第19話 見る側でいられると思うなよ
怒りを燃やした後、俺の中は少し静かになった。
その静けさが、怖かった。
けれど、静かになったせいで、よく見えるものもあった。
地下の観客。
地上の訓練課。
言葉は違う。
立場も違う。
でも、どちらも俺を見ていた。
食堂でカレーを食べた翌朝。
怒りは、まだ戻りきっていなかった。
目が覚めた時、まずそれに気づいた。
天井が白い。
医務室の匂いがする。
右手は固定されている。
足首は重い。
いつもなら、その一つ一つに、薄く腹が立っていた。
またここか。
また壊れたのか。
また見られているのか。
そういう棘が、胸の内側に引っかかっていた。
でも今朝は違った。
棘が少ない。
静かだった。
静かすぎる。
俺は天井を見たまま、左手を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛みはない。
怒りも、薄い。
その事実だけが、やけにはっきりしていた。
「起きているな」
医務官の声がした。
「はい」
「寝起きでその声はやめろ」
「変ですか」
「変だ」
医務官はベッド脇に立って、俺の顔を見た。
「昨日より、さらに静かだ」
「自覚はあります」
「自覚があるならまし、と言いたいところだが」
医務官は端末を見た。
「感情反応が全体的に鈍い。怒りの反応も、恐怖反応も、昨日の燃焼後から低いままだ」
怒りの反応。
測られている。
記録されている。
そのことにすら、今はあまり腹が立たない。
それが嫌だった。
医務官は俺の胸元を指した。
「紙は」
俺は内ポケットに触れる。
「あります」
「読め」
「今ですか」
「今だ」
まただ。
俺は紙を出した。
左手で開く。
折り目が増えている。
文字も増えた。
止められてるって分かったうえで行け。
泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。
今日はそれでいいね。
君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
右手首を掴まれたら停止。
本物の篠田は、もっと汚い声で怒る。
声に出して読んだ。
途中で、少しだけ喉が詰まった。
よかった。
まだ詰まる。
医務官が俺を見る。
「反応が戻ったな」
「そうですか」
「ああ。少しだけだが」
少しだけ。
それでいいのかもしれない。
全部戻らなくても、少し戻る。
おばちゃんの言葉を思い出す。
上手に座れたじゃないの。
座れただけ。
戻れただけ。
少しだけ。
医務官は端末を閉じた。
「訓練課が面談を要求している」
「面談」
「名目は、昨日の医務側制止条件確認に関する聞き取りだ」
「本音は」
「君の異常出力を、どう再現できるか知りたい」
医務官の声は冷たかった。
俺は紙を折る。
「行くんですか」
「私も同席する」
「篠田は」
「呼ばれている」
その言葉で、ようやく胸の奥に薄く熱が戻った。
篠田。
命綱。
声の所有者。
右手首を掴む手。
消耗するもの。
「その顔だ」
医務官が言った。
「何ですか」
「篠田の名前が出た瞬間、君は反応した」
「悪いですか」
「悪くはない。だが、そこを使われる」
分かっている。
だから紙に書いた。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
医務官は続けた。
「今日、訓練課が何を言っても、君はその場で承諾するな」
「はい」
「篠田が怒っても、君は動くな」
「はい」
「私が怒っても、動くな」
「先生も怒るんですか」
「たぶん怒る」
珍しく、医務官ははっきりそう言った。
「だから、君は止まれ」
俺は頷いた。
「分かりました」
「分かっている顔ではない」
「今日は、少し分かっています」
