第114話 剣以外のフィア
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
僕の新人査定が終わった日の午後、灰鬼騎士団での最初の生活指導は、剣ではなく一組の寝具から始まった。
「重い物は持たないでください」
僕が寝具箱へ右手を伸ばす前に、ヴェラ副団長から止められた。
「持つのは右手です」
「片手で持とうとしている時点で許可できません」
反論する前に、赤褐色の髪を結んだリディアが寝具箱を持ち上げる。
「セシリアから午後は休息って言われてるでしょ。新人査定が終わったからって、治療記録まで終わったわけじゃないよ」
「はい……」
午前中の査定による疲れは、まだ身体に残っていた。
右脚に痺れはない。
けれど、左腕には木剣を受けた時の引きつりが僅かに残っている。
黒銀色の封魔具も二重固定も変わらないが、無理をしてよい理由にはならなかった。
僕たちが案内されたのは、古い城塞の一角を改装した新人居住区だった。
石造りの廊下を挟んで、小さな個室が並んでいる。
割り当てられたのは三つの部屋。
僕の部屋が中央。
左隣がフィア。
右隣がセルフィナだった。
「隣室であっても、三名を同じ班へ配属したという意味ではありません」
ヴェラ副団長が三本の鍵を配る。
「アルト騎士の監督責任はローディン騎士と、正式な成人監督系統にあります。隣室の二名へ夜間監視や制止義務を負わせることもありません」
「承知しました」
セルフィナが右隣の扉を開ける。
フィアも左隣へ入った。
部屋の広さと設備は三室とも同じだった。
一人用の寝台。
小さな机と椅子。
壁際の収納棚。
洗面器。
照明と鍵。
豪華ではないが、床にも棚にも埃はない。
通路を塞ぐ家具も置かれていなかった。
入浴や着替えに使う区画は別の場所にあり、個室は完全に一人で使える。
「最初に寝具を整えます」
ヴェラ副団長が告げる。
「その後、基礎装具、日用品、共同厨房の順です」
「生活指導って、そこまでやるの?」
フィアが尋ねた。
「戦えることと、生きて生活できることは別の技能です」
ヴェラ副団長の返答に迷いはない。
「前衛、偵察、事務、性別を問わず、最低限の生活技能を身につけてもらいます。任務先で寝床も食事も用意されるとは限りません」
「分かった」
「なお、部屋の見栄えは査定しません。火気、鍵、退路、必要物資の位置を確認します」
ヴェラ副団長はフィアの部屋の前に立った。
扉は開いたままだ。
僕とセルフィナは廊下側にいて、リディアが寝具箱を室内へ運び入れる。
僕は重い物へ触れない。
フィアは寝台へ敷布を広げ、四隅の固定紐を手に取った。
迷いのない動きだった。
右上。
左下。
残る二本も同じ強さで引く。
布の皺が消え、寝台へぴったりと張り付いた。
「綺麗ですね」
セルフィナが言う。
「うん」
僕も頷いた。
剣の柄巻きのように、間隔まで揃っている。
フィアは最後の紐を結んだ。
固い結び目ができる。
一度引き、確認する。
それから、布の位置を僅かに直そうとした。
動かない。
フィアが結び目へ指を掛ける。
強く締まりすぎて、指先を入れる隙間がなかった。
もう一度試す。
右から。
次は左から。
フィアの眉が少しずつ寄っていく。
「切る?」
フィアが寝台脇へ置いた日用品箱を見る。
「切ったら、次に固定できないよ」
「予備は?」
「壊れてない紐を切るための予備はないと思う」
フィアは黙った。
紐へ指を掛けたまま、さらに力を入れようとする。
「もう少し強く引いたら、余計に固くなるよ」
「分かってる」
「うん」
僕は廊下から動かずに待った。
フィアは何度か角度を変えた。
それでも解けない。
やがて指を止め、僕を見る。
「剣の柄と同じに締めた」
