第15話 浅層は、まだ地獄ではない
浅層は、まだ地獄ではない。
管理された区画。
監視された訓練。
撤退できる結界。
だからこそ、そこで壊れるなら、壊れているのは場所ではない。
俺の方だ。
「浅層訓練区画は、実戦区画ではない」
教官の落ち着いた声が、冷たい通路に響いた。
床には白い線が引かれている。
撤退結界の境界線。
その向こうは、探索高専の管理区域でありながら、本物のダンジョンに接続されている。
魔素濃度は調整済み。
出現する魔獣は低位に限定。
四方向の監視カメラ。
別室で待機する医務官。
撤退結界。
救護班。
これ以上ないほど過保護な、安全の檻。
そういうことになっている。
だが、白い線の向こう側を前にした瞬間、俺の左手首のリングは、じわりと熱を持っていた。
来ている。
やはり。
端末を見なくても分かる。
ログが流れている気配。
見るな。
今は見るな。
教官は続ける。
「本日の目的は、黒瀬律の復帰確認。戦闘能力の評価ではない。行動範囲は第一管理線まで。魔獣との接触は最低限。撤退指示が出た時点で、全員即時撤退」
全員。
とはいえ、実際に入るのは俺と篠田だけだった。
他の候補生は観察室。
小森もそこにいるはずだ。
こちらからは見えない。
それでいい。
見えたら、たぶん余計なことを考える。
篠田が隣で腕を組んでいた。
「顔色悪いぞ」
「元からだ」
「元から悪かったら問題ねえって話じゃねえんだよ」
「分かってる」
「分かってるって顔じゃねえ」
最近、そればかり言われる。
俺は右腕を見る。
包帯は厚い。
指は動く。
動くが、信用しない。
痛みはない。
重さはある。
熱も少しある。
でも、痛みはない。
だから、これは判断材料にならない。
俺は内ポケットを確認した。
紙がある。
四つの声。
『止められてるって分かったうえで行け。』
『泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。』
『今日はそれでいいね。』
『君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。』
重い。
薄い紙なのに、妙に重い。
篠田が横目で見る。
「持ってんのか」
「ああ」
「なくすなよ」
「なくしたら?」
「俺が書き直す。ただし罵倒多めで」
「それは嫌だな」
「ならなくすな」
白い線の向こうから、浅層の空気が流れてくる。
湿った石の匂い。
冷えた土。
遠くで水が滴る音。
学校の建物の中にあるのに、空気だけが違う。
教官が言う。
「黒瀬、最終確認だ。体調に異常は」
「自己申告は判断材料にしないことになっています」
教官の眉が少し動いた。
篠田が横から言う。
「こいつはこういう奴です」
「……同行者、篠田。撤退権限は理解しているな」
「はい」
「黒瀬が継続可能と判断しても、君が撤退を宣言すれば試験は中止される」
「分かってます」
「責任は重いぞ」
「知ってます」
篠田の声は硬かった。
だが逃げる声ではなかった。
教官が頷く。
「開始する」
白い線が、淡く光る。
浅層訓練区画の扉が開いた。
冷たい空気が、こちらへ流れた。
浅層は、まだ地獄ではない。
そう言い聞かせて、俺は一歩踏み込んだ。
◇
中は、石造りの通路だった。
壁は湿っている。
天井には魔素灯が一定間隔で埋め込まれ、青白い光を落としていた。
地面は平坦。
視界は十分。
退路もある。
罠反応なし。
魔素濃度、低め。
端末が勝手に表示を出す。
浅層訓練区画。
管理下環境。
危険度:低。
観測経路:限定接続。
排除派干渉、待機。
依存派ギフト、待機。
個別観測、継続。
見るな。
そう思ったのに、文字は視界の端へ貼りつく。
篠田が声を潜めた。
「また何か見えてんのか」
「少し」
「内容は」
「低危険度らしい」
「じゃあ信用すんな」
「そうする」
篠田は前を見る。
「教官の表示と、お前の変な表示。食い違ったら教官の方を見る。俺の声も聞け。いいな」
「分かった」
