第20話 これは配信ではない
第一管理線。
浅層訓練区画と、実戦区画を分ける境界。
ただの線ではない。
見られる側と、見る側をつないでいる継ぎ目。
そこに、俺は手を伸ばす。
勝つためじゃない。
一度だけ、見返すために。
第一管理線へ向かう前に、医務官は三回、同じことを言った。
「今日は突破しない」
一回目は、医務室で。
「はい」
「第一管理線に触れることすら、本来は認めたくない」
「はい」
「だが、訓練課は異常表示の再確認を要求している。上はそれを承認した」
上。
その言葉は便利だ。
顔が見えない。
責任の輪郭も見えない。
だが、決定だけは降ってくる。
「だから条件をつけた」
医務官は俺の前に紙を置いた。
今日は端末ではなく、紙だった。
また紙だ。
逃げにくいもの。
「単独行動禁止。篠田同行。第一管理線の手前一メートルで一時停止。接触は医務官の許可後、一回のみ。接触時間は三秒以内。異常値が出た場合、即撤退。篠田の制止は最優先。黒瀬本人の継続希望は、撤退判断に含めない」
「俺の希望は無視ですか」
「無視ではない。信用しない」
ひどい。
でも、妥当だった。
二回目は、篠田が来てから。
「今日は突破しない」
「俺にも言ってます?」
篠田が聞いた。
「君にも言っている」
医務官は篠田を見た。
「黒瀬が進もうとしたら止めろ。理由を聞く前に止めろ。黒瀬が大丈夫だと言ったら、なおさら止めろ」
「そこまで信用ないのかよ」
篠田が俺を見た。
「ないだろ」
俺は答えた。
篠田は少しだけ黙ってから、ため息をついた。
「まあ、ないな」
ひどい。
でも、妥当だった。
三回目は、出発直前。
医務官は俺の胸元を指した。
「紙は」
俺は内ポケットに触れる。
「あります」
「読め」
「またですか」
「まただ」
俺は紙を開いた。
何度も折り直したせいで、端が少し柔らかくなっている。
止められてるって分かったうえで行け。
泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。
今日はそれでいいね。
君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
右手首を掴まれたら停止。
本物の篠田は、もっと汚い声で怒る。
見返すために、戻れなくなるな。
カレーが熱いことを、忘れるな。
最後の一文を読んだ時、喉の奥が少しだけ震えた。
カレーが熱いこと。
味ではない。
懐かしさでもない。
美味いかどうかでもない。
熱いと分かるうちは、まだ神経は死んでいない。
それだけの話だ。
それだけの話なのに、今の俺には命綱の一つだった。
篠田が横から覗き込み、顔をしかめる。
「何回見ても変なメモだな」
「役に立つ」
「そこが一番腹立つ」
本物だ。
汚い声で怒る。
その声を聞いて、少しだけ息がしやすくなった。
医務官は紙を確認してから言った。
「今日は、接触したら帰る」
「分かりました」
「接触して、見えたものを追うな」
「分かりました」
「接触して、向こうが何かを提示しても受け取るな」
「分かりました」
「分かっている顔ではない」
「今日は、少しだけ分かっています」
医務官はもう怒らなかった。
ただ、静かに言った。
「その少しを、減らすな」
◇
浅層訓練区画は、いつもより明るかった。
通路の魔素灯が、白に近い青で点いている。
床は乾いている。
壁面の苔も薄い。
空気も、管理された温度に保たれている。
安全な道。
安全な檻。
第一管理線へ向かう途中、天井の監視カメラが一定間隔で並んでいた。
訓練課の主任は、別室から見ている。
昨日、指先を黒い煤で汚された主任。
今日、本人は姿を見せなかった。
端末越し。
スクリーン越し。
また見る側に戻ったつもりなのだろう。
俺は通路の端にある黒い小型カメラを見た。
そのレンズが、ほんの少しだけ震えた気がした。
篠田が言う。
「睨むな」
「睨んでない」
「睨んでる時より怖い顔してる」
「どんな顔だ」
「無表情」
それは嫌な指摘だった。
白城の顔を思い出す。
何も揺れない顔。
必要なことだけを処理する顔。
俺は胸元の紙を押さえた。
カレーが熱いことを、忘れるな。
まだ熱いという言葉を思い出せる。
なら、戻れる。
たぶん。
通信機から医務官の声が入る。
『第一管理線まで二十メートル。黒瀬、現在の体調を言え』
「視界良好。聴覚正常。右手固定。痛みなし。怒りは薄い。嫌悪はあります」
『最後の申告は医学的には曖昧だが、記録する』
篠田が横でぼそっと言う。
「嫌悪あり、か。便利だな」