「寝具は手の中で暴れないから、そこまで強くしなくていいよ」
「先に言って」
「もう結んでたから」
フィアは結び目へ視線を戻す。
「自分で直す」
「分かった」
少し待つ。
フィアは爪を入れようとして、手を止めた。
無理に解けば爪か紐を傷めると判断したらしい。
以前のフィアなら、僕たちがいなくなるまで待ったかもしれない。
誰にも見られないところで解いて、最初から失敗などしなかった顔をした気がする。
けれど今は、その場から逃げなかった。
「アルト」
「何?」
「……手伝って」
「うん」
僕はフィアの許可を得て、部屋へ一歩だけ入った。
左腕は使わない。
右手の指で、結び目そのものではなく、手前の輪を押し戻す。
「ここへ力を集めるんじゃなくて、二か所に分ける。片方を緩めてから、もう片方を戻すんだ」
フィアが反対側の紐を持つ。
「こっち?」
「そう。少しだけ」
二人で結び目を緩める。
固かった輪に隙間が生まれた。
そこからは、フィアが一人で解いた。
「次は強く引かない」
「少し皺が残っても眠れるからね」
「皺は取る」
そこは譲らないらしい。
今度は固定する場所を二つに分け、必要な分だけ張る。
布は十分に伸び、結び目にも指一本分の余裕が残った。
ヴェラ副団長が確認する。
「問題ありません」
「最初の方が綺麗だった」
「朝まで解けない寝具より、朝に片づけられる寝具を評価します」
フィアは納得しきれない顔だった。
それでも結び直そうとはしなかった。
次は基礎装具の確認だった。
新人へ支給されたのは、儀礼用の制服ではない。
日常任務と訓練に用いる装具帯。
水筒。
小物入れ。
応急布。
停止笛。
簡単な記録札を収める薄い革入れ。
フィアは装具帯を机へ広げ、迷わず配置を決めた。
右と左の重さが揃っている。
剣を抜く動作へ干渉しない。
走っても揺れにくい位置だ。
僕より早く、ずっと綺麗に配置を終えた。
「剣士としては優れた配置です」
ヴェラ副団長が言う。
「右腕を動かさず、左手だけで停止笛を取ってください」
フィアの手が止まった。
右腕は身体の横へ下ろしたまま。
左手を伸ばす。
停止笛は右腰の少し後ろにある。
指先が届かない。
身体を捻れば届きそうになるが、右肩まで動いてしまう。
「届かない」
フィアはすぐに認めた。
「応急布は?」
左腰の後ろ。
こちらも剣の鞘を避けるため、取り出しにくい位置へ置かれている。
フィアは左手を伸ばし、途中で止めた。
「これも」
「現在の右腕の治療記録を考慮していない配置です」
ヴェラ副団長は怒らなかった。
事実だけを告げる。
「戦闘時に邪魔にならないことへ意識が偏りましたね」
フィアは装具帯を見る。
「剣を振る前提で置いた」
「負傷後も生きて帰る前提を加えてください」
僕は装具帯の左前を指す。
「停止笛はここなら、左手ですぐ取れると思う。応急布は中央寄り。剣を抜く時も、多分ぶつからない」
フィアが自分の腰へ装具帯を当て、位置を確かめる。
「アルト。帯、持って」
「ここでいい?」
「うん。触るのは帯だけ」
僕は右手で端を支えた。
フィア自身が留め具を外し、停止笛と応急布を移す。
左右の重さは少し崩れた。
けれど、右腕を動かさずに両方を取り出せる。
ヴェラ副団長も確認した。
「合格です」
「左右が揃ってない」
「見栄えを整えて倒れるよりは良いでしょう」
「分かってる」
フィアは少し不満そうに答えた。
それでも元の位置へ戻さなかった。
「失敗そのものより、隠して事故へ変える方を重く扱います」
ヴェラ副団長は僕たち三人へ告げる。
「届かなかったなら、届かないと報告する。それで修正できます」
僕が痛みを報告することと、根は同じなのかもしれない。
できないことを隠せば、記録も準備も間違ったまま進む。
