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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第4話 偽物の甘さは、本物よりうまい

観客は、奪うだけでは終わらない。


返してくる。

もっと深い場所を奪うために。

観客は、味を返してきた。


それが一番、最悪だった。



翌朝、目が覚めた時、最初に確認したのは舌だった。


歯を磨く。

水を飲む。

食堂へ行く。

朝食の味噌汁を飲む。


塩気はある。

出汁も分かる。

豆腐の柔らかさも、わかめのぬるい感触も分かる。


だが、どこか遠い。


昨日より悪くなっているわけではない。

少なくとも、そう思いたかった。


けれど、自分の感覚を信用できない。


甘さ。

血の味。

玉ねぎ。


そのどれかを考えようとするたびに、頭の奥の黒い穴が、冷たく口を開ける。


思い出そうとしても、そこには何もない。


まるで、最初からそんな味はこの世に存在しなかったみたいに。


「黒瀬くん、朝食中に悪いけど、医務室に来てくれる?」


食堂の入口に、昨日の医務担当が立っていた。


白い上着。

白い手袋。

白い端末。


その白さが、昨日より少しだけ嫌だった。


「検査ですか」


「昨日の戦闘後の数値に、少し気になるところがあるの。簡単な味覚検査もするから」


味覚検査。


その言葉だけで、食道の奥が縮んだ。


食堂の隅に置いた端末が、勝手に光った。


本日のイベントに移行します。

第二イベント:味覚補填テスト


黒い文字は、俺にしか見えていない。


医務担当は、何も知らない顔で微笑んでいる。


俺は立ち上がった。


逃げても無駄だ。


電源を切っても、画面は消えない。

叩きつけても、戻ってくる。

観客は、壁の中にも、虫の目にも、端末の黒い画面にもいる。


どこに逃げても、見ている。


だから、歩いた。


逃げるためではなく、見返すために。



医務室には、昨日と同じ消毒液の匂いがあった。


白いベッド。

白いカーテン。

白い棚。


医務担当は、俺を椅子に座らせると、細長い検査用の紙を何本か並べた。


「まずは基本味覚からね。甘味、塩味、酸味、苦味。違和感があったら言って」


「……分かりました」


「昨日の戦闘後、味が変に感じることは?」


質問は普通だった。


医療的な確認。

学校側の記録。

そういう体裁。


だが、俺はもう、その体裁をそのまま信じられなかった。


「あまり」


「曖昧ね」


「怪我のせいかもしれません」


医務担当は少し眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。


最初に渡された紙を舌に乗せる。


塩味。


分かる。


次。


苦味。


分かる。


次。


酸味。


分かる。


そして最後に、甘味。


俺は一瞬だけ手を止めた。


医務担当が首を傾げる。


「大丈夫?」


「……はい」


紙を舌に乗せた。


甘い。


脳がそう判断した。


だが、昨日と同じだった。


甘い、という情報だけが立ち上がる。

それだけだ。


心は動かない。

腹の奥が緩まない。

少し救われた気持ちにもならない。


センサーが正常に反応した。


ただ、それだけ。


「甘味、分かる?」


「分かります」


「どんな感じ?」


「……甘いです」


それ以上、言葉が出なかった。


医務担当は端末に記録をつける。


その瞬間、視界の端に黒いログが流れた。


基本検査、つまらない

甘味反応、残存

でも感情反応が薄い

いいね

補填テスト、開始しよう

そろそろ泣かせて


俺は奥歯を噛みしめた。


医務担当が次に取り出したのは、小さな透明のカプセルだった。


「これは複合味覚検査用。食品の風味を模したものね。異常があればすぐ吐き出して」


透明なカプセル。


中に、薄い琥珀色の液体が入っている。


「何の味ですか」


「検査用だから、特定の料理というわけじゃないけど……甘味と香気成分の反応を見るものよ」


端末が、震えた。


黒い画面に文字が浮かぶ。


味覚補填テストを開始します。

欠損味覚:焦げた玉ねぎの甘さ

補填方式:観客最適化

目的:喪失個体に、一時的な救済を与えた場合の反応観測。