「本当に分かってんだろうな」
「分かってる」
「それが信用できねえんだよ」
通路の奥で、小さな音がした。
石を爪で叩くような音。
教官の声が通信機から入る。
『低位魔獣一体。接触は避け、挙動確認を優先』
篠田が短く息を吐く。
「避けるぞ」
「了解」
奥から現れたのは、四足の小型魔獣だった。
犬ほどの大きさ。
皮膚は灰色。
目は白く濁っている。
訓練用に出現制限された個体。
強くない。
危険度は低い。
それでも、俺の身体は勝手に重心を落とした。
最短で首を取る角度が見える。
右手を伸ばせば届く。
踏み込めば、一撃で処理できる。
白城なら、そうする。
音もなく。
迷いなく。
処理として。
俺は歯を食いしばった。
違う。
今日は戦闘評価ではない。
復帰確認だ。
篠田が横で言う。
「おい。目が変わった」
「分かってる」
「分かってねえ」
魔獣がこちらを見た。
低く唸る。
舌の奥に、鉄の味が薄く浮かぶ。
血ではない。
記憶だ。
昨日の血の味が薄かった記憶。
低位魔獣が跳んだ。
避ける。
本来ならそれでいい。
俺は半歩下がるつもりだった。
だが、身体が前へ出た。
右ではなく、左。
痛めた右腕をかばう動きではない。
むしろ右腕を囮にして、左足で体重を殺し、肩で魔獣の軌道をずらす。
合理的だった。
怖いほど合理的だった。
魔獣の爪が右の包帯をかすめる。
布が裂ける。
皮膚もたぶん裂けた。
痛くない。
そのまま左肘で魔獣の首元を押さえ、床へ落とす。
動きが止まる。
処理完了。
いや。
違う。
今のは、確認ではない。
篠田が叫んだ。
「止まれ!」
俺は動きを止めた。
魔獣は床で痙攣している。
まだ死んでいない。
低位魔獣。
危険は小さい。
だが、俺の右手から血が落ちていた。
ぽた。
石の床に、赤が散る。
「ああ」
声が出た。
右手の薬指が、変な方向へ曲がっている。
折れているのか。
そう思った。
俺は左手を伸ばした。
骨がズレているなら、引っ張って、戻せばいい。
ただの部品の歪みだ。
戦闘継続のために、直す。
「触んな馬鹿!!」
篠田が悲鳴に近い声を上げ、俺の左手を思いきり叩き落とした。
「……何をしてる。邪魔するな」
「こっちの台詞だよ!」
篠田の顔が、見たこともないほど青ざめていた。
「たぶん折れてるんだよ! いや、分かんねえけど、普通その角度に曲がらねえだろ!」
俺はもう一度、右手を見る。
血が出ている。
指が曲がっている。
痛みはない。
だから、どうして篠田がそこまで怯え、怒っているのか、理解が一拍遅れた。
通信機から教官の声。
『黒瀬、行動停止。右手の状態を確認する。篠田、撤退判断は』
篠田が俺を見る。
俺は言った。
「まだ歩ける」
「黙れ」
篠田の声が低くなった。
「動けるかどうかじゃねえ」
俺は右手を見る。
指が曲がっている。
血が出ている。
でも、痛くない。
だから、身体はまだ戦えると言っている。
いや。
身体は何も言っていない。
俺が勝手にそう読んでいるだけだ。
篠田は俺の胸ぐらを掴んだ。
「お前、今、指が折れてるかもしれねえのに、次の動き考えてただろ」
黙る。
篠田の顔が歪む。
「言え」
「……考えてた」
「ほらな」
篠田は、通信機に向かって言った。
「一時停止。撤退まではまだ判断しません。応急固定を要求します」
『了解。救護班を境界線まで待機。黒瀬、その場で待て』
待て。
止める声。
俺は、足を止めた。
端末の黒い文字が視界に浮かぶ。
損傷発生。
右手指関節異常。
痛覚反応、低値維持。
戦闘継続可能。
依存派ギフト候補:痛覚一時復帰。
受諾すれば損傷把握精度が向上。
痛覚一時復帰。
痛みを返すギフト。
助かるかもしれない。
痛みが戻れば、壊れた場所が分かる。
だが、条件が下に浮かぶ。
条件:次回出力時、苦痛情報の共有濃度上昇。
痛みまで商品にする気か。
俺は息を吐いた。
「受け取らない」
篠田が俺を見る。
「何を」
「痛みを返すって言われた」
篠田の顔が、露骨に嫌悪で歪んだ。
「は?」
「受け取れば、壊れた場所が分かるらしい」
