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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第21話 味のないカレーの熱さ

境界に触れた。


見る側を、少しだけ汚した。


でも、俺の左手も黒くなった。


戻ってこられたのか。

まだ、人間側に座れるのか。


それを確かめる場所は、医務室ではなかった。


食堂だった。

医務室の照明は、いつも通り白かった。


白い天井。

白い壁。

白いシーツ。

消毒液の匂い。


戻ってきた。


そのはずだった。


けれど、左手だけが黒かった。


指先。

爪の間。

手の甲の細い皺。


そこに、黒い煤のようなものが入り込んでいる。


医務官は無言でガーゼを替えた。


一枚目。


黒くなる。


二枚目。


黒くなる。


三枚目。


薄くはなる。


けれど、落ちない。


黒は、皮膚の上に乗っているというより、皮膚の下から滲んでいるように見えた。


「痛みは」


医務官が聞いた。


「ありません」


「熱感は」


「分かりません」


「冷感は」


「分かりません」


「触覚は」


俺は左手を見た。


医務官が細い器具で、指先に触れる。


触れられている。


たぶん。


だが、遠い。


自分の手なのに、厚いガラス越しに見ているみたいだった。


「ある、と思います」


「思う、か」


医務官は低く言った。


端末に記録する音がする。


篠田は医務室の端に立っていた。


座れと言われたのに、座っていない。


腕を組んで、ずっとこっちを見ている。


顔色が悪い。


俺より、篠田の方が病人に見えた。


「篠田」


「何だ」


「座れば」


「お前に言われたくねえ」


本物だった。


声が荒い。


汚い。


少しだけ安心する。


医務官が左手の煤を見ながら、呟いた。


「皮膚表面の汚染ではない」


「じゃあ何ですか」


「断定はしない」


医務官はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「ただ、侵食に近い」


侵食。


その言葉は、聞こえた瞬間、胸の奥に落ちた。


重く。


でも、不思議と驚きはなかった。


左手の黒は、気持ち悪い。


気持ち悪いはずだ。


なのに、爪の間に残った黒が、俺の体温に馴染んでいる。


そこにあるのが当然みたいに。


最初から、そこが黒かったみたいに。


最初からこういう手だったような気が、ほんの少しだけした。


そして、そう思った瞬間、左手の重みがふっと消えた。


異物が馴染む瞬間の、吐き気のするような万能感。


正しくないものが、身体の中で正解の場所を見つけたような感覚。


俺は慌てて、右手で左手首を掴もうとした。


右手は固定されていて、うまく動かなかった。


それでも、掴もうとした。


この黒を、自然だと思ったままにしたくなかった。


「黒瀬」


医務官が言う。


「はい」


「今、何を考えた」


「この黒が、思ったより自然だと」


医務官の手が止まった。


篠田が低く言う。


「最悪」


「ああ」


「自分で言うな」


「でも、そう思った」


篠田は顔を歪めた。


怒りではない。


嫌悪でもない。


もっと、見たくないものを見た顔だった。


「お前さ」


「何だ」


「そういうこと、ちゃんと言え」


「言った」


「そうじゃねえ」


篠田は言葉を探すように、少し黙った。


「自然だと思ったなら、その時点でやばいって自分で思え」


自分で思え。


その言葉が、胸の中で引っかかった。


俺は左手を見る。


黒い。


自然だと思った。


だから、危ない。


そう定義する。


メモに書くべきか。


そう思って、やめた。


これ以上、全部を紙に頼るな。


篠田がいないと止まれない、では困る。

紙がないと戻れない、でも困る。


それでも、紙が欲しかった。


人間だった頃の台本みたいな紙が。


俺は内ポケットに触れた。


紙はある。


まだ捨てていない。


でも、左手でそれを取り出すのが少し怖かった。


黒い指で触れたら、文字まで汚れる気がした。


医務官が言う。


「紙は」


「あります」


「読めるか」


俺は紙を出そうとして、止まった。


右手は固定されている。


左手は黒い。


汚れた左手で、紙を取り出す。


それだけの動作が、ひどく重かった。


人間を演じるための台本は、もう俺の汚れた指には似合わない。


境界に触れた左手を見た時から、その考えが頭の奥にこびりついていた。


今も、少し思っている。


「黒瀬」


医務官の声。


俺は左手で紙を取り出した。