医務官は俺を見て、ため息をついた。
「少しでいい。今日はそれを減らすな」
◇
会議室は、訓練棟の三階にあった。
窓が大きい。
外の中庭が見える。
白い机。
灰色の椅子。
壁一面の投影スクリーン。
端末の充電ポート。
記録用の小型カメラ。
きれいな部屋だった。
きれいすぎて、解像度が高すぎる写真を見ているようで気分が悪い。
主任の顔に浮かぶ笑みが、表情ではなく、皮膚のひきつれに見える。
目尻の皺。
頬の毛穴。
喉仏が小さく上下する動き。
唾液を飲み込む、かすかな音。
記録担当の指先がキーを叩くたび、乾いた摩擦音がする。
そのすべてが、過剰な情報として俺の脳へ流れ込んでくる。
人間を、データとして解体して見ているような感覚。
ここには血の匂いがしない。
代わりに、新品の電子機器が放つ、吐き気のするような清潔な熱気だけが充満していた。
ここには、右手の固定具も、足首の保護具も、場違いに見える。
けれど、この部屋の人間たちは、その場違いなものを見るために集まっている。
訓練課の主任。
昨日の職員。
記録担当。
医務官。
篠田。
そして俺。
篠田は、俺の右隣に座った。
椅子を引く音が荒い。
怒っている。
本物だ。
「近い」
俺が言うと、篠田は前を見たまま答えた。
「命綱だからな」
「自覚したのか」
「したくなかったけどな」
篠田の指は、机の下で軽く震えていた。
本人は隠しているつもりらしい。
見えた。
痛みがないなら、せめて見ろ。
俺は、その震えを覚えておく。
訓練課主任が口を開いた。
「まず、昨日の医務側検査で発生した異常反応について、関係者から確認を取りたい」
丁寧な声だった。
だが、俺はその声の奥にある温度を探してしまう。
篠田のように怒っているわけではない。
医務官のように冷えているわけでもない。
おばちゃんのように短く置く声でもない。
滑らかだった。
滑らかすぎる。
「黒瀬律くん」
「はい」
「昨日、君は接触阻害と推定される異常現象下で、通常とは異なる魔素出力を示した」
通常とは異なる。
怒りを燃やした、とは言わない。
煤とも言わない。
「その際、君自身はどのような意図を持っていた?」
俺は医務官を見る。
医務官は何も言わない。
その場で承諾するな。
その場で進むな。
止まれ。
俺は答える。
「篠田の手が届かなくなったので、それを解除しようとしました」
「どうやって?」
「分かりません」
主任の眉が少し動いた。
「分からない?」
「はい」
「だが、君はその直前に何らかの選択をしたはずだ。ログ上、出力の立ち上がりには明確な意志反応が見られる」
意志反応。
「分かりません」
もう一度言った。
主任の目が細くなる。
篠田が隣で小さく笑った。
「便利だな、それ」
俺は黙る。
主任は続けた。
「篠田くん」
「はい」
篠田の返事は荒い。
「君は昨日、黒瀬くんの右手首を掴み、接触阻害の解除を確認した。掴んだ瞬間、何を感じた?」
「何を、って」
「圧力、抵抗、熱、痺れ、何でもいい」
篠田は少し黙った。
「気持ち悪かったです」
会議室が一瞬静かになる。
主任が聞き返す。
「気持ち悪かった?」
「はい」
「具体的には」
「手が届かないのに、届くはずの場所に黒瀬がいる。押しても押しても、空気が詰まってるみたいで、こっちの手だけが変になる」
篠田は、机の下で指を握った。
「で、黒瀬が何かした瞬間、急に煤みたいな黒いのが見えた気がして、手が届いた」
「煤」
記録担当がメモを取る。
篠田の眉が吊り上がる。
「比喩です」
「いえ、貴重な証言です」
「そういうとこが腹立つんだよ」
医務官が低く言う。
「篠田」
「すみません」
謝る声ではなかった。
本物だ。
主任は気にした様子もなく、画面を操作した。
スクリーンに数値が出る。
