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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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12/21

第12話 見ているだけで済むと思うな

見る側は、安全だと思っている。


味わうのは、いつも律だけだった。


だから今回は、返す。

朝、端末は最初から黒く光っていた。


画面には、昨日の続きのような文字が浮かんでいる。


次回イベント候補、確定。

感覚逆流テスト。

実行条件:対象個体の強烈な情動反応。

群衆側受容設定:一部強制サンプル。

観測者承認:保留中。

個別観測者承認:済。


「勝手に決めるな」


声に出したが、画面は何も変わらない。


机の引き出しを開ける。


紙ナプキンがある。


『味がなくても、飯は飯だ。』

『見ているだけで済むと思うな。』


左手で書いた歪な文字。


それを見ていると、昨日の栄養バーの粉っぽさが口の奥に戻ってきた。


舌に貼りつく乾いた粉。

水で流しても、喉の奥に残るざらつき。

胃が異物を拒むように小さく縮む感覚。


不快だった。


だが、不快だと呼べる。


まだ、呼べる。


端末にログが流れる。


逆流テスト楽しみ

でもこっちに来るのは嫌

一部強制サンプルって何?

見る側に負荷かけるなよ

運営説明しろ

カレー個体、調子に乗ってない?

昨日の「見ているだけで済むと思うな」良かった

いや怖い

味覚共有だけはやめてほしい

あいつの飯まずそう


俺は端末を見下ろした。


「まずいぞ」


文字が止まる。


「お前らが奪って、汚して、薄くして、冷ました飯だ」


左手首のリングが熱を持つ。


情動反応、上昇。

未加工感覚、蓄積確認。

逆流経路、待機。


俺は紙ナプキンを折り、制服の内ポケットに入れた。


お守りではない。


証拠だ。


俺がまだ、自分で名前をつけたものを持っている証拠。



午前の集合場所は、訓練棟の地下だった。


昨日の魔獣逸脱事故のせいで、模擬階層の点検が行われることになったらしい。


教師は「安全確認を兼ねた見学」と説明した。


けれど、その言い方を信じている生徒は少なかった。


白城怜司が昨日見せた処理。


浅層魔獣が食堂まで出た事実。


そして、今朝から妙に静かな教師たち。


誰もが、何かが変わったことを感じていた。


篠田が隣で腕を組む。


「嫌な感じしかしねえ」


「同感だ」


「お前が同感とか言うと余計に嫌だ」


小森は少し離れた場所にいた。


目が合う。


小森は迷ったあと、小さく会釈した。


俺も頷く。


胸はまだ、以前のようには痛まない。


でも、小森の顔を見て「昨日、傷つけた」と思える。


それでいい。


いや。


それでいいことにする。


地下の模擬階層は、学校の中にある小さなダンジョンだった。


浅層由来の石材。

自己修復する壁。

低濃度の魔素循環。

訓練用に調整された疑似魔獣。


完全な地上ではない。


観客が、少しだけ手を伸ばせる場所。


通路の奥で、銀色のリングが熱くなった。


感覚逆流テスト、準備開始。

対象環境:模擬階層。

媒介:深層適応因子、観測リング、浅層由来建材。

群衆側受容サンプル、抽出中。


「ここでやる気か」


端末は答えない。


代わりに、壁の影が少しだけ濃くなった。


教師が説明を始める。


「昨日の事故を受け、模擬階層内の結界と制御系を再確認する。全員、指定線より先へ出ないこと」


その声の途中で、通路の奥から音がした。


ずるり。


濡れたものが床を擦るような音。


教師が振り向く。


「全員、下がれ」


壁の一部が裂けた。


本来なら開くはずのない場所に、黒い隙間ができる。


そこから、浅層魔獣が這い出してきた。


昨日のものより小さい。


だが、数が多い。


四体。

いや、六体。


教師が結界端末を操作する。


反応が遅い。


篠田が息を呑む。


「またかよ」


小森が後ろへ下がる。


俺は一歩、前に出た。


リングが熱い。


イベント開始。

逆流条件設定:高情動状態。

対象個体、戦闘圧力下に配置。

感覚蓄積の放出を観測。


観客ログが一気に流れ始める。


来た

模擬階層イベント

やっぱ戦闘入れたか

白城いないの?

カレー個体だけで処理できる?