黒い指が、紙の端に触れる。


紙は黒くならなかった。


ただ、折り目のところに、少しだけ煤がついた。


それが、妙に痛かった。


痛みはないのに。


俺は紙を開く。


文字を読む。


止められてるって分かったうえで行け。

泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。

今日はそれでいいね。

君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。

篠田を理由に、止まれなくなるな。

右手首を掴まれたら停止。

本物の篠田は、もっと汚い声で怒る。

見返すために、戻れなくなるな。

カレーが熱いことを、忘れるな。


最後の一文で、喉が動いた。


まだ、詰まる。


よかった。


ほんの少しだけ、よかった。


医務官が端末を見た。


「反応あり」


「何の」


「熱感覚確認への予期反応」


篠田が嫌そうに言う。


「何でも名前つけんなよ」


「名前をつけないと見落とす」


「見落としていいもんもあるだろ」


医務官は答えなかった。


俺は紙を折った。


内ポケットに戻す。


左手の煤が、紙につかなかったか気になった。


気になる。


そのことも、覚えておく。



訓練課からの通信は、三度来た。


一度目。


『黒瀬くんの状態を確認したい』


医務官は切った。


二度目。


『第一管理線の異常表示について、本人の証言が必要です』


医務官は切った。


三度目。


『主任の端末に残留した煤状反応について――』


医務官は、少しだけ沈黙した。


そして、切った。


篠田が言う。


「最後のやつ、気になるんじゃないですか」


「気になる」


医務官は認めた。


「だが、今優先することではない」


「珍しくまとも」


「君は私を何だと思っている」


「黒瀬の次くらいに面倒な大人」


「不名誉だな」


医務官は俺を見る。


「黒瀬。食堂へ行くなら、条件がある」


「はい」


「一人で行かない。左手を使わない。熱さの確認は急がない。食べる量は半分以下。食後に再検査」


「分かりました」


「分かっている顔ではない」


「今日は、食べることだけは分かっています」


医務官は少しだけ黙った。


それから、小さく息を吐く。


「食べることだけでいい」


それは、医者の言葉だった。


たぶん。


篠田が俺の横に立つ。


「行くぞ」


「篠田も来るのか」


「医務官に言われた」


「命綱だから?」


「今日は違う」


篠田は俺の左手を見た。


「お前がその手で変なことしないか見張る」


「信用がない」


「あると思ってたのか」


「思ってない」


「ならいい」


いつものやり取り。


少しだけ戻る。



食堂へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。


左手が重い。


黒い煤は、包帯で軽く覆われている。


医務官は「密閉するな」と言った。


皮膚なのか、反応なのか、分からないから。


だから包帯は薄い。


黒が透けている。


通りすがりの生徒が、ちらりと見る。


すぐに目を逸らす。


その目は、故障した機械や、腐りかけの死体を見る目に似ていた。


俺は左手を隠そうとして、やめた。


隠せば、この黒が俺の中で「内緒の真実」になってしまう気がした。


見せておいた方がいい。


俺自身にも。


これは、俺の手だ。


そう思った瞬間、その言葉の方が怖くなった。


最初からこういう手だったような気が、ほんの少しだけしたからだ。


篠田が隣で言う。


「見んなって言うか?」


「誰に」


「周りに」


「言わなくていい」


「いいのか」


「見られるのには慣れてる」


言ってから、少し嫌になった。


慣れている。


その言葉が嫌だった。


篠田も同じことを思ったらしい。


「慣れんな」


短く言った。


本物だ。


食堂の入口が見える。


匂いがした。


カレーの匂い。


香辛料。

油。

煮込んだ肉。

玉ねぎ。


匂いとしては分かる。


ただ、それが心を動かす距離が遠い。


前なら、腹が少し動いた。


今は、情報として届く。


カレー。


温度高め。

油分あり。

香辛料刺激あり。


そう分類しそうになる。


違う。


違う。


これは飯だ。


俺は一度立ち止まった。


篠田が見る。


「どうした」


「分類しそうになった」


「何を」


「カレーを」


篠田は少しだけ黙った。


それから、俺の右肩を軽く小突いた。


「飯だろ」


「そうだ」


「分類終わり」


雑だった。


でも、助かった。



おばちゃんは、食堂の奥から俺を見た。


