第117話 灰鴉の診察
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
その夜、フィアとセルフィナの部屋から物音が消えたあと、僕は灰鬼騎士団本部の自室をこっそり抜け出した。
廊下へ出て、音を立てないよう扉を閉める。
僕の部屋の左隣にはフィアがいる。
右隣にはセルフィナがいる。
二人には何も伝えていない。
もちろん、二人に僕を夜通し見張る義務はない。僕の主監督騎士はローディンであり、フィアとセルフィナは僕とは別の新人騎士だ。
だから、これは二人の失敗ではない。
僕が自分の意思で隠したことだった。
左腕には治療布と黒銀色の封魔具。二か所の固定具も、昼間に成人封印担当が確認した状態のままだ。
外套の下には普通の片手剣を下げ、右手には手提げ灯を持っている。
少量の飲料水。
灰鬼騎士団の団員証。
治療上の注意と、昼間の検査結果が記された記録札。
小さな鞄へ入れたのは、それだけだった。
レイシアが用意してくれた異常時用の食料には手を付けていない。
普段と違う空腹が起きたら、食べる前に報告する。
痛みも、空腹も、変だと思ったことも隠さない。
昼間、僕はレイシアとそう約束した。
左腕の冷たい脈動は、すでに報告してある。ローディンにも、成人治療職員にも、成人封印担当にも、レイシアにも伝えた。
だから約束は破っていない。
そんな言い訳が、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、すぐに自分で否定する。
症状を報告したことと、危険な行動を隠さないことは別だ。
僕はいま、自分の居場所を隠している。
もし地下で左腕の異変が再発しても、助けを呼べない場所へ一人で向かおうとしている。
レイシアだけではない。
ローディンや成人側が僕へ預けてくれた信頼も、勝手に持ち出していた。
分かっている。
分かっていても、昼間の冷たい脈動が頭から離れなかった。
成人側の確認では、封魔具も二重固定も正常だった。黒い紋章の範囲も広がっていない。
けれど、原因だけは分からなかった。
灰鴉なら、何かに気づくかもしれない。
灰鴉は、僕へ剣と、武器を失った時の戦い方と、生き残る方法を教えた人だ。
《暴食》を開く方法ではなく、閉じるための方法を叩き込んだ師でもある。
けれど、その存在は学院にも、王国の騎士団にも知られていない。
僕は灰鴉の名を、学院長にも、成人治療職員にも、仲間にも話したことがなかった。
正式な訪問許可を求めるなら、まず誰を訪ねるのか説明しなければならない。
説明すれば、灰鴉は姿を消すかもしれない。
騎士団側が彼を危険視するかもしれない。
ただし、それは全部、僕の推測だ。
話したからといって、必ず灰鴉が捕らえられるわけではない。監督付きの訪問方法が検討された可能性だってある。
僕は相談すらしていない。
拒否されてもいないのに、拒否されると決めつけた。
灰鴉を守りたいという気持ちの奥に、早く答えを知りたいという焦りがあった。
結局、僕はその焦りに負けたのだ。
新人居住区から階段を下り、旧城塞の下層へ向かう。
灰鬼騎士団本部には、火災や崩落が起きた時のための緊急退避口が複数ある。その一つが、古い石壁の奥に残されていた。
内側からなら、閂を外して開けられる。
人が逃げるための扉を、外からの鍵で閉じ込める構造にはできないからだ。
その代わり、閂には番号を刻んだ確認札と、細い封紐が結ばれている。
扉を開ければ、必ず封が切れる。
次の巡回で見つかる。
僕は灯りを足元へ置き、右手で閂を握った。
止まるなら、ここだった。
自室へ戻ることもできる。
ローディンを起こして話すこともできる。
明日の朝まで待つことだってできる。
それでも、僕は閂を引いた。
乾いた音とともに封紐が切れ、番号札が石床へ落ちた。