「便利か?」
「怒りが薄くても、嫌がれるならまだましだろ」
まだまし。
そうかもしれない。
俺は前を見る。
通路の先に、白い線があった。
床に引かれた一本の線。
その向こうは、薄く空気が揺れている。
浅層訓練区画と実戦区画を分ける境界。
第一管理線。
物理的には、ただの白線と透明な防護膜に見える。
だが、近づくほど、左手首のリングが熱を持った。
熱い。
その熱に、少し安心する。
熱いと分かる。
まだ、分かる。
俺が一歩近づくたび、空気の音が変わった。
ざらつく。
通路の奥からではない。
俺の内側でもない。
もっと別の場所。
画面の向こう側で、誰かが息を呑むような音。
黒い文字が浮かぶ。
第一管理線、接近。
地上観測系統、接続濃度上昇。
地下観測層、反応増加。
対象個体、境界接触候補。
排除派、切断要求。
依存派、接触希望。
個別観測者、記録継続。
篠田が横で言う。
「何か出たか」
「向こうも見てる」
「いつものことだろ」
「地上も地下も」
篠田は一瞬だけ黙った。
「……気持ち悪いな」
「ああ」
本物の声。
それを聞いて、俺は白線の一メートル手前で止まった。
医務官の声。
『停止確認。黒瀬、そこから先は私の許可があるまで動くな』
「はい」
『篠田、右側へ』
「はい」
篠田が右側に立つ。
俺の固定された右手の近く。
昨日決めた位置。
声が偽装されても、右手首を掴まれたら停止。
ただし、今日は接触の阻害が来る可能性がある。
篠田の手も、また届かないかもしれない。
俺は篠田の指先を見る。
震えは、ある。
昨日よりは小さい。
でも、ある。
「見るな」
篠田が言った。
「見てる」
「見るなって言ってんだろ」
「命綱は消耗する」
「だから医務官みたいなこと言うな」
本物だ。
俺は少しだけ息を吐いた。
通信機の向こうで、訓練課主任の声が入る。
『黒瀬くん、聞こえますか』
医務官が即座に言う。
『訓練課から黒瀬への直接指示は禁止です』
『確認です』
『確認も医務側を通してください』
少しの沈黙。
それから主任の声は切れた。
篠田が小さく笑う。
「医務官、今日はキレッキレだな」
「怒ってるからな」
「お前が言うと怖い」
医務官の声が戻る。
『黒瀬。接触許可を出す前に、もう一度確認する。触れたら三秒以内に離脱。何が見えても追うな。何を言われても受け取るな』
「はい」
『篠田。三秒経過、または黒瀬の反応異常で即制止』
「了解」
『黒瀬』
「はい」
『戻る場所は』
俺は胸元の紙を押さえた。
「医務室。食堂。俺の席」
『よし』
よし。
その一言が、妙に重かった。
医務官の許可が出る。
『接触、一回のみ。開始』
俺は左手を伸ばした。
右手は固定されている。
だから左手。
手のひらを、透明な防護膜の手前へ。
篠田の手が、俺の右手首の近くで待っている。
見えている。
聞こえている。
熱い。
まだ、全部ある。
その状態で、俺の左手が第一管理線に触れた。
◇
最初に来たのは、音ではなかった。
視界でもない。
味でもない。
方向だった。
上下が、少しだけ反転する。
いや、俺の身体が反転したのではない。
見られている方向が、裏返った。
今まで、視線は外から俺に向かっていた。
観客から俺へ。
訓練課から俺へ。
カメラから俺へ。
端末から俺へ。
それが、一瞬だけ逆を向いた。
俺から、向こうへ。
白い通路が、細い線になる。
魔素灯が、数字になる。
監視カメラが、目ではなく、穴になる。
その穴の向こうに、別の暗さがあった。
無数の眼球が、培養液に浮かぶように並んでいる。
まばたきもせず、俺を見ている。
彼らにとって、俺の欠損は数字の変動でしかない。
俺の絶望は、娯楽だった。
味を失ったことも。
痛みが消えたことも。
篠田の声を偽装されたことも。
怒りを燃やしたことも。
すべて、巨大な観客席という名の胃袋に流し込まれる餌だった。
彼らは俺の痛みを味わい、俺の絶望を喉越しとして楽しんでいる。
俺はそこへ、煤を吐きかけてやった。
「……食い散らかしてんじゃねえよ」
胃袋の内壁が、一瞬だけ不快そうに震えた。
左手首のリングが焼けるように熱い。
痛みはない。
でも、熱い。
熱いと分かる。
端末の黒い文字が、一気に増えた。
境界接触。
接触時間、一秒。
観測方向、揺動。
地上観測系統、逆流検出。
地下観測層、接続不安定。
警告。
対象個体、境界面へ意識圧を投射。
意識圧。
また知らない言葉。
だが、意味は分かる。
俺が、見返している。
向こうが、見られている。
視界の奥で、無数のログが崩れた。
何これ
こっち見た?
