を考えているのか、僕には分からない。
言葉を区別しているとしても、その意味を人間と同じように受け取っているとは限らない。
僕が歩み寄った一歩を、身体へ入り込む隙だと捉えるかもしれない。
「状態を報告しろ」
ローディンの声が届いた。
「意識はあります。診察室の音も聞こえています。空腹に変化はありません」
「左腕は」
「痛み二のままです。脈動はありません」
返事をすると、足元の感覚が戻ってくる。
僕は一人ではない。
成人側が見ているから安全だと決めつけることはできない。
けれど、異変が起きた時に報告し、止めるための人がいる。
二日前とは違う。
暗闇の奥へ、獣の姿は見えなかった。
目も、角も、爪もない。
ただ、巨大な何かが息を潜めているような圧迫感だけがある。
僕は、その圧迫感へ向けて名を呼んだ。
「ベルゼバス」
返事はない。
暗闇は動かない。
飢えも増していない。
僕は短く息を吸った。
「お前は僕を器と呼ぶ。でも、僕はアルトだ」
声に出した言葉は、同時に診察室にも届いている。
成人記録官の筆が動く音がした。
「僕は、仲間も、人間も、精霊も、魂も、肉体も喰わせない」
暗闇の奥から反発はない。
許可だと誤解されないよう、言葉を選ぶ。
「これまで僕は、お前に喰うな、止まれとしか言ってこなかった」
それは間違いではない。
喰わせてはいけないものを守るために、必要な拒絶だった。
これからも、その境界を消すつもりはない。
「でも、お前を存在しないことにして、ずっと無視するつもりもない」
声が僅かに震えた。
怖くないふりはできなかった。
それでも言葉を止めない。
「何を喰えばいいかを聞くんじゃない」
左腕の奥へ向けて、初めて問いを差し出す。
「何も喰わずに、僕へ貸せるものはあるか」
沈黙が落ちた。
一呼吸。
成人側の筆が止まる。
二呼吸目へ入る直前、ローディンの声が届いた。
「応答しろ」
「意識はあります。異変はありません」
答えながら、僕は暗闇を追わなかった。
声を探しに行かない。
飢えへ手を伸ばさない。
問いは差し出した。
返事がないなら、それを受け入れて戻る。
さらに一呼吸。
何も起きない。
やはり言葉など届いていないのかもしれない。
そう思った時だった。
暗闇の底で、何かが身じろぎした。
音ではない。
左腕の骨、そのさらに奥を、大きな爪でゆっくり擦られたような感覚。
空腹ではない。
痛みでもない。
封魔具も反応していない。
それでも僕は報告しようとした。
その前に。
獣じみた声が、意識の底から響いた。
『器。喰わずとも、腕ひとつなら、爪を貸す』
息が止まりかけた。
すべて喰え。
これまで聞いたのは、そればかりだった。
僕が何を拒み、誰を守ろうとしても、ベルゼバスは飢えを押しつけてきた。
けれど、いまの言葉は違った。
僕の問いに対応している。
喰わずに貸せるものはあるか。
その問いへ、爪を貸すと答えた。
「報告します」
僕は目を閉じたまま言った。
「ベルゼバスから返答を認識しました」
成人記録官の筆が走る。
「内容は」
ローディンが尋ねた。
僕は聞こえた言葉を、一語ずつそのまま復唱した。
「『器。喰わずとも、腕ひとつなら、爪を貸す』」
室内の空気が張り詰めた。
「アルト、帰還しろ」
ローディンの命令が即座に届く。
爪とは何か。
腕をどうするのか。
どうすれば借りられるのか。
聞きたいことが一度に浮かんだ。
けれど、問いは一つだけだ。
僕は約束した。
「はい」
追加の言葉を、暗闇へ向けなかった。
足の裏へ意識を戻す。
椅子の硬さ。
右手の指先。
診察室の空気。
紙とインクの匂い。
ローディンの声。
レイシアの気配。
一つずつ、自分のいる場所へ戻っていく。
暗闇の奥から、二度目の声は聞こえなかった。
飢えが追いかけてくることもない。
僕は目を開けた。
最初に見えたのは、正面に座るローディンだった。
「名前を言え」
「アルト・ロウェルです」
「現在地は」
「灰鬼騎士団本部の封印診察室です」
「問いの回数」
「一回です」
「返答後の追加質問は」
「していません」
ローディンは僕の瞳と呼吸を確認してから、セシリアへ位置を譲った。
「空腹を零から十で」
「三です。開始前と変わりません」
「左腕の痛み」
「二です」
「脈動」
「ありません」
「味覚、嗅覚、視覚」
「変化はありません」
セシリアは僕の右手首で脈を測り、瞳の動きと呼吸を確認した。
成人封印担当も、すぐに左腕へ物理的な灯りを向ける。
封魔具は正常。
二重固定にずれはない。