僕は番号札を拾い、扉の脇へ置いた。
元へ結び直そうとはしない。
戻しても切断面を見れば分かる。細工を加えれば、避難設備そのものへの妨害になる。
僕は扉を必要な幅だけ開き、外へ出た。
退避口には、外側から押せば閉じた位置へ戻る物理的な留め具がある。
扉を壊さず閉める。
これで緊急時にも使える。
そして、切れた確認封だけが残る。
全警備を欺いたわけではない。
一時的に、巡回より先へ出ただけだ。
次の巡回が来る前に診察を受け、戻れればいい。
そんな都合のいい計算をしていた。
旧城壁沿いの夜道を進み、石組みの排水路へ入る。
王都の灯りが背後へ遠ざかっていった。
手提げ灯の火を絞る。
排水路の底には薄く水が流れ、靴底へ泥が絡んだ。壁へ近づけすぎた灯りから、時折、黒い煤が石へ付く。
足跡も煤も、僕は消さなかった。
消す余裕がなかったのではない。
そこまでして追跡を妨げることが、怖かった。
右脚へ軽い疲労が溜まってくる。
痺れはない。
左腕にも、あの冷たい脈動は戻っていない。
それでも、一人であることが進むほど重くなった。
ここで右脚が痺れて動けなくなっても、状態を報告する相手はいない。
左腕の紋章が変化しても、封魔具に異常が起きても、成人封印担当へ引き渡してくれる者はいない。
単独行動を禁じられた意味が、地下へ下りる一歩ごとに明確になっていく。
それでも引き返さなかった。
以前通った道だけを選び、未知の分岐には入らない。
古い排水路から石段へ移る。
二つ目の横穴を右へ曲がり、崩れた柱の手前にある細い隙間へ身体を滑り込ませた。
そこから先は、王都側の古い図面にも記されていない道だった。
少なくとも、灰鴉からはそう聞いている。
奥へ進むと、見覚えのある石造りの通路へ出た。
その先に、細い灯りが見えた。
石台。
清潔な布。
記録紙。
物理的な測定具。
以前と同じ簡素な診察場所で、一人の男が紙へ何かを書いていた。
四十歳前後に見える灰鴉は、僕の足音を予知したわけではない。
手提げ灯が壁へ落とした影を見て、筆を止めたのだ。
振り返った目が、僕の灰鬼の制服と左腕を順番に見た。
「一人か」
「はい」
「誰かに話したか」
「いいえ」
「許可は」
「受けていません」
短い沈黙が落ちる。
灰鴉は立ち上がり、僕の背後に誰もいないことを灯りで確かめた。
それから、低い声で言った。
「診察以前に、来る方法を間違えたな」
「……はい」
「単独行動を禁じられた患者が、夜中に地下迷宮へ来るな」
言い返せなかった。
灰鴉は怒鳴らない。
だからこそ、一つ一つの言葉が逃げ道を塞いだ。
「私の存在を話せないから、一人で来たか」
「それもあります」
「それだけではないな」
僕は答えられなかった。
質問の形だけで、焦りを見抜かれていた。
灰鴉は僕の心を読んだのではない。
夜中に規則を破ってここまで来たという事実を見ただけだ。
「戻れ、と言いたいところだが」
灰鴉の視線が、治療布の上から黒銀色の封魔具へ落ちる。
「ここまで来た患者を確認もせず歩かせるのは、それはそれで間違いだ。何があった」
僕は昼間の出来事を話した。
合同訓練が正式に終わったあと、装具を外している最中、左腕の内側へ冷たい脈動が一度だけ走ったこと。
強い痛みも、異常な空腹もなかったこと。
既存の黒い線が、一呼吸ほど濃く見えたこと。
すぐに報告し、成人治療職員と成人封印担当の確認を受けたこと。
封魔具と二重固定は正常で、紋章の範囲にも拡大がなかったこと。
「騎士団側の診断は」
「原因未確定の微細な変動として記録されました。追加訓練は禁止です」
「妥当だ」
灰鴉は即座に答えた。
「封印担当も治療職員も、やるべきことをやっている。その判断を否定する材料は、いまの話にはない」
「それでも、診てもらえますか」
