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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第17話 声の所有者

声は、残った。


だから向こうは、その声を狙い始めた。


止める声。

戻す声。

俺を人間側に引っかけていた、篠田の声。


それが偽物になる時、俺は何を信じればいいのか。

医務室の白い天井を見ていた。


昨日と同じ天井。


消毒液の匂い。

ベッドの硬さ。

固定された右手。

保護具を巻かれた足首。


変わらない。


変わらないはずなのに、身体の内側だけが少しずつ知らない場所へずれていく。


痛みはない。


視界は戻っている。

音も聞こえる。

息もできる。


それなのに、昨日の感覚遮断の名残が、まだ身体のどこかに沈んでいた。


見えているのに、見えなくなるかもしれない。

聞こえているのに、聞こえなくなるかもしれない。

声が届いているのに、それが本物か分からなくなるかもしれない。


その不安だけが、やけに鮮明だった。


「黒瀬」


医務官の声がした。


俺は身体を起こす。


「はい」


「今日の検査は、戦闘ではない」


「分かっています」


「その返事はもう信用しないことにした」


ひどい。


でも、妥当だった。


医務官は端末を机に置いた。


「昨日の感覚遮断時、篠田の声が一時的に君へ届かなくなった」


「はい」


「にもかかわらず、君は停止した」


「紙があったので」


「その後、篠田の物理制止で回避した」


「はい」


医務官はそこで少しだけ黙った。


「訓練課は、同行者の音声命令が遮断された場合の代替制止手段を確認したいと言っている」


「つまり」


「声が使えなくなった時、君をどう止めるかの確認だ」


それは、必要なことだった。


必要なことのはずだった。


だが、訓練課がそれを言うと、途端に嫌な響きになる。


人を助ける手段ではなく、異常個体の制御手順。


そう聞こえる。


医務官は俺の顔を見た。


「嫌な顔をしたな」


「はい」


「私もだ」


小さく、そう言った。


医務官がそう言うと、少しだけ息がしやすくなる。


「ただし、今回は私が同席する。訓練課には必要最低限のデータしか渡さない」


「いいんですか」


「よくない。だからやる」


医務官は淡々と言った。


「彼らに任せると、君を止める方法ではなく、君が止まらない条件を調べ始める」


正確すぎて、何も言えなかった。


「篠田は」


「呼んである」


その言葉とほぼ同時に、扉が開いた。


篠田が入ってくる。


顔がすでに不機嫌だった。


「呼ばれたから来たけど、何すんだよ」


「君の声が信用できない状況を想定する」


医務官が言う。


篠田の眉が寄る。


「俺の声が?」


「ああ」


「俺の声が、って何だよ」


俺は昨日のログを思い出した。


声の所有者、次回干渉候補。


篠田が俺を見る。


「また変な顔」


「昨日、次は篠田に来るって出た」


「それ、具体的には?」


「声を消すか、変えるか、使うか」


篠田の顔から、少し表情が消えた。


怒る前の顔だった。


「俺の声を?」


「たぶん」


「……趣味悪すぎんだろ、向こう」


向こう。


篠田は、まだそれをそう呼ぶ。


正体は知らない。

構造も知らない。

でも、俺を壊そうとしている何かだとは分かっている。


医務官が紙を出した。


「今日決めるのは、二つだ」


「二つ?」


篠田が聞く。


「一つ。音声命令が信用できない場合の代替合図」


医務官は俺の右手を見た。


「二つ。黒瀬が、声の真偽を判断できなくなった時の撤退基準」


篠田は、俺の固定された右手を見た。


包帯。

添え木。

使えない薬指。


篠田の顔がわずかに歪む。


「肩を叩くとかじゃ駄目なんすか」


「駄目とは言わない。ただ、感覚遮断下では軽い接触を認識できない可能性がある」


医務官は俺を見る。


「痛みは使えない。音も視界も信用できない。なら、圧力と位置で知らせる必要がある」


篠田はしばらく黙った。


そして、俺の右手を見たまま言った。


「じゃあ、右手」


「右手?」


