表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/21

第16話 声が残るなら

視界が消えた。

音も消えた。

痛みは、最初からなかった。


その時、最後に残ったのは、強さではなかった。


止める声だった。

復帰試験は、一度中断された。


右手指の再損傷。

足首の裂傷。

魔素反応の乱れ。

一時的な感覚認識の遅延。


医務官は、検査結果を並べながら、淡々と言った。


「普通なら、ここで再試験は延期だ」


「普通なら、ですよね」


「その返しをするな」


医務官は、端末を閉じた。


白い医務室。

消毒液の匂い。

まだ、患者として扱われる場所。


俺はベッドに座っていた。


右手は固定されている。

薬指は添え木で動かせない。

足首には薄い保護具が巻かれていた。


痛みはない。


だから、怪我をしているという実感も薄い。


医務官は俺の足元を見た。


「痛みがないなら、せめて見ろ」


「見ています」


「見ているだけでは足りない。見るたびに、自分は壊れていると認識しろ」


壊れている。


その言葉には、もうあまり驚かなくなっていた。


それが少し嫌だった。


「訓練課は、追加確認を要求している」


医務官が言った。


「前回は撤退が早すぎて、異常値の再現性が十分に取れていないそうだ」


「そうですか」


「そうですか、ではない」


医務官の声が低くなる。


「彼らは、君がどこで壊れるかを知りたがっている。君がどうすれば止まるかではなく、どこまで進めば止まるかをだ」


俺は黙った。


医務官は続ける。


「私は反対した」


「止められなかった」


「完全にはな」


医務官は、少しだけ目を細めた。


「ただし、条件はさらに増やした。行動範囲は前回より狭い。戦闘目的ではない。魔素濃度変化と感覚反応の確認だけだ。右手は使用禁止。篠田の撤退判断は最優先。異常値が出た時点で即終了」