黒い紋章は肩の手前で止まっている。
線の本数にも増加はなかった。
手や腕に爪が生えたわけではない。
鱗も、黒い外殻もない。
僕の身体には、何の新しい力も現れていなかった。
「第一覚醒を示す変化は認めません」
成人封印担当が報告する。
「《暴食》の発動も確認されていません。契約境界への恒久的な変化については、現時点では認められません」
「医療上も、軽い緊張と疲労以外に新しい異常はありません」
セシリアが続ける。
「ただし、本日の追加確認には反対します」
「反対じゃなく禁止でいい」
ガイ団長が言った。
「今日はこれで終わりだ」
成人記録官は、僕が聞いた言葉を主観的応答の欄へ記した。
ベルゼバスの声を、成人側が聞いたわけではない。
本当に魔神が言ったのか。
僕の意識が作り出した言葉ではないのか。
返答の内容が真実なのか。
そのすべては、まだ確認できない。
それでも、問いへ対応した内容だったことは記録された。
「腕ひとつなら、爪を貸す」
ヴェラ副団長が記録紙を見つめる。
「全身ではなく、腕に限定した何らかの変化を示している可能性があります」
成人封印担当が慎重に言葉を選んだ。
「第一覚醒とは異なり、身体の一部分だけを魔神因子側へ近づける……そのようにも読めます。ただし、現時点では返答の解釈にすぎません」
「爪が本当に爪だとも限らねえ」
ガイ団長が腕を組み直す。
「貸すと言ったからって、代金がねえとも限らねえ。腕ひとつってのが、腕だけ変えるって意味か、腕一つ寄越せって意味かも分からん」
背筋が冷えた。
僕は、貸すという言葉の明るい方だけを見かけていた。
それが罠ではない証拠はない。
ベルゼバスは僕をアルトと呼ばなかった。
いまも器と呼んでいる。
「記録上、現象の可能性を区別する呼称が必要です」
成人記録官が確認する。
ガイ団長は少し考え、紙面を指した。
「《部分換装》――記録上はそう仮置きする」
その言葉を、成人記録官が囲み付きで書き込む。
「技の名前じゃねえ。分からねえ可能性へ付けた整理用の呼び名だ」
ガイ団長の視線が僕へ向く。
「お前が習得したわけでも、使えると証明されたわけでもねえ。実験も訓練も許可しない」
「はい」
「一人で境界へ入るのも禁止だ」
「はい」
「返事をしたから信用できる、なんて考えるなよ」
「考えません」
すぐに答えた。
ベルゼバスは僕の問いに返した。
それは確かに大きな変化だ。
けれど、友達になったわけではない。
僕へ従ったわけでもない。
誰かを喰いたいという飢えが消えた証拠もない。
ただ、僕が引いた境界を無視して「すべて喰え」と迫る代わりに、その境界へ沿うような一つの答えを返した。
それだけだった。
「確認手続きは終了します」
ヴェラ副団長の宣言で、成人記録官が終了時刻を書き込んだ。
救護通路は使われなかった。
僕はまだ椅子から立つ許可を待つ。
セシリアが最後の確認を終えて頷いた。
「ゆっくり立ってください。右脚に痺れが出たら、すぐ座り直してください」
「はい」
右足、左足の順に力を入れる。
痺れはない。
観察線の外側で待っていたレイシアが、正式な終了確認を待ってから僕のそばへ来た。
その指が、封魔具ではなく僕の右袖へそっと掛かる。
「ちゃんと戻ってきてくれて、よかった」
声は穏やかだった。
水色の瞳に残っていた緊張が、ようやく少しだけ解ける。
「返事があったことより?」
「そっちよりずっと大事」
レイシアは迷わなかった。
「返事があったからって、一人で続きを聞きに行かないでね」
「うん。一人ではやらない」
「次も、先に話して」
「次も必ず先に話す」
レイシアは僕の右袖を掴んだまま、小さく頷いた。
二日前、僕は焦って一人で地下へ向かった。
今日は、先に話した。
拒否される可能性も受け入れた。
決められた問いを守り、停止命令にも従った。
ベルゼバスへ歩み寄ったこと以上に、戻る場所を残したまま歩み寄れたことが大切なのかもしれない。
《部分換装》。
記録紙には、まだ可能性を整理するための仮称としてしか存在しない。
どんな爪なのか。
本当に貸すつもりなのか。
何を代わりに求めるのか。
僕には何一つ分からなかった。
それでも、拒絶する声しか届かなかった暗闇へ、僕は初めて問いを差し出した。
和解でも服従でもない。それでも僕から差し出した問いに、ベルゼバスは初めて『喰う』以外の答えを返した。
「面白かった!」
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