魔素反応。
心拍。
瞳孔。
皮膚電位。
接触成立までの時間。
阻害膜推定値。
俺の身体が、線と数字になっている。
その横に、篠田の反応も並んでいた。
手の震え。
体温低下。
呼吸乱れ。
音声振幅。
命綱の消耗も、数字になっている。
篠田が画面を見た。
「俺のまで出すなよ」
主任が答える。
「同行者の負荷も重要なデータだ」
「俺はデータじゃねえ」
「もちろん、君は生徒だ」
その言い方が、何も分かっていない声だった。
篠田が机を蹴りそうになった。
俺は左手で、机の下から篠田の制服の袖を軽く引いた。
篠田がこっちを見る。
俺は小さく首を振る。
止まれ。
篠田は歯を食いしばった。
「……分かったよ」
命綱を止める。
変な話だった。
だが、必要だった。
主任は続ける。
「今回の異常反応について、訓練課としては、管理下での再現確認が必要と判断している」
医務官が即座に言う。
「反対です」
「最後まで聞いてください」
「聞く前に反対です」
会議室の空気が固まる。
主任は微笑んだ。
その笑みも、今の俺には皮膚の動きにしか見えなかった。
「医務側の懸念は理解しています。しかし、今回の反応は、浅層訓練区画の安全設計にも関わる重大な現象です」
「安全設計を口実に、生徒の異常出力を再現させる気ですか」
「再現ではなく確認です」
「同じです」
医務官の声が低くなる。
「黒瀬は昨日、感情反応を燃料にしたと申告しています。医学的には極めて危険な状態です。再現させるべきではない」
主任は少しだけ首を傾げた。
「感情反応を燃料にする、という表現は、本人の主観では?」
「主観を軽視するなら、この件は一歩も進みません」
「しかし、数値上は――」
「数値上は、黒瀬の感情反応が落ちています」
医務官は言った。
「彼は何かを消費した。少なくとも医務側ではそう判断します」
主任は沈黙した。
だが、その顔は引いていなかった。
「では、なおさら確認が必要です」
篠田が低く言った。
「何でだよ」
主任は篠田を見る。
「再発防止のためです」
「嘘くせえ」
「篠田くん」
「再発防止って言えば、何でも見ていいと思ってんのか」
篠田の声が荒くなる。
「こいつが何か削って、変な出力出して、それで手が届いた。それをもう一回見たいだけだろ」
会議室が静かになる。
主任の目が、わずかに冷えた。
「感情的な表現は控えてください」
「感情削られてんのは黒瀬の方だろうが」
篠田が立ち上がりかける。
俺は袖を掴んだまま、力を入れた。
止まれ。
篠田は、俺を見た。
俺は小さく言う。
「止まれ」
篠田は、深く息を吐いた。
「……くそ」
座った。
俺の中で、薄い熱が動いた。
篠田が止まった。
俺の声で。
少しだけ、戻った気がした。
◇
主任は資料を切り替えた。
スクリーンに、予算計画のような表が映る。
一瞬だけだった。
すぐに閉じられた。
だが、見えた。
深層適応研究枠
異常適応個体の制御実証
共同研究費
協賛企業向け安全性報告
ああ。
そういうことか。
胸の奥が冷える。
怒りではない。
怒りよりも乾いた理解だった。
「今のは何ですか」
俺が聞くと、主任は表情を変えなかった。
「内部資料です」
「俺の身体と関係ありますか」
「君個人の話ではありません。探索者教育全体の安全性に関わる話です」
便利な言葉だ。
全体。
安全。
教育。
研究。
予算。
俺一人の欠損は、全体のための材料になる。
篠田の震えも、同行者負荷になる。
小森の涙は、精神ケア事例になる。
おばちゃんの飯は、摂食継続データになるのかもしれない。
俺は、笑いそうになった。
笑えなかった。
怒りがまだ薄いからだ。
薄い怒りは、笑いにもならない。
ただ、冷たく沈んでいく。
主任が言う。