目が合う。


おばちゃんは、俺の左手を見た。


右手の固定具を見た。


篠田の顔を見た。


そして、何も聞かなかった。


「来たね」


それだけ言った。


「はい」


「座りな」


「食券は」


「あとでいい」


「でも」


「座りな」


短い。


逆らえなかった。


俺はいつもの席へ向かった。


観客席ではない。


訓練課の会議室でもない。


医務室のベッドでもない。


食堂の席。


俺の席。


椅子を引く。


座る。


座れた。


昨日も座れた。


今日も座れた。


その確認だけで、少し息がしやすくなる。


おばちゃんが水を置く。


それから、カレーを持ってきた。


量は少なめ。


肉は小さい。


スプーンは太い。


昨日と同じ。


ただ、今日は皿から立つ湯気が、いつもより強く見えた。


湯気。


熱。


確認するもの。


おばちゃんは皿を置いて、俺の目を見た。


「あんた、随分と遠くまで行ったんだね」


その言葉で、胸の奥が止まった。


何があったか、知らないはずだ。


第一管理線も。

観客も。

配信でも侵入でもないログも。

左手の煤が何なのかも。


知らないはずだ。


でも、遠くまで行ったことだけは分かる。


おばちゃんは続けた。


「いいから、座って食いな」


それ以上は言わなかった。


厨房へ戻る。


その背中が、やけに大きく見えた。


可哀想とは言わない。


大丈夫とも言わない。


戻ってこいとも言わない。


ただ、座らせて、食わせる。


俺はスプーンを持とうとして、左手を見た。


黒い包帯。


医務官の条件。


左手を使うな。


右手は固定されている。


俺は少し止まった。


篠田が隣で言う。


「貸せ」


「何を」


「スプーン」


「自分で」


「左手使うなって言われただろ」


「右手は」


「だから俺が取るって言ってんだよ」


篠田は乱暴にスプーンを持ち、俺の前に置いた。


太い柄を、右手でも支えやすい向きにして。


「自分で持てるか」


「たぶん」


「たぶんじゃねえ」


俺は右手の固定具を動かさないように、スプーンを支えた。


うまく握れない。


篠田が皿を少し寄せる。


「介護みてえ」


「悪い」


「悪いと思うなら食え」


本物だ。


俺はスプーンで、少しだけカレーをすくった。


湯気が上がる。


熱いのか。


分かるのか。


ここで分からなかったら。


紙を捨てるしかないのかもしれない。


人間を演じるための台本は、もう俺の汚れた指には似合わない。


そう思った。


胸元の紙が、重い。


俺はカレーを口に運んだ。


舌に触れる。


最初に来たのは、味ではなかった。


味は、やはりしない。


甘さもない。

辛さも遠い。

玉ねぎの輪郭もない。

肉の旨味も、ただの情報の影だ。


そして。


熱さも、来なかった。


一瞬。


本当に一瞬。


世界が止まった。


喉が閉じる。


篠田が何か言った。


聞こえない。


おばちゃんの包丁の音も、遠くなる。


皿の湯気だけが見える。


熱いはずだ。


湯気が出ている。


篠田はさっき、少し顔をしかめていた。


熱いはずだ。


なのに。


俺には、何も。


スプーンを持つ右手が固まる。


胸元の紙が、突然ただの紙になる。


文字。

制止条件。

人間だった頃の台本。


全部が、急に遠くなる。


捨てるしかないのか。


そう思った瞬間。


喉の奥が、じわりと焼けた。


死んでいたはずの場所が、無理やり叩き起こされたような痛み。


遅れて。


ほんの少し。


粘膜の奥に、熱が落ちた。


それは温かさではなかった。


懐かしさでもなかった。


粘膜が焼かれるという、身体からの遅すぎる警告だった。


熱い。


痛い。


だから、まだ俺は壊れた機械ではない。


そう思った瞬間、息が震えた。


「……熱い」


声が出た。


掠れていた。


でも、出た。


篠田が俺を見る。


「熱いか」


俺は頷いた。


「遅いけど」


「遅くてもいいだろ」


「熱い」


もう一度言った。


確認するように。


熱い。


熱い。


味はしない。


でも、熱い。


神経はまだ完全には死んでいない。


紙を捨てなくていい。


まだ。


篠田が顔を歪めた。


怒っているような、安心したような、ひどい顔だった。


「泣くなよ」


「泣いてない」


「泣きそうな顔してる」


「分からない」


「なら、泣くなとは言わねえ」


その言葉で、小森の声を思い出した。


泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。


喉の熱とは別のものが、胸の奥に落ちる。


