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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第5話 怖くないのが、一番怖い

怖いから、人は止まれる。


だから観客は、次にそれを奪いに来た。

朝、端末の黒い画面には投票結果が表示されていた。


第三イベント投票結果

一位:恐怖反応低減

得票率:四二%


その下に、観客のコメントが流れている。


恐怖は残した方が面白い派だったけど

逆に怖がれない自覚で怖がるの見たい

白城寄りになる?

カレー個体、どこまで人間でいられるかな

恐怖だけ減らして判断力を見よう

代価は辛味あたり?

痛み系は次でもいい

今回は軽めに削ろう

軽め=人間基準では重いけどw


俺は端末を伏せた。


画面は机に向いている。

それでも、黒い文字がまだこちらを見ているような気がした。


恐怖反応低減。


言葉だけなら、ありがたい能力に見える。


怖くなくなる。

足がすくまなくなる。

危険な場面でも冷静に動ける。


探索者なら誰もが欲しがる適応だ。


実際、深層適応訓練にも似た項目がある。

恐怖を抑え、呼吸を整え、視野狭窄を防ぐ。

パニックを起こさないための訓練。


だが、今の俺には分かる。


観客がくれるものは、救いじゃない。


もっと長く遊ぶための延命。

もっと深く削るための道具。


俺は手のひらを見た。


昨日、食堂で不味いカレーを食べた時の感触がまだ残っている。


ソース。

七味。

水。

福神漬け。

薄いルー。


めちゃくちゃな味だった。


でも、あれは俺が選んだ味だった。


観客に作られた快楽ではない。

最適化された救済ではない。


だから、不味くても飲み込めた。


俺は立ち上がり、洗面台に向かった。


鏡を見る。


目が映る。


普通の目だ。


白城怜司のような、黒く濡れた瞳ではない。


そう思いたかった。


俺は意識して瞬きをした。


一回。

二回。

三回。


瞼は落ちる。

目は乾く。

少し痛む。


まだ大丈夫。


そう思った直後、端末が机の上で震えた。


伏せていたはずの画面が、勝手にこちらを向いていた。


本日の観測テーマ:恐怖

目的:恐怖反応低減時における行動選択と自我保持の観測。


その下に、小さな文字。


なお、今回のテストは日常環境内で実施されます。


日常環境。


その単語が、一番嫌だった。



午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


教官が前で、探索者の危機管理について話している。


「恐怖は悪ではない」


教官は黒板にそう書いた。


「恐怖は危険を知らせる警告だ。恐怖を消すことが強さだと勘違いするな。恐怖を感じた上で、どう動くかを訓練する。それが探索者に必要な判断力だ」


昨日までなら、普通に聞き流していたかもしれない。


だが今は、その言葉が妙に重い。


恐怖は警告。


消すことが強さではない。


だったら、白城怜司はどうなる。


あの壇上で、一度も瞬きをしなかった英雄。

娘を「個体」と呼び、触れた指を初期化するように拭った男。


あれは、強さなのか。


それとも、警告を全部消された結果なのか。


「黒瀬くん」


授業後、廊下で声をかけられた。


振り向くと、小森が立っていた。


昨日より顔色は戻っている。

けれど、目の下には薄い影がある。


「昨日は……」


小森は言葉を探していた。


「助けてくれて、ありがとう」


「俺だけじゃない。篠田も戦った」


「でも、最初に私を引き離してくれたのは黒瀬くんだから」


彼女の声は震えていた。