「黒瀬くん。誤解しないでほしい。君の状態を把握することは、君自身を守ることにもつながる」
「守る」
「そうです」
「見ることと、守ることは同じですか」
主任の顔が少し止まった。
篠田が横で息を呑む。
医務官は黙っている。
俺は続けた。
「見て、記録して、分類して、予算にして、報告にすることは、守ることですか」
声は静かだった。
自分でも嫌なくらい、静かだった。
主任の視線が、俺の目に向く。
「感情的になっているようですね」
「なっていません」
本当に。
あまり、なっていない。
だからこそ、言葉が滑らかに出た。
「昨日より、怒りが少ないので」
主任の顔が、初めてわずかに揺れた。
篠田が小さく言う。
「黒瀬」
止める声。
分かっている。
俺は紙を触る。
内ポケットの中で、折り目が固い。
止まれ。
俺はそこで口を閉じた。
医務官が代わりに言った。
「今日の面談はここまでです」
主任が眉を寄せる。
「まだ確認事項が」
「ここまでです」
「医務官」
「これ以上は、黒瀬の反応を意図的に引き出す行為と判断します」
主任は少し黙った。
それから、手元の端末を見た。
「分かりました。では、再現確認については別途、上申します」
別途。
上申。
俺を止める場所が、また一つ遠くなる。
医務官だけでは止められない場所へ、話が運ばれていく。
その時。
会議室のスクリーンが、ふっと暗くなった。
誰も操作していない。
記録担当が顔を上げる。
「スクリーン?」
黒い画面。
その中央に、細かい黒い粒が浮いた。
黒い画面に、さらに黒い煤。
見えるはずのない黒。
左手首のリングが熱を持つ。
端末が震える。
残留煤煙、検出。
地上観測系統へ付着。
訓練課端末、汚染率低。
見る側、検出。
見る側、検出。
俺は画面を見る。
スクリーンの黒い煤が、ゆっくり広がる。
訓練課の主任が立ち上がった。
「何だ、これは」
記録担当が端末を叩く。
「映像系統にノイズ。外部接続は切っています」
「ログを取れ」
主任が言った。
その瞬間、主任の手元の端末から、ぴちゃり、と湿った音がした。
「何だ……?」
主任が眉を寄せる。
端末のベゼルから、黒い油のような煤が染み出していた。
それは画面のノイズではなかった。
主任の指先にまとわりつき、拭っても取れない。
主任は反射的に、胸ポケットから高価そうなハンカチを取り出した。
乱暴に拭う。
だが、黒いシミは消えなかった。
むしろ、体温を得た生き物のように、指紋の隙間へ潜り込んでいく。
見る側が、見ている対象に汚染される。
その瞬間、主任の目が変わった。
研究対象を見る目ではない。
化け物を、初めて直視した人間の目だった。
「何をした」
主任が俺を見る。
声がわずかに震えていた。
俺は首を振る。
「何も」
本当に。
俺は何もしていない。
昨日の煤が、残っていた。
怒りを燃やした煤。
観測経路にこびりついた、不快な燃えかす。
それが、ここまで来た。
訓練課の端末にも。
主任の指先にも。
黒い画面に、文字が浮かぶ。
訓練課の端末にも見えているのか。
職員たちの顔色が変わった。
観測者、確認。
安全圏、未確認。
見る側でいられる保証なし。
「誰の表示だ」
主任が言う。
医務官が俺を見る。
「黒瀬」
「俺じゃありません」
本当に。
俺は何もしていない。
画面の煤は、すぐに消えた。
何もなかったように、白い会議資料が戻る。
主任の指先だけには、黒い汚れが残っていた。
主任は、それを見下ろしていた。
さっきまで見ていた人間が、初めて自分の手を怖がっていた。
それだけで十分だった。
今は。
俺はゆっくり息を吐く。
怒りは薄い。
でも、煤は残っている。
完全に燃え尽きたわけではない。
見る側でいられると思うなよ。
その言葉を、俺は口に出さなかった。
今は、まだ。
◇
