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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第13話 診断と分裂

逆流は成功した。


けれど、それは勝利ではない。


見る側を味わう側へ引きずり下ろした代償は、律自身の身体にも残っていた。

目が覚めた時、最初に見えたのは白い天井だった。


医務室の天井。


何度も見た白。


清潔で、均一で、感情のない白。


その白の端が、一瞬だけ黒く滲んで見えた。


昨日のノイズだ。


端末の黒。

白黒に反転した視界。

意味のない幾何学模様。

個別観測者の「不快」。


俺は瞬きをした。


視界は戻る。


だが、目の奥にまだ細い針のような違和感が残っていた。


「起きたか」


低い声がした。


医務官だった。


白衣の袖をまくり、端末に検査結果を表示している。


名前は知らない。

何度か見た顔だ。


冷たい顔ではない。


だが、優しい顔でもなかった。


人間を診る顔というより、壊れかけの機材を前にした整備士の顔に近い。


俺は起き上がろうとした。


「動くな」


短く止められる。


「まだ右腕を使うな。肋骨も怪しい。内臓反応も鈍い」


「痛くないです」


「だから危ないんだ」


医務官は、こちらを見た。


「痛ければ、人間は止まる。止まれない人間は、壊れてから気づく」


俺は右腕を見た。


包帯が増えている。


昨日より、厚い。


それなのに痛くない。


重いことは分かる。

動かしにくいことも分かる。

でも痛くない。


ベッドの白いシーツに、赤茶色の染みがあった。


最初、それが何か分からなかった。


血だ。


たぶん、俺の。


そう理解しても、心拍は跳ねなかった。

手のひらに汗も出ない。

胃が縮むような焦りも来ない。


赤い液体が、布に染み込んでいる。


それが自分の命だと頭では理解しているのに、窓の外の雲を見ている時と、あまり変わらなかった。


血を見た身体が、血だと騒がない。


そのことの方が、血そのものより気味が悪かった。


「どこから出たんですか」


そう聞いた自分の声が、少し遅れて耳に届いた。


医務官は眉を寄せた。


「それを本人が聞く時点で、かなり悪い」


「分からないんです」


「だろうな」


医務官は端末を操作した。


俺の身体の図が表示される。


右腕。

肋骨。

腹部。

神経系。

いくつもの赤い表示。


「右前腕の神経伝達が一部途切れている。火傷の再損傷もある。肋骨は少なくとも一本、ひび。腹部にも軽い出血反応がある。脳神経の負荷値も高い。普通なら、君は今、まともに座っていられない」


