第18話 燃やすものを選べ
声を奪われた。
だから、次は手を狙ってきた。
止める声。
止める手。
俺を人間側に引っかけていたもの。
それを守るために、何を燃やすのか。
医務室の机に、紙が二枚置かれていた。
一枚は、俺のメモ。
止められてるって分かったうえで行け。
泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。
今日はそれでいいね。
君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
右手首を掴まれたら停止。
本物の篠田は、もっと汚い声で怒る。
もう一枚は、医務官が用意した確認票だった。
声。
接触。
位置。
撤退線。
複数の制止条件。
一つ奪われても、別のものが残るようにするための表。
医務官はその紙を見て、眉間に皺を寄せていた。
「条件が増えている」
「増やせと言ったのは先生です」
「増やせとは言ったが、呪物にしろとは言っていない」
「呪物ですか」
「少なくとも、医療用チェックリストには見えない」
ひどい。
でも、否定はできなかった。
メモの裏面は、もうほとんど祈りではなく、縛りだった。
いや、祈りよりも重い。
自分を止めるために、自分で打ち込んだ杭。
篠田はベッド脇の椅子に座って、腕を組んでいた。
「俺の声が汚いって書いたやつ、まだ納得してないからな」
「本物の判別条件だ」
「だから嫌なんだよ」
「役に立った」
「腹立つ」
篠田はそう言いながら、少しだけ目元をこすった。
眠れていない顔だった。
昨日、あれだけ叫んだ。
俺の右手首を掴み続けた。
偽物の自分の声を聞かされた。
平気なはずがない。
でも、篠田は平気そうに振る舞っていた。
俺と同じように。
いや。
俺より、下手に。
医務官が篠田を見た。
「篠田。手の震えは」
「止まってます」
「嘘をつくな」
「ちょっとだけです」
「ちょっとだけ、という言葉を信用しないことにした」
篠田が嫌そうに顔を歪める。
「黒瀬と同じ扱いされてる」
「君も十分危険な役割を負っている」
医務官は淡々と言った。
「命綱は、自分が命綱であることを自覚していないと切れる」
篠田が黙る。
俺も黙った。
命綱。
その言葉は、昨日からやけに重い。
俺を止める声。
俺を止める手。
俺を止める怒り。
それが篠田に乗っている。
俺が壊れれば、篠田も削れる。
そのことが、気持ち悪かった。
「今日は何をするんですか」
俺は医務官に聞いた。
医務官は、確認票を指で叩く。
「訓練ではない。再試験でもない。医務側の制止条件確認だ」
「訓練課は」
「関与させない」
医務官の声が硬い。
「昨日の音声改竄の件で、訓練課のログ管理に問題があった。少なくとも今日は、こちらで完結させる」
篠田が鼻で笑った。
「ようやくまともな判断っすね」
「まともではない。被害を広げないための最低限だ」
医務官は俺を見る。
「黒瀬。今日は君が進む試験ではない。止まる試験だ」
「止まる試験」
「そうだ。声が乱れた時。接触が阻害された時。篠田に異常が出た時。君がまず止まれるかを確認する」
篠田に異常が出た時。
その言葉で、内側が少し熱くなる。
すぐに、医務官が言った。
「その顔だ」
「え」
「今の顔を覚えろ」
医務官は俺を見ている。
「誰かに危険が向いた瞬間、君は自分を勘定から外す。自分の身体、自分の判断、自分の損耗を後回しにする」
篠田が小さく言う。
「ほらな」
「うるさい」
「うるさくねえ。正しいだろ」
正しい。
だから腹が立つ。
医務官は続ける。
「今日は、それを止める」
「篠田に何か来ても?」
「そうだ」
医務官の声は冷たい。
「篠田に何か来た時ほど、君は止まれ」
俺は紙の裏面を見た。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