「分かりました」


「分かっている顔ではない」


最近、全員それを言う。


医務官は、俺の胸元を指した。


「声は」


俺は内ポケットに触れた。


紙がある。


四つの声を書いたメモ。


「持っています」


「なら、読め」


「今ですか」


「今だ」


俺は紙を取り出した。


左手で開く。


折り目が少し増えている。


『止められてるって分かったうえで行け。』


『泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。』


『今日はそれでいいね。』


『君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。』


声に出して読むと、少し喉が詰まった。


医務官は表情を変えなかった。


「覚えたか」


「覚えています」


「覚えているだけでは足りない。君は、目で見たものも、耳で聞いたものも、身体の感覚も信用できなくなりつつある」


医務官は、俺の目を見た。


「最後に残るものがあるとすれば、事前に自分で選んだ基準だ」


「基準」


「そうだ。状況の中で判断するな。君の判断は、状況に壊される」


きつい言い方だった。


でも、正しい。


「君は痛まない肉体を、『まだ動くから』という理由で限界まで酷使する」


医務官は、俺の固定された右手を見た。


「それはな、黒瀬。精神が肉体を奴隷にして、すり潰しているのと同じだ」


喉の奥が、渇いたように張りついた。


「君がやっているのは戦闘じゃない。緩やかな自殺だ」


俺は何も言えなかった。


緩やかな自殺。


その言葉は、嫌なほど正確だった。


俺は状況の中で、簡単に自分の肉体をパーツとして消費する。


痛くないから、まだ使う。

壊れても、動くなら使う。

血が出ても、処理できるなら進む。


そうやって、自分の身体を自分で削っている。


「黒瀬」


「はい」


「今日、少しでもその紙を邪魔だと思ったら、即座に撤退しろ」


「なぜですか」


「それは、君が止める声をノイズとして処理し始めた合図だからだ」


医務官は淡々と言った。


「その時点で、君は人間としてここへ戻る道を一つ失う」


ここ。


医務室。


白い天井。

消毒液の匂い。

自分の身体を、まだ患者として扱われる場所。


俺は紙を折り直した。


「分かりました」


「信用していない」


「でしょうね」


「だが、篠田は信用している」


医務官はそう言った。


「君ではなく、篠田をだ」


ひどい。


でも、妥当だった。



浅層訓練区画の入口には、また白い線が光っていた。


前回と同じ場所。


同じ撤退結界。

同じ監視カメラ。

同じ冷たい通路。


違うのは、俺の右手がさらに使い物にならなくなったことと、篠田の顔が前回より険しいことだった。


「今日は俺の前に出るな」


篠田が言った。


「復帰試験なのに?」


「復帰試験だからだよ。戦闘評価じゃねえ。分かったか」


「分かった」


「その返事、五割くらいしか信じてねえからな」


「昨日より上がったな」


「昨日が二割だっただけだ」


教官がこちらを見た。


「本日の再確認は、第一管理線手前まで。魔素濃度変化に対する反応と、前回発生した未登録個体への残留干渉の確認を行う」


残留干渉。


管理側の言葉。


教官も訓練課も、観客とは言わない。


向こう、とも言わない。


異常値。

未登録。

干渉。

残留。


そういう言葉に置き換える。


俺の喉の奥で、少しだけ笑いが起きそうになった。


言葉を変えれば、安全に見える。


檻に名前をつければ、管理施設になる。


篠田が横で低く言う。


「変な顔」


「してたか」


「してた」


「なら戻す」


「戻すな。変な顔したら言えって話だったろ」


俺は少しだけ黙る。


「今、訓練課の言い方が気持ち悪かった」


「それは分かる」


篠田は前を見たまま言った。


「人間のことを、記録用語にすると気持ち悪い」


その言葉で、少しだけ息がしやすくなった。


教官が手を上げる。


「開始する」


白い線の向こうへ足を踏み入れる。


その瞬間、左手首のリングが熱を持った。


前回より、強い。


端末を見なくても、黒い文字が来るのが分かった。


再入場確認。

対象個体、損傷状態維持。

右手使用制限。

同行者干渉あり。

排除派干渉準備完了。

感覚遮断候補、待機。


感覚遮断。