切断しろ
いや続けろ
近い
近い
近い
カレー個体、視線逆流
白城ルートじゃない
これ何
こっち側の端末にノイズ
やめろ
もっと見たい
こっちを見るな
こっちを見るな。
笑いそうになった。
笑えなかった。
怒りが薄いからか。
それとも、これが笑う場面ではないと、まだどこかが分かっているからか。
訓練課側の通信が乱れる。
『映像が――何だ、画面が――』
『主任、端末が同期していません』
『全系統に黒いノイズ。医務官、接触を中止――』
医務官の声が鋭く飛ぶ。
『篠田、制止準備』
「してる!」
篠田の声。
本物。
右側にある手。
俺はそれを意識する。
だが、左手は境界から離れなかった。
一秒。
二秒。
三秒まではいっていない。
まだ、許容時間内。
そう思った瞬間、黒いログが滑り込む。
ギフト候補:視線保持。
効果:観測方向の反転を三秒延長。
条件:熱感覚の一部燃料化。
熱感覚。
胸元の紙が、内側から鳴った気がした。
カレーが熱いことを、忘れるな。
来た。
それを狙ってきた。
味ではなく。
怒りでもなく。
篠田の声でもなく。
俺が昨日書いたばかりの、熱さ。
「……売らない」
俺は呟いた。
篠田が叫ぶ。
「何をだよ!」
「熱」
「は!?」
「カレーが熱いことは、売らない」
「マジで何言ってんだよ!」
本物だ。
汚い。
助かる。
黒い文字が揺れる。
交渉拒否。
視線保持、失敗。
代替要求。
帰還条件を解除せよ。
戻る場所を未設定化せよ。
戻る場所を消せ。
医務室。
食堂。
俺の席。
そこを消せば、もっと奥へ行ける。
境界の向こう側が、少しだけ見える。
見えるというより、感じる。
無数の観客の輪郭。
その中に、特に濃い視線が一つ。
個別観測者。
声は聞こえない。
でも、意味だけが流れ込む。
君は、戻る場所を持ったまま、こちらへ手を伸ばすのか。
興味深い。
どちらかは、いずれ焦げる。
どちらか。
戻る場所か。
侵入する意思か。
どちらかは焦げる。
ふざけるな。
どちらも、売らない。
左手の先が、冷たくなる。
いや、熱いのかもしれない。
分からない。
触れている境界の感覚が、指先から腕へ入り込んでくる。
透明な膜だったはずのものが、濡れた黒い布のように、手の皮膚へまとわりつく。
境界が、俺を通して何かを見ている。
地上の端末。
地下の観客。
訓練課の監視系統。
全部が、一本の細い管でつながっているように感じる。
ここが継ぎ目だ。
見る側の配管。
俺はそこに、煤のついた左手を入れている。
端末の文字が壊れ始める。
警告。
警告。
観測方向、反転。
対象個体、境界面へ接触。
地上観測系統、巻き込み。
地下観測層、逆流。
警告。
これは――
文字が止まる。
黒が白に反転する。
白が黒に戻る。
訓練課の通信が悲鳴のように割れる。
『切れ! 全接続を切れ!』
『切断不能、医務側にも流れています!』
『主任、手を――また煤が――』
篠田が叫ぶ。
「三秒だ! 黒瀬!」
三秒。
そうだ。
三秒。
でも、もう少しで見える。
向こう側の輪郭が。
観客の座席。
安全圏の構造。
俺を見ていた穴の奥。
あと少し。
そう思った瞬間、右手首に圧力が来た。
篠田の手。
固定具越しに、強く。
痛くはない。
だが、圧がある。
重い。
止まれ。
右手首を掴まれたら停止。
俺は左手を離そうとした。
だが、境界が離さない。
左手の指先が、濡れた黒に絡め取られている。
黒いログがまた浮かぶ。
帰還条件、保持。
反撃欲求、保持。
矛盾増大。
もっと深く。
戻るな。
戻れば、見えない。
戻れば、また見られる側。
戻れば、また見られる側。
そうかもしれない。
でも。
篠田の声が、真横で怒鳴った。