普通なら。


その言葉が、また遠かった。


俺はシーツの血を見た。


自分の血だ。


なのに、どこから出たのか分からない。


痛みがない。


危機感もない。


だから、身体がどこで悲鳴を上げているのか分からない。


「君の身体は」


医務官は一度、言葉を切った。


「君に捨てられたがっている」


嫌な言い方だった。


喉の奥が冷える。


「どういう意味ですか」


「痛覚も、恐怖反応も、疲労感も、身体が自分を守るための警告だ。それが落ちている。君の身体は、壊れても君に知らせられない」


医務官は画面を指した。


「寝ている間も、内臓の反応が不自然だった。普通なら痛みで目が覚める。だが君は眠っていた。シーツが汚れても、どこが悪いのか分からない」


俺は黙った。


「これが続けば、君は身体を使い潰す。自分では平気だと思いながら、ある日、立てなくなる」


白城怜司の顔が浮かんだ。


静かだ、と言った男。


捨てて、軽くなった男。


俺は捨てないと言った。


でも、身体の方が先に、俺を置いていこうとしている。


「先生」


「何だ」


「俺は、まだ潜れますか」


医務官の顔が、はっきり歪んだ。


「質問が間違っている」


「でも」


「潜れるかどうかではない。潜ったら、何を失うかだ」


医務官は画面を閉じた。


「正直に言う。君の状態は、探索者候補生としては異常だ。能力値だけ見れば伸びている部分もある。反応速度、耐久、魔素干渉値。だが、その伸び方が正常じゃない」


「深層適応ですか」


「適応という言葉は便利だな」


医務官は吐き捨てるように言った。


「身体が壊れていくことまで、進化みたいに聞こえる」


その言葉に、少しだけ胸が動いた。


この人は、少なくとも白城側ではない。


だが、味方かどうかは分からない。


味方という言葉を、もう簡単には信じられない。


「今日は絶対安静だ」


「授業は」


「出るな」


「食堂は」


医務官は俺を見た。


「行ける身体だと思うか」


「分かりません」


「分からないなら行くな」


正しい。


あまりに正しい。


でも、その正しさに、少しだけ胃が沈んだ。


食堂に行かない。


カレーを食べない。


おばちゃんに「食べました」と言わない。


それだけで、何かを一つ手放すような気がした。


医務官は、俺の顔を見てため息をついた。


「……食事は運ばせる。通常食にする。強化食は出さない」


俺は医務官を見た。


「なぜですか」


「君がそれを嫌うからだ」


「理由になってません」


「医療上の理由としては弱いな」


医務官は、少しだけ目を伏せた。


「だが、今の君から嫌悪まで奪うのは危険だ。嫌がれるものは、まだ残しておけ」


その言葉は、変な形で胸に残った。


嫌がれるものは、残しておけ。


医務官は、もう一度端末を見た。


「ただし食べたら寝ろ。記録も書くな。端末も見るな」


「それは無理です」


「だろうな」


医務官は呆れたように言った。


「だから壊れるんだ」



医務官が出ていくと、部屋は静かになった。


医務室の壁時計の音だけが聞こえる。


端末は机の上に置かれていた。


医務官が伏せてくれたらしい。


それでも、黒い光が隙間から漏れている。


見ない方がいい。


そう分かっている。


だが、見ないで済むなら、最初からこんなことにはなっていない。


俺は左手で端末を取った。


画面が点く。


ログが、割れていた。


いつものような一つの流れではない。


複数の板。

複数の反応。

複数の怒り。


【排除要求】

対象個体は観測対象ではなく汚染源

群衆側への逆流能力を確認

放置は危険

感覚保護領域への侵入を許すな

処分しろ

適応前に潰せ

カレー個体はもう娯楽じゃない


別の流れ。


【再接続希望】

最悪だった

でもまた見たい

砂の喉が忘れられない

白城の静けさ、怖かったのにもう一回確認したい

普通の死亡配信が薄く感じる

あの不快感、濃すぎる

カレー個体の地獄は味がある

次はもっと酷い損傷で頼む

もっと苦しそうに飯を食ってほしい

右腕が壊れたなら、次は何を燃やす?

