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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第6話 観客の目を、ひとつ潰す

観客は、痛みを奪えば無茶をすると考えた。


だから律は、その無茶を使って、観客の目をひとつ潰す。

翌朝、端末には新しい投票結果が表示されていた。


第四イベント投票結果

一位:痛覚遮断

得票率:三八%


その下に、観客のコメントが流れる。


来た

やっぱ痛覚でしょ

無茶させよう

腕折れても動くかな

痛くないとどこまで突っ込める?

カレー個体、壊れにくいし

そろそろ派手な絵が欲しい

代価は何にする?

肉の歯ごたえとか?

熱感もいい

噛む楽しみ、まだ残ってる?


俺は端末を見下ろした。


痛覚遮断。


ついに来たか、と思った。


痛みを消す。


探索者としては、便利すぎる能力だ。

怪我をしても動ける。

火傷をしても手を引かない。

骨が折れても、戦闘を続けられる。


だからこそ、最悪だった。


痛みは、身体の警告だ。


熱い。

切れた。

折れた。

危ない。


そう知らせるためにあるものだ。


それを消されたら、人は壊れても気づけない。


白城怜司の顔が浮かんだ。


瞬きしない英雄。

娘を「個体」と呼んだ男。

触れた手を、初期化するように拭った男。


あれが、痛みも恐怖も味も削った先にある姿なら。


俺は、どこまで近づいている。


端末に、新しい文字が浮かんだ。


本日の観測テーマ:痛覚

目的:痛覚遮断時における限界行動と自我保持の観測。


続けて、さらに小さな文字。


深層適応因子、末梢神経接続準備中。

感覚代価、選定中。

未加工感覚、残存率高。

観客評価:良好。


未加工感覚。


その言葉が、妙に嫌だった。


食材みたいな言い方だ。


俺は人間だ。


そう思った瞬間、ログが重なる。


まだ自分を人間だと思ってる

そこがいい

未加工のまま削ると味が濃い

ベテランは薄いからな

カレー個体は反応がいい

いい素材

いい料理


胃の奥が冷えた。


俺が人間であろうとするほど、あいつらにとっては面白い。


不味い飯を食うことも。

怖くないことを怖がることも。

奪われたものを返せと言うことも。


全部、向こうから見れば味なのだ。


「……好きに見てろ」


俺は端末を伏せた。


「そのうち、目を潰す」


画面は見ていない。


だが、ログが一瞬だけ止まった気がした。



午前の実技は、訓練棟地下の資材管理区画だった。


探索高専では、ダンジョン由来素材の扱い方も授業に含まれる。


浅層鉱石。

自己修復材。

発熱結晶。

簡易結界板。

防護繊維。


便利で、安全で、効率的。


そう説明されるたびに、俺は昨日の連絡橋で、破片ひとつ残さず消えていった亀裂を思い出す。


透明床に混ぜ込まれていた自己修復鉱石。

破片のない亀裂。

壊れたように見せられた床。


ダンジョン由来のものを使っている時点で、そこは完全な地上ではない。


つまり、ここもそうだ。


棚に並ぶ鉱石。

壁に埋め込まれた配線。

天井の監視球。

俺たちが持つ端末。


全部、観客の手が届く可能性がある。


「本日は発熱結晶と冷却膜の管理訓練を行う」


教官が説明する。


「発熱結晶は、浅層で採取される熱源素材だ。破損すると高温を発する。必ず防護手袋を着用しろ」


生徒たちが手袋をつける。


篠田もいた。


右腕の固定は外れていたが、まだ動きはぎこちない。


彼は俺を見て、すぐに視線を逸らした。


小森は少し離れた場所にいた。


昨日より距離がある。


無理もない。


俺は彼女を助けた。

だが、怖がれなかった。

感謝より先に、薄気味悪さを与えた。


そういう目だった。


俺はそれを責められない。


自分でも、自分が気味悪い。


「黒瀬くん」


小森が小さく声をかけてきた。


「昨日の腕、大丈夫?」


「大丈夫」


「……痛くないの?」


その問いに、喉が詰まった。


痛い。


そう答えるべきだった。


人間なら、傷は痛む。


でも、俺は自分の右腕を見た。


連絡橋の縁で切れた傷。

まだ完全には塞がっていない。


昨日までは痛かった。


今は、少し遠い。


「少しは」


嘘だった。


また、嘘だ。


小森の目が揺れる。


彼女はそれ以上聞かなかった。