「怖かった」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。


怖かった。


当然だ。


あの異常個体は、浅層模擬区画に出ていいものじゃなかった。

小森は死にかけた。

篠田も怪我をした。

俺だって、怖かったはずだ。


はずだ。


俺は昨日の瞬間を思い返す。


異常個体の爪。

赤黒い目。

濡れた唾液。

小森の悲鳴。

自分に向かってきた速度。


記憶はある。


だが、そこに恐怖の熱が薄い。


あの時、俺は本当に怖かったのか。


怖がる前に、身体が動いた。

観客のバフが入った。

筋肉が最適解を叩き出した。


恐怖は、どこにあった。


「黒瀬くん?」


小森が不安そうに俺を見る。


俺は慌てて答えた。


「……怖かったよ」


嘘だった。


たぶん。


少なくとも、今その恐怖を思い出せない。


小森は少し安心したように息を吐いた。


「そうだよね。怖いよね」


その当たり前の言葉が、痛かった。


怖いよね。


そう言ってもらえる人間でいたいと思った。


だが、端末がポケットの中で震えた。


黒い画面は見ていない。

それでも文字が、頭の奥に流れ込んでくる。


虚偽申告

恐怖記憶、薄いよね

怖かったことにしたいんだ

かわいい

人間ごっこ継続中


「黙れ」


小さく呟いた。


小森が首を傾げる。


「え?」


「いや、何でもない」


俺は視線を逸らした。


廊下の窓の外。


小さな羽虫が、ガラスに止まっていた。


黒い目が、こちらを向いている。



昼前、訓練棟へ移動する途中だった。


二階と実技棟をつなぐ連絡橋。

下は整備ピットになっていて、金属フレームや資材コンテナが並んでいる。


高さは七メートルほど。


落ちれば、普通に死ぬ。

運がよくても、大怪我は避けられない。


連絡橋は透明な強化床で作られている。

探索者候補生が高所恐怖への慣れを作るため、わざと下が見える設計になっていた。


透明床には、浅層で採れる自己修復鉱石が混ぜ込まれているらしい。

衝撃に強く、傷が入っても短時間で塞がる。

探索高専では、訓練施設の安全性を高めるために当たり前のように使われている素材だ。


便利で、安全で、効率的。


だから誰も疑わない。


けれど今なら分かる。


ダンジョン由来のものを使っている時点で、そこはもう完全な地上ではない。


小森は、その床を少し苦手にしているらしかった。


歩幅が小さい。

視線が下に落ちる。

手すりを掴む指に力が入っている。


「大丈夫か」


俺が聞くと、小森は苦笑した。


「大丈夫。ちょっと、下が見えるの苦手なだけ」


篠田なら、ここで馬鹿にするかもしれない。


俺は何も言わなかった。


怖いものは、怖い。


それでいいはずだ。


恐怖は警告なのだから。


その時、連絡橋の照明が一瞬だけ落ちた。


カチ、と小さな音。


足元の強化床に、細い亀裂が走った。


「え?」


小森の声が裏返る。


次の瞬間、床が割れた。


小森の身体が沈む。


手すりを掴もうとした彼女の指が空を切る。


落ちる。


そう認識した瞬間、時間が遅くなった。


恐怖。


来るはずだった。


心臓が跳ねる。

喉が詰まる。

足がすくむ。

手が汗ばむ。


そうなるはずだった。


だが、来ない。


小森が落ちている。

床が割れている。

下には鉄骨がある。

このままなら死ぬ。


情報だけが、冷たく並ぶ。


怖くない。


そのことが、一番怖かった。


端末が震える。


第三イベント:恐怖反応低減テスト

開始。

恐怖反応:一時低下

行動観測:開始


ログが流れる。


来た

日常環境イベント

高所いいね

女の子落ちるのベタだけど強い

カレー個体、怖がる?

あ、怖がってない

いい顔

いや、顔動いてない

白城寄り?