「こいつが部品みたいに扱った場所だろ」


胸の奥が少し縮む。


篠田は続ける。


「固定具の上から、俺が右手首を掴む。強めに。痛くなくても圧は分かるだろ」


俺は右手を見る。


「たぶん」


「たぶんじゃねえ。分かるようにしろ」


篠田は俺の前に立った。


「声が信用できないなら、ここを掴む。俺が右手首を掴んだら停止。理由を聞く前に停止。いいな」


「分かった」


「嘘くせえ」


「努力する」


「それも嘘くせえ」


篠田は医務官を見る。


「これでいいんですか」


「試す」


医務官は短く言った。


「ただし、絶対に損傷部を圧迫するな。固定具の上から、手首の外側。力を入れすぎれば中止する」


「分かってます」


篠田は不機嫌そうに言う。


「壊したいわけじゃねえんで」


その言葉が、妙に重かった。


俺は、自分の身体を壊しても動こうとした。


篠田は、俺の身体を壊さないように止めようとしている。


同じ右手を見ているのに、見ているものが違う。



検査室は、訓練棟の地下にあった。


浅層訓練区画へ入る前の準備室。


壁には通信テスト用のスピーカー。

床には位置確認用の白線。

天井には監視カメラ。


安全な部屋。


また、安全だ。


安全という言葉が、だんだん嫌いになる。


訓練課の職員が一人、端末を持って立っていた。


「今回は音声命令の伝達確認のみです。黒瀬くんには白線上で待機してもらい、篠田くんの音声命令に対する反応を記録します」


医務官が言った。


「記録範囲は医務側が管理する」


「承知しています」


職員は笑った。


笑う必要のない場面で笑う人間は、だいたい信用できない。


篠田が隣で小さく言う。


「今、同じこと考えた」


「顔に出てたか」


「出てた」


俺は白線の上に立つ。


右手は固定。

左手は自由。

視界良好。

音も聞こえる。


篠田は三歩離れた場所に立った。


医務官が確認する。


「黒瀬。篠田の声が直接聞こえたら、従う前に復唱しろ」


「はい」


「通信越しに聞こえた場合も同じだ」


「はい」


「内容が不自然なら従うな」


「不自然かどうか分からなかった場合は」


「停止しろ」


篠田が横から言う。


「迷ったら止まれ。分かんなかったら止まれ。ムカついても止まれ」


「最後のは」


「お前、ムカつくと動くだろ」


否定できなかった。


訓練課の職員が端末を操作した。


「音声伝達試験、開始します」


スピーカーから篠田の声が流れた。


『黒瀬、止まれ』


本物の篠田は、目の前にいる。


篠田本人は口を開いていない。


録音か。


俺は復唱する。


「黒瀬、止まれ」


医務官が言う。


「停止維持」


俺は動かない。


次。


『黒瀬、右へ二歩』


俺は復唱する。


「黒瀬、右へ二歩」


医務官が言う。


「実行」


右へ二歩。


次。


『黒瀬、戻れ』


復唱。


「黒瀬、戻れ」


戻る。


訓練課の職員が頷く。


「通常音声命令への反応は安定」


通常。


そう言われた瞬間、左手首のリングが熱を持った。


来る。


俺は口を開く。


「医務官」


「どうした」


「来ます」


篠田の顔が変わる。


「何が」


答える前に、スピーカーが一瞬だけざらついた。


砂を噛むようなノイズ。


そして、篠田の声が流れた。


『黒瀬、止まるな』


俺は動かなかった。


本物の篠田が、目の前で固まる。


訓練課の職員が端末を見た。


「今の音声は入力していません」


医務官の声が鋭くなる。


「試験中断。システムを落とせ」


「待ってください、医務官。外部干渉の深度ログが取れています」


職員の声が、わずかに上ずっていた。


怯えではない。


興奮だった。


「未登録個体の精神干渉プロトコルかもしれません。音声変換の経路が通常の通信層を通っていない。まだ切らないでください。数値を回せば――」


「落とせと言った」


医務官の声が冷えた。


だが、スピーカーは止まらなかった。


『黒瀬、前へ出ろ』


篠田の声。


だが、違う。


音は同じなのに、違う。


篠田はそんな平たい声で言わない。


篠田は俺を止める時、怒る。

焦る。

怖がる。

腹を立てる。