生活用品の確認では、フィアの訓練着の予備に、緩んだボタンが一つ見つかった。
フィアは補修道具箱を開く。
選んだのは、革具用の太い針と蝋引き糸だった。
「それで縫うの?」
僕が尋ねる。
「取れないようにする」
「取れないと思うけど、布が負けるよ」
フィアが針と訓練着を見比べた。
「針は針」
「用途が違う」
僕は日用品箱の端にある、小さな裁縫包みを指した。
孤児院でも似たものを使っていた。
細い針。
柔らかい糸。
予備のボタン。
「こっちが衣服用だよ」
フィアは蝋引き糸を元へ戻し、細い針を取った。
「細い」
「布には、それくらいでいい」
「折れそう」
「横へ曲げなければ大丈夫」
フィアは机へ予備の訓練着を置き、自分で糸を通した。
剣先を狙った場所へ運べるだけあって、針穴へ糸を入れること自体は一度で成功した。
問題は力加減だった。
一針目を強く引きすぎ、布が寄る。
フィアが眉を寄せた。
「引きすぎ」
「柄巻きじゃないからね」
「分かってる」
二針目からは少し緩める。
綺麗とは言いにくい。
それでも、ボタンは必要な位置へ固定された。
「使用には問題ありません」
セルフィナが近くから確認する。
「見た目は?」
「最初の試みとしては、許容範囲だと思われます」
「遠回し」
「正確に述べました」
フィアは糸を切り、裁縫道具を用途別の場所へ戻した。
同じ失敗はしないらしい。
部屋と装具の確認が終わると、ヴェラ副団長は別の団務へ戻った。
午後の生活指導は、リディアが引き継ぐ。
案内された共同厨房は、居住区の一階にあった。
広い調理台が二つ。
刃物は種類ごとに固定され、調味料の容器には文字と印が付けられている。
火の周囲に燃えやすい物はない。
水桶と消火布もすぐ近くに置かれていた。
「灰鬼では、前衛も偵察も事務も、最低限の料理を覚える」
リディアが根菜の入った籠を置く。
「任務先で料理担当が負傷したら、食べずに帰るわけにはいかないからね。男も女も関係なし」
「何を作るの?」
フィアが尋ねる。
「根菜スープ。切る、煮る、味を付ける。今日はそれだけ」
僕は重い鍋を持たず、卓上で乾燥香草を分ける役を与えられた。
セルフィナは根菜を洗い、傷んだ部分を確認する。
フィアは包丁を受け取った。
その瞬間だけ、動きから迷いが消えた。
根菜を固定する。
刃を入れる。
一定の厚さで切り分ける。
速すぎて危ないということもない。
指の位置も、刃を止める場所も正確だった。
調理台には、ほぼ同じ大きさの根菜が並んでいく。
「綺麗」
僕が言うと、フィアは当然という顔をした。
「刃物だから」
「包丁を剣扱いしないでね」
リディアが注意する。
「してない」
「ならよし」
切った根菜を鍋へ入れ、火へ掛ける。
僕が香草を加え、セルフィナが灰汁を取った。
最後にフィアが塩を量る。
棚には二種類の計量匙があった。
柄の先に、一杯分と半杯分を示す印が刻まれている。
フィアは印を見ず、大きい方を取った。
一杯。
さらにもう一杯。
鍋へ入れる。
リディアは別の新人用記録を書いていて、その瞬間を見ていなかった。
根菜が柔らかくなり、配膳前の味見へ移る。
僕は匙へ少量取り、口に入れた。
濃い。
飲み込めないほどではないが、喉がすぐに水を求める。
「フィア、塩は何杯入れた?」
「二杯」
リディアが顔を上げる。
「どっちの匙で?」
フィアが棚を見る。
二本の計量匙。
柄にある印。
僅かな沈黙。
「大きい方」
「その鍋なら、半杯の匙で二杯」
フィアは自分でも味見した。
表情は大きく変わらない。
ただ、匙を置く動作が少しだけ遅かった。
「濃い」
「うん」
僕たちが言う前に、本人が認めた。
リディアが鍋の量と残っている食材を確かめる。