「最低限だけだ。再現はしない。封魔具も外さない」
「はい」
「返事の前に確認する。治療布の必要範囲を開き、紋章の外縁と封魔具の固定状態を見る。触れるのは布と、紋章のない皮膚だけだ。同意するか」
「同意します」
僕は石の椅子へ座った。
灰鴉は手を洗い、清潔な布を用意する。
僕が右手で外套と左袖をずらすと、灰鴉は治療布の留め方を確認してから、必要な部分だけを緩めた。
黒銀色の封魔具には触れない。
二か所の固定具も動かさない。
物理的な灯りの角度を変え、拡大鏡を通して黒い線を一本ずつ追っていく。
以前、灰鴉自身が記録した紋章の写しを横へ並べ、細い測定具で肩までの距離を比べた。
「肩の手前で止まっている。範囲の拡大はない」
灰鴉は淡々と記録する。
「線の本数にも、明確な増加はない。濃くなったのはどれだ」
僕は右手の指で、触れないよう位置だけを示した。
「この内側です」
「現在は前の記録と大きく変わらん。一時的な濃色化も残っていない」
封魔具の外側を目で確認し、固定具の隙間へ薄い確認片を当てる。
どちらも外さず、ずれの有無だけを調べていた。
僕が持参した記録札にも目を通す。
ただし、灰鴉はそこから何かを書き写すことはしなかった。
「封魔具は正常。二重固定も維持されている。騎士団側の確認結果と矛盾しない」
「原因は分かりますか」
「分からん」
灰鴉は断言した。
分からないことを、知っているようには言わない。
「空腹は」
「普段と変わりません」
「味覚」
「変化はありません」
「嗅覚、視覚」
「ありません」
「契約境界に、新しく触れた感覚は」
「ありません」
「声は聞いたか」
「聞いていません」
ベルゼバスの獣じみた声は、昼間も今も聞こえていない。
「第一覚醒の兆候は」
「ありません」
「なら、今回の脈動だけで第一覚醒の再発とも、ベルゼバスの意図とも断定できん。微細な変動として記録するしかない」
灰鴉は治療布を元の位置へ戻した。
留め方も、成人治療職員が整えた時と同じ位置へ合わせる。
封魔具と二重固定は、そのままだ。
「次は第一覚醒の経過を話せ。一呼吸ごとに分けろ」
「記録札に書かれていることだけでは足りませんか」
「それは外から見た記録だ。当人がどう感じたかとは別だ。混ぜるな」
僕は頷いた。
すべてを鮮明に覚えているわけではない。
そのことを最初に伝えた。
第一覚醒が始まった瞬間を、自分の意思で選んだわけではないこと。
一呼吸目には、空腹が僕のものなのか、左腕の内側にあるものなのかも分からなかったこと。
けれど、周囲にはすでに仲間たちが作った条件があった。
ティアナが人と精霊と結界を分けていた。
フィアが三本の誘導線を断ち、セルフィナが対象の位置へ印を置いていた。
レグルスとユリウスが、心臓へ続く一方向の経路を維持していた。
成人防衛隊も、盾列と退路を保っていた。
二呼吸目。
外へ放出された再生魔力だけへ、飢えの向きが絞られていった。
けれど、それは僕一人が対象を選んだからではない。
仲間たちが、他のものへ届かない形を作ってくれていた。
三呼吸目。
飢えが、その枠から外へ広がりかけたように感じた。
僕は仲間へ向けるな、止まれという意味の言葉を口にした。
正確な言葉は思い出せない。
「分からない部分を埋めるな。そのまま続けろ」
「はい」
四呼吸目。
仲間たちが経路と境界を維持している間に、僕は閉じようとした。
自分の意思で閉じる動作をしたことだけは覚えている。
けれど、その前後にはフィアたちの動きと、成人側の防護が重なっていた。
どれが先だったのか。
どの行動が、どれだけ効いたのか。
僕の記憶だけでは分からない。
灰鴉は僕の話を聞きながら、記録紙へ四本の短い線を引いた。
「完全停止まで四呼吸。持参した記録とも一致する」
「僕は、最後に閉じました」