「受けんな」
即答だった。
「分かってる」
「分かってる顔してねえ」
またそれか。
でも、今回は本当に分かっている。
これは救いじゃない。
痛みを返すふりをして、次の悲鳴を予約する契約だ。
篠田が俺の右手を見ながら、歯を食いしばった。
「ふざけてんな、向こう」
「今さらだ」
「今さらでも腹立つんだよ」
その怒りが、少しだけ温かかった。
◇
応急固定は、境界線まで戻らずに行われた。
訓練区画内に設置された簡易救護ドローンが来る。
白い機械腕が、俺の右手を固定する。
痛みはない。
だから、機械が指を真っ直ぐに戻そうとする動きも、映像みたいだった。
篠田は顔を背けた。
「見るなよ」
「俺の手だ」
「だからだよ」
「痛くない」
「それが嫌なんだよ!」
篠田が怒鳴る。
通路に声が反響した。
教官の声が入る。
『試験継続の可否を確認する。医療値は警戒域。撤退推奨だが、同行者判断を優先する』
篠田が俺を見る。
俺は言わない。
まだ行ける、とは言わない。
言えば、篠田はたぶん本気で怒る。
篠田は、俺の目を見る。
「黒瀬」
「何だ」
「続けたいか」
「続けたい」
「理由は」
「自分の壊れ方を確かめたい」
篠田は嫌そうに顔を歪めた。
「最悪の理由だな」
「知ってる」
「でも、嘘じゃねえな」
「嘘じゃない」
篠田は舌打ちした。
「条件を追加する」
「お前が?」
「ああ。俺の条件だ」
篠田は指を一本立てる。
「右手を使うな」
「元から制限されてる」
「今度は俺が言ってる。使ったら即撤退」
二本目。
「俺が止まれって言ったら止まれ。理由を聞く前に止まれ」
「分かった」
「三つ目」
篠田は少しだけ言葉を探した。
「向こうの声で表情が変わったら、俺に言え」
「表情?」
「お前、自分じゃ分かんねえだろ」
分からない。
目の光が遅いと言われた。
自分では分からない。
「分かった」
篠田は通信機に向かって言った。
「条件付きで継続します。ただし、俺の判断で即撤退します」
『了解。記録する』
記録。
すべてが記録される。
俺の損傷も。
篠田の怒りも。
俺がまだ続けたいと言ったことも。
訓練課の職員は、監視室でその記録を見ているのだろう。
俺を生徒として見ているのか。
異常値として見ているのか。
答えは、たぶん後者だ。
端末にログが浮かぶ。
継続確認。
右手損傷後も進行。
不快情報、濃度上昇。
依存派反応増加。
いい
痛くないのに壊れてるの最高
指、もっと見せて
篠田邪魔
いや篠田が止めるの込みで濃い
その声、燃やしたら凄そう
右手使えない状態でどこまで行ける?
胃の奥が重くなる。
「表情」
篠田が言った。
俺は目を閉じる。
「今、向こうが篠田の声を燃やせって言った」
「ふざけんな」
「ふざけてる」
「お前は?」
「燃やさない」
「即答しろよ、そういうのは」
「燃やさない」
篠田は少しだけ息を吐いた。
「なら行くぞ」
俺たちは、再び通路を進んだ。
浅層は、まだ地獄ではない。
魔獣は弱い。
通路は整備されている。
撤退線もある。
それでも、俺の右手は壊れている。
痛みはない。
だから、歩くたびに、壊れた部分が身体から置いていかれるような気がした。
◇
次の部屋は、広い円形だった。
中央に水たまり。
壁には苔。
天井から、細い根のようなものが垂れている。
教官の声。
『第二確認地点。ここでは魔素濃度の変化に対する反応を見る。戦闘予定はない』
戦闘予定はない。
そう言った直後、水たまりが揺れた。
篠田が舌打ちする。
「予定ってやつは信用できねえな」
水面から、薄い膜のような魔獣が立ち上がる。
スライムに近い。
だが、表面に細かな目のような粒がある。
訓練用の個体ではない。
少なくとも、教官の反応はそうだった。
『未登録個体。黒瀬、篠田、後退』
未登録。
浅層訓練区画で、未登録個体。
篠田が俺の前に出る。
「下がれ」
俺は一歩下がる。
ちゃんと下がった。
それだけで、少しだけ自分に驚いた。
端末が黒く光る。
排除派干渉、確認。