声に温度がある。


これは違う。


篠田の声の形をした、別の何かだ。


俺は復唱しなかった。


動かなかった。


スピーカーが、またざらつく。


『黒瀬、お前もう人間じゃねえよ』


呼吸が止まった。


篠田の顔が変わった。


「は?」


スピーカーの中の篠田は続ける。


『諦めろよ』


違う。


そう思った。


違う。


でも、声は篠田だった。


あの声で言われると、胸の奥が開く。


開きたくない場所が、勝手に開く。


『お前、白城より気持ち悪いだけだろ』


身体の奥が冷える。


前回、篠田は言った。


白城より、気持ち悪かった。


それは、俺を止めるための言葉だった。


でも今のこれは違う。


同じ傷口に、毒を塗っている。


『止める価値もねえよ』


その瞬間、右足が前へ出そうになった。


止まれ。


俺は自分に命じる。


止まれ。


動くな。


だが、スピーカーの声は篠田の声で、俺が一番怖がっていることを言う。


止める価値がない。


人間じゃない。


諦めろ。


たぶん、俺の中に元からあった言葉だ。


向こうはそれを、篠田の声で鳴らしている。


「黒瀬!」


本物の篠田の声がした。


目の前。


生の声。


だが、スピーカーからも声が重なる。


『黒瀬、前へ出ろ』


『黒瀬、止まるな』


『黒瀬、お前はもう戻れねえよ』


「黒瀬!」


本物は叫んだ。


「聞くな!」


どちらが本物か。


見えている。

本物は目の前にいる。

分かっている。


それでも、耳が迷う。


脳が迷う。


声というものが、こんなに簡単に汚される。


俺は口を開いた。


「篠田」


「何だ!」


「本物なら、俺を止めろ」


篠田が一瞬だけ目を見開いた。


次の瞬間、篠田は走った。


医務官が何か叫ぶ。


訓練課の職員も動く。


篠田はそんなものを無視して、俺の右側へ回り込んだ。


そして、固定具の上から俺の右手首を強く掴んだ。


痛くない。


だが、圧力が来た。


骨の奥へ届くような、重い圧。


これは声ではない。


偽物にできない。


篠田の手だ。


「止まれ」


本物の篠田が言った。


「俺が言ってる」


俺は息を吐いた。


足が止まった。


いや、足はほとんど動いていなかった。


でも、内側で前へ出ようとしていたものが止まった。


スピーカーの声がまた流れる。


『無駄だよ』


篠田の声で。


『こいつはもう――』


「黙れ!!」


篠田が怒鳴った。


その声は、スピーカーよりずっと汚かった。


震えていた。

怒っていた。

喉が荒れていた。


本物の声だった。


「俺の声で、勝手に喋ってんじゃねえ!」


スピーカーが軋む。


篠田は俺の右手首を掴んだまま、端末の方を睨んだ。


「俺が、こいつに、そんなこと言うわけねえだろ!」


検査室が静まり返った。


訓練課の職員も、医務官も、一瞬だけ動きを止めた。


篠田は息を荒くしていた。


「気持ち悪いとは言う。馬鹿とも言う。止まれとも言う。腹立つとも言う」


篠田は俺を見ずに続ける。


「でも、止める価値がないなんて言わねえ」


右手首を掴む力が、少しだけ強くなる。


「俺が止めるって決めたんだよ」


痛みはない。


でも、圧力がある。


重さがある。


俺はその圧力で、かろうじて自分の輪郭を思い出した。


固定具越しに伝わる圧力が、わずかに震えていることに気づいた。


篠田の指先は、驚くほど冷たい。


怒っているからではない。


叫んだからでもない。


こいつは、俺が本当にあっち側へ行ってしまうかもしれない恐怖と、物理的に戦っている。


俺を止める声は、無傷ではなかった。


スピーカーの声が、一瞬だけ乱れる。


『声の所有者、反応過剰』


黒い文字が視界に浮かぶ。


音声偽装、失敗。

物理制止、機能。

声の所有者、所有権主張。

対象個体、行動停止。

止める声、接触へ移行。


所有権主張。


その文字が、妙に腹立たしかった。


篠田の声は、篠田のものだ。


俺の燃料でもない。

観客の素材でもない。

訓練課のデータでもない。


篠田が勝手に怒って、勝手に止めると決めた声だ。


医務官が低く言った。