自分で書いた文字。
なのに、今見ると、誰かに命令されているようだった。
いや。
命令でいい。
今の俺には、命令くらい重くないと効かない。
◇
検査室は、前回と同じだった。
白線。
スピーカー。
監視カメラ。
医務官の端末。
訓練課はいない。
そのはずだった。
だが、部屋の隅に設置された非常用モニターの赤い待機ランプが、なぜか点いていた。
医務官がすぐに気づく。
「誰が接続した」
補助医療スタッフが端末を確認する。
「医務側の回線ではありません。訓練課の監視系統が残っています」
医務官の顔が冷えた。
「遮断」
「はい」
モニターが落ちる。
黒い画面になる。
その黒の中に、ほんの一瞬だけ、別の黒が映った気がした。
左手首のリングが熱を持つ。
来ている。
医務官が俺を見る。
「何か出たか」
「まだ文字は」
言い終わる前に、視界の端に黒いログが浮かんだ。
制止条件確認。
声、対策済み。
接触、対策中。
声の所有者、消耗確認。
次段階:接触阻害。
「来ました」
篠田が俺の右側へ立つ。
「内容は」
「接触阻害」
「昨日言ってたやつか」
「ああ」
篠田は右手を軽く開閉した。
俺の右手首を掴むための手。
その指先が、ほんの少し震えている。
見えないふりをしようとして、やめた。
見ろ。
痛みがないなら、せめて見ろ。
医務官の言葉を思い出す。
「震えてる」
俺が言うと、篠田が睨んだ。
「見るな」
「命綱は消耗する」
「医務官みたいなこと言うな」
「事実だろ」
「事実でも腹立つ」
本物だ。
その汚い返しだけで、少し安心した。
医務官が手順を確認する。
「黒瀬は白線上。篠田は右側。私の合図で篠田が右手首を掴む。黒瀬はその時点で停止。黒瀬が停止できなければ中止」
「分かりました」
「向こうからの表示、音声、感覚変化があれば、即座に言え」
「はい」
「篠田」
「はい」
「君に異常が出た場合も、すぐ言え」
「分かってます」
「我慢するな」
「……はい」
篠田の返事が少し遅れた。
俺はそれを覚えておく。
白線の上に立つ。
右手は固定。
左手は自由。
足元は安定。
声は聞こえる。
視界もある。
医務官が言う。
「開始」
篠田が一歩近づく。
右手が伸びる。
俺の固定具に触れる。
その瞬間。
篠田の手が、俺に触れる直前で止まった。
いや。
止まったのではない。
届いているはずの距離で、届いていない。
篠田が眉をひそめる。
もう一歩近づく。
手を伸ばす。
指先が、俺の右手首の数センチ手前で、空気を押すように震えた。
「何だこれ」
篠田が低く言う。
医務官の声が飛ぶ。
「篠田、無理に押すな」
「押してないです。届かねえんです」
見えている。
篠田はそこにいる。
俺の右手首はここにある。
距離は足りている。
なのに、篠田の手は俺に届かない。
透明な膜。
いや、違う。
距離そのものが少しだけ引き延ばされているような感覚。
ああ。
やっぱり俺は、もうあっち側なのか。
痛みのない身体が、急速に冷えていく。
触れてもらえない。
止めてもらえない。
世界から切り離されて、安全圏のあいつらに消費されるだけの肉塊。
その冷たさが、次の瞬間、どす黒い拒絶へ変わった。
黒い文字が浮かぶ。
接触阻害、成功。
右手首圧力、未成立。
声の所有者、物理制止不能。
対象個体、孤立傾向上昇。
篠田が歯を食いしばる。
「ふざけんな」
手を伸ばす。
届かない。
篠田の指先が震える。
今度は怒りだけではない。
焦り。
恐怖。
自分の手が届かないことへの、苛立ち。
俺は足を動かそうとした。
篠田の方へ一歩寄れば、届くかもしれない。
だが、医務官の声が飛ぶ。
「黒瀬、動くな」
止まる。
動くな。
そうだ。
俺が動いたら、条件の意味がない。
篠田が俺を止めるために近づく。
