第105話 二つの適性
一巡目の受諾確認から短い休止を挟み、僕の名が記された二枚の第一指名札は、三人の成人審査官の前へ移された。
水蝶騎士団の札と、灰鬼騎士団の札。
その間には、僕の赤縁の候補札が置かれている。
二つの第一指名は既に正式受理されていた。これから行われるのは、どちらを有効にするか決めるための本調整だ。
大演武場の左右を見れば、各団旗の下に新たな人影がある。
土亀の席にはティアナとメルト。
炎獅子にはレグルス、光龍にはユリウス、水蝶にはメルナが座っている。風鷹の下には双子、雷虎の席には北部地方学院の候補者がいた。
僕とフィア、セルフィナ、ミナは、まだ中央の候補者席に残っている。
正面中央には七人の団長。
その奥にある騎士団長統括席は、変わらず空席だった。
「重複指名の本調整を開始します」
成人選抜官の声が響く。
審査卓に並んだのは、成人選抜官、成人治療職員、成人封印官の三人だった。
少し離れた場所では、成人記録官が新しい記録紙を開いている。
「本調整で問うのは、両騎士団が候補者をどれほど強く求めているかではありません」
成人選抜官がレイシア団長とガイ団長を順番に見る。
「特殊候補に指定された監督条件を守れるか。緊急時に誰が停止と撤退を命じ、その結果へ責任を負うか。危険性を利用するのではなく、一人の候補者として、いかに育成するか。それらを審査します」
二つの計画書には、それぞれ封印済みの詳細記録が添えられていた。
全てを観覧席へ公開するわけではない。
僕の身体や《暴食》に関する記録の一部は、成人審査官と団長だけが確認する。
「重大な安全上の欠格が発見された場合、その騎士団による指名は無効となります」
先に開かれたのは、水蝶騎士団の計画書だった。
成人治療職員が数枚を確認し、必要な部分だけを読み上げる。
「封魔具の継続装着。二重固定の維持。第一覚醒の無断使用禁止。単独任務禁止。ここまでは王国と学院による監視条件と一致しています」
僕は左腕へ目を落とした。
治療布の上を黒銀色の封魔具が覆っている。
二重の固定具も外れていない。
「主監督騎士と副監督騎士を別々に置き、成人治療職員を監督系統へ加える。任務前後に身体検査と魔力検査を実施。左腕、知覚、空腹、契約境界の変化を個別に記録する」
成人治療職員が顔を上げた。
「異常時には本人の戦闘継続意思にかかわらず、任務を中断。事前に救護隊、広域防衛隊、撤収経路を定めておく。間違いありませんか、レイシア団長」
「はい」
レイシア団長は静かに立ち上がった。
公の場で見せる、穏やかな騎士団長の顔だ。
けれど、水色の瞳は最初から僕だけを見ていた。
「水蝶騎士団では、負傷者の救護だけでなく、異常が大きくなる前に発見することを重視しています。アルトだけを隔離するのではありません。監督騎士、救護担当、同行者を含めて、安全な場所まで退かせます」
「《暴食》を任務戦力として利用する予定は?」
成人封印官が尋ねた。
「ありません」
レイシア団長は間を置かなかった。
「第一覚醒を育成や実験のために再現させることもありません。封魔具の解除を、私や水蝶騎士団だけの判断で行うことも認めません」
成人封印官が計画書の該当欄を確かめる。
「停止判断はレイシア団長一人に集中していません。主監督騎士、副監督騎士、成人治療職員がそれぞれ記録と停止権限を持つ。感情的な利害関係を踏まえた措置ですか」
大演武場が少しだけ静かになった。
レイシア団長と僕の関係を、成人審査官も知らないはずがない。
「そうです」
レイシア団長は否定しなかった。
「私はアルトを、誰よりも長く知っています。だから気づけることがあります。同時に、私だから見誤る可能性も否定しません」
その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。
