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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第14話 潜るための条件

潜るために必要なのは、強さではなかった。


止める声。

引き戻す手。

そして、自分が壊れていると認めること。

医務官は、紙の同意書を机に置いた。


この時代に、紙。


それだけで嫌な感じがした。


端末上の承認なら、処理できる。

数字になる。

ログになる。

後から誰かが勝手に分類する。


でも、紙は違う。


そこに書いた文字は、逃げにくい。


医務官は椅子に座り、俺を見る。


「復帰試験に出たいんだな」


「はい」


「昨日、絶対安静と言ったはずだが」


「覚えています」


「覚えていてそれなら、なおさら悪い」


医務官は、ため息をつかなかった。


感情をぶつけるでもなく、淡々と紙を一枚めくる。


「先に言っておく。私は反対だ」


予想していた言葉だった。


それでも、胸の奥が少し沈む。


「理由は」


「理由?」


医務官は俺の右腕を見た。


包帯の下にある、痛まない損傷。


「右腕の神経伝達は不安定。肋骨にひび。腹部出血の兆候。脳神経負荷も高い。痛覚反応は落ちたまま。恐怖反応も薄い。疲労感の自己申告は信用できない」


次々に並ぶ。


俺の身体の状態。


俺より、医務官の端末の方が俺を知っている。


「普通なら探索どころか、軽い実技訓練も止める」


「普通じゃないから、確認が必要なんじゃないですか」


医務官の目が細くなった。


「その言い方が、一番危ない」


俺は黙った。


医務官は紙を指で叩く。


「君は自分を例外だと思い始めている。痛みがないから動ける。怖くないから進める。壊れても気づかないから、まだ戦える。そう考えている」


違う、と言いたかった。


でも、言えなかった。


どこかで、そう思っている。


痛くないなら、まだ動ける。

怖くないなら、前に出られる。

壊れても気づかないなら、止まらずに済む。


その考えが、あの英雄に近いことも分かっている。


医務官は言った。


「勘違いするな。君が求めているのは、正式な探索許可ではない」


「……分かっています」


「浅層訓練区画での復帰試験だ。そこを間違えるな」


復帰試験。


その言葉は、やけに事務的だった。


「本物の浅層と接続された管理区域。探索高専の生徒が、一定段階を越えた時に適応確認を行う場所だ」


医務官は端末を操作し、訓練区画の見取り図を表示した。


浅層訓練区画。


監視室。

救護班待機室。

撤退結界。

記録用カメラ。

魔素濃度調整機構。


安全管理のための文字が並んでいる。


安全。


その言葉が、今は少し気持ち悪い。


「君は本来なら、まだしばらく止めるべき状態だ」


「なら、なぜ試験が」


「訓練課が確認を必要としている」


その言い方には、隠しきれない嫌悪があった。


「昨日の君の状態は、通常の候補生の範囲を超えている。神経負荷、魔素干渉値、端末異常、身体損耗。どれも異常値だ」


医務官の声が硬くなる。


「訓練課は、君が昨日の出力を再現できるか見たがっている」


左手首のリングが、かすかに熱を持った。


昨日の出力。


医務官は、それが何かを知らない。


俺が何を返したのかも。

誰に届いたのかも。

何を味わわせたのかも。


知らない。


ただ、数値だけが残っている。


「昨日、君の中で何が起きたか、私は知らない」


医務官は言った。


「だが、数値だけは残っている。神経負荷、魔素干渉値、端末異常、身体損耗。どれも通常の候補生の範囲を超えていた」


そこで、医務官はわずかに声を低くした。


「彼らにとって、君の神経が焼き切れるかどうかは、出力限界を測定する上でのパラメータに過ぎない」


喉の奥が乾いた。