逆流はやめろって

でも見たい

こっち来るなよ

見るだけでいいから


見るだけ。


その文字を見た瞬間、腹の奥が燃えた。


「篠田」


「何だ」


「小森を下げろ」


「お前は?」


「前に出る」


「それが嫌なんだよ!」


篠田は怒鳴ったが、すぐ小森の方へ走った。


いい。


それでいい。


篠田は怒りながらでも動く。


小森は怯えながらでも、後ろの生徒に声をかけている。


俺は前を見る。


魔獣がこちらへ跳んだ。


怖くない。


それが嫌だった。


痛みも遠い。


それも嫌だった。


だから、俺は思い出す。


冷めたカレー。

喉に引っかかる脂。

石を飲み込むような重さ。

小森の涙を水分だと思った瞬間の寒さ。

おばちゃんの「言えるうちに言いなさい」。

篠田の「欠けてんだよ」。

白城の「静かだ」。


全部、抱える。


重い。


動きにくい。


白城のように軽くは動けない。


それでも。


俺は右手を前に出した。


包帯の下の皮膚が、昨日の火傷でまだ壊れている。


魔獣の爪が振り下ろされる。


避けるのが正解だ。


白城なら半歩ずらし、最短で首を折る。


俺は避けなかった。


右腕で受ける。


衝撃。


痛みはない。


だが、骨に響く重さは分かる。


魔獣の顔が近い。


口の奥の臭い。


腐った土と、鉄と、熱い獣の息。


俺はその臭いを吸った。


気持ち悪い。


それを、気持ち悪いと呼ぶ。


「来い」


左手首のリングが焼けるように熱くなった。


強烈な情動反応、検出。

未加工感覚、放出準備。

逆流経路、仮接続。

群衆側受容サンプル、強制開放。


観客ログが乱れる。


待て

何か来る

こっちの設定開いた

受容拒否

拒否ボタンどこ

運営止めろ

いや見たい

見たいけど受けたくない

カレー個体、何する気


俺は笑わなかった。


「味わえ」


その瞬間、世界が反転した。



最初に流れたのは、砂のカレーだった。


熱いはずのカレーが、一瞬で砂になる。


舌の上で、ざらりと崩れる。


味ではない。


食べ物ですらない。


それでも吐き出せない。


吐き出せば、奪われたことを認める気がして、無理やり飲み込む。


ガリッ。


嫌な音が、舌から脳の奥まで響く。


喉を砂がこすり、焼けるように痛む。


その感覚が、観客席へ流れ込んだ。


何これ

口の中が

砂?

やめろ

味覚チャンネル閉じろ

閉じられない

まずい

これ食べ物じゃない

うえ

なんで飲み込むの

吐けよ

吐けって

喉が焼ける

口の中が砂利で埋まってる

飲み込めない

でも吐けない

画面を閉じたいのに目が離れない

こっちまで喉が裂ける


「吐かなかったんだよ」


俺は魔獣の爪を押し返しながら言った。


「俺は、それを飲み込んだ」


次に流れたのは、玉ねぎの甘さが消えた空洞。


甘い、という言葉は分かる。


漢字も分かる。

砂糖の刺激も分かる。


でも、玉ねぎを噛んだ時にじわりと出てくるはずの、あの丸い甘さだけがない。


そこに何があったのかも分からない。


脳の引き出しをこじ開けられ、中身だけ抜き取られた後の、絶対的な無。


観客が悲鳴のようなログを流す。


ない

何がないのか分からない

欠けてる

甘いの意味が抜ける

気持ち悪い

返して

これ何の味?