面談は、強制的に終了した。
医務官は俺と篠田を連れて、会議室を出た。
廊下に出ると、篠田が大きく息を吐く。
「何だよ、今の」
「昨日の煤だと思う」
「煤って何だよ」
「俺にも分からない」
「分からないこと多すぎんだろ」
「そうだな」
篠田は俺を見る。
「お前、さっき怖かったぞ」
「どこが」
「全部」
雑だった。
だが、本物だった。
「静かすぎた。怒ってないのに、怒ってる時より怖かった」
「怒りが薄い」
「知ってる。だから怖いんだよ」
篠田は足を止めた。
俺も止まる。
篠田は、廊下の窓の外を見た。
「お前、あの主任に何かする気か」
「今はしない」
「今は、って何だよ」
「今は、止まる」
「ならいい」
篠田はそう言ったが、顔はよくなかった。
「でも、黒瀬」
「何だ」
「お前があいつらを見返したいのは分かる。俺だって腹立つ。でも、あいつらを見返すために、お前があっち側へ行ったら意味ねえからな」
分かっている。
分かっている、はずだ。
紙を触る。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
見る側を引きずり下ろすために、自分が白城になるな。
まだ書いていない言葉が、頭の中に浮かんだ。
書いた方がいいのかもしれない。
でも、今は紙を出さなかった。
増やせばいいというものでもない。
重くなりすぎたら、歩けなくなる。
医務官が前を歩きながら言った。
「訓練課は止まらない」
「でしょうね」
「今日の異常表示で、むしろ彼らは確信したはずだ。黒瀬は、地上側の観測系統にも影響を及ぼせる」
「それは、まずいですか」
医務官は振り返らない。
「非常にまずい」
「ですよね」
「だが、彼らにとっては、非常に価値がある」
価値。
嫌な言葉だ。
「次は、浅層訓練区画の第一管理線付近を要求してくるだろう」
篠田が顔をしかめる。
「何でそこなんですか」
「昨日までの異常反応と、今日の端末汚染が、区画の境界制御と関係している可能性がある」
医務官は足を止めた。
「第一管理線は、浅層訓練区画と実戦区画を分ける境界だ。管理側の観測系統も、外部のダンジョン由来技術も、そこに集中している」
境界。
観測系統。
継ぎ目。
左手首のリングが、わずかに熱を持った。
まるで、その言葉を待っていたように。
端末を見なくても分かる。
向こうも、聞いている。
医務官が俺を見る。
「黒瀬。今、何か出たか」
「まだです」
嘘ではない。
まだ文字は出ていない。
ただ、気配がある。
篠田が嫌そうに言う。
「また変な顔」
「今回は、たぶん向こうも第一管理線を待ってる」
篠田は舌打ちした。
「じゃあ、行かなきゃいいだろ」
その通りだ。
行かなければいい。
境界に近づかなければいい。
見る側に触れようとしなければいい。
でも、訓練課は止まらない。
観客も止まらない。
俺の煤は、もう地上側の端末に付着した。
このまま見られ続けるだけなら、また誰かの声が使われる。
誰かの手が阻害される。
誰かの食事が、感情が、記憶が、候補一覧に並べられる。
俺は紙を握った。
怒りは薄い。
でも、嫌悪は残っている。
「行きたいわけじゃない」
俺は言った。
篠田が睨む。
「じゃあ何だよ」
「見られっぱなしは、嫌だ」
篠田は黙った。
医務官も黙った。
俺は続ける。
「一度だけでも、向こうに分からせたい」
「何を」
「見ている側が、安全とは限らないこと」
篠田はしばらく俺を見ていた。
そして、低く言った。
「それをやる時、俺が止めたら止まれ」
「分かってる」
「嘘くせえ」
「少しは本当だ」
「少しじゃ足りねえよ」
医務官が言う。
「足りないなら、条件を増やす」
「また呪物が増えるんですか」
篠田が嫌そうに言う。
医務官は真顔で返した。
「増やす」