「先生は」


「私は反対だ」


即答だった。


「だが、訓練課が復帰試験として申請した以上、医務官ができるのは医療上の条件を出すことだ。完全な禁止には、上の承認がいる」


医務官は紙を机に置いた。


「だから条件を出す。君を進ませるためじゃない。君が検体として使い潰されるのを、少しでも遅らせるためだ」


検体。


使い潰される。


その言葉に、胸の奥が冷える。


医務官は、さらに続けた。


「探索者候補生として見れば、君は危険すぎる」


淡々とした声だった。


「兵器として見ても欠陥品だ。出力は不安定で、制御も甘い。いつ壊れるか分からない」


喉の奥が乾いた。


兵器。


欠陥品。


その言葉は、予想していたよりも深く刺さった。


医務官は一瞬だけ視線を逸らした。


本当に、一瞬だけだった。


言い過ぎたと思ったのか。

それとも、そう言わなければ俺を止められないと判断したのか。


分からない。


だが次の瞬間には、もう表情は戻っていた。


「研究対象としてなら、価値はあるだろう。君の異常な反応データは、あらゆる意味で特殊だ。確認したがる部署はある」


左手首のリングが、かすかに熱を持つ。


画面も見ていないのに、誰かが笑った気がした。


医務官は俺を見る。


「だが、私は君を研究対象として扱う立場にはいない」


声は低かった。


「患者として見ている。だから止める」


温かい言葉ではなかった。


優しくもない。


むしろ、管理という名の拒絶に近い。


お前は危ない。

お前は壊れている。

お前は許可できない。


それでも、その否定には、変な重みがあった。


まだ、俺を人間として止めている。


そう思った。


「止められているうちに、聞け」


医務官は言った。


「誰も止めなくなったら、君は終わりだ」


篠田の言葉を思い出す。


止められてるって分かったうえで行け。

誰も止めなかったみたいな顔して沈むな。


俺は息を吐いた。


「条件付きなら」


「何?」


「条件付きなら、復帰試験には出られますか」


医務官の顔が、はっきり不機嫌になった。


「君は本当に、聞き分けが悪いな」


「よく言われます」


「誰に」


「篠田に」


医務官は、少しだけ眉間を押さえた。


それから、紙を一枚こちらに向けた。


「許可ではない。仮条件だ」


そこには、箇条書きが並んでいた。


一、単独行動禁止。

一、右腕の使用制限。

一、同行者による撤退判断を優先。

一、異常値が基準を超えた場合、即時撤退。

一、訓練後は強制検査。

一、痛み、恐怖、疲労の自己申告を判断材料にしない。

一、端末ログより、人間の制止を優先する。


最後の一行で、目が止まった。


端末ログより、人間の制止を優先する。


「これを守れないなら、少なくとも私は復帰試験への参加を認めない」


「守れば、出られるんですか」


「私は推薦しない。ただ、訓練課が復帰試験を強行するなら、医療上の最低条件を示しているだけだ」


医務官は厳しい顔のままだった。


「君が復帰試験に出る理由が、強くなるためなら却下する」


「違います」


「昨日のあれを、君が使えるものだと思っているなら、もっと却下する」


俺は黙った。


そこは、違うとは言い切れない。


医務官は見逃さなかった。


「黙るな。図星なら、なおさら悪い」


医務官は端末の検査値を見た。


「昨日、君の身体は一度、制御外の出力を起こした。何が起きたかは知らない。だが、その結果、君の神経と内臓は壊れかけている」


医務官は俺を見た。


「それを武器だと思うな。あれは、君の身体が燃えた跡だ」


身体が燃えた跡。


その言葉は、昨日の自分にぴたりと合っていた。


砂を流し込んだ。

空洞を押し込んだ。

白城の静けさを叩きつけた。


でも、そのために燃えたのは、俺の身体でもあった。


「黒瀬律。君は今、自分を燃やせば何かに届くと思っている」