「……やめろ」


思わず声が出た。


医務担当が驚く。


「黒瀬くん?」


カプセルを持つ指が震える。


飲むな。


頭では分かっていた。


これは学校の検査じゃない。

観客のイベントだ。


飲めば、何かをされる。


それでも、指が動いた。


違う。


動かされた。


カプセルが舌に触れる。


薄い膜が溶ける。


次の瞬間、世界が変わった。


甘い。


焦げた玉ねぎの甘さだった。


いや。


違う。


それ以上だった。


舌が味わった瞬間、脳の奥に直接、熱い針を刺されたような快感が走った。


唾液が勝手に溢れる。

喉が鳴る。

胃が、もっと寄越せと勝手に反応する。


安い油に溶けた、あの頼りない甘み。

少し焦げて、ほんのわずかに苦くなった端の部分。

ルーに混ざって、肉の硬さを誤魔化していた薄い甘さ。


戻ってきた。


そう思った。


思ってしまった。


胸の奥がほどける。


喉が詰まる。


視界が揺れる。


涙が出そうになる。


たかが玉ねぎの甘さで。


たかが、安い食堂カレーの味で。


俺の身体は、救われたみたいに反応していた。


俺は否定したかった。


こんな味じゃない。


食堂のカレーは、もっと雑で、もっと安っぽくて、もっと日によって違っていた。


なのに、身体は喜んでいた。


うまい。


もっと欲しい。


そう叫んでいるのは、俺の意思ではなかった。


でも、俺の身体だった。


だから、最悪だった。


次の瞬間、その甘さがあまりにも整いすぎていることに気づいた。


焦げすぎていない。

生っぽさもない。

油の重さも、辛さの角も、全部がちょうどいい。

舌が最も気持ちよくなる温度。

鼻が最も安心する香り。

脳が最も喜ぶ甘さ。


完璧だった。


完璧すぎた。


こんな味じゃない。


食堂のカレーは、もっと雑だった。

焦げ方も日によって違った。

油が重すぎる日もあった。

玉ねぎが溶けすぎて、甘いのか苦いのか分からない日もあった。


俺が守りたかったのは、こんな正解みたいな味じゃない。


それなのに。


身体は喜んでいた。


脳が、勝手に報酬を出している。


安心しろ。

戻った。

うまい。

もう大丈夫だ。


そんな信号が、身体の内側を勝手に駆け回る。


吐き気がした。


うまいと思ったことに。


救われたと思ったことに。


観客が作った偽物に、自分の身体が屈服したことに。


反応出た

泣く?

泣きそう

補填成功

やっぱり甘いの好きじゃん

偽物でも反応するんだ

かわいい

本物より美味しくしてあげたよ

感謝してほしい

次はもっと深く取れる


「黒瀬くん、大丈夫? 顔色が」


医務担当の声が遠い。


俺は口元を押さえた。


吐き出したかった。


でも、もう遅い。


偽物の甘さは、舌から喉へ、喉から胃へ落ちていった。


そこから、身体中に広がっていく。


自分の中に、観客の作った味が入っていく。


「……違う」


「え?」


「これは、違う」


俺は震える声で言った。


「こんな味じゃない」


医務担当は困惑している。


当然だ。


彼女には、俺が何を言っているのか分からない。


分かるはずがない。


ログだけが、笑っている。


違うって言ってる

でも飲んだ

でも喜んだ

涙腺反応、確認

次、回収入る?

もっと見たい

食卓記憶いける?

候補:家庭内食事記憶

候補:母親音声

候補:手料理の温度


背筋が凍った。


やめろ。


そこは違う。


玉ねぎの味なら、まだ分かる。

いや、分からない。

分からないが、それでも。


そこに触るな。


頭の奥で、古い記憶が浮かびかけた。


狭い台所。

換気扇の音。

まな板を叩く包丁のリズム。

鍋の中で玉ねぎを炒める音。


小学生の頃。


学校から帰った時、部屋の中にカレーの匂いがしていた。


「熱いから、ゆっくり食べなさい」


誰かの声。


母さんの声。


思い出しかけた瞬間、黒い指が伸びてきた気がした。


記憶の端をつまむ。


やめろ。


俺は椅子から立ち上がった。


医務担当が慌てる。


「黒瀬くん!?」


「やめろ!」


声が医務室に響いた。


ログが、流れる。


回収フェーズ開始

補填後回収量、増加

対象:共有食卓記憶

いいね

深いところ行こう

家族系は反応いい

取れる?