「カレー冷めるぞ、馬鹿!!」
意味が分からなかった。
でも、分かった。
カレーが熱いことを、忘れるな。
熱いものは、放っておくと冷める。
食堂に戻らなければ、熱いかどうかも分からない。
俺は息を呑んだ。
戻る。
今は、戻る。
左手を引いた。
境界の黒い膜が、指先に絡みつく。
爪の間に煤が入ったような感覚。
熱い。
熱い。
熱いと分かる。
俺は左手を引き剥がした。
その瞬間。
通路中のモニターが、一斉に黒く染まった。
訓練課の別室。
医務側の端末。
浅層訓練区画の監視カメラ。
俺の左手首のリング。
全部が、同じ文字を吐いた。
警告。
観測方向、反転。
対象個体、境界面へ接触。
観測者側安全性、未保証。
これは配信ではない。
これは侵入である。
その文字を見た瞬間、空気が破裂したように鳴った。
音がしたのか、ログが鳴ったのか分からない。
左腕の感覚が、一瞬だけ消える。
足元が沈む。
篠田が俺の右手首を掴んだまま、全力で引いた。
「戻れ!!」
医務官の声が重なる。
『撤退! 篠田、引け! 黒瀬を線から離せ!』
「やってる!!」
篠田が怒鳴る。
俺は後ろへ倒れた。
背中が床に当たる。
痛くない。
でも、衝撃はあった。
空気が肺から抜ける。
左手が熱い。
いや、冷たい。
いや、分からない。
篠田の顔が上から覗き込む。
青ざめている。
怒っている。
怖がっている。
本物だ。
「黒瀬! 俺を見ろ!」
見ろ。
俺は篠田を見る。
「何本だ!」
篠田が指を立てる。
二本。
いや、三本。
視界が揺れている。
「二、いや、三」
「どっちだよ!」
「汚い声」
「は!?」
「本物だ」
「今それ言う場面かよ!」
篠田が怒鳴る。
その声で、俺は少し戻った。
左手首のリングから、黒い煙のようなものが細く上がっていた。
本物の煙ではない。
たぶん。
だが、喉の奥にまた、煤の苦味がせり上がる。
味ではない。
不快という情報。
それが、粘膜に貼りつく。
医務官が駆け寄ってきた。
「黒瀬、意識は」
「あります」
「左手を動かすな」
「はい」
「篠田、離すな」
「離してねえ!」
医務官は俺の左手を見た。
指先が黒く汚れていた。
煤。
爪の間にまで入り込んでいる。
主任の指先に付いたものと似ている。
見る側を汚した煤。
それが今、俺の指にも戻ってきている。
医務官がガーゼで拭う。
だが、落ちない。
黒い汚れは、むしろ皮膚に馴染むように薄く広がった。
血管の下へ、吸い込まれていくようにも見える。
「……皮膚反応ではないな。侵食に近い」
医務官の声は、誰にも聞こえないほど低かった。
その言葉に、俺は不思議と驚かなかった。
爪の間に残った黒い感触が、俺の体温に、あまりにも自然に溶けていたからだ。
見返した代償。
いや、違う。
手を伸ばした証拠。
医務官の表情が険しくなる。
「撤退する。今すぐ医務室へ」
通信機から訓練課主任の声が割り込んだ。
『待ってください、今の表示を確認する必要があります。黒瀬くんの状態と第一管理線の――』
医務官が遮った。
「黙れ」
一語だった。
静かだった。
それなのに、通路全体が冷えた。
「今の現象で、黒瀬は境界面から強制離脱した。篠田にも負荷が出ている。医務側が撤退判断を下す」
『しかし――』
「黙れと言った」
通信が切れた。
篠田が小さく言う。
「医務官、今日こわ」
「本物だな」
「何でも本物判定に使うな」
篠田の声が震えている。
右手首を掴む手も震えている。
でも、離さない。
命綱は消耗する。
俺はそれを見た。
見えた。
まだ見える。
「篠田」
「何だ」
「カレー、冷めるのか」
「冷めるだろ。馬鹿か」
「熱いのは、どのくらいでなくなる」