紙の端を掴む左手に力が入る。


「届きました」


「一度な」


「はい」


「次も届く保証はない。届いたとして、君の身体が残る保証もない」


「分かっています」


「分かっていない」


医務官は即座に切った。


「君は痛みで理解できない。恐怖でも理解できない。だから、理解したふりをするな」


返す言葉がなかった。


医務官は、少しだけ声を落とす。


「復帰試験に出るなら、君の身体を君だけのものだと思うな」


「俺の身体です」


「なら、なぜ血が出ていることに気づけなかった」


胸が詰まった。


「君が自分を把握できないなら、周囲が見るしかない。同行者が止める。医務官が制限する。食堂の人間が顔色を見る。友人が気持ち悪いと言う」


篠田の顔が浮かぶ。


小森の涙。

おばちゃんの太いスプーン。


「その声を、面倒なノイズだと思うなら、君はもう人間としてここへ帰ってこれなくなる」


ここ。


医務室。


白い天井。

消毒液の匂い。

誰かが俺の身体を、まだ患者として見てくれる場所。


医務官は、白城怜司の名を出さなかった。


けれど、俺には分かってしまった。


帰ってこれなくなる場所。


静かで、軽くて、苦しまなくて済む場所。


ダンジョンからは生還しても、人間としては戻ってこない場所。


あの英雄が、当然のような顔で立っていた場所だ。


「違います」


「違うと証明したいなら、条件を飲め」


医務官は紙を押し出した。


「復帰試験に出るための条件は、強さじゃない。止められることだ」


紙の下に、署名欄がある。


俺はペンを持った。


左手で書く。


黒瀬律。


歪んだ字だった。


医務官は、それを見届けると紙を回収した。


「同行者は誰にする」


「篠田」


即答した。


「本人の同意は」


「取ります」


「先に取れ」


「たぶん来ます」


「君たちは、揃って面倒だな」


医務官はそう言った。


その時、扉が開いた。


「呼んだか」


篠田だった。


医務官が、ものすごく嫌そうな顔をした。


「呼んでいない」


「でも来た」


「なぜ入ってきた」


「こいつが馬鹿なこと言ってる気がしたから」


篠田は俺を見る。


「で、言ってたな」


「復帰試験に出る」


「やっぱり馬鹿だった」


篠田は椅子を引き、勝手に座った。


医務官は何も言わず、先ほどの紙を篠田の前に置いた。


篠田は読む。


読みながら、顔がどんどん険しくなる。


「同行者による撤退判断を最優先、って何だよ」


「そのままだ」


医務官が言う。


「黒瀬は痛みも疲労も恐怖も信用できない。本人の自己判断だけでは撤退できない」


「つまり、俺が止めろって言ったら止まるのか」


篠田が俺を見る。


俺は頷いた。


「条件だからな」


「お前、それ守れんのか」


「守る」


「嘘くせえ」


「努力する」


「もっと嘘くせえ」


篠田は紙を机に置いた。


それから、俺をじっと見た。


「俺は、お前の保護者じゃねえぞ」


「知ってる」


「相棒でもねえ」


「そうか」


「友達って言うのも、今はちょっと腹立つ」


「そこまで言うか」


「言う」


篠田は苛立ったように膝を揺らした。


「俺はお前が気持ち悪い。怖いし、見てて腹立つし、昨日みたいな顔をまたされたら殴るかもしれねえ」


「医務室で暴力は」


「黙れ」


篠田は俺を睨む。


「でも、お前ひとりで行かせたら、たぶん止まらない。止まらないまま、勝手に燃えて、勝手に壊れて、後から『仕方なかった』みたいな顔をする」


否定できなかった。


「それが一番腹立つ」


篠田は紙を掴んだ。


「だから行く」


「いいのか」


「よくねえよ」


即答だった。


「でも、お前が人間やめる瞬間を、どこの誰かも分からねえ何かに先に見られるのはもっと嫌だ」


その言葉は、変な形で胸に刺さった。


