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死神少女が命の源  作者: 和泉 きよ


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08.明日の授業を心配する教師

 朝、目が覚めた。


 最初に思ったのは、


 学校に行きたくない。


 だった。


 次に、


 シュークリーム。


 だった。


 冷蔵庫を開ける。


 二つある。


 一つは昨日の自分が食べるはずだったもの。


 もう一つは、今日の自分のためのもの。


 昨日の夜、そんなことを考えながら眠った。


 そして今朝。


 湊は、そのシュークリームを食べなかった。


「……朝からシュークリームは無理だな」


 冷蔵庫を閉める。


 昨日の自分が、少しだけ笑ったような気がした。


 学校へ行く。


 行きたくない。


 それでも行く。


 その二つが同時に存在することを、最近の湊は少しだけ許せるようになっていた。


 以前は違った。


 学校へ行きたくないと思ったら、


 「だから自分は駄目なんだ」


 と思った。


 生きたいと思えないなら、自分には何かが欠けている。


 頑張れないなら、弱い。


 笑えないなら、おかしい。


 そうやって、自分の中にいる自分を、さらに追い詰めていた。


 今は違う。


 嫌なら嫌でいい。


 怖ければ怖いままでいい。


 それでも、一日が始まる。


 それだけだった。


   ◇


 教室に入る。


 昨日と同じように、何人かが湊を見る。


 けれど今日は、何も言われなかった。


 それだけで少し安心した自分が、情けなく思えた。


 安心できるということは。


 また傷つくことを怖がっているということだから。


   ◇


 午前の授業。


 教師が黒板に問題を書いた。


 湊はノートを開いた。


 窓の外を見る。


 雲が流れている。


 どこへ行くのだろう。


 そんなことを考えていると、


「佐伯」


 教師に呼ばれた。


「はい」


「この問題、分かるか?」


「……たぶん」


「じゃあ解いてみろ」


 立ち上がる。


 黒板へ向かう。


 答えを書く。


 正解だった。


「よし」


 教師が言った。


 それだけ。


 湊は席に戻った。


 たったそれだけの出来事だった。


 でも。


 自分は今、ちゃんと授業を受けている。


 そう思った。


 以前なら、そんなことをいちいち考えなかった。


 生きていることは、当たり前だった。


 だから、何も感じなかった。


 失いかけて初めて、


 当たり前だったものが、全部少しずつ違って見える。


   ◇


 昼休み。


 スマートフォンを見る。


 何も通知はない。


 当たり前だ。


 友達から連絡が来るような人間ではない。


 それなのに、少しだけ残念だった。


 その感情に気づいて、


 湊は自分で驚いた。


 誰かと話したいと思っている。


 それは、ほんの少しだけれど。


 生きている人間らしい感情だった。


   ◇


 放課後。


 校門を出ると、ミコがいた。


「今日は早いですね」


「授業が終わったからな」


「では、行きましょう」


「今日はどこ?」


「学校です」


「……は?」


「この学校です」


 ミコが校舎を指差した。


「死者がいます」


 湊は眉をひそめた。


「この学校に?」


「はい」


「生徒?」


「先生です」


 湊は立ち止まった。


 学校の中へ戻る。


 廊下を歩く。


 生徒はほとんど帰っている。


 静かな校舎。


 昼間とは別の場所に見えた。


 職員室の奥。


 一つの教室に、男が座っていた。


 五十代くらい。


 白いシャツ。


 少し曲がった背中。


 教師らしい。


「こんにちは」


 ミコが声をかける。


 男は振り返った。


「おや」


 そして湊を見る。


「君も死神か?」


「違います」


「じゃあ、生徒か」


「はい」


「そうか」


 男は笑った。


「まだ帰ってなかったのか」


「先生こそ」


「私は、もう帰れないんだ」


 湊はその言葉を聞いて、胸が少し重くなった。


 教師は机の上のプリントを整理していた。


「何してるんですか?」


 湊が聞く。


「明日の授業の準備だよ」


「……明日?」


「ああ」


 教師は何の疑問も持たずに答えた。


「明日、一年生に小テストをするからな」


 湊は黙った。


 ミコを見る。


 ミコも黙っていた。


「先生」


「なんだ?」


「あなた……」


 湊は言葉を選んだ。


「自分が死んだこと、分かってます?」


 教師は少し考えた。


「そういえば、そうだったな」