味じゃない

空洞

空洞がある

やめろ

これ、俺の記憶まで持っていかれる

昨日の夕飯の味が思い出せない

スープの匂いがノイズになる

母親の料理の匂いが薄くなる

違う、これはカレー個体の欠損だろ

なんでこっちの記憶に触る

返せ

まだ何も奪われてないのに、返せって思う


「それを、お前らはゲットって笑った」


俺の右手が魔獣の顎を掴む。


力を入れる。


痛みはない。


だが、手の皮膚が裂ける感覚はある。


その次に、血の味が流れる。


いや。


血の味が薄い恐怖が流れる。


口の中を切った。


鉄の味がするはずだった。


自分の内側から出たものなら、まだ自分のものだと思いたかった。


でも、それすら薄い。


血なのに、遠い。


自分の身体の味まで、誰かに盗まれ始めている。


やめろ

内側が薄くなる

自分の血なのに

自分じゃない

気持ち悪い

切断しろ

切断できない

これ観測じゃない

汚染だ


魔獣が暴れる。


俺の右腕に牙が食い込む。


痛みは来ない。


だから、そのまま押し込む。


今度は、痛まない傷を流す。


焼けた手。


焦げた皮膚。

自分の肉が焼ける脂っこい臭い。

周囲の悲鳴。

教官の叫び。


なのに、自分だけは静か。


痛くない。


痛くないことが、怖い。


痛くないから止まれない。


止まれないから、どこまで壊れたのか分からない。


熱い

いや痛くない

なんで痛くないの

皮膚が

臭い

こっちまで臭い

痛みがない方が怖い

無理

無理

無理


「痛くないのが、便利だと思ったか」


俺は低く言った。


「便利だぞ。最悪にな」


魔獣の身体を壁へ叩きつける。


一体が崩れた。


だが、残りが来る。


教師たちが結界を張り直そうとしている。


篠田が後ろで叫ぶ。


「黒瀬! 下がれ!」


下がらない。


まだ返していない。


俺は、次の感覚を燃やした。


小森の涙。


頬を伝う透明な液体。

塩分を含む体液。

表面張力で丸まり、重力に従って顎の先へ落ちる。


最初にそう認識した瞬間の、冷たい絶望。


涙を涙と呼べなかった恐怖。


泣いている少女に、泣いても状況は好転しないと言った自分の声。


正しい。


正しいから、最悪だった。


違う

これは水分

いや涙

分からない

感情タグが剥がれる

誰か泣いてる

泣いてるのに何も来ない

やめろ

胸が空く

空洞

これ嫌だ

これ嫌だ


観客ログの中に、初めて泣き声のような乱れが混じった。


俺はそれを見た。


「嫌か」


答えはない。


代わりに、個別観測者の文字が浮かぶ。


逆流濃度、想定超過。

群衆側受容体、拒絶反応。

不快情報、拡散中。


「まだだ」


俺は言った。


「まだ、終わってない」


次に流したのは、おばちゃんのスプーンだった。


太い柄。


左手で持ちやすいように添えられたもの。


肉を小さく切ったこと。

「痛まない怪我も怖いからね」と言った声。

「言えるうちに言いなさい」と笑った顔。


温かい。


でも、その温かさが胸に溜まらない。


薄い器に水を注ぐように、どこかから零れていく。


救われている。


なのに、満たされない。


その悔しさ。


その情けなさ。


それでも、零れる前に少しだけ掴もうとする指先。


やめて

あたたかいのに苦しい

なんで満たされない

こぼれる

こぼれる

手から落ちる

これ嫌い

これ嫌い

これ、何

支援個体って呼ぶな

誰かがそう言ってる

誰?


「俺だ」


俺は魔獣の首を掴んだ。


「お前らが支援個体って呼んだ人だ」


壁に叩きつける。


二体目が動かなくなる。


息が荒い。


痛みはない。


でも、身体のどこかが限界を訴えている。


それすら、遠い。


リングが赤く熱を持つ。


対象個体、損耗増大。

逆流継続は危険。

中断推奨。


個別観測者の文字。


「中断?」


俺は笑った。


「見る側が嫌がったら中断か」


ログがさらに荒れる。


やめろ

止めろ

もう十分

見るだけに戻して

受容解除して

運営

運営

運営

カレー個体、壊れる

壊れていいから止めろ

こっちに流すな


「勝手だな」


俺は、最後に白城の静けさを燃やした。


手放せば楽になる。


怒らなくていい。

悲しまなくていい。

名前をつけなくていい。


世界が記号になる。

音が音でなくなる。

血が汚染になり、涙が水分になり、飯が燃料になる。


頭が軽い。


怖いほど軽い。


静か。


とても静か。


死体みたいに、静か。


その楽さの甘い毒を、観客席へ流し込む。


一瞬、ログが崩れた。


……

001010

対象なし

感情タグなし

意味分類待機


数秒間、観客の言葉が消えた。


悲鳴すらなかった。


ただ、情報だけが流れていた。


白い空白。


意味のない記号。


感情の消えた行。


やがて、誰かのログが震えるように浮かんだ。


今の何

自分が消えた

俺、何を見てた?

俺は誰だった?

感情が落ちた

怖い

怖いって戻ってきて安心した

白城個体の中って、これなの?

楽なのに嫌だ

怒りが消える

食べ物が記号になる

誰かの顔が消える

嫌だ

嫌だ

楽なのに嫌だ

これが適応?

これが完成?