少しだけ

少しだけなら壊れない


頭の中で、台所の音が遠ざかる。


包丁のリズムが消える。

換気扇の音が薄くなる。

鍋を混ぜる木べらの音が、黒い膜に沈んでいく。


「熱いから――」


声が途中で途切れた。


そこから先が、消えた。


台所の湿った空気も。

鍋の湯気も。

部屋にこもったカレーの匂いも。

母さんの声が、自分に向けられていたという感覚も。


全部が、古い低画質の写真みたいに色褪せていく。


残ったのは、文字だけだった。


母が、カレーを作った。

俺が、それを食べた。


以上。


それは思い出ではなかった。


ただの記録だった。


「返せ」


喉が乾いている。


「そこは、違うだろ」


ログは止まらない。


回収完了

食卓記憶の温度、一部取得

反応良好

怒った

いい表情

偽物の救済、成功

次回もこの方向で


何かが切れた。


俺は医務室の机に置かれていた金属トレーを掴み、壁に叩きつけた。


大きな音が鳴る。


医務担当が悲鳴を上げる。


「黒瀬くん、落ち着いて!」


落ち着け。


その言葉が、嫌だった。


俺は息を吐いた。


吐いた息は、熱くなかった。


まただ。


排熱みたいだった。


機械が内部の温度を逃がすような、そんな息。


「……すみません」


自分でも驚くほど、声が静かだった。


医務担当は、俺の顔を見て固まっている。


その目が怖かった。


篠田が昨日向けた目と同じだった。


気持ち悪いものを見る目。


俺は慌てて瞬きをした。


一回。

二回。


瞼は落ちる。


まだ、落ちる。


それだけを確認して、俺は医務室を出た。


背後で医務担当が何か言っていたが、聞こえなかった。


医務室を出てすぐ、俺は立ち止まった。


手のひらを口元に近づけ、ゆっくり息を吐く。


生ぬるい風が、皮膚を通り抜けた。


そこに、生命の匂いがない気がした。

怒りも、恐怖も、混じっていない気がした。


ただ、内部に溜まった熱を外へ逃がすための空気。


空冷式のファン。


そんな言葉が浮かんで、胃が冷えた。


白城怜司の顔が、脳裏に浮かぶ。


違う。


俺はまだ、あれじゃない。


そう思いたかった。



食堂へ向かった。


理由なんて、もう分からなかった。


確かめたいのか。

取り戻したいのか。

ただ観客に逆らいたいのか。


たぶん、全部だった。


昼食の時間には少し早い。

食堂にはほとんど人がいない。


おばちゃんが、俺を見て驚いた顔をした。


「黒瀬くん? またカレー?」


「……ありますか」


「あるけど、今日はまだ仕込み途中だよ。味、少し薄いかも」


「それでいいです」


味が薄い。


むしろ、それがいい。


完璧じゃない方がいい。


正解じゃない方がいい。


雑で、日によって違って、少し失敗している方がいい。


その方が、まだ人間の飯に見える。


トレーを受け取り、席に座る。


カレーは確かに薄かった。

ルーの濃度が足りない。

塩気も弱い。

玉ねぎの甘さは、やはり分からない。


だが、観客の補填した甘さより、ずっとマシだった。


これは、誰かが鍋で作った飯だ。


最適化された味じゃない。


俺は一口食べた。


薄い。

物足りない。

うまくない。


でも。


それは俺の感想だった。


観客に作られた反応じゃない。


視界の端にログが流れる。


また食べるの?

補填味の方が美味しかったでしょ

そっち不完全だよ

栄養効率も低い

味も欠損してる

なんで食べるの?