「小森!」


俺は叫んだ。


叫び声は出た。


だが、声の奥に震えがない。


身体は勝手に動いていた。


割れた床の縁を蹴る。

手すりを掴む。

身体を外へ投げ出す。


小森の手首を掴んだ。


重い。


全体重が、肩にかかる。


手すりを握る左手に痛みが走る。

割れた床の縁で右腕が切れた。


血が落ちる。


小森が泣いている。


「黒瀬くん、いや、落ちる、落ちる!」


彼女は怖がっていた。


当然だ。


目の前で床が抜け、下には鉄骨がある。

怖くない方がおかしい。


俺は、彼女の恐怖を見ていた。


だが、自分の中には同じものがない。


心臓は落ち着いている。

呼吸も乱れていない。

手の震えもない。


合理的だった。


どこに力を入れればいいか分かる。

手すりの耐荷重。

小森の体重。

俺の腕の角度。

引き上げるために必要な反動。


全部が、静かに計算されていく。


気持ち悪いほど、冷静だった。


「足を壁に当てろ」


俺は言った。


「壁?」


「足だ。壁を蹴れ。上げる」


「無理、無理だよ!」


「できる」


声が静かすぎた。


自分でもそう思った。


小森は泣きながら、何とか壁に足を当てる。


俺は手すりを軸に身体を引いた。


肩が軋む。

腕の傷が広がる。

血が増える。


だが、怖くない。


痛みはある。

恐怖だけが、ない。


俺は小森を引き上げた。


彼女の身体が連絡橋の床に転がる。


小森はその場で震えながら泣いていた。


俺は息を吐いた。


まただ。


吐いた息は、排熱みたいだった。


そこで、俺は割れたはずの床を見下ろした。


普通なら、見られない。


七メートル下の整備ピット。

鉄骨。

配線。

落ちれば死ぬ高さ。


怖ければ、視線を逸らす。

膝が震える。

小森を引き上げた直後なら、なおさらだ。


だが、今の俺は逸らせなかった。


怖くないからだ。


怖くないせいで、見えてしまった。


床の亀裂が、ほんのわずかに遅れて消えていく。


破片が落ちていない。

強化床の断面がない。

下の整備ピットに、割れた床材が一枚もない。


自己修復鉱石なら、傷が塞がることはある。


でも、破片まで最初から存在しなかったように消えるのはおかしい。


壊れたんじゃない。


壊れたように、見せられた。


恐怖が残っていたら、気づかなかったと思う。


落ちる高さ。

割れる床。

小森の悲鳴。

自分の腕にかかる重さ。


普通なら、それだけで頭がいっぱいになる。


でも今の俺には、恐怖が薄かった。


だから、見えてしまった。


ホラー映画を、編集画面で見ているみたいだった。


ここで床を割る。

ここで悲鳴を入れる。

ここで俺を動かす。


そんな、雑な演出の継ぎ目が。


「あいつら、俺を怖がらせるために、こんなものを作ったのか」


呟いた瞬間、胸の奥が冷えた。


神様気取りの観客が用意した恐怖は、恐怖を奪われた俺には、作り物に見えた。


「……演出か」


俺が呟いた瞬間、視界の端のログが一瞬だけ止まった。


そこ見る?

普通そこ見ないでしょ

恐怖低減、観察に使うな

演出裏を覗くな

あ、裏側見ちゃった

メタ発言やめろ

没入感が削がれる

カレー個体、ちょっと嫌

こいつ、視聴体験を壊すタイプ?


初めてだった。


観客の文字に、わずかな不快感が混じったのは。


心臓が、そこでやっと一度だけ強く鳴った。


恐怖ではない。


たぶん、別のものだ。


あいつらが嫌がった。


ほんの少しだけ。


それでも、確かに嫌がった。


カチ、と小さな音がした。


割れたはずの強化床が、ゆっくりと元に戻っていく。


亀裂が消える。

破片のない床が、最初から何もなかった顔をする。


観客ログが弾ける。


おお

間に合った

怖がらない救助、絵になる

でも人間味は薄い

小森の恐怖反応、いい

カレー個体の無表情、もっといい

恐怖低減、成功

代価どうする?

辛味でよくない?