レイシアは僕を信じている。
それでも、自分の判断だけを絶対とは言わなかった。
「アルトは幼い頃から、痛みも空腹も実際より一段軽く言います」
「え?」
思わず声が漏れた。
レイシア団長の目が細くなる。
昔、孤児院で転んで膝を擦りむいた時も、食事を小さな子へ譲った時も、僕は大丈夫だと言った。
忘れていたことまで、レイシアは覚えている。
「近年の身体記録にも、同じ傾向が残っています。本人の申告を尊重しますが、それだけを判断材料にはしません」
「水蝶騎士団は、その長期的理解を早期発見へ利用する。しかし、最終判断は複数人で共有するということですね」
「はい」
成人治療職員が記録紙へ印を付けた。
「救護、異常の早期発見、周囲を巻き込まないための広域防衛、撤収経路。いずれも基準を満たしています」
成人封印官も頷く。
「封印管理にも欠格はありません」
レイシア団長は一礼して着席した。
その指先だけが、膝の上で強く重なっていた。
次に開かれたのは、灰鬼騎士団の計画書だった。
外側の綴じ方は水蝶ほど整っていない。
それでも中の記録は項目ごとに分けられ、必要な成人職員の名と交代順まで書かれていた。
「同じく、封魔具の継続装着と二重固定を維持。第一覚醒の無断使用および単独任務を禁止」
成人封印官が一枚ずつ確認していく。
「ガイ団長または指定された成人監督騎士との組行動を必須とする。異常兆候があれば、任務と訓練を即時中断。成人治療職員と成人封印官を監督系統へ加える」
ガイ団長は椅子へ深く座り、頬杖をついていた。
相変わらず無精髭も団長外套も整っていない。
けれど、成人封印官が告げた内容に誤りはなかった。
「ガイ団長自身は、治療や封印の専門家ではありませんね」
「ああ。分からんものを分かったとは言わねえよ」
「では、任務中にアルト候補の知覚異常が疑われた場合は?」
「止める。専門家へ渡す。本人が平気だと言ってもだ」
「戦闘目標が目前でも?」
「目前だから何だ。監視条件を破って勝ったところで、次がなくなるだけだろ」
投げやりにも聞こえる声だった。
だが、言っていることは少しも雑ではない。
成人治療職員が次の項目を見る。
「育成評価から《暴食》を除外。第一覚醒の再現実験を行わない。低魔力の精密運用、基礎剣術、重心移動、呼吸、足運び、身体作りを優先する」
ガイ団長がようやく頬杖を外した。
「育てるのは《暴食》じゃねえ。こいつの足と腰と剣だ」
低い声が、大演武場へ通った。
「魔力量は学年下位。属性適性はなし。結構じゃねえか。余計なもんで誤魔化せねえ分、どこが弱いか分かりやすい」
僕の短所を読み上げられている。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
ガイ団長は僕が持っていないものではなく、今持っているものから先を見ようとしている。
「第一階位を一回分。剣先の一点へ正確に結んだ。大きな力じゃねえ。だから価値がある」
ガイ団長の目が僕へ向く。
「こいつは魔神の器になる前に剣士だ。灰鬼で育てるなら、そこからだ」
胸の奥が熱くなった。
アークデーモンを倒した力だけを欲しがっているのではない。
その直前まで積み重ねてきた、足運びや呼吸まで見ている。
成人治療職員が、灰鬼騎士団へ割り当てられる専門職員の勤務記録を確認する。
「治療移送の手順、任務中断後の隔離判断、成人治療職員の交代要員。全て確保されています」
成人封印官も最後の頁を閉じた。
「封魔具の二重固定、異常報告、停止条件にも欠格を認めません」
二つの計画書が、審査卓の上へ並べ直された。
片方だけに、赤い印が付くことはなかった。
「審査結果を告げます」
成人選抜官が立つ。
「水蝶騎士団の計画は、候補者アルトの異常を早期に発見し、本人と周囲を生還させる体制に優れています」
レイシア団長の水色の瞳が僕を見る。