篠田は続ける。


「俺が見る。俺が先に言う。気持ち悪いって。戻れって。止まれって」


医務官が静かに言った。


「言っても止まらない可能性がある」


「知ってます」


「君も危険だ」


「知ってます」


「それでも行くのか」


篠田は、少しだけ黙った。


それから俺を見た。


「……ブレーキの壊れた欠陥品を一人で走らせる方が、もっと危なっかしいんでな」


医務官は、しばらく篠田を見ていた。


「君も十分おかしい」


「最近よく思います」


「自覚があるならましだ」


医務官は端末を操作し、条件書に何かを追加した。


「同行者、篠田。撤退権限を一部付与する」


篠田が眉をひそめる。


「何すか、それ」


「君が撤退と言った場合、黒瀬の訓練用端末に強制撤退指示が出る。無視すれば警告記録が残る」


「それ、俺が責任負うんですか」


「そうだ」


「最悪だな」


「だから言っている。君も十分おかしい」


篠田は舌打ちした。


「黒瀬」


「何だ」


「俺が止めろって言ったら止まれ」


「分かった」


「分かったって顔じゃねえ」


「どんな顔だ」


「半分あっち側の顔」


またそれか。


でも、言い返せなかった。


医務官は、もう一枚の紙を出した。


「最後の条件だ」


「まだあるんですか」


「ある」


紙には、短い一文だけが書かれていた。


復帰試験前に、自分を止める声を三つ記録すること。


俺はその文を見た。


「声?」


「君は端末ログに引っ張られる。外部からの異常表示にも、体内の変な反応にも引っ張られる。だから、訓練区画に入る前に別の声を持っていけ」


医務官は淡々と言った。


「三つ。君を消費する声ではなく、君を止める声だ」


すぐに浮かんだ。


篠田。

小森。

おばちゃん。

医務官。


四つある。


選ぶのか。


選べない。


いや、選ぶ必要はないのかもしれない。


俺はメモ用紙を引き寄せた。


左手で書く。


一つ目。


止められてるって分かったうえで行け。


篠田の声。


二つ目。


少し迷って、書く。


泣くなと言わないでくれて、ありがとうございました。


小森の声。


三つ目。


さらに迷う。


おばちゃんの顔が浮かぶ。


太いスプーン。

小さく切られた肉。

今日はそれでいいね。


俺は書いた。


今日はそれでいいね。


そこで手が止まった。


医務官が言う。


「三つでいい」


「もう一つ」


俺は書いた。


君を消費する声と、君を止める声を間違えるな。


医務官は、それを見て目を細めた。


「条件は三つだ」


「四つ持っていきます」


「欲張りだな」


「重い方がいいので」


篠田が小さく笑った。


「馬鹿だな」


「知ってる」


端末が震えた。


伏せていた画面が勝手に点く。


俺にだけ見える黒い表示。


潜行条件、記録。

止める声を持参。

非効率。

ただし、白城ルートからの乖離を確認。

観測価値、上昇。

君がその重い声を、いつまで抱えていられるか。

継続観測対象として有望。

いずれ燃料化する可能性も含めて。


「賭けの対象にするな」


俺は端末を睨んだ。


「これは、俺が持っていく声だ。お前らの予想材料じゃない」


篠田が俺を見た。


「また何か見えてんのか」


「ああ」


「内容は」


「胸糞悪い」


「だろうな」


画面は沈黙しない。


むしろ、黒が深くなる。


否定反応、記録。

保持対象への執着、強い。

崩壊時の出力増大が期待される。


篠田が舌打ちする。


「表情でだいたい分かるわ。ろくでもねえこと言われてんだろ」


「ああ」


画面には、さらにログが流れる。


【排除要求】

潜らせるな

汚染源を模擬階層外へ出すな

浅層で処理しろ

境界に近づけるな


別の流れ。


【再接続希望】

潜れ

もっと深く行け

次は何を燃やす?