まだ、覚えている。


俺はもう一口、カレーを食べた。


味はしない。


熱さは遅れてくる。


遠い。


鈍い。


それでも、来る。


「熱い」


三度目。


言葉にする。


消えないように。


観客のログが、視界の端に浮かんだ。


摂食確認。

味覚反応、低値。

熱感覚反応、遅延。

帰還条件、継続。

紙、保持。

食堂席、保持。

分類不能。


俺は端末を伏せた。


分類するな。


これは飯だ。


これは席だ。


これは熱だ。


俺がまだ、ぎりぎり受け取れる、人間側からの信号だ。



カレーは半分も食べられなかった。


医務官の条件通りだった。


篠田は隣で全部食った。


食い終わってから、ぼそっと言う。


「普通に熱かった」


「そうか」


「味もした」


「そうか」


「……羨ましいか」


「羨ましい」


答えるのに、あまり時間はかからなかった。


篠田は少しだけ驚いた顔をした。


「そこは分かるんだな」


「分かる」


「なら、まだましだな」


まだまし。


今日、何度目か分からない。


でも、今はその言葉でいい。


おばちゃんが皿を下げに来た。


俺の皿を見る。


残っているカレー。


怒らない。


残したことを責めない。


ただ、短く言った。


「今日は、熱かったなら勝ちだね」


勝ち。


その言葉は、軽くなかった。


おばちゃんは、たぶん知っている。


遠くまで行ったまま、戻ってこなかった人間を。


飯の前に座れなくなった人間を。


熱いものを熱いと言えなくなった人間を。


だから、おばちゃんの言う勝ちは、何かを倒したという意味ではない。


今夜だけは、向こう側に全部持っていかれなかった。


その程度の、生存の最低ラインだった。


俺は頷いた。


「はい」


おばちゃんは、何も言わずに皿を下げた。


その背中を見送る。


篠田が言う。


「お前、今のは信じるんだな」


「何を」


「勝ち」


俺は少し考えた。


「勝ちというより、確認」


「めんどくせえな」


「熱かった」


「それでいいだろ」


そうか。


それでいいのかもしれない。


俺は胸元から紙を出した。


左手では触らない。


右手もほとんど使えない。


だから、篠田に言った。


「開いてくれ」


「俺が?」


「左手で触ると汚れる」


篠田は嫌そうな顔をしながらも、紙を開いた。


「どこに書くんだよ」


「下」


「何を」


俺は少しだけ考えた。


熱かった。


それだけでは足りない。


でも、飾る必要もない。


「カレーは、遅れて熱かった」


篠田が眉を寄せる。


「何だその文」


「事実」


「まあ、事実か」


篠田は紙を机に置き、俺の代わりにペンを持った。


「俺が書くのかよ」


「頼む」


「字、汚くても文句言うなよ」


「本物の篠田は、もっと汚い字で書く」


「うるせえ」


篠田は乱暴な字で書いた。


カレーは、遅れて熱かった。


字は歪んでいた。


線の太さも揃っていない。


インクは少しかすれて、最後の「た」は筆圧が強すぎて紙に食い込んでいた。


ログの文字とは違う。


端末に浮かぶ、整いすぎた黒い文字とは違う。


整いすぎたログの文字が「命令」なら、この汚い字は「抵抗」だ。


これは、生きている人間の手が、苛立ちながら紙に残したノイズだった。


その汚い字を見ている間だけ、左手の黒が、少しだけただの汚れに見えた。


俺はそれを見て、少しだけ笑った。


今度は、笑えた。


篠田が目を細める。


「笑ったな」


「たぶん」


「たぶんじゃねえ。今のは笑った」


「そうか」


「そうだ」


端末が震える。


黒い文字が浮かぶ。


新規帰還条件、追加。

熱感覚、遅延あり。

食堂席、継続。

声の所有者による代筆、確認。

分類不能。

非効率。

しかし、未知。


未知。


また、その言葉。


俺は端末を伏せた。


もういい。


今日は、見せない。


今日は、食堂の席に座る。


熱かった。


遅れてでも。


それでいい。



医務室に戻ると、医務官は検査結果を見て、少しだけ息を吐いた。


「熱感覚は遅延あり。消失ではない」


「はい」


「味覚は低値のまま」


「はい」


「左手の煤状反応は変化なし。むしろ定着傾向」


「はい」


「はい、ではない」


医務官が珍しく苛立った声を出した。


「君は境界に触れた。観測系統に異常を起こした。左手に未分類の反応を残した。訓練課は君を危険なサンプルとして見るだろう」


医務官はそこで言葉を切った。


「そして、境界面の向こうにある何かも、君をただの訓練生としては見なくなった可能性がある」


その先は、俺の端末がもう告げていた。