俺は待つ。
届かないなら、届かないことを確認する。
それだけの試験だ。
なのに、胸の奥が黒く熱くなる。
篠田の手が届かない。
俺を止める手が、向こうに遮られている。
触れてもらえない孤立を作ったうえで、俺の中身を買い叩く気か。
端末の文字が重なる。
ギフト候補:同行者防護。
効果:声の所有者への干渉を一時遮断。
接触阻害を解除。
篠田個体への直接負荷を軽減。
篠田個体。
その言い方に、吐き気がした。
効果だけ見れば、救いだった。
篠田への干渉を遮断する。
手が届くようになる。
篠田の負荷が減る。
受け取ればいい。
そう思いかけた瞬間、条件が表示された。
条件:保持対象ひとつを燃料化。
候補一覧を展開。
嫌な予感がした。
画面が黒く沈む。
候補一:味覚残滓。
候補二:食事行動への執着。
候補三:小森の感謝。
候補四:おばちゃんの言葉。
候補五:医務官の警告。
候補六:篠田の声。
候補七:篠田の接触。
候補八:怒り。
息が止まる。
燃料化。
つまり、売れということだ。
守るために、何かを差し出せ。
篠田を守りたいなら、篠田の声を売れ。
飯を守りたいなら、飯の意味を売れ。
おばちゃんの言葉も。
小森の感謝も。
医務官の警告も。
全部、俺の中にあるもの。
俺を止めているもの。
俺を人間側に引っかけているもの。
それを燃やせば、篠田の手が届く。
助かるかもしれない。
篠田が叫ぶ。
「黒瀬! 何見てる!」
俺は答えられなかった。
画面の文字が、さらに浮かぶ。
推奨:候補六。
篠田の声を燃料化すれば、声の所有者への干渉耐性が一時上昇。
矛盾なし。
彼の声で止まる必要がなくなる。
矛盾なし。
ふざけるな。
篠田の声を燃やして、篠田を守る。
それは、篠田を守ったことになるのか。
声を消した篠田は、俺を止める篠田なのか。
白城が頭をよぎる。
捨てれば軽くなる。
声も。
飯も。
怒りも。
苦しみも。
大切なものを燃やしてしまえば、守る必要がなくなる。
楽だ。
とても。
吐き気がするほど、楽だ。
医務官の声がする。
「黒瀬、状況を言え」
声を出す。
喉がざらつく。
「ギフトが来ています」
篠田が低く言う。
「受けんな」
「条件がある」
「なら、なおさら受けんな」
「篠田への干渉を遮断できるらしい」
篠田の顔が一瞬だけ固まった。
それから、怒った。
「受けんなって言ってんだろ!」
「でも」
「でもじゃねえ!」
届かない手で、篠田が空気を殴るように押す。
透明な何かに阻まれている。
「俺を理由に止まれなくなるなって書いたの、お前だろ!」
その言葉で、胸元の紙が重くなる。
そうだ。
書いた。
俺が書いた。
篠田を理由に、止まれなくなるな。
なのに今、篠田を理由に、何かを売ろうとしていた。
紙を燃やそうとしていた。
篠田の声を、飯の意味を、小森の言葉を、おばちゃんの一言を。
守るために、守るものを差し出そうとしていた。
それは白城の道だ。
軽くなる道だ。
俺は奥歯を噛んだ。
痛みはない。
だから、噛んだ実感も薄い。
でも、怒りだけはあった。
薄汚い。
粘ついた。
喉の奥に煤が溜まるような怒り。
篠田を使おうとしたことへの怒り。
俺の中の声を、勝手に候補一覧へ並べたことへの怒り。
大切なものを、燃料として値札にしたことへの怒り。
俺は画面を見る。
候補八。
怒り。
候補八:怒り。
効率:不安定。
出力:予測不能。
代償:感情燃焼後の反応低下。
推奨しない。
推奨しない。
そうか。
なら、それでいい。
「燃やすものは決めた」
俺は言った。
篠田の顔が変わる。
「おい」
「声は燃やさない」
画面が揺れる。
「飯も燃やさない」
喉の奥に、砂のカレーが蘇る。
味はない。
でも、飯は飯だ。
「小森の言葉も、おばちゃんの言葉も、医務官の警告も燃やさない」
医務官が何か言おうとした。