その沈黙が、一番きつかった。



訓練は、最初は普通だった。


発熱結晶を専用ケースから取り出す。

冷却膜で包む。

温度計を確認する。

保管容器に戻す。


地味な作業だ。


けれど、探索者には必要な基礎らしい。


俺は手順通りに進めながら、周囲を観察していた。


天井の監視球。

壁の換気口。

棚の下。

発熱結晶の保管ケースの隙間。


黒い羽虫はいない。


だが、視線はある。


どこかにある。


昨日、連絡橋で見た継ぎ目。


あれを思い出す。


観客は完全な神じゃない。

見せたいものを見せる。

見せたくないものは隠す。


なら、隠す場所がある。


「次、黒瀬。発熱結晶を移せ」


教官に指示され、俺はケースへ手を伸ばした。


その瞬間、端末が震えた。


第四イベント:痛覚遮断テスト

開始。


胸の奥で、嫌な熱が弾けた。


痛覚反応:一時遮断

行動観測:開始

深層適応因子、神経経路へ接続。


「あ――」


言葉になる前に、右手の感覚が変わった。


熱いはずだった。


発熱結晶を包む防護膜の端が、わずかに破れていた。

そこから漏れた熱が、手袋越しに皮膚を焼いている。


見れば分かる。


手袋の表面が焦げている。

薄い煙が出ている。


だが、痛くない。


熱いという情報だけがある。


危険だという判断だけがある。


でも、身体が手を引かない。


「黒瀬くん!」


小森が叫んだ。


篠田もこちらを見た。


教官が怒鳴る。


「手を離せ!」


焦げた匂いがした。


発熱結晶の匂いじゃない。


俺の手袋が焼け、その下の皮膚が焦げる匂いだった。


脂っこく、甘く、吐き気のする臭い。


誰かが悲鳴を上げた。


小森か、別の生徒か、分からない。


教官が怒鳴っている。

篠田が俺の名前を叫んでいる。

医療班を呼べという声も聞こえた。


周囲は、騒音で満ちていた。


なのに、俺の中だけが静かだった。


痛みがない。


だから、手を引く理由がない。


俺は、焼けていく自分の右手を見ながら、ただ換気口の奥へ視線を向けた。


普通なら、離すべきだった。


普通なら。


けれど、俺は発熱結晶を持ったまま、壁際の換気口を見た。


そこにいた。


黒い羽虫。


一匹ではない。


換気口の奥、暗い隙間に、何匹も固まっている。


黒い目が、こちらを見ている。


いや、違う。


ただ見ているだけじゃない。


発熱結晶のケースから伸びる細い配線。

壁の中へ続くダンジョン由来の温度管理管。

自己修復素材の接合部。


その一番奥に、黒い粒が脈打っていた。


羽虫の巣。


いや、観測の中継点。


昨日、連絡橋で見た継ぎ目と同じだ。


見せるための装置がある。

干渉するための穴がある。


俺は、痛みのない右手を見た。


焦げている。

手袋の下の皮膚も、たぶん無事ではない。


でも、痛くない。


痛みがないなら、手を引かなくていい。


それは、観客が俺にくれた地獄だった。


だから俺は、その地獄を使って、観客の目を潰す。


ログが流れる。


いいね

離さない

痛覚遮断、成功

焼けてるよ

反応薄い

もっと見たい

手、使えなくなるかな

それでも持つ?

いい絵


「黒瀬、離せ!」


篠田が走ってくる。


俺は発熱結晶を床に落とした。


ただし、捨てるためではない。


蹴った。


発熱結晶が、床を滑る。


温度管理管の下へ。


壁際の換気口の真下へ。


教官が叫ぶ。


「何をしている!」


俺は防護手袋を脱ぎ捨てた。


右手の皮膚が赤くなっている。

一部は白く濁っていた。


でも、痛くない。


痛みがないなら、使える。


俺は換気口のカバーに指をかけた。


金属は熱を持っている。

触るべきではない。


だが、痛くない。


爪が剥がれかける感触だけが、遠くにあった。


「開け」


俺は低く呟いた。


カバーが歪む。


手の皮膚が裂ける。


血が出る。


痛くない。


気持ち悪いほど、作業みたいだった。


周囲の生徒たちは、俺の手を見て後ずさっている。


誰かが口元を押さえた。

誰かが「やめろ」と叫んだ。

小森は泣きそうな顔で立ち尽くしている。

篠田が俺の肩を掴もうとして、熱気に顔をしかめた。


その中で、俺だけが静かだった。


静止画みたいに。


自分の肉が焼ける臭いの中で、俺だけが淡々と、換気口の奥へ指を入れていた。


ログが騒ぐ。


何してる?