侵入者候補。


向こうは、俺をそう分類した。


「はい」


「そして君は、カレーが熱かったから大丈夫だと思っている」


俺は少し黙った。


「大丈夫とは思っていません」


「なら、何だ」


「捨てなくて済みました」


「何を」


「紙を」


医務官は黙った。


篠田も黙った。


俺は続ける。


「まだ、あの紙を持っていてもいいと思えました」


医務官は長く息を吐いた。


「……それは、医学的には評価しづらい」


「でしょうね」


「だが、今日はそれでいい」


今日はそれでいい。


前にも聞いた言葉。


おばちゃんの言葉にも似ている。


俺は頷いた。


「はい」


医務官は端末を閉じる。


「第一管理線の件は、しばらく凍結させる」


「できるんですか」


「できる限りは」


「訓練課は止まりますか」


「止まらない」


即答だった。


「境界面の向こうも、おそらく止まらない」


医務官はそう言ってから、一瞬だけ眉を寄せた。


「……少なくとも、君の端末に出ている反応を見る限りは」


そうだろう。


侵入者。


そう認識された。


俺はもう、ただの観測対象ではない。


それは、少しだけ呼吸が楽になる事実だった。


同時に、ひどく危険な事実でもあった。


医務官は俺の左手を見る。


「黒瀬」


「はい」


「君は、今後もっと強く誘惑される。戻る場所を消せ。止める声を燃やせ。熱さを売れ。怒りを燃やせ。そういう選択肢が、もっと巧妙に出る」


「はい」


「だから、今日食堂に戻れたことを軽く扱うな」


「はい」


篠田が横から言う。


「あと、俺の字を勝手に呪物に追加すんな」


「追加したのは篠田だ」


「書かせたのはお前だろ」


「本物だな」


「それ便利に使うなって言ってんだよ」


医務官が少しだけ目を伏せた。


笑ったのかもしれない。


分からないくらい小さかった。


それでも、医務室の空気が少しだけ人間のものに戻った気がした。


白い天井。

消毒液の匂い。

固定された右手。

黒くなった左手。


全部、変わらない。


でも、紙は捨てなかった。


食堂の席にも座れた。


カレーは、遅れて熱かった。


それだけを、今日は持って眠る。



夜。


医務室の明かりが落とされた後、俺は左手を見た。


薄い包帯の下に、黒が残っている。


侵食。


その言葉が、まだ耳に残っている。


黒は落ちない。


体温に馴染んでいる。


俺の一部になろうとしている。


怖い。


怖いと思えた。


それも、覚えておく。


端末が震えた。


見たくない。


でも、文字は浮かんだ。


第一段階、終了。

対象個体、侵入者候補へ分類変更。

排除派、活動強化。

依存派、接触要求増加。

個別観測者、沈黙継続。


帰還条件、複数保持。

熱感覚、遅延。

食堂席、継続。


次回観測項目:侵食進行時の帰還意志。


侵食進行時の帰還意志。


つまり、これからもっと黒くなっていく。


その黒が、指先から手首へ。


手首から肘へ。


肘から胸へ。


心臓が黒く染まり、脳がシステムと同期した時。


それでも俺は、味のしないカレーを「熱い」と言いに戻ってくるのか。


ログは、俺の絶望が完熟するのを待っている。


そう聞こえた。


俺は端末を伏せた。


答えない。


今日は答えない。


今日は、紙を見る。


篠田の汚い字。


カレーは、遅れて熱かった。


俺はそれを読んだ。


声には出さない。


喉の奥に、まだ少し熱の記憶がある。


味はない。


でも、熱かった。


遅れてでも。


だから、まだ捨てない。


紙も。


席も。


俺自身も。


まだ、捨てない。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作は、この第21話をもって完結とさせていただきます。


境界に触れ、システムに「侵入者」として分類された律ですが、彼が最後に選んだのは、高尚な進化でも全能感でもなく、「遅れて届くカレーの熱さ」でした。


味が消え、世界が数字や記号に置き換わっていく中で、彼がまだ「人間」の側に座り続けようとする――その不格好で切実な抵抗の物語を、ここまで書き切ることができたのは、ひとえに読者の皆様の応援があったからです。


律の左手の黒がどこまで広がるのか、そして彼がいつまで「熱さ」を忘れないでいられるのか。物語としてはここで一区切りとなりますが、皆様の想像の中で、彼の「抵抗」が続いていけば幸いです。


ブックマーク、評価、そして感想を下さった皆様、本当にありがとうございました。

また、新しい物語でお会いできることを願っております。

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