俺は続ける。
「篠田の声も、手も、売らない」
黒い文字が乱れる。
非効率。
同行者防護には安定燃料が必要。
保持対象の燃料化を推奨。
「うるさい」
俺は端末を睨んだ。
「勝手に俺の中の財布を開けるな」
篠田が一瞬だけ眉を寄せた。
財布、という言葉が変だったのだろう。
でも、俺にはそうだった。
あいつらは、俺の記憶や声や飯の意味を、勝手に資産みたいに並べている。
どれを売るか選べと言っている。
「飯の味も、あいつらの声も、絶対に売らない」
黒いログが跳ねる。
「誰かが俺を止めてくれたことも、売らない」
胸元の紙が熱い。
「燃やすなら」
左手を握る。
爪が手のひらに食い込む。
痛みはない。
けれど、怒りはある。
「俺の、この薄汚い怒りだけだ」
文字が止まる。
瞬間、左手首のリングが焼けるように熱くなった。
痛みはない。
だが、視界の端が、黒い消しゴムのカスを擦りつけられたように濁っていく。
喉の奥に、本物の煙を吸い込んだような、じっとりした苦味がせり上がった。
味はしないはずなのに。
これは味ではない。
不快という情報が、喉の粘膜に貼りついている。
「英雄の光なんかじゃない」
白城の静けさを思い出す。
軽くて、正しくて、空っぽの強さ。
「ただの煤だ」
俺の怒りは、綺麗じゃない。
篠田を狙われて腹が立った。
自分の声を商品みたいにされたのが嫌だった。
観客が怯える顔を想像して、少し呼吸が楽になった。
その全部が混ざっている。
汚い。
でも、俺のものだ。
「お前らの喉に、俺の煤を詰めてやる」
黒い画面が割れるように乱れた。
候補八、選択。
怒り燃焼、開始。
出力不安定。
不快煤煙、生成。
観測経路、汚染。
接触阻害膜、濁化。
篠田の手が、いきなり近づいた。
透明な膜が、黒く濁る。
見えない何かに、煤が絡みつくように。
篠田が呻く。
「何だ、これ」
「押せ」
俺は言った。
「今なら届く」
「命令すんな!」
篠田はそう怒鳴りながら、俺の右手首を掴んだ。
固定具越しの圧力。
本物の手。
震えている。
冷たい。
でも、届いた。
その瞬間、接触阻害の膜が破れた。
黒いログが悲鳴のように乱れる。
接触成立。
接触成立。
阻害失敗。
不快煤煙、観測経路へ逆流。
依存派、反応上昇。
排除派、接続切断要求。
個別観測者、記録継続。
篠田が俺の手首を掴んだまま叫ぶ。
「止まれ!」
「止まってる」
「もっと止まれ!」
「どういう意味だ」
「知らねえよ!」
その叫びが、やけに本物だった。
俺は息を吐く。
身体の奥で、怒りが燃えている。
燃えているのに、熱くない。
むしろ、燃やした場所から順に乾いていく。
胸の中の湿ったものが、煤になって剥がれる。
怒っていたはずなのに、怒りの輪郭が薄くなる。
まずい。
そう思った。
これは力ではない。
感情を燃料にするということは、感情が減るということだ。
当然の話だ。
当然なのに、今まで見ないふりをしていた。
怒りを燃やせば、怒れなくなる。
怒りで人間側に踏みとどまっていた俺が、また少し白城に近づく。
それでも。
篠田の手は届いた。
それだけは、守れた。
医務官の声が鋭く響く。
「中止。黒瀬、即時停止。篠田、そのまま保持。スタッフ、遮断膜の残留反応を記録するな。先に二人を離脱させろ」
補助スタッフが動く。
訓練課はいない。
だが、どこかで見ている気配がある。
非常用モニターの黒い画面が、一瞬だけちらついた。
そこに、文字が浮かんだ気がした。
何を燃やした
怒りが薄い
もっと濃いのを出せ
煤、まずい
喉に残る
切断しろ
いや、もっと吸わせろ
俺は笑いそうになった。
笑えなかった。
怒りが遠い。
さっきまであった、どす黒い熱が、もう半分くらい灰になっている。
「黒瀬」
篠田の声がする。
「おい、黒瀬」
俺は篠田を見る。
「聞こえてる」
「顔が違う」