「閉じる意思を持ったことまでは否定しない」
灰鴉の声は冷たかったが、僕の行動を無価値にはしなかった。
「だが、その時点で対象は、仲間たちの働きによって外へ放出された再生魔力へ絞られていた。経路も維持され、成人側の防護と退路もあった」
四本目の線へ筆先が触れる。
「お前一人の意思だけを抜き出して、同じ結果になるとは言えん」
「少しも制御できていなかったんですか」
「その言い方で、自分に都合のいい答えを探すな」
胸の奥へ、言葉が刺さった。
第一覚醒を少しは制御できた。
そう認めてほしかった。
灰鴉は四本の線を指で示す。
「生き残ったことは成功だ。第一覚醒は成功じゃない」
「……はい」
「お前が制御したんじゃない。仲間と成人側が、失敗を四呼吸で止めた」
視線を落としそうになる。
けれど、逃げずに灰鴉を見た。
「四呼吸で終わったから、制御できたように見えているだけだ」
「僕が閉じようとしたことも、失敗なんですか」
「そこだけを切り取るな。お前が抵抗しなければ、四呼吸で止まらなかった可能性はある」
灰鴉は一本目から四本目まで、順に指を滑らせた。
「だが、お前の抵抗だけでも止まらなかった可能性が高い。安全な開始方法がない。再現性もない。対象を単独で限定できない。停止条件も確立していない」
その視線が封魔具へ落ちる。
「身体には反動が残り、いまも封魔具と成人監督を必要としている。それを完全制御とは呼ばん」
何も言い返せなかった。
フィアが線を切った。
ティアナが分けた。
セルフィナが見つけた。
レグルスとユリウスが道を保った。
成人防衛隊が、盾列と退路を維持した。
そのすべてを僕一人の制御と呼べば、彼らの行動を奪うことになる。
「……分かりました」
悔しくないわけではない。
自分の力だけで止めたと言えたら、少しは安心できた。
けれど、安心のために事実を曲げれば、次も四呼吸で終わると思い込んでしまう。
「さっき、言葉を口にしたと言ったな」
灰鴉が尋ねた。
「はい。みんなへ向けるな、止まれ……そういう意味でした」
「直後に何があった」
「飢えの向きが、少しだけ揺れたように感じました」
「確かか」
「確かだとは言えません。記憶が混ざっています。仲間と成人側が動いたのも、ほとんど同じ時でした」
「時間差は」
「一呼吸もなかったと思います」
灰鴉はしばらく黙った。
拡大鏡を置き、以前の紋章記録へ視線を落とす。
「以前より、言葉を細かく区別した可能性はある」
「ベルゼバスが、僕の言葉を聞いたんですか」
「聞いたと断定していない」
「でも、向きが変わったなら」
「仲間の介入で変わった可能性も、成人側が経路を保った結果として変わった可能性もある。お前の記憶が、結果を知った後で順序を作り直している可能性もある」
灰鴉は推測と事実を切り分けるように、記録紙の中央へ一本の線を引いた。
「確定しているのは、お前が制止を口にしたこと。その直後、一呼吸未満の範囲で飢えの向きに変化があったこと。外部の介入も同じ時間帯に重なっていたことだ」
「ベルゼバスが、制止と許可を分けた可能性は?」
「ある」
僅かな希望が胸へ灯る。
けれど、灰鴉はすぐに続けた。
「可能性があるだけだ。仲間とそれ以外を区別したのか、制止と許可を別の刺激として処理したのか、単に感情の強さへ反応したのかも分からん」
「言葉を理解し始めているわけではないんですか」
「理解したとは言っていない。お前の言葉を、以前より細かく区別した可能性があるだけだ」
灰鴉の指が記録紙を軽く叩く。
「区別と服従は別物だ」
「……はい」
「返事がない以上、対話が成立したとも言えない」
ベルゼバスの声は聞こえていない。
僕の問いへ応じたこともない。
左腕の奥にあるものが、僕の言葉を人間の言葉として受け取った証拠は、どこにもなかった。