そこは見せ場じゃない

手のダメージ絵はいいけど

換気口?

そこ触るな

そこ、演出装置側

そこ見るなって


初めて、少し焦りが混じった。


俺は笑いそうになった。


痛みがないせいで、表情は動かなかった。


「そこか」


俺は換気口の奥へ手を突っ込んだ。


熱い空気。

焦げた金属。

細い配線。

湿った羽虫の羽。


全部、情報として流れ込む。


でも痛くない。


本来なら手を引く温度だった。


本来なら悲鳴を上げる痛みだった。


だが、俺は手を引かなかった。


指先が、黒い塊に触れた。


ぬるりとした感触。


虫の巣というより、濡れた神経の束みたいだった。


そこから、無数の視線が流れ込む。


一瞬だけ、俺の目の前に違う景色が見えた。


暗い観客席。

重なり合う黒い瞳。

無数のコメント。

笑い。

投げ銭の光。


そして、その奥で、誰かがこちらを見ていた。


白城のように瞬きしない目。


だが、白城ではない。


もっと深い場所の、誰か。


接触

接触した

やめろ

それは観測側

そこは触る場所じゃない

痛覚遮断をそう使うな

規約外

規約外

規約外


「規約?」


俺は、歯を食いしばった。


「俺は同意してない」


黒い塊を握る。


潰す。


ぶちゅ、と嫌な音がした。


その瞬間、世界が揺れた。


視界の端のログが乱れる。


観測点〇七、切断

映像途絶

音声途絶

感覚経路、不安定

復旧

復旧

復旧失敗

何した?

何した今

課金したのに画面見えないんだけど

サーバー代返せ

運営仕事しろ

おもちゃがカメラ壊した

規約違反では?

いや面白い

でも見えないのは困る

早く復旧しろ

カレー個体が観測点を

地上側設備で?