理解不能

不快

でも見ちゃう


俺は、カウンター横の調味料置き場を見た。


ソース。

七味。

塩。

福神漬け。

水。


俺は立ち上がり、全部少しずつ持ってきた。


カレーにソースをかける。

七味を振る。

福神漬けを多めに乗せる。

最後に、少しだけ水を垂らした。


ひどい見た目になった。


ログがざわつく。


何してる?

味を壊してる

味変来たw

縛りプレイ助かる

補填残響が乱れる

やめて

それ美味しくないよ

最適化できない

なんでわざと不味くするの?

このリアクションに投げ銭1000

不味い飯チャレンジ始まった?


俺は、それを口に入れた。


不味かった。


ソースの甘さが浮いている。

七味が刺さる。

水で薄まったルーが気持ち悪い。

福神漬けの甘酸っぱさだけが、変に強い。


うまくない。


全然、うまくない。


でも、笑いそうになった。


これは、俺がやった。


俺が選んだ不味さだ。


お前らが最適化した快楽じゃない。


俺は、もう一口食べた。


「……不味い」


声に出した。


観客ログが止まる。


「でも、俺の味だ」


誰にも聞こえないくらい小さな声だった。


だが、ログは反応した。


反抗行動?

味覚破壊による補填妨害

そんな方法ある?

非効率

意味不明

でも面白い

もっと見たい


また、それだ。


何をしても、あいつらは面白がる。


怒っても。

泣いても。

不味い飯を食っても。


全部、コンテンツにされる。


それでも。


俺はスプーンを置かなかった。


食べ続けた。


不味い。

辛い。

薄い。

甘さが変。

舌が混乱する。


それでも、飲み込む。


これは俺の飯だ。


お前らのテストじゃない。



寮の部屋へ戻ると、端末が机の上で点いていた。


バッテリーは〇%。


それでも黒い画面は明るい。


第二イベント:味覚補填テスト

結果:成功


「成功じゃない」


補填対象:焦げた玉ねぎの甘さ

被験者反応:涙腺反応、報酬系活性、拒絶反応

回収対象:共有食卓記憶の温度

回収量:一部

追加観測:味覚破壊による補填妨害を確認


ログが少し止まる。


そして、新しい文字が出る。


観測評価:上方修正

個体名称更新候補:カレー個体

代替候補:不味い飯を食う個体

視聴継続率:上昇


「好きに呼べ」


俺はベッドに座った。


身体が重い。


疲れた、というより、削られた感じがする。


目を閉じる。


台所の記憶を探す。


包丁の音。

換気扇。

鍋。

玉ねぎの匂い。


輪郭はある。


でも、温度がない。


母さんの声も、途中で切れている。


「熱いから――」


その先がない。


ゆっくり食べなさい。


たぶん、そう言った。


理屈では分かる。


でも、声の温度がない。


俺は拳を握った。


「返してもらう」


昨日も言った。


今日も言った。


たぶん、明日も言う。


何度でも言う。


「全部、返してもらう」


端末が震える。


第三イベント準備中。

観客投票を開始しました。


画面に候補が並ぶ。


候補一:恐怖反応低減

候補二:痛覚遮断

候補三:感情振幅調整

候補四:記憶補填再実験


コメントが流れる。


恐怖は残した方が面白い

痛覚遮断して無茶させよう

感情いじったら白城寄りになる?

記憶補填もう一回見たい

不味い飯食う個体、壊れにくい

じゃあもっと深く削ろう


俺は端末を見下ろした。


観客は、まだ遊ぶつもりだ。


救いを与え、奪い、笑い、また次を選ぶ。


俺の命を、味を、記憶を、投票で決める。


「観客席で偉そうにしてろ」


俺は低く言った。


「必ず、そっちまで行く」


画面の向こうで、ログが一瞬だけ止まった。


そして、一行だけ表示された。


≪その発言を、視聴者は大変気に入りました。≫


笑い声は聞こえなかった。


だが、部屋の空気が、少しだけ冷たくなった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「味覚補填テスト」。

奪われた味が一時的に戻る回でした。


ただし、それは本物ではなく、観客が最適化した偽物の甘さ。

律はそれに一瞬救われてしまい、その代価として食卓の記憶の温度を奪われました。


次回、観客投票によって、さらに悪趣味な“プレゼント”が選ばれます。

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