管理個体リスト外。
目的:対象個体の試験中断、または損耗増大。
依存派反応:上昇。
「排除派か」
言ってしまってから、篠田を見た。
篠田は眉をひそめる。
「はい?」
「いや」
「向こうにも種類があるのか?」
「たぶん」
「覚えきれねえよ」
篠田はナイフ型の訓練武器を構える。
「とにかく、邪魔する何かってことでいいな」
「それでいい」
未登録個体が動く。
水の膜が伸びる。
速くない。
だが、軌道が読みにくい。
右手は使えない。
左手だけ。
足も少し重い。
俺は踏み込もうとして、篠田の声で止まった。
「待て!」
止まる。
水の膜が、俺の目の前を横切った。
見えなかった。
いや、見えていた。
でも、身体が先に別の動きを選ぼうとしていた。
篠田が言う。
「今の見えてなかったろ」
「見えてた」
「嘘つけ。目は追ってたけど、身体がズレてた」
身体がズレていた。
その表現が、妙に正確だった。
見えている。
理解している。
でも、身体の反応が俺の判断と少しズレる。
痛みのない右手を使う癖。
恐怖を挟まず前に出る癖。
処理を優先する癖。
全部が、俺より先に動こうとする。
「篠田」
「何だ」
「俺が前に出すぎたら止めろ」
「最初からそのつもりだ」
未登録個体がもう一度動く。
篠田が横へ回る。
俺は左足で水たまりの縁を踏み、個体の動きを壁側へ誘導する。
右手は使わない。
左肘と肩で押す。
低位魔獣より、ずっと面倒だ。
攻撃というより、絡め取ってくる。
膜が足首に触れた。
冷たい。
いや。
冷たい、は分かる。
でも、その奥にある不快感が遠い。
皮膚に何かが張りつく嫌悪。
剥がしたい反射。
それが薄い。
だから、足を引くのが遅れた。
「黒瀬!」
篠田が叫ぶ。
膜が足首を締める。
俺は左手で引き剥がそうとした。
その瞬間、視界にログが浮かぶ。
ギフト候補:皮膚感覚増幅。
効果:接触部位の不快感を十倍化。
損傷把握に有効。
条件:不快情報の共有濃度上昇。
まただ。
救いの顔をした攻撃。
足首の異常を知るには、受け取ればいい。
不快感が戻れば、すぐに分かる。
でも、それを向こうに流す契約になる。
「受け取らない」
俺は言った。
篠田が叫ぶ。
「何をだよ!」
「皮膚感覚」
「いいから動け!」
「右手は使わない」
「当たり前だ!」
俺は左手ではなく、膝を使った。
足首を取られたまま、身体を落とす。
水たまりに膝をつき、個体の中心へ体重をかける。
冷たい。
気持ち悪い。
その気持ち悪さを、少しだけ掴む。
「お前に返すものはない」
俺は低く言った。
「これは俺の不快だ」
左足をひねる。
膜が裂ける。
篠田が横から訓練武器を打ち込む。
未登録個体が壁へ弾ける。
通信機から教官の声。
『篠田、そのまま距離を取れ。黒瀬、足首の状態を確認』
足首。
見た。
赤くなっている。
皮膚が少し裂けている。
痛くない。
まただ。
痛くない。
篠田が俺の足を見て、顔を歪める。
「お前、今のも気づいてなかったな」
「締められたのは分かった」
「違う。裂けてんだよ」
「ああ」
「ああ、じゃねえ」
篠田の声が低くなる。
「撤退する」
その言葉が、通路に落ちた。
俺は反射的に言いそうになった。
まだ行ける。
言わなかった。
内ポケットの紙が重い。
止められてるって分かったうえで行け。
誰も止めなかったみたいな顔して沈むな。
俺は息を吐いた。
「分かった」
篠田の目が少しだけ見開かれた。
「……本当に分かってんのか」
「撤退する」
俺はそう言った。
声に出した。
「篠田が止めたから、撤退する」
通信機の向こうで、一瞬沈黙があった。
教官の声。
『撤退判断、確認。復帰試験を一時中断する。両名、撤退線まで戻れ』
端末にログが走る。
撤退。
非効率。
到達前離脱。
依存派、不満。
排除派、部分成功。
個別観測:止める声への従属を確認。
つまんない
もっと壊れろよ
篠田邪魔
でも止まるの濃い
止まれるんだ
白城なら止まらない
カレー個体、白城ルートから乖離
白城なら止まらない。