ありえない


初めてだった。


観客の文字が、明確に乱れたのは。


笑っていない。


実況していない。


俺を、ただのおもちゃとして見ていない。


ほんの一瞬。


あいつらは、俺を見失った。


換気口の奥で、羽虫がばらばらと落ちた。


黒い粒が床に散る。


同時に、俺の端末が甲高い音を立てた。


画面が砂嵐になる。


数秒。


たった数秒だった。


けれど、その数秒、ログが消えた。


見られていない。


そう感じた。


完全ではない。

たぶん、すぐ戻る。


それでも。


俺は、初めて観客の目をひとつ潰した。


「黒瀬くん!」


小森の声が戻ってくる。


「手、手が!」


篠田が俺の肩を掴んだ。


「お前、何やってんだよ!」


教官が駆け寄る。


「馬鹿者! 何をした!」


俺は右手を見た。


皮膚はひどいことになっていた。

赤黒く、ところどころ白い。

指先から血と透明な液が混じって垂れている。


痛くない。


それが一番、気持ち悪かった。


端末に、ノイズ混じりの文字が戻る。


痛覚遮断、継続中

代価選定中

代価選定中

代価変更

肉の歯ごたえ

熱感覚

触覚細部

どれを

どれを

どれを


焦っている。


選べていない。


「焦ってるのか」


俺は呟いた。


ログが止まる。


「お前らも、焦るんだな」


次の瞬間、強制的に文字が走った。


代価取得完了

熱感覚、一部回収

肉繊維食感、一部回収

所有権移転済み

返却不可


喉の奥が冷えた。


また奪われた。


でも。


俺は床に落ちた黒い羽虫の残骸を見た。


今回は、ただ奪われただけじゃない。


奪われる前に、ひとつ潰した。


その事実が、胸の中で小さく燃えた。



医務室に運ばれる途中、スーツの男が廊下に立っていた。


昨日と同じ、穏やかな顔。


だが、ほんの少しだけ目が違った。


興味。


警戒。


そして、ほんのわずかな苛立ち。


「黒瀬律くん」


男は俺の右手を見た。


「自分の身体を、もう少し大切にした方がいい」


「俺のためですか」


「もちろん」


男は微笑んだ。


「君の身体は、貴重な記録媒体でもある」


記録媒体。


人間ではなく。


俺は笑った。


笑えたかどうかは、分からない。


「俺の苦しみを、教材にする気ですか」


男は否定しなかった。


「君だけの苦しみで終わらせる方が、よほど非効率だろう」


その言葉に、小森が息を呑んだ。


篠田が低く唸る。


「何だよ、それ」


スーツの男は篠田を見ない。


俺だけを見ている。


俺は男を見た。


地下の観客は、俺が壊れるところを娯楽として見ている。


地上の大人は、俺が壊れる過程を教材として記録する。


服が違うだけだ。


片方は暗い観客席で笑い、片方は清潔な廊下で微笑む。


どちらも、俺が削れる音を聞いている。


どちらも、それを自分たちの利益に変えようとしている。


「……お前らも、観客と同じだな」


男の笑みが、少しだけ薄くなった。


「同じではない。我々は人類の生存率を上げるために記録している」


「観客は娯楽。お前らは教材」


俺は右手を見た。


包帯もまだ巻かれていない、焼けた手。


「呼び方が違うだけだろ」


スーツの男は黙った。


それから、淡々と言った。


「深層適応とは、君を強くする処理ではない」


男は俺の反論を無視するように続ける。


「深層で死なない形へ、君を軽くする処理だ」


「軽くする?」


「恐怖、痛み、味覚、情動。深層で足を引くものを削る。そうすれば、探索者は長く生き残れる」


男は微笑んだ。


「君がそれを喪失と呼ぶのは自由だ。だが、我々は適応と呼んでいる」


俺は、右手を見た。


痛みがない。

熱も遠い。

指先の細かな感触も薄い。


軽くなっている。


確かに、軽くなっている。


人間として大事なものを削った分だけ、俺は深く潜れる身体に近づいている。


「違う」


俺は言った。


男の目が、わずかに細くなる。


「お前らが何て呼んでも、これは喪失だ」


舌の奥に残る穴。

玉ねぎの甘さの欠落。

母さんの声の温度が消えた場所。

辛さの痛みの遠さ。

怖くないことへの恐怖。


全部、俺の中にある。


いや。


ないからこそ、ある。


「俺がそう呼ぶ限り、これはお前らの適応じゃない」


スーツの男は、少しだけ黙った。


その沈黙は、昨日のような余裕ではなかった。


「……面白い定義だ」


「教材に書いておけよ」


俺は男を睨んだ。


「黒瀬律は、適応を喪失と呼んだ、ってな」


篠田が、隣で小さく笑った。


小森は泣きそうな顔をしていた。


スーツの男は笑わなかった。


そのことが、少しだけ勝った気がした。



医務室で右手を処置された。


医務担当は顔を真っ青にしていた。


「痛みは?」


「ありません」


「そんなはずない」


「ないんです」


彼女は黙り込んだ。


包帯が巻かれていく。


皮膚は焼けていた。

爪も一部剥がれていた。

指先の感覚も鈍い。


でも、俺は顔をしかめることすらできない。


痛くないからだ。


痛みがないことを、医務担当は怖がっていた。


小森も、部屋の隅で俺を見ていた。


さっきより距離は遠い。