前回、最後に見た文字。


俺は息を浅くした。


篠田がすぐに言う。


「何だ」


「感覚遮断って出た」


篠田の顔が歪む。


「見るなって言っても見えるんだな」


「ああ」


「じゃあ口に出せ。黙って飲み込むな」


「分かった」


「本当に分かってるか?」


「今のは分かってる」


「ならいい」


通路を進む。


今日は、前回より短いルートだ。


魔素灯の光は青白い。

床は濡れていない。

壁の苔も薄い。


危険は少ない。


そう見える。


だが、身体の奥がざらつく。


痛みではない。


恐怖でもない。


もっと別の、乾いた警戒。


教官の通信が入る。


『黒瀬、反応値がやや高い。篠田、距離を詰めろ』


篠田が半歩近づく。


「近い」


「命令だ」


「命令なら仕方ない」


「俺だって近寄りたくて近寄ってるわけじゃねえ」


「そこまで言うか」


「言う」


言いながら、篠田の肩が俺の左側に入る。


右手をかばう位置。


俺が前に出ようとしたら、すぐ止められる位置。


外部センサー。


枷。


人間の重り。


そう思った瞬間、端末の文字が揺れた。


同行者による行動制限、継続。

進行効率、低下。

白城ルートからの乖離、増加。

排除派、遮断実行を提案。


「来る」


俺は言った。


「何が」


篠田が聞いた瞬間。


世界が、消えた。



最初に消えたのは、音だった。


水滴の音。

魔素灯の低い振動。

篠田の呼吸。

通信機のノイズ。


全部、まとめて切れた。


無音。


次に、視界が落ちた。


暗闇ではない。


暗闇なら、黒が見える。


これは違う。


何もない。


目を開けているのか、閉じているのか分からない。


まぶたの感覚も薄い。


俺は足を止めた。


止めたつもりだった。


だが、止まっているのかも分からない。


床を踏む感覚が遠い。


右手の痛みはない。

足首の痛みもない。

昨日からずっと、痛みはない。


だから、世界から音と光が消えた瞬間、俺に残った身体情報はあまりにも少なかった。


自分が立っているのか。


傾いているのか。


前を向いているのか。


それさえ曖昧になる。


端末の文字だけが、黒いはずの空間に浮かんだ。


感覚遮断、発動。

視覚入力、遮断。

聴覚入力、遮断。

皮膚痛覚、低値維持。

方向感覚、混濁。

対象個体、孤立確認。


孤立確認。


その文字を見て、喉が冷えた。


声が出ない。


いや、出ているのか分からない。


篠田の声も聞こえない。


教官の声も聞こえない。


医務官の警告も届かない。


止める声が、消された。


いや。


本当に消えたのか。


俺は内ポケットに触れようとした。


左手を動かす。


動いているかどうか分からない。


でも、胸の内側に、紙の角が当たっている感覚が、かすかにあった。


紙。


四つの声。


視覚ではない。

聴覚でもない。

痛みでもない。


ただ、胸元にあるという重さ。


俺は動くな、と自分に命じた。


だが、黒い文字が浮かぶ。


戦闘継続可能。

右前方、脅威反応。

最短処理経路、提示可能。

ギフト候補:一時視覚復帰。

ギフト候補:一時聴覚復帰。

条件:次回出力時、不快情報の濃度上昇。


視界を返す。

音を返す。


救いの顔をした罠。


一瞬でも見えれば動ける。

一瞬でも聞こえれば篠田の位置が分かる。


受け取れば、助かるかもしれない。


だが、前にも見た。


味を返すと言った。

痛みを返すと言った。

皮膚感覚を返すと言った。


全部、契約だった。


俺の欠損を、一瞬だけ飴にして差し出す。


その後、もっと深く奪うために。


「受け取らない」


そう言ったつもりだった。


声が出たかは分からない。


黒い文字が少しだけ乱れる。


受諾拒否。

行動不能リスク、上昇。

推奨:白城ルート。

感覚切断下でも、最短処理は可能。


白城ルート。


その文字は、見えない世界の中でも妙に鮮明だった。


白城なら動く。


見えなくても、聞こえなくても、痛くなくても。


たぶん、動く。


迷わず。

怖がらず。

声など必要とせず。


自分の身体を、完全に処理装置として使う。


そうすれば、進める。


楽だ。


一瞬、そう思った。


誰の声も聞こえないなら、迷わなくて済む。

誰の顔も見えないなら、傷つかなくて済む。

自分の痛みもないなら、止まる理由もない。