 あっさりしていた。


「でも、明日の授業があるから」


「ありません」


 ミコが静かに言った。


 教師は笑った。


「そうだな」


 机の上のプリントを一枚取る。


「じゃあ、これもいらないか」


 その言い方が妙に寂しかった。


 湊はプリントを見た。


 問題が十問。


 その横に、小さな字で、


『ここは間違えやすいので注意』


 と書いてある。


「先生は……」


 湊は聞いた。


「学校が好きだったんですか?」


「嫌いだったよ」


「え?」


「毎日面倒だった」


 教師は笑った。


「朝は早いし、保護者から電話は来るし、生徒は言うことを聞かないしな」


「じゃあ、なんで?」


「なんで教師になったか?」


「はい」


 教師はしばらく考えた。


「分からない」


「分からない?」


「ああ」


 教師は窓の外を見た。


「人間は、理由があって何かを始めるとは限らんよ」


 湊は黙った。


「教師になった理由を聞かれて、立派なことを言ったこともある」


「……」


「子どもの未来を支えたいとか」


「……はい」


「教育で社会を変えたいとか」


「……」


「でも、本当は」


 教師は少し笑った。


「数学が好きだったからだ」


 湊は思わず笑った。


「それだけ?」


「それだけだ」


「なんか、普通ですね」


「人生なんて、だいたいそんなものだ」


 教師は机のプリントを見た。


「明日の授業を楽しみにしていたわけじゃない」


「じゃあ?」


「毎日、明日があると思っていた」


 その言葉に、湊は何も返せなかった。


「明日が来るから、準備する」


「……」


「別に希望があったわけじゃない」


「……」


「ただ、明日も自分がいると思っていたからな」


 静かな教室。


 時計の音。


 窓の外を通る車の音。


 湊は思った。


 明日というのは。


 希望ではないのかもしれない。


 少なくとも、いつも希望である必要はない。


 嫌な明日もある。


 怖い明日もある。


 何もしたくない明日もある。


 それでも。


 人間は明日のためにプリントを作る。


 弁当を作る。


 洗濯をする。


 宿題をする。


 コンビニでプリンやシュークリームを買う。


 そういう、どうでもいいことを積み重ねる。


 その積み重ねが、いつの間にか人生と呼ばれている。


「先生」


 湊が言った。


「明日の授業、誰かが代わりにやってくれますよ」


「そうか」


「だから、もう準備しなくていいです」


「……そうだな」


 教師はプリントを机に置いた。


「じゃあ、行くか」


 ミコが頷く。


「はい」


 教師が立ち上がる。


 教室のドアへ向かう。


 その途中で、ふと振り返った。


「君」


「はい?」


「学校、嫌いか?」


 湊は答えに迷った。


「……嫌いです」


「そうか」


「でも」


「でも?」


「明日も来ます」


 教師は笑った。


「それなら十分だ」


 その瞬間。


 教師の姿が、ゆっくりと薄くなった。


 湊は目を逸らさなかった。


 怖くはなかった。


 悲しくもなかった。


 ただ、不思議だった。


 人は死んだあとも、


 明日の授業を心配する。


 死ぬまで続けていたことは、


 死んだからといって簡単には消えない。


 そして。


 生きている人間も同じなのだろう。


 嫌なことがあっても。


 怖いことがあっても。


 それまで続けてきた生活が、明日へ向かって勝手に足を動かす。


 それは希望とは違う。


 勇気とも違う。


 もっと小さくて。


 もっとくだらなくて。


 もっと頼りないもの。


 それは、習慣。


   ◇


 湊は校舎を出た。


 空は暗くなり始めていた。


「ミコ」


「はい」


「生きるってさ」


「はい」


「もしかしたら、そんなに立派なことじゃないのかもな」


 ミコは少し考えた。


「そうかもしれません」


「ただ、明日の授業を心配したり」


「はい」


「プリンやシュークリームを買ったり」


「はい」


「学校が嫌でも行ったり」


「はい」


「そういうのを続けてるだけなのかもしれない」


 ミコは笑った。


「私は、そのほうが好きです」


「何が?」


「立派じゃない生き方のほうが」


 湊は空を見上げた。


 明日が来る。


 それは、嬉しいこととは限らない。


 また嫌なことが起きるかもしれない。


 傷つくかもしれない。


 逃げたくなるかもしれない。


 それでも。


 明日が来る。


 そして自分も、そこにいる。


 それだけのことが。


 今は、少しだけ悪くないと思えた。


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