でも、完全には逃げていない。


篠田は腕を組んで壁にもたれていた。


「お前さ」


篠田が言った。


「また気持ち悪いことしたな」


「だろうな」


「でも」


彼は言いにくそうに視線を逸らす。


「何か分かんねえけど、今の、効いたんだろ」


俺は篠田を見た。


彼は苦い顔で続ける。


「なら、まあ」


篠田は舌打ちした。


「ちょっとだけな」


それだけ言って、彼は黙った。


ちょっとだけ。


それで十分だった。



放課後、食堂へ向かった。


右手には包帯。

指はうまく動かない。

スプーンを持つのも少し難しい。


左手でトレーを持ち、席に座る。


今日のメニューは、焼いた肉の乗ったカレーだった。


肉。


観客ログが言っていた。


肉の歯ごたえ。


俺は嫌な予感を覚えながら、肉を口に入れた。


噛む。


味はある。


塩気。

油。

焦げた香ばしさ。


だが、歯ごたえが薄い。


奥歯が上下する。


咀嚼音だけは、頭蓋骨の内側に鈍く響いた。


でも、そこに肉を噛んでいる実感がない。


繊維を噛み切る抵抗。

脂が潰れる重さ。

歯の間で肉がほどける、あの感覚。


それが遠い。


濡れた厚紙を噛んでいるようだった。


いや、少し弾力のある消しゴムに歯を立てているような、不快な虚無。


味はある。


なのに、生命を食べている感じがしない。


「……そこを取ったか」


熱も遠かった。


カレーの熱さが、分からないわけではない。

だが、舌や口内が危険を訴える感じが薄い。


火傷しても気づくのが遅れるかもしれない。


強い。


探索者としては、きっと強い。


熱に怯えず、痛みに怯えず、刺激物に怯えずに進める。


その代わり、飯がどんどん遠くなる。


俺は左手でスプーンを握った。


うまくない。


肉を食べているのに、肉らしくない。


でも、食べた。


不味いと感じるだけ、まだマシだ。


視界の端に、ログが戻る。


観測復旧

食事イベント確認

肉感低下、反応あり

でも今日は少し静かにしよう

観測点〇七、復旧不可

損失計上

損失計上

損失計上


俺はスプーンを止めた。


損失。


あいつらにも、損失がある。


俺は笑った。


今度は、少しだけちゃんと笑えた気がした。


「ざまあみろ」


小さな声で言った。


ログが数秒止まる。


それだけで、肉の歯ごたえを失った口の中に、少しだけ味が戻った気がした。



夜、端末が点いた。


第四イベント:痛覚遮断テスト

結果:一部失敗


一部失敗。


その文字を見て、胸の奥が熱くなった。


痛覚遮断:成功

行動効率:上昇

観測点〇七:喪失

対象個体による観測経路破壊を確認

代価取得:熱感覚一部、肉繊維食感一部

観客評価:分裂


コメントが流れる。


事故?

いや意図的に潰した

おもちゃがカメラ壊したんだけど

規約違反では?

でも面白い

めちゃくちゃ面白い

いや危ないだろ

課金したのに一番いいところ見えなかった

サーバー代返せ

運営仕事しろ

次から観測点を深く隠せ

痛覚遮断を渡すの早かったかも

カレー個体、危険物認定?


危険物。


その言葉を見て、俺は息を吐いた。


ようやくか。


ようやく、少しだけ、おもちゃ以外の名前がついた。


端末に、さらに文字が出る。


所有権侵害警告

観測点〇七は観客側資産です

対象個体による破壊行為は、契約違反に該当します


俺は笑った。


「契約?」


右手は包帯で固められている。

痛みはまだない。

熱も遠い。

肉の歯ごたえも薄い。


でも、笑えた。


「俺は同意してない」


画面が一瞬だけ乱れる。


同意はプレゼント発動時点で成立しています

拒否権はありません


「なら、その契約書ごと燃やす」


ログが止まった。


俺は端末を睨む。


「強くなりたいんじゃない」


黒い画面に、自分の顔が映っている。


目はまだ、全部黒くはない。


「深く潜りたいわけでもない」


俺は、包帯の巻かれた右手を握った。


「お前らを、下から引きずり下ろしに行くんだ」


長い沈黙。


それから、端末に一行だけ浮かぶ。


観測対象の分類を更新します。


次の文字が、ゆっくり表示された。


玩具候補

 ↓

危険観測対象


俺は目を閉じた。


玉ねぎの甘さはない。

母さんの声の温度も薄い。

辛さの痛みも遠い。

恐怖も薄い。

熱も、肉の歯ごたえも遠くなった。


でも。


観客の目をひとつ潰した感触は、残っている。


あの黒い塊を握り潰した、気色悪い感触。


それだけは、まだ俺のものだった。


俺はそれを忘れない。


忘れてやらない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「痛覚遮断テスト」。

律は痛みを奪われたことで右手を焼きながらも、観客の観測点をひとつ潰しました。


代価として「熱感覚」と「肉の歯ごたえ」を一部奪われています。

それでも今回は、初めて観客側に明確な損失を与えた回です。


次回以降、律はただの“おもちゃ”ではなく、“危険観測対象”として扱われ始めます。

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