やめろ

やめろ

やめろ


観客席が、初めて同じ言葉で埋まった。


やめろ。


その文字を見た瞬間、胸の奥に何かが灯った。


勝利ではない。


救いでもない。


ただ、境界にひびが入った音だった。


見る側と、味わう側。


そこに、ひびが入った。


そして、そのひびを見た時。


少しだけ、息がしやすかった。


あいつらが苦しんだ。


砂の喉に怯え、空洞に震え、白城の静けさに自分を失いかけた。


その悲鳴を見ている間だけ、俺の欠けた場所に、何かが埋まったような気がした。


錯覚だ。


戻ったわけじゃない。


玉ねぎの甘さも、血の味も、痛みも、何も戻っていない。


それでも、あいつらが苦しんでいる間だけ、俺は少し呼吸ができた。


最低だと思う。


それでも、否定できなかった。


誰かの悲鳴を聞いている間だけ、俺の欠けた場所に何かが戻ったような錯覚がある。


それは救いではない。


たぶん、依存に近い。


俺を見世物にしていた観客と、同じところまで降りてしまった感覚。


それでも、その熱を手放せなかった。



魔獣の最後の一体が跳んだ。


俺の身体は、白城のようには動かなかった。


無駄が多い。

遅い。

乱れている。


でも、その乱れごと動く。


右手で爪を受ける。

左足で踏み込む。

肩で押す。

壁に叩きつける。


魔獣が潰れる。


息が詰まった。


視界が揺れる。


遅れて、教師の結界が閉じた。


「黒瀬!」


篠田の声が近づく。


俺は膝をついた。


痛みはない。


だから、どこまで壊れたのか分からない。


篠田が俺の肩を掴む。


「おい、黒瀬! 聞こえてんのか!」


聞こえている。


だが、ログがまだ見える。


逆流テスト、強制終了

群衆側受容体、過負荷

一部観客、接続離脱

一部観客、嘔吐反応

一部観客、感情タグ混濁

一部観客、記憶領域への汚染疑い

観測損傷、軽度

娯楽性評価、二極化

継続希望多数

受容拒否多数

炎上中


炎上中。


その言葉に、少しだけ笑いそうになった。


燃やすと言った。


本当に燃えたらしい。


個別観測者の文字が、最後に浮かぶ。


記録した。

見る側を味わう側へ引きずり下ろす行為。

白城個体にはない出力。

非効率。

危険。

未知。


俺は、息を吐いた。


「ざまあみろ」


声は掠れていた。


篠田が顔を歪める。


「何笑ってんだよ、馬鹿野郎」


「笑ってない」


「笑ってんだよ。気持ち悪い」


その言葉は、いつもの悪態とは少し違った。


篠田の手は、俺の肩を掴んでいる。

強く。

離す気はないみたいに。


けれど、その指先がわずかに震えていた。


俺を支えているのに、俺から少しだけ逃げようとしている。


視線も、一瞬だけ逸れた。


見たくない。

でも放っておけない。


そんな顔だった。


「……マジで、気持ち悪いんだよ」


篠田の声が震えていた。


「お前が何かしたのは分かる。向こうが嫌がったのも、たぶん分かる。でもな」


篠田は、俺の肩を掴む手にさらに力を込めた。


「今のお前、助かった側の顔じゃねえ。勝った奴の顔でもねえ」


言葉を探すように、唇が歪む。


「もっと嫌なもんだ。自分を焼いて、相手も焼いて、それでやっと息してる奴の顔だ」


俺は答えられなかった。


篠田は、俺を支えたまま、目だけを逸らした。


「だから気持ち悪い。……でも、放っとけねえのが、もっと気持ち悪い」


小森も近くにいる。


泣きそうな顔をしている。


涙。


水分ではない。


涙だ。


俺はそれを、今度は最初から涙だと思えた。


ほんの少しだけ。


本当に、ほんの少しだけ。


「小森」


俺は言った。


「泣くな、とは言わない」


小森の顔がくしゃりと歪んだ。


「黒瀬くん……」


「ただ、離れてろ。たぶん、俺は今、だいぶ壊れてる」


篠田が怒鳴る。


「たぶんじゃねえよ!」


その声が、うるさい。


うるさいと感じる。


ありがたいとも、少しだけ思う。



医務室で、俺はベッドに座らされた。


右腕はまた悪化したらしい。


肋骨も一本、ひびが入っている可能性があると言われた。


痛みはない。


だが、今日はそのことに少しだけ苛立った。


痛ければ、どこが壊れたか分かるのに。


医務室の白い天井を見ていると、端末が震えた。


感覚逆流テスト結果。

成功。

ただし、対象個体の損耗甚大。

群衆側に不快情報を送達。

観測境界の一部損傷を確認。

次回以降、群衆側受容設定に警戒が必要。