「灰鬼騎士団の計画は、危険な力へ依存せず、低魔力と無属性系統、物理戦闘を基礎として、候補者本人の戦闘能力を育成する点に優れています」
今度はガイ団長が、面白そうに口元を上げた。
「双方とも、王国と学院が定めた特殊候補の監視条件を満たしています。安全性を理由として、いずれかの指名を失格にはできません」
どちらかが危険で、どちらかが安全なのではない。
どちらも、僕を見た上で作られた計画だった。
「これは一つの適性を巡る争いではありません」
成人選抜官の手が、二冊の計画書を示す。
「候補者アルトに、異なる二つの適性が認められた結果です」
僕はレイシアを見た。
孤児院の小さな庭で、遠ざかっていく背中を追った日を覚えている。
レイシアが九歳で学院を卒業し、僕より遥か先へ進んでからも、追いつくことだけを考えてきた。
今度は僕が君を守る。
その約束は、一度も消えていない。
水蝶騎士団の第一指名は、ずっと遠くにあったレイシアの隣へ続く道だった。
けれど、灰鬼騎士団の計画書にも目を奪われる。
《暴食》を得る前から振ってきた剣。
少ない魔力を一滴も無駄にしないため、何度も繰り返した基礎。
それを、国家一の無属性使いが伸ばすと言ってくれている。
「候補者アルト」
成人選抜官に呼ばれ、僕は立ち上がった。
右脚へ薄い痺れが走る。
それでも両足で床を踏み、二人の団長を見た。
「本人には、片方または両方の指名を辞退する権利があります。意思を確認します」
レイシア団長の指先が僅かに動いた。
ガイ団長は黙って僕を待っている。
「僕は、レイシアの隣へ立てる騎士になりたい。その夢は変わりません」
声にすると、胸の奥に九年間抱えてきたものが形になった。
レイシア団長の瞳が揺れる。
柔らかな喜びと、その先を聞くことへの恐れが、同時に浮かんでいた。
「でも、灰鬼騎士団なら、属性のない僕が、自分の剣をもっと伸ばせるとも思っています」
レイシア団長の重ねた指へ、少しだけ力が入る。
僕は彼女から目を逸らさなかった。
これは拒絶ではない。
レイシアを追い続けたからこそ、その隣へ誰かの力だけで立ちたくなかった。
「だから僕は、どちらの指名も拒みません。僕自身の意思で、正式な調整結果に従います」
成人選抜官が確認する。
「両指名を受けた状態で、調整継続を希望するのですね」
「はい」
短い沈黙の後、レイシア団長が息を吐いた。
「分かっています。それでも、私は水蝶騎士団でアルトを選びます」
公の声を保っている。
けれど、長い耳がほんの少しだけ伏せられていた。
ガイ団長は僕を見て笑う。
「それでいい。両方見えてるなら、片方を見なかったことにするな」
僕が席へ戻ると、フィアが正面を向いたまま言った。
「どっちも、アルトを弱く見てない」
「うん」
「なら、迷うのは変じゃない」
それだけだった。
長い慰めはない。
けれど、僕の隣に残る声としては十分だった。
セルフィナも二冊の計画書を見る。
「二つの計画は、危険性の評価が異なるのではありません。育成する適性が異なります」
「だから安全性では決められないんだね」
「はい。片方の欠陥を探して決める段階は終わりました」
土亀の暫定配属席から、ティアナが身を乗り出した。
「アルト」
「何?」
「どっちへ行っても、夢を捨てることにはならないよ」
明るい声だった。
それでも僕を見る緑金の瞳には、少しだけ複雑な色が混じっていた。
ティアナ自身、僕とは別の団旗の下に座っている。
それでも進む道を選んだ彼女の言葉だから、真っすぐ届いた。
「ありがとう、ティアナ」
成人選抜官が、残る五人の団長へ向き直る。
「安全上の欠格による処理が不可能であるため、各騎士団長へ専門的な意見を求めます。これは多数決ではなく、調整資料として記録します」
最初に口を開いたのはゴウセル団長だった。
「私は水蝶案を支持する」