ただ、最短を選べばいい。


静かだ。


軽い。


苦しまなくて済む。


その軽さに、身体の奥が吸い込まれそうになった。


その時。


胸元の紙が、わずかに折れた。


呼吸で動いたのか。

身体が揺れたのか。


分からない。


でも、その紙の角が胸に当たった。


四つの声。


俺は暗闇の中で、声を思い出す。


止められてるって分かったうえで行け。


篠田の声。


聞こえない。


でも、残っている。


泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。


小森の声。


見えない。


でも、残っている。


今日はそれでいいね。


おばちゃんの声。


味はしない。


でも、残っている。


君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。


医務官の声。


ここにはいない。


でも、残っている。


俺は動かなかった。


最短処理経路を選ばなかった。


黒い文字が激しく揺れる。


行動停止。

非効率。

脅威接近。

進行不能。

白城ルート不採用。

同行者干渉、検出不能。

なぜ止まる。


なぜ。


決まっている。


止める声が、残っているからだ。



外側では、何が起きているのだろう。


俺には分からない。


だが、篠田はたぶん叫んでいる。


教官も通信を飛ばしている。


訓練課は数値を見ている。


医務官は、眉間に皺を寄せている。


けれど俺には、何も届かない。


届かないはずだった。


突然、左肩に重みが来た。


触覚、ではない。


もっと鈍い圧力。


押される。


横へ。


篠田か。


それとも敵か。


分からない。


分からないなら、動くな。


いや、違う。


止める声を間違えるな。


俺の身体は、前へ出ようとしていた。


脅威反応。

最短処理。

白城ルート。


その全部が、前へ行けと言う。


だが、肩の重みは横へ押している。


篠田なら、俺を止める。


敵なら、俺を倒す。


どちらにしても、前へ行くよりはましだった。


俺はその重みに従った。


横へ倒れる。


膝が床に当たった。


痛くない。


でも、体勢が崩れたことは分かった。


その直後。


見えない何かが、さっきまで俺の頭があった場所を通過した。


音はない。


光もない。


だが、空気の圧だけが、遅れて頬を撫でた。


もし、前へ出ていたら。


俺は、たぶん首から上を持っていかれていた。


黒い文字が乱れる。


回避。

同行者干渉、推定。

止める声、物理干渉へ移行。

排除派、失敗。

依存派、反応上昇。


視界が戻った。


突然、世界が色を取り戻す。


青白い魔素灯。

濡れた壁。

石の床。


俺は膝をついていた。


左肩を、篠田が掴んでいた。


篠田の口が動いている。


音が一拍遅れて戻る。


「――せろ! 黒瀬! 聞こえてんのか!」


聞こえた。


音が戻る。


やけにうるさい。


「聞こえる」


自分の声も戻った。


篠田の顔が青ざめていた。


怒っている。


いや、怒りの手前で、何かを必死に押さえている顔だった。


「お前、今、まったく反応しなかった」


「見えなかった」


「知ってる! 目、開いてたのに焦点が死んでた!」


教官の声が通信機から飛ぶ。


『両名、即時撤退。繰り返す、即時撤退』


視界の端に、未登録個体がいた。


前回の水膜とは違う。


細い糸のような魔獣。


壁から生えて、空中に薄く張っている。


もし俺が前進していたら、首の高さに張られたその糸に突っ込んでいた。


管理区域。


浅層。


安全の檻。


そこに、首を落とすための罠が張られていた。


篠田が俺を引き起こす。


「立てるか」


「立てる」


「信用しねえ」


「だろうな」


篠田は俺の肩を掴んだまま離さなかった。


「今の、何された」


「感覚遮断」


「どこまで」


「見えない。聞こえない。方向も怪しい。痛みは元からない」


篠田の顔が歪む。


「最悪じゃねえか」


「最悪だった」


「なのに動こうとしてた」


「白城なら動くと思った」


言った瞬間、篠田の手に力が入った。


痛くはない。


でも、強い。


「お前な」


篠田の声が低くなる。


「今のお前、一瞬だけ白城より気持ち悪かったぞ」


息が止まった。


白城より。


「白城はたぶん、空っぽで動くんだろ」