続けて、観客ログが断片的に流れる。


まだ口の中が砂っぽい

カレー食えなくなった

白城ルート怖すぎ

こっちに流すな

でもまた見たい

あいつ本当にこっち来る気だ

見てるだけじゃ済まないって何

ふざけんな

もう一回

もう嫌だ

最高

最悪


最高。


最悪。


その二つが並んでいる。


俺は天井を見たまま、少しだけ息を吐いた。


取り返せてはいない。


玉ねぎの甘さは戻らない。

血の味も薄いままだ。

痛みも遠い。

共感も完全ではない。


おばちゃんの温かさも、胸に全部は溜まらない。


何も戻っていない。


でも。


今日、あいつらは味わった。


俺だけが食わされてきたものを、少しだけ。


それは勝利ではない。


傷をつけただけだ。


でも、その傷には名前をつけられる。


俺はベッドの横に置かれたメモ用紙を取った。


左手で、ゆっくり書く。


『見ているだけで済むと思うな。』


その下に、もう一行。


『次は、もっと深く。』


字は震えていた。


右腕は使えない。

左手も少し痺れている。


それでも、書いた。


観客が苦しんだ。


その事実を思い出した瞬間、胸の奥に、ひどく醜い熱が灯った。


救われたわけじゃない。

何も戻っていない。

玉ねぎの甘さも、血の味も、痛みも、全部欠けたままだ。


それでも。


あいつらが喉を押さえ、空洞に怯え、白城の静けさに自分を失いかけた。


それを思うと、少しだけ息がしやすかった。


最低だと思う。


それでも、否定できなかった。


誰かの悲鳴を聞いている間だけ、俺の欠けた場所に何かが戻ったような錯覚がある。


それは救いではない。


たぶん、依存に近い。


俺を見世物にしていた観客と、同じところまで降りてしまった感覚。


それでも、その熱を手放せなかった。


端末に、個別観測者の文字が浮かぶ。


君は、燃やすたびに失う。

次に何を燃やす。


俺は、しばらく黙った。


何を燃やす。


まだ分からない。


でも、ひとつだけ分かっている。


白城のようには捨てない。


捨てないまま進むなら、燃やすしかない。


そして燃やした灰を、観客席へ流し込む。


「決まってから言う」


俺は答えた。


「お前に先には教えない」


画面が一瞬だけ乱れた。


黒い表示面に、幾何学模様のようなノイズが走る。


直線。

円。

意味のない座標。

見たことのない文字列。


次の瞬間、俺の視界が白黒に反転した。


医務室の白い天井が黒く沈み、端末の黒が白く焼ける。


ほんの一秒にも満たない。


それでも、目の奥を針で撫でられたような気持ち悪さが残った。


逆流は、観客だけを焼いたわけじゃない。


俺の側にも、焦げ跡を残している。


画面に、個別観測者の文字が浮かんだ。


≪不快。≫


それは怒りではなかった。


感情ではない。


精密な観測機器に、想定外の汚泥を流し込まれた時のような、冷たい拒絶だった。


「知ってる」


俺は掠れた声で答えた。


「その不快さを、俺はずっと食わされてきた」


俺は目を閉じた。


眠気が来る。


痛みのない身体が、ようやく限界を認め始めている。


眠る直前、食堂のカレーを思い出した。


冷めていて。

脂が重くて。

不味くて。

喉に引っかかって。


それでも、飯だった。


今日、観客に流し込んだものの中で、一番強かったのは、たぶんあれだ。


俺はその不味さを抱えたまま、意識を落とした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「感覚逆流テスト」。

律は、これまで奪われてきた味・痛み・恐怖・共感の欠損を、観客側へ叩き返しました。


もちろん、何かを取り戻せたわけではありません。

玉ねぎの甘さも、血の味も、痛みも、完全には戻っていません。


ただ、観客は初めて「見る側」ではいられなくなりました。

律の日常の不快さ、欠損、冷めたカレー、白城の静けさまで、ほんの一部とはいえ味わわされたのです。


そして律自身も、もう完全な被害者ではいられません。

観客の悲鳴で少しだけ息がしやすくなるほど、彼もまた壊れ始めています。


次回は、逆流後の診断と、観客席の分裂へ進みます。


見る側でいられなくなった観客たち。

痛みがないせいで、自分の身体の崩壊に気づけない律。


第13話は、勝利の余韻ではなく、逆流の代償を突きつける回になります。

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