痛くないなら、もっと壊せるだろ

次は内側の味を見せてくれ

もう一回だけ

次はもっと深く


俺は画面を見つめた。


排除派。


依存派。


そう分類できるのだろう。


俺を消したい奴ら。

俺の地獄をもう一度欲しがる奴ら。


どちらも、気持ち悪い。


だが、片方だけが気持ち悪いわけではない。


吐き気がした。


こいつらは、俺が壊れるところを欲しがっている。

俺の苦しみを、もう一度味わいたがっている。


壊れている。


そう思った。


だが、すぐに喉が詰まった。


観客が苦しんだ時、少し息がしやすかった俺は、こいつらとどれほど違うのだろう。


こいつらに悲鳴を与えたのは、俺だ。


こいつらが欲しがる毒に、酸素を送っているのも、俺だ。


同族嫌悪。


その言葉だけは、まだ飲み込みたくなかった。


端末の奥から、個別観測者の文字が浮かぶ。


群衆側、二極化。

排除要求、増加。

再接続要求、同時増加。

不快感への依存兆候を確認。

対象個体の出力は、娯楽価値から汚染価値へ移行しつつある。


「汚染価値」


君は、観客席を快適な場所ではなくした。

その結果、君を嫌悪する者と、君の不快さに依存する者が同時に発生している。


「お前はどっちだ」


観測側。


「便利な答えだな」


正確な答えだ。


俺は笑いそうになった。


笑えなかった。


喉が重い。


画面に続きが浮かぶ。


君の身体損耗も、許容範囲を超え始めている。

右腕神経損傷。

内臓反応低下。

視覚反転ノイズ。

情動逆流後の依存兆候。

次回の燃焼には、より深い代価が必要になる。


「分かってる」


分かっていない。

君は痛みで理解できない。


その通りだった。


だから腹が立った。


「痛みがなくても、名前はつけられる」


名付けは損傷を止めない。


「止めるためにやってるんじゃない」


では、何のために。


俺は答えなかった。


答えたくなかった。


こいつに渡したくなかった。


端末が、わずかに黒く沈む。


君は、観客の悲鳴で呼吸した。

それを名前にするか。


胸の奥が冷えた。


名前をつければ、扱える。


そう思っていた。


玉ねぎの甘さが消えたこと。

痛まない傷。

涙を水分だと思った寒さ。

冷めたカレーの不快さ。


名前をつければ、少なくとも俺のものとして握れる。


でも。


これは違う。


観客の悲鳴で息がしやすくなった感覚。


これに名前をつけたら、戻れなくなる気がした。


俺は初めて、言葉にすることを怖いと思った。


名称未設定の情動は、ログ処理を滞らせる。

分類を推奨する。


事務的な文字だった。


それが、何より不快だった。


俺が必死に守ってきた名付けを、こいつは整理整頓の道具として差し出してくる。


俺の心の中で一番触れられたくない場所に、無表情でラベルを貼ろうとしている。


「……これだけは」


声が詰まった。


「これだけは、言葉にしたくない」


理由は。


「俺のものだからだ」


名付けないものを、所有できるのか。


「黙れ」


名付けなければ、君はそれに飲まれる。


ずるい。


正論だった。


名付けろと言ってくる。


俺が守ってきた武器を、こいつは俺に向けて使ってくる。


俺は端末を伏せた。


視界の端に、昨日書いたメモが見える。


見ているだけで済むと思うな。

次は、もっと深く。


文字が少し滲んでいる。


左手が震えていたせいだ。


あれを書いた時、俺は確かに呼吸がしやすかった。


観客の悲鳴を思い出して。


最低だ。


でも、嘘にはできない。



昼前、食事が運ばれてきた。


医務官の言った通り、強化食ではなかった。


白いトレー。

ご飯。

味噌汁。

煮物。

小さな魚。

それと、柔らかく切られた肉。


食堂のカレーではない。


おばちゃんが作ったものかどうかも分からない。


だが、通常食だった。


湯気がある。


匂いがある。


俺は左手で箸を持とうとして、うまく持てなかった。


指先が少し痺れている。


仕方なく、スプーンを使う。


太い柄ではない。


普通のスプーンだ。


持ちにくい。


それだけで、少しだけ腹が立った。


俺は肉を口に入れる。


柔らかい。


味は分かる。

だが薄い。


肉の繊維は相変わらず遠い。


飲み込む。


喉に引っかかるほどではない。


だが、身体が疲れているせいか、胃が重い。


「飯だ」


小さく言った。


誰に聞かせるためでもない。


自分に言う。


飯だ。


味が薄くても。

食堂で食べていなくても。

おばちゃんの声がなくても。

篠田が隣で文句を言っていなくても。


食べると決めたなら、これは飯だ。


端末が震える。


見ない。


見ないまま、もう一口食べる。


震えが強くなる。


見ない。


三口目。