篠田は震える声で言った。


「でも今のお前は、空っぽじゃねえのに、空っぽみたいに動こうとしてた。怒りとか、痛みとか、変なもん抱えたまま、処理だけ真似しようとしてた」


篠田は俺を見る。


「白城より、気持ち悪かった」


その言葉は、痛くない身体のどこかに刺さった。


痛みではない。


でも、確かに刺さった。


――ああ、そうか。


俺は、人間らしく苦しむことすらサボって、白城という便利な怪物に逃げようとしたんだ。


見えないなら、見なくていい。


聞こえないなら、聞かなくていい。


痛くないなら、止まらなくていい。


そうやって、声も迷いも置き去りにして、最短だけを選ぼうとした。


篠田は、その卑怯さを見抜いて吐き気を催している。


俺は口を開く。


何か言おうとした。


謝るのか。

反論するのか。

分からない。


その前に、端末の黒い文字が浮かんだ。


白城比較反応、記録。

同行者発話、深部反応あり。

感覚遮断下において、外部制止記憶の機能を確認。

止める声、遮断不可。


遮断不可。


その文字だけが、やけに明るく見えた。


篠田には聞こえない。


医務官にも、教官にも見えない。


だが、あいつらには分かったらしい。


視界も音も消せる。

痛みも遠ざけられる。

味も奪える。


でも、俺が選んで持ってきた声までは、完全には消せない。


端末の黒が、さらに沈む。


次回候補:声の所有者への干渉。

対象候補:同行者。


俺は息を呑んだ。


「黒瀬?」


篠田が眉をひそめる。


「何だ。また変な顔」


「……撤退する」


「今さら言わなくても撤退だ」


「違う」


俺は篠田の腕を掴んだ。


「今すぐ撤退する。篠田も」


篠田の顔が変わった。


「俺?」


「次は、お前に来る」


「向こうがか」


「たぶん」


篠田は、一瞬だけ黙った。


そして、笑いもせずに言った。


「分かった。じゃあ、なおさら早く戻るぞ」


「怖くないのか」


「怖いに決まってんだろ」


即答だった。


「でも、怖いから戻るんだよ。お前と違って、俺は怖いのを判断材料にできる」


その言葉が、少し眩しかった。


怖いから戻る。


それは、たぶん正常な人間の強さだった。


教官の誘導で、撤退線まで戻る。


篠田は最後まで俺の肩を離さなかった。


俺も、離せとは言わなかった。



撤退線を越えた瞬間、救護班が駆け寄ってきた。


教官の顔が硬い。


訓練課の職員たちは、また端末を見ていた。


「視覚反応途絶、六秒」


「聴覚反応途絶、同時」


「ただし外部刺激により回避」


「同行者干渉の有効性を確認」


「遮断下でも行動停止。面白いな」


面白い。


その言葉に、篠田が振り向いた。


俺の胃の底から、どす黒い熱がせり上がってきた。


画面の向こうにいる観客。


目の前で端末を叩いている訓練課の職員。


言葉も立場も違う。


けれど、本質は似ている。


俺の欠損を、俺の壊れ方を、特等席から眺めている。


見て、記録して、分類して、次に何が起こるかを待っている。


見る側でいられると思うなよ。


爪が手のひらに食い込む。


痛みはない。


けれど、その痛まなさごと、いつかあいつらの喉元へ押し込んでやる。


そう思った瞬間、医務官の声が飛んだ。


「そこまでだ」


医務官が、こちらへ歩いてくる。


白衣の裾が揺れる。


顔は、静かに怒っていた。


「黒瀬を医務室へ。篠田もだ。今回は同行者側の負荷も測る」


「また俺もですか」


「当然だ」


医務官は篠田を見た。


「君が掴まなければ、黒瀬は首を落としていた可能性がある」


篠田の顔から、少し色が引いた。


俺も、少し遅れて理解した。


首。


落ちていたかもしれない。


そう理解しても、心拍は跳ねない。


手汗も出ない。


やはり、身体は騒がない。


だから、篠田の肩に残った力だけが、その危険を現実にしていた。


医務官は俺を見る。


「何が起きた」


「見えなくなりました。聞こえなくなりました。方向も曖昧でした」


「痛みは」


「元からないです」


医務官の目が、一瞬だけ暗くなる。


「それでも動こうとしたか」


「はい」


「なぜ」


俺は少し黙った。


「白城なら、動くと思ったから」


医務官は白城の名前に反応しなかった。


少なくとも、顔には出さなかった。


「君は白城怜司ではない」


「知っています」


「知っているだけでは足りない」


