第8話 心の声がなくても、あなたに会いたい
黒い輪が外れるとき、カイは痛いとも、苦しいとも言わなかった。
ただ、左手を机へ置いて、指を開いていた。
押収された移送記録には、彼の覚えていた文字があった。
事件翌日。呼吸あり。体温あり。
それとは別に、前夜の死亡証明書。
同じ神官の署名が、両方へ入っていた。
ベラは、裁判所の解除印を輪へ重ねた。
「この記録に関する司法封を解きます。守秘対象の開示を、審察局の聴取に限り許可」
黒い線が薄れ、輪が二つに分かれた。
私は立ち上がりそうになって、座り直した。
邪魔をしたくなかった。
細い輪が、カイの手首へ残していた跡は、思ったより深かった。
「アルマ様の移送記録と死亡記録には、食い違いがありました」
彼が、口で言った。
ごく普通の一文。
それを言うまでに、私は処刑台へ立ち、彼は申立てを戻され、アルマは冷たい地下で眠っていた。
ベラの補佐官が、文字を残していく。
今度は、本人の言葉で。
聴取は昼を過ぎても終わらなかった。
カイが見た範囲。知らないこと。推測したこと。
大司教グレゴルの部下が、記録を分類し直した日。
私の名へ添えられた、叔父の証明書。
彼は一つずつ答えた。
途中で、私がそばにいていいのか確認もされた。
「彼女が聞いた心の言葉との照合が必要な箇所まで、同席を」
ベラが許可した。
私は、彼の代わりに答えなかった。
夕方、局を出た。
カイが、左手を袖へ隠した。
「もう、俺から聞き取る必要はない」
「……そうですね」
手が触れたときだけ、話せた秘密。
それがなくなった。
彼は、自由になったのだ。
私も、そうなることを望んでいた。
なのに、胸の奥が少し冷えた。
用事がなくなれば、この人は、私のそばからいなくなるのだろうか。
「宿まで送る」
「明日は?」
思ったより早く、言葉が出た。
カイが足を止めた。
「護衛は、局から別の者も出せる」
違う。
私が言いたいのは、そういうことではない。
「護衛の話じゃ、ありません」
私は、手袋を外さなかった。
彼の本心を先に調べてから、安心して言うこともしたくなかった。
「聞き取る必要がなくても、あなたに会いたいんです」
街の音が、遠くなる。
彼は、私を見た。
灰色の目は、いつもより落ち着いていなかった。
「俺は」
そこで、声が止まった。
黒い輪は、もうない。
でも、すぐ言えることばかりではないのだ。
彼は、自分の手袋を外した。
私へ差し出しかけ、途中で下ろした。
「いや。言う」
私は、待った。
「俺も、会いたい」
低い声。
処刑台で聞いた内側の声より、少し掠れていた。
私の指先が、熱くなった。
「明日は、昼なら空いている」
「私もです」
「橋ではなく、別の道を」
「はい」
カイは、手袋を持ち替えた。
歩き出す前に、もう一度、私を見た。
「仕事の報告だけで、終わらせないようにする」
私は、笑った。
「少しくらいなら、報告でもいいです」
「少しだけにする」
宿では、リナが手紙を握って待っていた。
叔父の筆跡だった。
『無事を喜んでいる。明日、家産の書類を返す。二人で話そう』
私は、手紙をベラ宛ての封筒へ入れた。
二人で、という言葉を、もう無条件には信じない。
カイが尋ねた。
「昼の約束は、変えるか」
「時間を、ずらしてください」
私は、顔を上げた。
「なくしたくは、ありません」
彼は、静かにうなずいた。