恐怖と近い刺激だし

唐辛子の痛み、回収しよう

軽め軽め


その瞬間、舌の奥で何かが消えた。


辛さ。


いや、正確には、辛さに伴う痛み。


昨日、七味を振った時に舌を刺したあの感じ。

喉の奥が熱くなり、水を欲しがる感覚。

唐辛子の赤い刺激。


それが遠ざかる。


俺は奥歯を噛みしめた。


「またかよ」


ログが笑う。


代価取得完了

辛味痛覚、一部回収

次から辛いもの平気だね

よかったね

強くなるね

人間じゃなくなるけど


「黒瀬くん……?」


小森の声で、俺は我に返った。


彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、俺を見ていた。


「助けてくれて……ありがとう」


そう言いかけて、小森の声が止まる。


俺の顔を見たからだ。


たぶん、俺は笑っていなかった。

泣いてもいなかった。

震えてもいなかった。


彼女の命が、今まさに落ちかけていたのに。


俺の顔には、温度がなかった。


「どうして、そんなに」


言葉が途切れる。


「怖く、なさそうなの」


その問いが、どんな罵倒よりも刺さった。


俺は彼女を助けた。


でも、たぶん今、小森は俺に感謝するより先に、俺を怖がっていた。


俺は答えられなかった。



事故は、事故として処理されなかった。


そもそも、床は割れていないことになった。


監視映像には異常なし。

連絡橋のセンサーも正常。

小森が足を滑らせ、俺が支えた。


そういう記録になるらしい。


小森は納得していなかった。


だが、彼女は何も言えなかった。


恐怖で震えた自分。

泣きながら落ちかけた自分。

そして、それを無表情で引き上げた俺。


その全部が、彼女の中でうまく整理できていないようだった。


俺も同じだった。


いや。


俺の方が整理できていない。


小森は怖がっていた。


俺は、怖がれなかった。


それだけが、はっきりしている。


でも、もうひとつだけ分かったことがある。


あの床は、壊れていなかった。


演出には継ぎ目がある。


観客は、完全な神じゃない。


あいつらは、見せたいものを見せている。

なら、見せたくないものもある。


そこを見ればいい。


怖がれないことで削られたものは大きい。


でも、そのせいで見えたものがある。


俺は、それを絶対に忘れないように、心の奥に押し込んだ。



放課後、食堂へ向かった。


理由は、もう習慣に近かった。


何かを奪われたら、食堂へ行く。

何が消えたのか、確かめる。

残っているものを、飲み込む。


今日のカレーは、昨日より辛めだった。


おばちゃんが言う。


「今日はちょっと辛くしすぎたかも。水、持っていきな」


俺は頷いて、水と一緒にトレーを持った。


席に座る。


スプーンを入れる。


赤みの強いルー。

いつもより多い香辛料。

鼻を刺す匂い。


俺は一口食べた。


味はある。


塩気。

油。

肉の硬さ。

米の熱。

玉ねぎの甘さは、やはりない。


そして。


辛くなかった。


いや、唐辛子の存在は分かる。


舌は、それを刺激物として認識している。

赤い味がある。

香りもある。

カレー粉の角もある。


だが、痛くない。


舌を刺さない。

喉が熱くならない。

水を欲しがらない。


辛さが、ただの情報になっている。


唐辛子の赤い刺激。

鼻を刺す香り。

舌に乗る熱の形。


それは分かる。


でも、痛くない。


たぶん、催涙ガスも、刺激性の毒霧も、今の俺には少し違って感じるのだろう。


有利だ。


探索者としては、きっと有利だ。


だからこそ、気持ち悪かった。


人間を辞めるほど、ダンジョンは攻略しやすくなる。


その事実が、喉の奥に引っかかった。


「……これが」


俺はスプーンを握った。


「強くなるってことか」


辛いものに強くなった。


そう言えば聞こえはいい。


水を飲まなくてもいい。

痛みに邪魔されない。

食べる速度も落ちない。


効率的だ。


最悪だ。


視界の端にログが流れる。


辛くない?

便利でしょ

水いらないね

探索中も刺激に強くなる

よかったね

また一つ強くなった

その分ちょっと人間じゃなくなったけど


俺は、カウンター横へ行った。


七味を取る。


席に戻り、カレーに振る。


一振り。

二振り。

三振り。


足りない。


蓋を外し、赤い粉を直接ルーに落とした。


ログがざわつく。


何してる

辛味検証?

自傷?