医務官は、俺の胸元を指した。


「紙は」


俺は内ポケットに触れる。


「あります」


「なら、今日はその紙が君の命を拾った」


俺は黙った。


篠田が横から言う。


「俺の手もな」


医務官は頷いた。


「そうだ。君の手もだ」


篠田は少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「……別に、褒められることじゃないです」


「褒めてはいない。記録している」


「その言い方、嫌ですね」


「私も嫌だ」


医務官は、訓練課の職員たちを一瞥した。


「だが、記録しなければ、彼らは都合よく忘れる」


その言葉は小さかった。


でも、俺には聞こえた。



医務室へ運ばれる途中、端末が震えた。


黒い文字が、視界の端に浮かぶ。


感覚遮断、失敗。

排除派、不満。

依存派、興奮。

止める声、遮断不可。

声の所有者、次回干渉候補。


篠田邪魔

でも篠田込みで濃い

次は篠田の声を消せ

いや壊せ

黒瀬が止まれなくなるところが見たい

白城になりかけて戻るの、最悪で最高

もっと深く


俺は目を閉じた。


消費する声。


止める声ではない。


間違えるな。


俺は左手で内ポケットの紙を押さえた。


紙はまだある。


声もまだある。


だが、次はその声の持ち主へ来る。


篠田。


俺は隣を見る。


篠田は、救護班に何か文句を言っていた。


「俺は歩けるって言ってんだろ」


「検査対象です」


「俺は黒瀬じゃねえ」


「同行者負荷が出ています」


「何だよそれ」


そのやり取りが、少しだけ日常に見えた。


だからこそ、嫌だった。


この日常に、向こうが手を伸ばそうとしている。


俺のせいで。


篠田がこちらを見る。


「また変な顔」


「次は篠田かもしれない」


「何が」


「向こうの干渉」


篠田は、一瞬だけ黙った。


それから、ゆっくり言った。


「じゃあ、俺も条件出す」


「条件?」


「ああ」


篠田は、俺を睨んだ。


「俺に何か来たら、お前は止まれ」


「助けるなってことか」


「違う。助ける前に止まれってことだ」


意味が分からなかった。


篠田は続ける。


「お前は、誰かに何かされると、すぐ自分を勘定に入れなくなる顔をする。だから、俺に何か来た時ほど、まず止まれ」


俺は黙る。


「俺を理由に白城みたいになるな」


その言葉が、一番重かった。


俺は、胸元の紙を押さえた。


「分かった」


「嘘くせえ」


「努力する」


「もっと嘘くせえ」


「じゃあ、書く」


俺は医務室のベッドに着くと、メモの裏に新しく一文を書いた。


左手の字は、やはり歪んでいる。


『篠田を理由に、止まれなくなるな。』


篠田がそれを見て、顔をしかめた。


「俺の名前を呪いみたいに書くな」


「止める声だ」


「ならいい」


いいのか。


俺は少しだけ息を吐いた。


端末が黒く光る。


新規制止条件、追加。

声の所有者を燃料化せず、制止条件として保持。

非効率。

しかし、未知。


未知。


あいつらは、またそう言った。


俺は紙を折り直した。


浅層は、まだ地獄ではなかった。


感覚を奪われても。

首を落とされかけても。

それでも、場所そのものは地獄ではなかった。


地獄は、俺の中にある。


そして今、俺の周りにまで広がり始めている。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「感覚遮断」の回でした。


視界も音も消され、痛みも信用できない状態で、律は白城ルートへ引っ張られかけました。

けれど、事前に持っていた「止める声」と、篠田の物理的な制止によって止まることができました。


今回の重要点は、律が勝ったわけではないことです。


攻略したわけでも、敵を倒したわけでもありません。


ただ、止まった。


それだけです。


ですが、この「止まること」こそが、あいつらの望む白城ルートへの最大の反逆になります。


そして、向こう側はついに、律を止める「声の所有者」へ干渉を始めました。


篠田を理由に、止まれなくなるな。


律がメモの裏に刻んだこの言葉は、祈りというより、呪いに近い制止条件です。


次回、律は自分だけでなく、止める側の人間まで巻き込み始めている現実と向き合うことになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