止める声ごと燃やせ

苦しそうに食え

右腕が壊れても進め

次の逆流はもっと濃く


篠田の顔が歪んだ。


「おい。何見てんだよ」


「向こうが、潜れって言ってる」


「向こうって、例のやつか」


「たぶん」


「趣味悪すぎだろ」


「今さらだ」


依存派のログが、さらに流れる。


ギフト候補:感覚安定剤

ギフト候補:痛覚一時復帰

ギフト候補:出力増幅

ギフト候補:一時味覚増幅

効果:十秒間、味覚感度を十倍に補正

条件:次回出力時、不快情報の濃度上昇

カレー個体ならやれる

味を返してやるよ

もっと見せろ


一瞬、指が止まった。


味覚感度、十倍。


その文字を見た瞬間、舌の奥が勝手に反応した。


もし、それを使えば。


カレーの味が、少しでも戻るのだろうか。


熱いルー。

玉ねぎの甘さ。

肉の歯ごたえ。

米の温度。

おばちゃんが小さく切った肉の意味。


一瞬でも。


本当に一瞬でも。


それが戻るのだろうか。


喉が鳴りそうになった。


だが、すぐに分かった。


これは救いじゃない。


一瞬だけ光を見せて、その後の暗闇を濃くする罠だ。


十秒だけ味を返されれば、その後の欠損は今より耐え難くなる。


味を返すふりをして、日常の不味さを拷問に変える。


救済すら、攻撃になる。


医務官が俺の顔を見て、表情を硬くした。


「何を見た」


「……味を返す、と」


「受け取るな」


即答だった。


「分かってます」


「分かっている顔ではない」


篠田と同じことを言う。


俺は端末を見る。


ギフト。


以前なら、生き残るための力だった。


今は違う。


投資だ。


俺の地獄に対する投資。


使えば楽になるかもしれない。

生き残れるかもしれない。


でも、それは向こうの欲望に応えることでもある。


個別観測者の文字が浮かぶ。


潜るための条件は整いつつある。

ただし、到達には燃料が必要。

次に何を燃やす。


「まだ決めてない」


決めなければ、群衆が選ぶ。


ログがざわつく。


痛み

小森

篠田の声

おばちゃん

医務官の正論

全部燃やせ

もっと濃く

もっと深く


篠田が立ち上がった。


「何か知らねえけど、今、俺の名前が出た顔してるな」


俺は黙った。


篠田の顔が険しくなる。


「ふざけんな」


端末に向かって言う。


「俺の声を勝手に燃料扱いすんな」


ログが一瞬、止まった。


篠田は続ける。


「その画面の向こうに何がいるのか知らねえけどな。こいつがどんだけ気持ち悪くても、俺が止めるって決めた声は、俺のもんだ」


左手首のリングが熱くなる。


俺は篠田を見た。


篠田はこっちを見ない。


端末だけを睨んでいる。


「勝手に使わせねえ」


その言葉が、胸の奥に落ちた。


俺のものではない。


篠田の声は、篠田のものだ。


小森の声も。

おばちゃんの声も。

医務官の声も。


俺が持っていくと決めたからといって、燃やしていいものではない。


俺は、ようやく一つ分かった。


燃やすものは、声そのものじゃない。


それを踏みにじろうとしたものへの怒りだ。


まだ、完全には言葉にならない。


でも、少しだけ輪郭が見えた。


個別観測者の文字が浮かぶ。


反応変化。

保持対象を燃料化せず、保護対象として分類。

代替燃料候補:侵害への怒り。


「うるさい」


しかし、有効だ。


俺は画面を伏せた。


医務官が、静かに言った。


「復帰試験は明日以降。今日は準備だけだ」


「はい」


「黒瀬」


「はい」


「これは許可ではない。猶予だ」


「分かっています」


「分かっていないと思うが、言っておく」


医務官は、俺と篠田を交互に見た。


「浅層訓練区画に入るということは、君の壊れた中身を確かめに行くことになる」


静かな声だった。


「見たくないものを見ることになる。それでも行くなら、止める声を聞き流すな」


俺は頷いた。


「聞きます」


篠田が横から言う。


「聞くだけじゃなくて、従え」


「場合による」


「ほらこれだよ」


篠田が頭を抱えた。


医務官は椅子から立った。


「今日はここまでだ。黒瀬は寝ろ。篠田、君も帰れ」


「こいつが端末見るから嫌です」


「見張るな。君まで倒れる」


「倒れません」