味変再び

縛りプレイ助かる

唐辛子チャレンジ来た


俺は混ぜずに、そのまま口に入れた。


赤い粉が舌に乗る。


本来なら、痛いはずだった。


涙が出るほど辛いはずだった。


でも、痛くない。


刺激の形だけがある。

熱の情報だけがある。

だが、身体が拒まない。


俺はもう一口食べた。


さらに七味をかける。


食べる。


痛くない。


水は、いらない。


それが悔しかった。


「痛くなれよ」


小さく呟いた。


食堂の中で、誰も聞いていない。


「辛いなら、痛くなれよ」


ログが止まる。


一瞬だけ。


そして、流れる。


自分で痛みを探してる

いいね

人間らしい

でも無理

そこ、もう少し貰ったから

返却不可


俺はスプーンを置いた。


手が震えている。


恐怖ではない。


怒りだ。


たぶん。


いや、それすら分からない。


恐怖が薄くなったせいで、怒りの輪郭まで少し変わっている気がした。


俺は、水のコップを見た。


飲まなくても平気だ。


でも、飲んだ。


ごくり、と水が喉を通る。


必要ない水。


それでも飲む。


辛いからじゃない。

人間なら、辛いカレーを食べたら水を飲むものだと、まだ俺が覚えていたからだ。



夜、寮の部屋で端末が点いた。


黒い画面。


白い文字。


第三イベント:恐怖反応低減テスト

結果:成功


「成功じゃない」


恐怖刺激:高所落下

対象反応:恐怖低下、行動効率上昇

救助成功

副次回収:辛味痛覚、一部

観客評価:上昇


コメントが流れる。


怖がらないの怖い

白城ルート入ってきた?

でもまだ飯にこだわってる

辛味探すのよかった

水飲んだの意味不明

そこがいい

人間ごっこ、継続中


人間ごっこ。


その言葉に、胸の奥が冷える。


俺はごっこをしているのか。


人間のふりをしているだけなのか。


怖がれないのに。

辛さを痛いと思えないのに。

呼吸が排熱みたいに感じるのに。


それでも、まだ自分を人間だと言い張っているだけなのか。


端末に、新しい文字が浮かぶ。


次回イベント候補、更新。


候補が並ぶ。


候補一:痛覚遮断

候補二:感情振幅調整

候補三:共感反応低減

候補四:記憶補填再実験


観客コメントが続く。


痛覚遮断で戦闘性能上げよう

感情いじったら泣かなくなる?

共感削ったら小森どうでもよくなるかな

記憶補填はまだ早い

飯に執着してるうちに他を削ろう


俺は端末を見下ろした。


小森の泣き顔が浮かぶ。


落ちかけた時の手首の細さ。

俺の手を掴む力。

怖い、と言わなくても伝わる震え。


共感反応低減。


もし、それを削られたら。


俺は、小森が落ちても、ただ情報として見るのか。


白城が娘を見たみたいに。


「ふざけるな」


端末は答えない。


ログだけが流れる。


怒った

まだ怒れる

よかったね

次で減るかも


俺は端末を掴んだ。


壊れないことは分かっている。


それでも、握り潰すように力を込めた。


「俺は、まだ怖い」


声に出した。


「怖くないことが、怖い」


ログが止まる。


俺は続けた。


「だから、まだ人間だ」


沈黙。


それから、画面に一行だけ浮かんだ。


その定義が、いつまで保つか観測します。


部屋の空気が冷えた。


俺は目を閉じる。


玉ねぎの甘さはない。

母さんの声の温度も薄い。

辛さの痛みも遠い。

恐怖も、薄くなっている。


それでも。


不味い飯を飲み込んだ感触は、まだ残っている。


自分で水を飲んだ喉の動きも、まだ覚えている。


小森の手を掴んだ時の重さも、まだある。


そして、連絡橋の下で見たものも、まだ残っている。


破片のない床。

消えていく亀裂。

観客が一瞬だけ黙ったログ。


あいつらの演出には、継ぎ目がある。


なら、いつかそこをこじ開けられる。


奪われたものばかり数えるな。


残っているものを、握れ。


そうしないと、本当に全部なくなる。


俺は暗闇の中で、ゆっくりと瞬きをした。


まだ、瞼は落ちた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「恐怖反応低減テスト」。

怖がれなくなったことで、小森を助けることはできました。


ただし代価として、律の中から「辛味の痛み」が一部奪われています。


連絡橋はダンジョン外にある施設ですが、床材にはダンジョン由来の自己修復鉱石が使われています。

人類が便利だと思って地上に取り込んだダンジョン技術は、同時に観客たちの干渉経路にもなっています。


一方で、律は初めて観客の“演出の継ぎ目”を見つけました。

次回以降、ただ奪われるだけではなく、観客のルールを逆手に取る反撃の芽が少しずつ見え始めます。

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