俺は少しだけ笑いそうになった。
今度は、ほんの少し笑えた。
それだけで、まだ戻れる気がした。
◇
夕方。
医務室に戻ると、訓練課から正式な通知が届いていた。
医務官が端末を読み上げる。
「浅層訓練区画第一管理線付近における、観測系統異常の再確認」
篠田が露骨に嫌な顔をする。
「来たよ」
「来たな」
医務官の声は冷たい。
「医務側としては条件付きでしか認めない。単独不可。篠田同行。撤退権限は篠田と医務官側が保持。訓練課の直接操作権限は制限。記録は医務側にも同時保存」
「それでも行くんですか」
篠田が聞く。
医務官は俺を見た。
「決めるのは、ここではない」
「え?」
「今日すぐ答えるなと言った」
そうだった。
その場で承諾するな。
その場で進むな。
止まれ。
俺は通知を見る。
第一管理線。
境界。
向こう側に近い場所。
そこへ行けば、たぶん何かが起きる。
観客も待っている。
訓練課も待っている。
俺の煤が、まだ何かを汚せるかを。
俺は紙を出した。
新しく一行を書こうとして、手を止める。
何を書く。
見る側でいられると思うなよ。
違う。
それは怒りだ。
今の俺には、少し遠い。
もっと必要なことがある。
俺は左手で、ゆっくり書いた。
見返すために、戻れなくなるな。
字は歪んだ。
少し考えて、その隣に小さく書き足す。
カレーが熱いことを、忘れるな。
味は、もう信用できない。
美味いも、懐かしいも、うまく掴めない。
でも、熱いという情報だけは、まだ身体に残っている。
熱いと分かるうちは、神経はまだ完全には死んでいない。
それだけは、売らない。
忘れない。
そう決めた。
篠田が覗き込む。
「……まあ、今までの中ではましだな」
「そうか」
「いや、ましじゃねえな。全部変だ」
医務官が紙を見る。
「それでいい」
「いいんですか」
「少なくとも、今の君には必要だ」
俺は紙を折る。
胸元に戻す。
端末が黒く光った。
新規制止条件、追加。
観測者への反撃欲求、保持。
帰還条件、設定。
熱感覚、保持対象へ登録。
非効率。
しかし、未知。
未知。
その言葉を見て、もう驚かなかった。
俺は端末を伏せる。
「見せてやらない」
篠田が聞く。
「また何を」
「帰る場所」
篠田は一瞬だけ黙って、それから鼻で笑った。
「食堂だろ」
「たぶん」
「なら分かりやすいな」
そうだ。
第一管理線へ行くなら、戻る場所も決めておく。
医務室。
食堂。
俺の席。
観客席ではない場所。
そこへ戻る。
戻れなくなるくらいなら、見返さない。
そう書いた。
そう決めた。
決めたはずだ。
左手首のリングが、じわりと熱を持つ。
遠くで、黒い文字が待っている。
次は、境界だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「見る側」の回でした。
地下の観客だけでなく、地上の訓練課もまた、律の欠損や異常値を「見る側」として扱い始めています。
訓練課は悪意で笑っているわけではありません。
むしろ彼らは、研究、安全、予算、再発防止といった正しそうな言葉で動いています。
だからこそ、律にとっては地下の観客とよく似て見えます。
見る。
記録する。
分類する。
価値に変える。
今回、前話で燃やした怒りの煤が、地上側の端末と主任の指先にまで付着しました。
律はまだ勝っていません。
けれど、「見る側」の安全圏に、ほんの少しだけ煤を残しました。
そして律は、新しい制止条件を書きました。
見返すために、戻れなくなるな。
カレーが熱いことを、忘れるな。
味はもう信用できない。
でも、熱いと分かるうちは、まだ神経は生きている。
次回は、浅層訓練区画の第一管理線。
境界です。
見られる側だった律が、初めて「見る側」の継ぎ目へ手を伸ばします。