低い声に迷いはない。
「特殊候補の危険性は、本人一人の問題ではない。異常時の防衛線、撤退路、複数の停止権限が明確であることを重く見る」
続いてギルバート団長が頷く。
「私も水蝶案だ。責任を持つ者ほど前へ立たねばならない。同時に、誰が責任を負うかは曖昧にしてはならない。水蝶案は、その所在が最も明瞭だ」
二人とも灰鬼案を危険だとは言わない。
その上で、救護と責任系統を選んだ。
「俺は灰鬼だ!」
イグナシオ団長の声が響く。
「監視は必要だ! だが、監視され続けるだけでは危険は減らん! 禁じた力に頼らず戦い抜ける技を育てる。それが長い目で見れば、本人と仲間を守る!」
炎獅子の席で、レグルスが静かに頷いていた。
シルフィ団長は腕を組み、ガイ団長を横目で見る。
「ガイの態度と身だしなみには、いくらでも欠格を付けたいところだけれど」
「計画と関係ねえだろ」
「黙りなさい」
一言で切り捨ててから、シルフィ団長は成人選抜官を見る。
「無属性と物理戦闘の指導に限れば、この男以上の者は王国にいません。計画に専門職員も組み込まれている以上、私は灰鬼案を支持します」
水蝶側が三人。
灰鬼側も三人。
最後に残ったのは、アーサー団長だった。
澄んだ青い瞳が、二冊の計画書へ向けられる。
「水蝶騎士団は、彼が生きて帰るための力を伸ばすでしょう」
若々しさと威厳を併せ持つ声だった。
「灰鬼騎士団は、彼が自らの足で立ち続けるための力を伸ばすでしょう」
「どちらを支持されますか」
成人選抜官が尋ねる。
アーサー団長は静かに首を横へ振った。
「どちらにも欠格はありません。異なる正しさの一方を、誤りとして切り捨てる意見には加われません」
結局、参考意見でも差はつかなかった。
成人選抜官が新しい提案書を開く。
「では、共同育成案を検討します」
最初に示されたのは、水蝶騎士団を主所属とし、灰鬼騎士団で定期的な剣術指導を受ける案だった。
レイシア団長は、灰鬼での訓練そのものには反対しなかった。
「ガイ団長の指導がアルトに有益であることは認めます」
そこで一度、言葉を区切る。
「ですが、異常は訓練中だけに起きるものではありません。起床後、任務前、移動中、帰還後。日常から継続して見なければ、最初の変化を見落とします」
次は、灰鬼騎士団を主所属とし、水蝶騎士団が治療、封印、異常監視を担当する案。
ガイ団長も、水蝶の協力自体は拒まなかった。
「治療も封印も、使える専門家は使えばいい」
「では、この案を受諾しますか」
「しねえよ」
即答だった。
「週に何度か借りて剣を振らせるだけじゃ、足の癖も呼吸も変わらん。朝から任務帰りまで見て、ようやく直せるもんがある」
一定期間ごとに両騎士団で訓練する案も出た。
だが、実任務で二つの命令が食い違った時、どちらへ従うのか決められない。
配属決定まで合同監督下へ置く案も、問題を先延ばしにするだけだった。
「共同訓練は可能です」
成人選抜官が整理する。
「配属決定後も、治療、封印、剣術指導について騎士団間で協力できます。しかし、主所属、停止命令、撤退判断、負傷時の責任者は一つに定めなければなりません」
「水蝶が責任を持ちます」
レイシア団長が言う。
「灰鬼が育てる」
ガイ団長も譲らない。
二人とも、相手の長所を否定してはいない。
協力することさえ拒んでいない。
ただ、僕の日常と任務に最後まで責任を負うのがどちらなのか、その一点だけは渡そうとしなかった。
成人記録官の筆が止まる。
二冊の計画書には、どちらにも失格の印がない。
七人の団長の意見も割れた。
共同育成案も、二つの第一指名を一つにする答えにはならなかった。
どちらかが間違っていれば終わったはずの本調整は、どちらも正しいせいで、一歩も進まなくなった。
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