「どんな」
「……腹立つくらい、静かだ」
静か。
それは嫌な言葉だった。
白城の方角にある言葉だった。
俺は胸元の紙を押さえる。
止める声。
重いはずの紙。
でも、今は少しだけ遠い。
篠田が俺の右手首を掴む力を強めた。
「戻ってこい」
「いる」
「嘘つけ」
「いる」
「じゃあ、俺の悪口言え」
意味が分からなかった。
「何で」
「いいから言え」
俺は篠田を見る。
顔が青い。
指先が冷たい。
怒っている。
怖がっている。
「篠田は、うるさい」
「弱い」
「口が悪い」
「もっと」
「しつこい」
「もっと」
「俺を止めるたびに、勝手に消耗する」
篠田が一瞬だけ黙る。
「……それは悪口か?」
「分からない」
「なら戻ってきてねえじゃねえか」
篠田は吐き捨てるように言った。
「馬鹿。気持ち悪い。俺にそういう顔させんな」
その声で、少しだけ胸の奥が戻った。
薄く。
ほんの少しだけ。
怒りではない。
痛みでもない。
でも、戻った。
「悪い」
「謝れるなら、まだましだ」
医務官が近づいてくる。
「黒瀬、今何をした」
「怒りを燃やしました」
医務官の顔が固まった。
「比喩か?」
「半分は」
「半分は違うのか」
「たぶん」
医務官は目を閉じた。
「最悪だ」
篠田が言う。
「先生が最悪って言うの、珍しいですね」
「今日だけで何度目か分からない」
医務官は俺の目を見た。
「感情の反応が落ちている」
「分かりますか」
「分かる。目の焦点が安定しすぎている。呼吸も落ち着きすぎている。今の君は、危機直後の人間の反応ではない」
白城の影が、また遠くで立っている。
静かで、軽くて、苦しまなくて済む場所。
俺はそこに近づいたのか。
自分で怒りを燃やして。
「戻ります」
俺は言った。
医務官が聞き返す。
「どこへ」
「医務室へ。あと、食堂へ」
篠田が眉を寄せる。
「今、食堂?」
「飯を食う」
「味しねえだろ」
「だから食う」
篠田は少しだけ黙って、それから大きく息を吐いた。
「ほんと、気持ち悪いな」
その声は、ちゃんと汚かった。
だから、本物だった。
◇
医務室で検査を受けた。
右手首の圧迫痕。
篠田の手の冷え。
俺の感情反応の低下。
一時的な呼吸安定。
瞳孔反応の遅延。
医務官は、一つずつ記録していった。
「怒りを燃料にした、という君の申告は、医学的には意味不明だ」
「はい」
「だが、反応としては説明がつく。強い情動反応をきっかけに、異常な魔素出力が発生した。その結果、接触阻害のような現象が一時的に破れた」
「つまり」
「君が怒ったから壊れた」
医務官は嫌そうに言った。
「そして、その後に感情反応が落ちた」
予想通りだった。
怒りを燃やせば、怒りが減る。
燃料とはそういうものだ。
「黒瀬」
「はい」
「これは手段にするな」
医務官の声は低かった。
「君は今、自分の感情まで消耗品にし始めている」
「分かっています」
「分かっていない」
即答だった。
「怒りは危険だ。だが、怒りは君がまだ人間側に残っている証拠でもある。それを燃やし続ければ、君はますます静かになる」
静かになる。
その言葉は怖かった。
怖い、とちゃんと思えた。
まだ、少しは残っている。
「今日、食堂に行きます」
「なぜ」
「確認したいので」
「味か」
「いいえ」
俺は首を振った。
「座れるかどうか」
医務官は少しだけ黙った。
そして、短く言った。
「篠田を連れて行け」
篠田がうんざりした顔をする。
「また俺ですか」
「君も食え」
「俺、関係あります?」
「ある。命綱は、食事を抜くと切れやすい」
「雑な理屈だな」
「雑ではない。人間は食べなければ持たない」
その言葉は、やけにまともだった。
まともすぎて、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
◇