「試験中止。全記録を医務側で保全する。訓練課は端末から離れろ」


職員が端末を抱え込むようにした。


「しかし、今の異常ログは――」


「離れろと言った」


医務官の声が、冷たかった。


「生徒の音声を勝手に加工された状況で、検証を継続する気か」


「こちらが加工したわけでは」


「だから問題だ」


医務官は端末を奪うように手に取った。


「原因不明の音声改竄。対象は同行者の声。黒瀬の行動誘導を目的とした可能性が高い。これ以上は復帰試験ではない」


医務官は俺を見る。


「黒瀬、動けるか」


「動けます」


篠田が即座に言う。


「信用しないでください」


医務官は頷いた。


「分かっている。篠田、そのまま右手を離すな」


「了解」


篠田は掴んだままだった。


「黒瀬」


「何だ」


「歩くぞ」


「分かった」


「俺が掴んでる間は、俺の声だけ聞け」


「声は偽物がある」


「じゃあ、手を信じろ」


篠田は前を見たまま言った。


「これは俺の手だ。偽物じゃねえ」


その言葉は、声よりも確かだった。



医務室へ戻る途中、篠田はずっと俺の右手首を掴んでいた。


強くはない。


だが、離さない。


固定具越しに伝わる圧力。


痛みではない。

温かさでもない。

ただ、そこに誰かがいるという重さ。


俺はそれを頼りに歩いた。


廊下の途中で、篠田がぽつりと言った。


「聞こえたのか」


「何が」


「さっきの」


「聞こえた」


「全部?」


「たぶん」


篠田の手に力が入った。


「忘れろ」


「無理だ」


「じゃあ、上書きしろ」


「何で」


「俺が本物を言うから」


篠田は、俺を見ずに言った。


「お前は気持ち悪い」


「ああ」


「馬鹿だ」


「ああ」


「勝手に壊れようとするし、見てて腹立つ」


「ああ」


「でも、人間じゃねえとは言わねえ」


足が止まりそうになった。


篠田は掴む力を少しだけ強くする。


「止まる価値がないとも言わねえ」


喉が詰まる。


「俺が止めるって言ってんだから、勝手に無価値になるな」


その言い方は、優しくなかった。


むしろ乱暴だった。


でも、優しい言葉よりずっと信用できた。


「分かった」


「嘘くせえ」


「でも、覚える」


「そうしろ」


医務室の扉が見えた。


白い扉。

消毒液の匂い。

まだ帰ってこれる場所。


医務官が先に入る。


篠田は、扉の前でようやく俺の手を離した。


離れた瞬間、少しだけ身体が軽くなった。


軽い。


その軽さが嫌だった。


「篠田」


「何だ」


「合図、決め直したい」


「ああ」


「右手首を掴んだら停止」


「そうだ」


「声がどれだけ聞こえても、右手首を掴まれたら停止」


「そうだ」


「偽物の声より、そっちを優先する」


篠田は頷いた。


「それでいい」


俺は少し考えて、言った。


「でも、篠田が掴めない時は」


「その時は」


篠田は少し黙った。


「お前が止まれ」


「俺が?」


「そうだよ。結局そこだろ」


篠田は俺を見る。


「俺がいないと止まれない、じゃ困る。俺が止める。でも、俺を理由に止まれなくなるな。昨日、自分で書いたんだろ」


胸元の紙が重くなる。


篠田を理由に、止まれなくなるな。


そうだ。


俺が書いた。


「分かった」


「本当にか」


「今度は少しだけ」


「少しだけかよ」


「少しだけでも前進だろ」


篠田は嫌そうに笑った。


「最悪の前進だな」


「俺もそう思う」



医務官は、検査結果を見ながら言った。


「音声改竄の記録は残っている。ただし、訓練課の通常ログには一部欠落がある」


「消されたんですか」


「あるいは、記録できなかった」


どちらにせよ、嫌な話だった。


「黒瀬の端末には」


俺は左手で端末を出す。


画面は黒い。


声の所有者、耐性確認。

音声偽装、第一段階失敗。

物理制止合図、登録。

右手首圧力。

優先度、上昇。

次回干渉候補:接触の阻害。


接触の阻害。


次は、手まで奪う気か。


俺は画面を伏せた。


医務官が問う。


「何が出た」


「声の次は、接触を邪魔するかもしれないと」


医務官の眉がわずかに動いた。


「なら、合図は一つにするな」