その文字だけが、妙に視界の端に残った。
白城なら、痛みも不快もなく、指が何本折れようが、すべてを最短で『処理』して進んだだろう。
観客席――あいつらは、それが見たかったのだ。
壊れても止まらない俺。
痛みを捨て、声を捨て、最短で進む俺。
あいつらの望む、都合のいい『英雄』に近づいていく俺。
――ざまあみろ、と思った。
俺は止まった。
篠田の声で。
それは勝利ではない。
泥臭くて、不格好で、何も攻略していない最低の撤退だ。
でも、俺はあいつらの思い通りにはなってやらない。
篠田が俺の横に並ぶ。
「歩けるか」
「歩ける」
「信用しねえ」
肩を貸された。
「大げさだ」
「黙って借りろ」
俺は少し迷って、篠田の肩を借りた。
重い。
誰かに体重を預けるのは、重い。
でも、歩けるから大丈夫ではない。
歩けることと、壊れていないことは違う。
俺は、その違いを今日、少しだけ覚えた。
◇
撤退線を越えると、救護班が待っていた。
教官の顔は硬い。
訓練課の職員たちは、端末を見ている。
俺ではなく、数値を。
「右手再損傷、足首裂傷、魔素反応不安定」
誰かが言った。
「ただし、異常出力の再現は限定的」
「撤退判断が早すぎたか」
「同行者権限が強すぎる」
篠田が聞こえるように舌打ちした。
「聞こえてんぞ」
職員の一人が顔を上げる。
「記録上の話だ」
「人間が横にいるんですけど」
「もちろん把握している」
その言い方が、何も把握していない声だった。
篠田が何か言い返そうとしたが、医務官の声が飛んだ。
「黒瀬を医務室へ」
救護班の後ろに、医務官が立っていた。
顔はいつもより険しい。
「篠田も検査だ」
「俺も?」
「同行者も負荷を受けている」
「俺は平気です」
「平気かどうかは、こちらが判断する」
篠田が俺を見る。
「お前みたいな扱いされた」
「おめでとう」
「嬉しくねえ」
救護班に支えられながら、俺は浅層訓練区画の入口を振り返った。
浅層は、まだ地獄ではなかった。
魔獣は弱かった。
区画は管理されていた。
撤退もできた。
それでも、俺は指と足を壊しかけた。
敵が強かったからではない。
俺が、自分の壊れ方に気づけなかったからだ。
端末が黒く光る。
復帰試験、一次中断。
対象個体、撤退成功。
止める声、機能確認。
次回干渉候補:感覚遮断。
排除派、準備中。
感覚遮断。
その文字を見た瞬間、背筋が冷えた。
視界も。
音も。
痛みも。
味も。
全部、奪われたら。
最後に何が残るのか。
篠田の声が聞こえた。
「黒瀬」
「何だ」
「今、また変な顔したぞ」
「……次、もっと嫌なのが来るらしい」
「次?」
「たぶん」
篠田は、少しだけ黙った。
それから言った。
「じゃあ、次も止める」
「簡単に言うな」
「簡単じゃねえよ。だから言ってんだろ」
その声を聞きながら、俺は医務室へ運ばれた。
浅層は、まだ地獄ではない。
でも、地獄はもう、浅層の入口まで来ている。
いや。
違う。
敵は強くなかった。
場所も地獄ではなかった。
それでも俺は壊れかけた。
地獄は、俺の身体の中にある。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、浅層訓練区画での復帰試験でした。
浅層そのものは、まだ本当の地獄ではありません。
管理された区域で、監視も救護もあり、魔獣も低位です。
それでも律は、痛みがないせいで自分の指や足の損傷に気づけませんでした。
今回の重要点は、律が「まだ行ける」と言わず、篠田の撤退判断に従ったことです。
これは勝利ではありません。
何も攻略していない、泥臭くて不格好な撤退です。
けれど、観客が見たかった「壊れても止まらない律」にはならなかった。
白城のように、すべてを処理して進む道から外れた。
律は止まりました。
篠田の声で。
次回、排除派の干渉はさらに悪質になります。
候補は、感覚遮断。
視界も音も痛みも信用できなくなった時、律に何が残るのか。
続きを見守っていただけると嬉しいです。