「配膳前だから直せる。水を足して、根菜も追加。量は増えるけど、夜の当直分へ回せば無駄にはならない」
「切る」
フィアが残りの根菜を取る。
今度は計量匙の印も確認してから棚へ戻した。
追加の根菜も同じ大きさへ切り揃える。
僕は水の量をリディアへ確認し、右手で小さな容器を使って鍋へ加えた。
セルフィナが全体を混ぜ、再び煮込む。
二度目の味見。
今度は普通に飲めた。
根菜にも味が染み、香草の匂いも消えていない。
「修正完了」
リディアが記録へ丸を付ける。
「最初から完璧に作れる人ばかりじゃないよ。私も入団した頃、保存用の塩と食事用の塩を同じ量で使おうとして止められた」
「リディアさんもですか?」
僕が尋ねる。
「血液の保存量は細かく測れるのに、料理は同じだと思ってた」
「同じではありませんね」
セルフィナが言う。
「そう。だから今は印を見る」
フィアも計量匙の印を見た。
「次は確認する」
「それでいい」
スープを器へ分ける。
僕たちは指導用の卓で、自分たちが作ったものを食べた。
フィアが根菜を一つ口へ運ぶ。
切り方が揃っているから、煮え方にも差がない。
「剣なら、こんな間違いはしない」
フィアが小さく呟く。
悔しさはあるらしい。
「これは剣じゃないから、最初からできなくてもいいよ」
僕は自分の器を持ったまま答えた。
「アルトはできてた」
「孤児院で何度もやったから。最初からじゃないよ」
「寝具も?」
「結び目を固くして、切って怒られたことがある」
フィアが僕を見る。
「切ったの?」
「うん。予備がなくて、その夜だけ敷布がずれ続けた」
「先に言って」
「聞かれなかったから」
フィアはスープをもう一口飲む。
ほんの僅かに、口元が緩んだように見えた。
セルフィナが僕とフィアを順に見る。
「フィアが急に不器用になったのではありません。隠す必要がないと判断したのではないでしょうか」
フィアの匙が止まった。
「分析しないで」
「確定事項ではありません。行動からの推測です」
「なお悪い」
「誤りなら訂正してください」
フィアはすぐには答えなかった。
寝具の結び目。
装具の配置。
太い針。
塩の量。
どれも、一人で隠そうと思えば隠せた。
僕たちがいなくなってから直すこともできたはずだ。
学院にいた頃のフィアは、できないことを僕たちの前へ持ってこなかった。
剣。
任務。
術式線を見抜く判断。
自分ができることだけを、迷いなく見せていた。
今日のフィアは違う。
失敗しても、部屋から僕たちを追い出さなかった。
届かないと認めた。
濃いと自分で言った。
そして、一度だけではなく、必要な時には手伝ってと口にした。
「前なら」
フィアが器を見たまま言う。
「誰もいなくなってから直してた」
セルフィナは答えを急がない。
僕も待った。
「今は?」
僕が尋ねる。
フィアは少し考える。
「直し方が分かるなら、先に聞いた方が早い」
「うん」
「でも、全部は頼まない」
「それでいいと思う」
「次の寝具は自分でやる」
「次があるの?」
「洗った後」
既に次のことを考えている。
多分、同じ結び方では失敗しない。
食事を終え、僕たちは器を決められた場所へ戻した。
フィアは計量匙を大きさだけで並べず、印が見える向きに揃えた。
夜になれば、僕は中央の部屋。
左にはフィア。
右にはセルフィナが戻る。
部屋は隣でも、僕たちはまだ同じ班ではない。
それぞれの査定も、これから進む。
それでも、剣を持っている時だけでは分からなかった部分を、少しずつ知り始めていた。
剣を握っていないフィアは少しだけ不器用で、その不器用さを僕たちの前で隠さなくなったことの方が、僕には大きな変化に思えた。
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