それでも、ただの音ではなく、違う種類のものとして分けたのかもしれない。
その可能性は、希望だけではない。
もし区別しているなら、ベルゼバスは以前より僕へ近づいていることになる。
何を聞き、何を選び、どこへ飢えを向けるのか。
僕にはまだ何も分からない。
「確かめる方法は」
口にした瞬間、灰鴉の目が鋭くなった。
「言葉を聞かせるために、第一覚醒を再現しようとするな」
「しません」
「封魔具を外して呼びかけるな。一人の時に試すな。眠る前に返事を待つような真似もするな」
「はい」
「いまのお前には、反応を確かめる手段より、反応が起きても止められない危険の方が大きい」
僕は左腕を見た。
黒い線は動かない。
封魔具も沈黙したままだ。
「今回の冷たい脈動も、言葉の区別と関係がありますか」
「不明だ。結びつける材料がない」
灰鴉は診察記録を閉じた。
「戻ったら、冷たい脈動が再発していないこと、紋章と封魔具に変化がなかったことは報告しろ」
「あなたの診察を受けたこともですか」
灰鴉はすぐには答えなかった。
学院にも、騎士団にも知られていない存在。
第零層で何を監視し、なぜ僕へ剣と《暴食》の閉じ方を教えたのかも、灰鴉はすべてを話していない。
「私は騎士団の前には出ない」
低い声だった。
「だが、私を隠すために身体の異変まで隠すな」
「誰に診てもらったか聞かれたら」
「嘘をつけとは言わん。答えを決めるために、さらに嘘を重ねるな」
厳しい言葉だった。
灰鴉は僕に、騎士団へ自分を差し出せとは言わない。
同時に、灰鴉を守るという理由で症状を隠すことも許さない。
「無断で本部を出たことは、お前自身の判断として報告しろ。私の存在を言い訳に使うな」
「はい」
「次も一人で来るな」
「でも、誰にも話せないなら」
「だから来るなと言っている」
言葉が途切れた。
灰鴉の顔は変わらない。
けれど、その拒絶が僕を遠ざけたいだけのものではないことは分かった。
一人で来れば、今夜と同じ危険を繰り返す。
誰かを連れて来れば、灰鴉の存在を明かす。
いまの僕には、その間を安全に繋ぐ道がない。
「まず、自分が置かれた場所で生き残れ」
灰鴉は言った。
「答えを急いで、戻れなくなるな」
その時、灰鴉が顔を上げた。
僕にはまだ何も聞こえない。
灰鴉は灯りを一つ消し、石造りの通路へ耳を澄ませた。
しばらくして、遥か上の排水路から微かな音が伝わってくる。
金属で補強された靴底。
一定の間隔。
急いでいても、足場を確かめる歩き方。
「追跡が入った」
灰鴉が記録紙をまとめる。
「もう見つかったんですか」
「お前は痕跡を消していない」
「消しませんでした」
「それだけは正しい。逃げ切るための無断外出ではなかったと、痕跡が示している」
灰鴉は褒めなかった。
僕のしたことが正しくなったわけでもない。
ただ、さらに悪くしなかった事実を確認しただけだ。
その頃、灰鬼騎士団本部では、巡回中の成人警備担当が切れた確認封を発見していた。
それは後でローディンから聞いた。
番号札と退避口を照合し、新人居住区の在室確認が行われた。
僕の不在が確定すると、成人警備担当はすぐローディンへ報告した。
フィアとセルフィナは僕の監督者ではない。
両隣の部屋にいたというだけで、責任を負わされることもなかった。
ローディンたちが見つけたのは、開閉された緊急退避口と、切れた確認封。
旧城壁沿いに残った泥の足跡。
排水路の壁に付いた手提げ灯の煤。
僕の靴底から落ちた泥だった。
以前、僕がこの地下迷宮へ入った記録など、騎士団側には存在しない。
灰鴉のことも、奥に診察場所があることも知らない。
ローディンは過去の記録から行き先を知ったのではない。
成人警備担当と痕跡を一つずつ確認し、排水路の中へ入った。
けれど、水が流れる場所から先では足跡が薄れる。
分岐も複数ある。