味噌汁を飲む。


塩気は分かる。


でも、温かさはやはり遠い。


それでも、遠い温かさを温かいと呼ぶ。


端末が、震える。


しつこい。


俺はとうとう画面を見た。


食事行為、継続。

支援環境なしでも抵抗核維持。

食堂個体依存のみではない。

抵抗核、移動性あり。

削りにくい。


「ざまあみろ」


言ってから、少しだけむせた。


咳が出る。


胸の奥が軋む。


肋骨のひびのせいかもしれない。


痛くはない。


ただ、呼吸が少し浅くなる。


俺はスプーンを置いた。


痛みがないから、どこまで無理をしているのか分からない。


食べるだけでも、身体が疲れている。


それを認めるのが、少し悔しかった。


ドアがノックされた。


「入るぞ」


篠田だった。


返事を待たずに入ってくる。


手には、売店の紙袋。


「医務官に止められた」


「なのに来たのか」


「止められたから来た」


意味が分からない。


篠田は椅子を引き寄せ、ベッド横に座った。


紙袋から、ゼリー飲料と水を出す。


「強化食じゃねえ。普通のやつ」


「気を遣ったのか」


「違う。俺が強化食嫌いなだけだ」


篠田は俺のトレーを見た。


「食えてんのか」


「少し」


「少しって何だよ」


「半分くらい」


「十分だろ」


十分。


おばちゃんの「今日はそれでいいね」を思い出した。


「昨日」


篠田が言った。


「お前、笑ってた」


「笑ってない」


「またそれか」


篠田は顔をしかめた。


「笑ってたんだよ。向こうが嫌がったって分かった時」


向こう。


篠田は、観客の正体を知らない。


でも、何かがいることは分かっている。


俺が何かを返したことも。


そして、それに俺が少しだけ救われたことも。


「気持ち悪かった」


篠田ははっきり言った。


「今までの気持ち悪いとは違う」


俺は黙った。


篠田は視線を落とす。


「お前が壊れていくのも気持ち悪い。見てらんねえ。でも昨日のは、それだけじゃなかった」


紙袋を握る音がした。


「お前、やり返してた。たぶん。何か知らねえけど、向こうに返してた」


「返した」


「だよな」


篠田は苦い顔をした。


「それを見て、ちょっとだけ、ざまあみろって思った」


俺は篠田を見た。


篠田は目を逸らさなかった。


「でも、その直後のお前の顔を見て、やっぱ気持ち悪いと思った」


「どっちだ」


「どっちもだよ」


篠田は吐き捨てる。


「俺も最低なんだよ。お前があんな顔してんのに、ちょっとスカッとした。でも、そのスカッとした自分ごと、お前が嫌だった」


それは、分かる気がした。


「だから」


篠田はゼリー飲料を俺の方へ押した。


「お前だけが壊れてるみたいな顔すんな。こっちも多少は壊れてんだよ。お前ほどじゃねえけど」


その言い方に、少しだけ息が抜けた。


「慰めか」


「違う。巻き込まれた被害報告だ」


「そうか」


「そうだ」


篠田は俺の顔をしばらく見ていた。


「何だ」


「お前、今、本当に俺を見てるか?」


「見てる」


「嘘つけ」


篠田は自分の目元を指した。


「前は、ムカつく時はムカつく顔してた。痛い時は痛そうな顔してた。腹立ってる時は、分かりやすく腹立ってた」


「今は?」


「光が遅い」


「光?」


「目に感情が来るのが遅いんだよ。言葉を聞いて、意味を考えて、それから表情だけ作ってるみたいに見える」


言われて、何も返せなかった。


自分では分からない。


鏡を見ても、たぶん分からない。


でも、篠田には見えている。


俺が気づけない損傷が、他人の目には見えている。


「お前の顔、もう半分あっち側に行ってるぞ」


篠田は、吐き捨てるように言った。


「だから、勝手に全部一人で決めるな」


「……善処する」


「善処じゃなくて、やれ」


篠田は立ち上がった。


「食え。寝ろ。あと、次に潜るとか言うなら、その前に俺に言え」


「なぜ」


「勝手に行かれると腹立つからだよ」


「止めるのか」


「止める。たぶん止まらねえけど」


「意味あるのか」


篠田は俺を睨んだ。


「止められてるって分かったうえで行け。誰も止めなかったみたいな顔して沈むな」


それだけ言って、篠田は部屋を出ていった。


扉が閉まる。


俺はゼリー飲料を見た。


普通のやつ。


強化食ではない。


開ける。


一口飲む。


味は薄い。


でも、冷たい。


冷たいと分かる。


「飯……ではないな」


小さく呟く。


でも、差し入れではある。


その名前は、つけられる。



夕方、医務官が戻ってきた。


再検査のためだった。


血圧。

神経反応。

魔素干渉値。

視覚反応。

味覚刺激。

痛覚反応。


痛覚反応の欄は、やはりほとんど動かない。


