07.シュークリームを残した老人
死神の仕事には、決まりがある。
死んだ人間を見つける。
名前を確認する。
未練があれば聞く。
そして、最後に連れていく。
ただ、それだけ。
ミコはそう説明した。
「簡単だろ?」
湊が言うと、
「簡単です」
ミコは答えた。
「でも、難しいです」
「どっちだよ」
「仕事は簡単です。人間が難しいです」
その言葉は、妙に納得できた。
死神事務局を出ると、二人は見慣れない商店街にいた。
昼間なのに、人通りは少ない。
シャッターの閉まった店。
色あせた看板。
自動販売機の横に置かれた植木鉢。
湊は辺りを見回した。
「ここに死者がいるの?」
「はい」
「どこ?」
「あそこです」
ミコが指差した。
古い喫茶店だった。
窓際の席に、一人の老人が座っている。
湊は眉をひそめた。
「……普通に生きてるように見える」
「死者は、だいたい普通です」
「だいたい?」
「死んだ直後は、自分が死んだことに気づかない人もいます」
「じゃあ、あの人も?」
「はい」
二人で喫茶店に入る。
老人は、コーヒーを飲んでいた。
その隣には、小さな紙袋。
ミコが老人に声をかけた。
「こんにちは」
老人は顔を上げた。
「ああ」
湊には、その声が少しだけ寂しく聞こえた。
「何か待っているんですか?」
ミコが尋ねる。
老人は笑った。
「妻だよ」
「奥さんは?」
「買い物に行った」
「いつ帰ってきますか?」
「……さあな」
老人は窓の外を見た。
「もう長いこと待ってるんだ」
湊は何も言えなかった。
老人の前には、シュークリームが二つ置かれていた。
見覚えのある容器だった。
コンビニで売っているものと同じ。
「好きなんだよ」
老人は言った。
「妻がな」
その言葉のあと、老人は少し笑った。
「俺は甘いものが苦手だったんだけどな」
「じゃあ、どうして二つ?」
「妻が二つ食べるから」
湊は胸の奥が、少し痛くなった。
人は死んでも、こんなことを覚えている。
何十年も一緒にいた相手の好物。
買い物の癖。
食べる順番。
そういう小さなこと。
大切なことなのかもしれない。
でも。
湊はふと思った。
それは本当に「未練」なのだろうか。
「奥さんに、伝えたいことはありますか?」
ミコが尋ねた。
老人は考え込んだ。
「そうだな……」
長い沈黙。
そして、
「シュークリーム、食べていいぞって」
湊は目を瞬いた。
「それだけ?」
「ああ」
「他には?」
「ないな」
「でも……」
湊は言いかけた。
もっと大切なことがあるんじゃないか。
ありがとうとか。
愛しているとか。
幸せだったとか。
そういう、最後にふさわしい言葉が。
老人は湊を見る。
「君は、何か言いたそうだね」
「……別に」
「人間は、最後になると立派な言葉を探したがる」
「え?」
「でもな」
老人はシュークリームを見た。
「長く一緒にいた相手ほど、そんなものはいらないんだよ」
湊は黙った。
「いつも言ってたからな」
「何を?」
「シュークリーム、食べすぎるなって」
老人が笑う。
「だから最後も、それでいい」
ミコが静かに頷いた。
「では、行きましょうか」
老人は立ち上がった。
紙袋を持ったまま。
「これは?」
「持っていけません」
「そうか」
老人は少し残念そうにした。
そしてシュークリームを一つだけ手に取る。
「じゃあ、これだけ食べていく」
「食べられるんですか?」
湊が聞くと、
「死んでるのに腹が減ると思うか?」
老人は笑った。
「……分からない」
「俺も分からん」
老人はシュークリームを見つめた。
一口食べる。
そして、
「やっぱり甘いな」
そう言った。
それが、老人の最後の言葉だった。
ミコが鎌を持つ。
空気が静かになる。
老人は湊を見る。
「君も、シュークリームは好きか?」
「……まあ」
「じゃあ、君も食べな」
湊は返事をしなかった。
できなかった。
老人の姿が少しずつ薄くなる。
紙袋だけが、椅子の上に残った。
やがて老人も消えた。
喫茶店には、静かな音楽だけが流れていた。
湊はしばらく動けなかった。
「ミコ」
「はい」
「俺、死者の未練って、もっとすごいものだと思ってた」
「すごい?」
「家族に伝えたいこととか、後悔とか、夢とか」
「そういう人もいます」
「でも、シュークリームなんだな」
「はい」
「……くだらないな」
ミコは少し考えた。
「そうですね」
「否定しないんだ」
「でも」
ミコは椅子の上に残った紙袋を見た。
「くだらないことって、生きているときは、案外大切ですよ」
湊は何も言わなかった。
◇
帰り道。
商店街のコンビニに入った。
冷蔵棚を見る。
シュークリームが並んでいる。
湊は一つ取った。
そして、戻す。
もう一つ取った。
「どうしたんですか?」
「二つ買おうと思って」
「二つ?」
「うん」
「誰かと食べるんですか?」
「違う」
湊は少し笑った。
「今日の俺と、明日の俺」
ミコは黙っていた。
湊はレジへ向かった。
その背中を見ながら、ミコが小さく呟いた。
「……いいですね」
「何が?」
「生きている人は、明日の自分に何かを残せる」
湊は振り返った。
「死神にはできないの?」
「できません」
「じゃあ、シュークリーム買ってやろうか?」
ミコは少し驚いた。
「……いいんですか?」
「別に」
「でも、私は死神ですよ」
「知ってる」
「死者ですらありません」
「それも知ってる」
「では、なぜ?」
湊は少し考えた。
理由なんて、なかった。
ただ。
昨日、自分を助けた少女にシュークリームを一つ渡してみたかった。
それだけだった。
「……なんとなく」
そう答えると、ミコは初めて、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て。
湊も笑った。
人生には、意味のあることだけをしなければならないと思っていた。
生きる理由がないなら、生きていてはいけないと思っていた。
けれど。
シュークリームを買う。
誰かに渡す。
少し笑う。
明日の自分のために、一つ残す。
そんなことには、何の意味もない。
だからこそ。
生きている人間は、そんなくだらないことをするのかもしれない。
その日の夜。
湊は冷蔵庫を開けた。
二つのシュークリームが並んでいた。
一つは今日の自分。
もう一つは明日の自分。
そして。
もう一つだけ。
ミコの分が、冷蔵庫の隅に入っていた。
湊はそれを見て、
「……死神って、シュークリーム食べられるのかな」
と呟いた。
返事はなかった。
けれど、なぜか。
明日が少しだけ楽しみだった。