「その発想が危ない」


医務官は本気で嫌そうに言った。


篠田は渋々立ち上がる。


出ていく前に、俺を見た。


「明日、行くなら呼べ」


「分かった」


「勝手に行ったら、殴る」


「医務室で暴力は」


「外で殴る」


篠田はそう言って出ていった。


扉が閉まる。


医務室が静かになる。


俺はメモを見た。


四つの声。


止める声。


消費する声ではない声。


それを持って、浅層訓練区画へ入る。


それでも、足は重かった。


怖いからではない。


いや、怖さは薄い。


でも、別の重さがある。


止められていることを知ったうえで進む重さ。


誰かの声を持っていくということは、勝手に壊れて終わることを許されないということだ。


それは、思ったより重い。


端末が、また黒く光った。


潜行条件、暫定成立。

次回イベント候補:浅層復帰試験。

排除派干渉、準備中。

依存派ギフト、待機中。

個別観測、継続。


続けて、一行。


君は、止める声を持って潜る。

それでも、燃えるか。


俺は、メモを内ポケットに入れた。


「燃える」


小さく答える。


「でも、燃やすものは俺が決める」


画面が少しだけ乱れた。


不安定。


「知ってる」


非効率。


「知ってる」


未知。


俺は目を閉じた。


眠気が来る。


今度は、少しだけ素直に眠れそうだった。


復帰試験に出るための条件は揃った。


それは、強さではなかった。


止められることだった。



翌朝。


医務室の窓から、訓練棟が見えた。


地下へ続く建物。


浅層訓練区画へ繋がる入口。


昨日より、少し遠く見える。


俺は制服の内ポケットを確認した。


四つの声を書いたメモがある。


右腕はまだ重い。

肋骨も怪しい。

痛みはない。


だから、信用しない。


俺は自分の身体を信用しすぎない。


端末を確認する。


ログが流れている。


潜る

潜る

潜る

排除しろ

もっと深く

止める声とかいらない

篠田邪魔

医務官邪魔

声ごと燃やせ

いや燃やすな

こっち来るな

もっと来い


うるさい。


消費する声。


止める声ではない。


俺は端末を伏せた。


扉の外から、篠田の声がする。


「黒瀬、起きてんだろ」


「起きてる」


「じゃあ来い」


俺は立ち上がる。


足元が少し揺れた。


それでも、歩ける。


歩けるから大丈夫、ではない。


歩けることと、壊れていないことは違う。


そう言い聞かせながら、扉へ向かった。


向かう先は、自由な探索ではない。


浅層訓練区画での復帰試験。


監視カメラと教官の目の前で行われる、管理された確認。


だが、その裏側で何が待っているかを、俺だけは知っている。


向こうは、もう来ている。


俺が次に何を燃やすのかを見に。


浅層は、まだ地獄ではない。


少なくとも、制度上は。


それでも、俺は止める声を持って、その入口へ向かった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「潜るための条件」の回でした。


今回、律が向かうのは自由な探索ではありません。

探索高専の管理下で行われる、浅層訓練区画での復帰試験です。


医務官は律を止めたい。

しかし訓練課は、昨日の異常な数値を管理下で確認したがっている。

そのため、医務官ができるのは、律が使い潰されないための条件を付けることでした。


律に必要だったのは、さらなる強化ではありません。

痛みも恐怖も信用できなくなった彼に必要なのは、自分を止める声です。


医務官の制限。

篠田の同行。

小森の言葉。

おばちゃんの「今日はそれでいいね」。


それらは律にとって、優しい救いというより、白城にならないための重い枷です。


一方で、向こう側はその声すら燃料にしようとしています。

救済に見えるギフトも、律をさらに深い欠損へ落とすための罠です。


復帰試験に出るための条件は、強さではありませんでした。

止められることでした。


次回、律は浅層訓練区画へ入ります。

ただし、それは冒険ではなく、自分の壊れた中身を確かめに行くような復帰試験になります。

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