医務官が眉を寄せる。


「痛覚の復帰が遅い」


「戻るんですか」


「戻る可能性はある。だが、君の場合は別の回路が痛覚の代わりに使われ始めている」


「別の回路?」


「観測リングと深層適応因子。君の身体は、痛みではなく外部刺激と出力結果で損傷を判断しようとしている」


分かるようで、分からない。


医務官は続けた。


「簡単に言えば、君の身体は、自分の感覚よりもシステムの反応を優先し始めている」


嫌な言葉だった。


「俺の身体なのに?」


「そうだ」


医務官は端末を閉じた。


「だから言った。君の身体は、君に捨てられたがっている」


「俺は捨ててません」


「君の意志の話ではない。身体の適応方向の話だ」


俺は黙った。


医務官は少しだけ声を落とした。


「今後、君は自分の身体を信用しすぎるな。痛くない、怖くない、疲れていない。その全部が嘘かもしれない」


「何を信じればいいんですか」


「周囲の声だ」


意外な答えだった。


「君が痛がらないなら、周りが止めるしかない。君が疲れを感じないなら、誰かが座らせるしかない。君が自分の血に気づかないなら、誰かが見つけるしかない」


篠田の顔が浮かぶ。


小森の顔。

おばちゃんの顔。


そして、観客ログ。


周囲の声。


その中には、見たくないものも混ざる。


「誰の声でもいいわけじゃないですね」


「当たり前だ」


医務官は即答した。


「君を消費する声と、君を止める声を間違えるな」


その言葉は、重かった。


俺は少しだけ頷いた。


「努力します」


「努力では足りない。仕組みにしろ」


医務官は処方薬を置いた。


「今日は寝ろ。端末は没収したいが、どうせ無理だろう」


「はい」


「返事だけはいいな」


医務官は出ていく。


俺は薬を見た。


それから端末を見る。


画面には、また観客ログが浮かんでいた。


排除派:対象個体の破棄を要求

依存派:再逆流イベントを要求

管理層:受容制限を検討

個別観測者:継続観測を申請

対象個体:損耗進行中


最後の一行だけ、妙に静かだった。


対象個体。


損耗進行中。


俺のことだ。


俺は、メモ用紙を取った。


左手で書く。


『消費する声と、止める声を間違えるな。』


字は相変わらず歪んでいる。


でも、書けた。


端末に文字が浮かぶ。


その分類は有効だ。

ただし、止める声は君の到達を遅らせる。


「知ってる」


君は、それでも聞くのか。


俺は少し考えた。


篠田の「誰も止めなかったみたいな顔して沈むな」という言葉。


小森の涙。


おばちゃんの「言えるうちに言いなさい」。


医務官の「君を消費する声と、君を止める声を間違えるな」。


全部、重い。


重いから、白城にはなれない。


「聞く」


俺は答えた。


「聞いたうえで、行くかどうかは俺が決める」


画面が少しだけ乱れた。


非効率。


「だろうな」


不安定。


「知ってる」


しかし、未知。


俺は目を閉じた。


未知。


それが、褒め言葉ではないことは分かっている。


でも、白城のように既知の死体と呼ばれるよりは、まだいい。


眠気が来る。


今度は、無理に抗わなかった。


眠る直前、端末のログが薄く見えた。


排除しろ

もう一回見たい

汚染源

最高

最悪

怖い

欲しい

消せ

深く

深く

深く


観客席は割れている。


俺の身体も壊れている。


それでも、まだ名前はつけられる。


ただ、ひとつだけ。


まだ名前をつけられないものがある。


観客の悲鳴で息がしやすくなった、あの感情。


それだけは、まだ言葉にしたくない。


俺は、眠りに落ちる前に小さく呟いた。


「次は、俺が決める」


聞こえたかどうかは分からない。


でも、それでよかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「診断と分裂」の回でした。


逆流によって観客席には亀裂が入りました。

律を危険な汚染源として排除しようとする者と、あの不快感をもう一度味わいたい者に分かれ始めています。


一方で、律の身体も確実に壊れています。

痛みがないせいで、自分の損傷を自分で把握できない。

身体が壊れているのに、本人だけがそれを知らない。


さらに、律は観客の悲鳴で息がしやすくなった感情に、まだ名前をつけられずにいます。

名前をつけることは、彼にとって武器でした。

けれど、今回ばかりは、その言葉が自分を決定的に変えてしまうことを恐れています。


ここから律に必要になるのは、強さだけではありません。

自分を消費する声と、自分を止める声を見分けることです。


次回、律は「潜るための条件」と向き合うことになります。

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