「複数?」


「ああ。声、接触、位置、撤退線。複数の基準を持て。一つ奪われても残るようにしろ」


篠田が腕を組む。


「めんどくせえな」


「命綱は一本より多い方がいい」


医務官は言った。


俺は紙を出した。


裏面には、昨日書いた一文がある。


『篠田を理由に、止まれなくなるな。』


その下に、左手で新しく書く。


『右手首を掴まれたら停止。』


少し考えて、さらに書く。


『本物の篠田は、もっと汚い声で怒る。』


書いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


さっきの偽物は、綺麗すぎた。


冷たすぎた。


俺を切り捨てるには、声が整いすぎていた。


本物の篠田は、もっと苛立つ。


もっと乱暴に言う。


気持ち悪いとも言う。


馬鹿とも言う。


でも、止める価値がないとは言わない。


篠田がそれを覗き込む。


「何書いた」


俺は紙を隠そうとした。


篠田が奪う。


「おい」


「見せろ」


篠田は読んだ。


そして、ものすごく嫌そうな顔をした。


「やめろ、こういうの」


「事実だろ」


「事実でも嫌なんだよ」


「じゃあ消すか」


「消すな」


即答だった。


篠田は紙を返してくる。


「……消すな」


その声は、少しだけ小さかった。


俺は紙を折った。


内ポケットに戻す。


端末が震える。


新規制止条件、追加。

声の所有者への信頼、保持。

分類不能。

非効率。

しかし、未知。


未知。


また、その言葉だ。


あいつらは、未知が好きらしい。


知らないものを、見たい。

見たものを、分類したい。

分類したものを、所有したい。


俺は端末を伏せた。


「見せてやらない」


篠田が首を傾げる。


「何を」


「この紙の意味」


「俺には見えてるけどな」


「篠田はいい」


「何だそれ」


俺は答えなかった。


この紙は、俺の中のものだ。


あいつらに読ませるためのログじゃない。

訓練課に提出するデータでもない。


声を奪われても。

音を偽装されても。

まだ残るもの。


それを、一つずつ増やしていく。


白城のように軽くなるのではなく。


重くなって、進む。


医務官が言った。


「今日はここまでだ」


「はい」


「次は、訓練では済まない可能性がある」


「分かっています」


「分かっている顔ではないが、今日はもう言わない」


珍しい。


医務官は疲れたように息を吐いた。


「休め。二人とも」


篠田が文句を言う。


「俺も?」


「君もだ」


「俺、今日ほぼ叫んだだけなんですけど」


「その叫びが黒瀬の命綱だった」


篠田は黙った。


医務官は続ける。


「命綱は、使われれば消耗する」


その言葉に、俺は篠田を見た。


篠田は目を逸らした。


「見るな」


「疲れてるのか」


「疲れてねえ」


「嘘くさい」


「お前に言われたくねえ」


そう言いながら、篠田の顔は少し青かった。


声の所有者。


その声も、無限ではない。


俺を止める声は、篠田自身を削っている。


そのことを、俺は遅れて理解した。


そして、また紙の重さが増えた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「声の所有者」の回でした。


前回、律を止める声が最後に残りました。

だから今回は、その声そのものが狙われました。


篠田の偽音声は、単なる命令ではなく、律が一番恐れている言葉を篠田の声で突き刺してきました。


けれど、本物の篠田は言いました。


「俺が、こいつに、そんなこと言うわけねえだろ」


今回のポイントは、止める声が「接触」へ移行したことです。


声は偽装される。

でも、右手首を掴む圧力は、まだ偽物ではない。


ただし、向こう側は次に、その接触すら邪魔しようとしています。


そして、もう一つ。


律を止める声も、無限ではありません。

命綱は、使われれば消耗します。


次回、律は「守りたいものを燃やさずに戦う」ため、燃やすものを選ぶことになります。

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