「知るかよ」
「そうか」
「戻ってから確かめろ」
戻ってから。
その言葉で、胸元の紙が重くなる。
戻る場所。
食堂。
俺の席。
カレーが熱いかどうか。
それを確かめるために、戻る。
俺は頷いた。
「戻る」
「当たり前だ」
篠田は、俺の右手首を掴んだまま、低く言った。
「見返すのはいい。でも、戻ってからにしろ」
意味が分からない。
でも、たぶん合っている。
◇
医務室へ運ばれる途中、端末が何度も震えた。
見ない方がいい。
そう思った。
でも、黒い文字は視界に浮かんでくる。
境界接触、記録。
観測方向反転、部分成立。
侵入判定、暫定。
観測者側、一部接続障害。
排除派、対象個体の即時削除を提案。
依存派、再接触要求。
個別観測者、沈黙。
個別観測者が、沈黙している。
それが少しだけ気味悪かった。
騒ぐ観客よりも、静かな一つの視線の方が、ずっと嫌だ。
さらにログが続く。
地上観測系統への煤付着、継続。
訓練課端末、複数台一時停止。
主任端末、隔離中。
指先汚染、未分類。
見る側、後退。
見る側、後退。
その文字を見て、少しだけ呼吸が楽になった。
勝ってはいない。
境界を越えたわけでもない。
観客を倒したわけでもない。
訓練課を止めたわけでもない。
ただ、向こうが一歩退いた。
それだけ。
その「それだけ」が、今は十分だった。
篠田が言う。
「また変な顔」
「今度は」
「ちょっとだけ腹立つ顔」
「なら、少し戻った」
「戻り方が終わってんな」
本物だ。
俺は目を閉じた。
瞼の裏に、さっきの文字が残っている。
これは配信ではない。
これは侵入である。
俺は侵入者になったのか。
分からない。
ただ、見られるだけの場所から、一瞬だけ手を伸ばした。
その手は黒く汚れている。
左手の爪の間には、煤が残っている。
その煤が何なのか、まだ分からない。
でも、地上の端末にも、地下の観客にも、同じものが付いた。
見る側が、少しだけ汚れた。
それは、たぶん最初の傷だった。
医務室の扉が開く。
白い天井。
消毒液の匂い。
戻ってきた。
まだ、医務室へ戻ってこられた。
次は、食堂だ。
カレーが熱いかどうかを確かめる。
もし熱さを感じなかったら。
その時、俺はもう、あの紙を捨てるしかないのかもしれない。
味がなくても、飯は飯だ。
そう言えた。
でも、熱さまで消えたら。
食堂の席に座っても、何も身体が反応しなかったら。
人間を演じるための台本は、もう俺の汚れた指には似合わないだろう。
俺は、何を根拠に戻ってきたと言えばいい。
その恐怖だけが、今は俺を人間側に繋ぎ止めていた。
それまでは、まだ終わっていない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は第一管理線に触れる回でした。
律は、境界を突破したわけではありません。
観客を倒したわけでもありません。
訓練課を屈服させたわけでもありません。
ただ、見られる側だった律が、一瞬だけ「見る側」を見返しました。
その先に見えたのは、律の痛みや絶望を咀嚼し続ける巨大な観客席でした。
律はそこへ、煤を吐きかけました。
その結果、地上と地下、両方の観測系統に異常が走りました。
これは配信ではない。
これは侵入である。
このログによって、律はただの観測対象ではなくなりました。
ただし、勝利ではありません。
左手は煤で汚れました。
しかも、その煤は落ちず、律自身の身体に馴染み始めています。
次回は後始末です。
医務室。
食堂。
味のない飯。
律が本当に戻ってこられたのか。
そして、カレーの熱をまだ感じられるのか。
第一章の着地点へ向かいます。