ローディンが辿り着けるのは、僕が通った地下迷宮の入口付近までだ。
灰鴉のいる隠し通路までは届かない。
少なくとも、今夜は。
「戻れ」
灰鴉が言った。
「あなたは」
「別の道を使う」
灰鴉は診察道具と記録紙を布で包む。
僕が持参した記録札だけを、右手へ返した。
「ここで見たものは残さない。お前も私を庇うために追跡者と争うな」
「争いません」
「逃げるな。停止を命じられたら従え」
「はい」
「診察結果を、自分の都合で制御の証明へ変えるな」
最後にそう言い残し、灰鴉は石台の奥にある狭い通路へ入った。
石壁に隠されていたわけではない。
灯りの角度を変えなければ、ただの暗がりにしか見えない道だった。
足音はすぐに遠ざかる。
魔法を使った気配はない。
僕も手提げ灯を持ち直し、来た道を戻った。
走らない。
右脚の疲労を確かめながら、石段を上る。
知らない分岐へ入らず、排水路へ続く道だけを選ぶ。
左腕に脈動はない。
空腹も普段と変わらない。
味覚も、嗅覚も、視界も正常だ。
それでも胸の奥には、灰鴉の言葉が残っていた。
生き残ったことは成功。
第一覚醒は成功ではない。
閉じたのは僕一人の力ではない。
仲間と成人側が、失敗を四呼吸で止めてくれた。
排水路へ戻ったところで、前方に灯りが揺れた。
一つではない。
奥の分岐を成人警備担当が確認し、中央の道をローディンが進んでくる。
灰鴉の通路とは違う方向だ。
彼らは灰鴉を見ていない。
あの診察場所にも辿り着いていない。
ローディンが僕の姿を認めた。
灰色の瞳が、僕の顔、足元、左腕の順に動く。
「アルト。そこを動くな」
僕は即座に止まった。
逃げなかった。
片手剣へ触れず、《閃駆》も使わない。
ローディンは僕との距離を詰めると、怒りを口にするより先に身体状態を確認した。
「現在の異常は」
「ありません。左腕の紋章拡大なし。封魔具と二重固定も維持されています。冷たい脈動の再発もありません」
「能力を使ったか」
「使っていません。第一覚醒も、《暴食》も、《閃駆》も使用していません」
「右脚は」
「軽い疲労があります。痺れはありません」
「空腹と知覚は」
「普段と変わりません」
ローディンは成人警備担当へ視線を向けた。
「身体確認を優先する。本部へ連絡。成人治療職員と成人封印担当を待機させろ」
「承知しました」
成人警備担当が来た道を戻っていく。
ローディンは僕の手提げ灯と泥の付いた靴を見た。
「どこまで行った」
「地下迷宮の奥です」
「何をしに行った」
「左腕に起きた冷たい脈動の理由を確かめるためです」
嘘ではない。
けれど、すべてでもない。
ローディンの視線が僕から外れない。
「誰にも告げずに出た理由も含め、戻ってから最初から話せ」
「はい」
灰鴉の存在について、どう答えるのか。
まだ決められていなかった。
ただ、今ここで逃げることだけはしなかった。
知りたかったことは、少しだけ増えた。
答えは増えなかった。
第一覚醒は成功ではない。
僕一人が制御したのでもない。
四呼吸で失敗を止めてくれた仲間と成人側がいたから、僕はここにいる。
そして、止まれと口にした直後の僅かな揺らぎだけが、確定できない可能性として残った。
理解でも服従でもない。それでもベルゼバスは、以前より僕の言葉を区別し始めているのかもしれなかった。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
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面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
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