食堂は、昼を過ぎて少し空いていた。
おばちゃんは、俺を見るなり、眉を少し上げた。
何も聞かなかった。
ただ、俺の顔を見た。
右手を見た。
篠田の青い顔を見た。
俺の目をもう一度見た。
そして、言った。
「あんた、今日は座ってから決めな」
「何をですか」
「食べられる量」
その声に、胸の奥がほんの少しだけ軋んだ。
食券機の前で迷う。
カレー。
いつものやつ。
味はしない。
怒りも薄い。
熱も遠い。
それでも、俺はボタンを押した。
篠田が横で言う。
「俺も同じでいい」
「珍しいな」
「お前一人に食わせると、また変な儀式みたいになるだろ」
「儀式ではない」
「なってんだよ」
おばちゃんがカレーを出した。
いつもより少なめ。
肉は小さく切ってある。
スプーンは太い。
何も聞かない。
それがありがたかった。
俺は席に座る。
座れた。
まず、それを確認した。
観客席ではない。
訓練課の観察室でもない。
俺の席。
食堂の、いつもの席。
スプーンを持つ。
左手。
少し震える。
カレーを口に運ぶ。
味はしない。
熱も遠い。
肉の歯ごたえも、やはり薄い。
でも、飲み込む。
喉を通る。
胃に落ちる。
飯は飯だ。
篠田が隣で、無言でカレーを食っている。
しばらくして、言った。
「まずくはねえ」
「そうか」
「お前、今、羨ましいって顔したぞ」
「したか」
「少しな」
羨ましい。
その感情は、まだ分かった。
よかった。
少しだけ、戻っている。
おばちゃんが水を置きに来た。
「……あんた、上手に座れたじゃないの」
その言葉で、スプーンが止まった。
おばちゃんは、それ以上何も言わなかった。
水差しを持って、すぐ厨房へ戻っていく。
座れた。
ただ、それだけ。
でも今の俺には、その「それだけ」が遠かった。
遠くまで行きすぎた人間を、無理に走らせない言葉。
戻ってこいとも言わない。
頑張れとも言わない。
ただ、座れたことだけを見て、飯の前に置いていく。
俺は頷いた。
「はい」
声は、少しだけ掠れていた。
端末が黒く光る。
食事行動、継続。
味覚反応、低値。
怒り反応、低下。
ただし、摂食継続。
分類不能。
俺は端末を伏せた。
分類するな。
これは飯だ。
俺が座って、食っている。
それだけだ。
篠田が横で言う。
「また変な顔」
「今度は悪くない」
「本当かよ」
「たぶん」
「たぶんかよ」
そのやり取りの後、俺はもう一口食った。
味はしない。
怒りもまだ戻りきっていない。
それでも、座って食うことはできた。
燃やした怒りの跡には、煤が残っている。
白城のような静けさに近づいたのかもしれない。
でも、俺はまだ席にいる。
観客席ではない。
俺の席に。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「燃やすものを選べ」の回でした。
向こう側は、篠田への干渉を遮断する代わりに、律の中の大切なものを燃料として差し出せと迫ってきました。
飯の意味。
小森の言葉。
おばちゃんの言葉。
医務官の警告。
篠田の声。
それらは、律を人間側に引っかけているものです。
だから律は、それを燃やしませんでした。
代わりに燃やしたのは、踏みにじられたことへの怒りです。
ただし、怒りを燃やすことは、都合のいい覚醒ではありません。
燃やした分だけ、律の中から怒りが薄くなります。
それは、白城のような静けさへ近づく危険な行為でもあります。
今回、篠田の手は届きました。
でも、律の感情は少し乾きました。
そして最後は、食堂へ戻りました。
味はしない。
怒りも薄い。
それでも座って食べる。
今回は「勝った回」ではなく、守るものを燃やさずに済んだ代わりに、自分の怒りを少し失った回です。
次回、訓練課と地下の観客。
二つの「見る側」が、さらに重なっていきます。




