05.生きている人間は、死んでくれない
翌朝、湊は学校へ行った。
二日ぶりだった。
玄関を出た瞬間、足が重くなった。
昨日までは家にいた。
プリンを食べて、ミコと死者を見送って、それで一日が終わった。
あの世界では、人が死ぬ。
けれど、誰も湊を笑わなかった。
誰も机を蹴らなかった。
誰も湊の名前を呼んで、面白がったりしなかった。
死んだ人間は、少なくとも湊を傷つけることはない。
そんなことを考えている自分に、少し笑ってしまった。
死んだ人間より、生きている人間のほうが怖い。
昨日までなら、それを当然だと思っていた。
今日は、その言葉の意味が少し違っていた。
◇
駅へ向かう。
制服を着た高校生が歩いている。
笑い声。
自転車のベル。
信号機の音。
コンビニの前に置かれた新商品の旗。
全部が昨日と同じだった。
世界は、誰かが死んでも変わらない。
それが少し不思議だった。
昨日、病院で一人の男が死んだ。
その人には妻がいた。
娘がいた。
明日の誕生日があった。
それなのに、今朝も駅は普通に動いている。
電車は来る。
人は乗る。
会社へ行く。
学校へ行く。
コンビニでは弁当が売られる。
世界は誰かの悲しみに付き合ってくれない。
それは冷たいことなのかもしれない。
でも、もしかすると。
それが世界というものなのかもしれなかった。
教室に入る。
何人かが湊を見た。
一瞬だけ。
それから目を逸らした。
それだけで、胃のあたりが縮む。
自分でも嫌になる。
何もされていないのに怖い。
まだ何も言われていないのに、言葉が聞こえる気がする。
席に座る。
机を見る。
昨日までと同じ傷。
その傷を指でなぞった。
すると、
「おい」
後ろから声がした。
湊の体が固まった。
「二日も休んで何してたんだよ」
振り返らなかった。
「無視?」
笑い声。
数人が笑った。
湊は机を見たまま、何も言わなかった。
心臓が速くなる。
手が冷たくなる。
頭の中に、老人が浮かんだ。
プリンを二つ買った老人。
明日の話をしなかった老人。
そして昨日の男。
京の娘の誕生日を待っていた妻。
湊は思った。
自分は今、生きている。
だから怖い。
生きているから、傷つく。
生きているから、誰かに笑われる。
生きているから、誰かを好きになったり、嫌いになったりする。
生きているから、明日が来る。
そして、
明日が来るということは、
今日より苦しい日が来る可能性もあるということだ。
「何ぼーっとしてんの?」
肩を押された。
湊の体が少し揺れた。
笑い声。
その瞬間。
「やめて」
声がした。
教室の入り口だった。
女子生徒が立っていた。
湊は知らない顔だった。
クラスメイトらしい。
「先生来るよ」
男子たちは舌打ちした。
「別に何もしてねーし」
そう言って席へ戻っていった。
女子も自分の席に戻った。
湊は何も言えなかった。
助けてくれた。
たった一言だった。
それなのに、胸の奥が熱くなった。
ありがとう。
その言葉が出てこなかった。
口を開けば、何かが崩れそうだった。
だから何も言わなかった。
◇
昼休み。
湊は一人で弁当を食べた。
教室の隅。
誰とも話さない。
でも、昨日までとは少し違っていた。
世界には、全員が敵というわけではない。
そのことを知ってしまった。
それは嬉しいことのはずなのに、同時に少し怖かった。
期待できてしまうからだ。
人間に期待すると、失望する。
湊はそれを知っている。
だから期待しないほうがいい。
そのほうが傷つかない。
◇
放課後。
校門を出たところで、ミコが待っていた。
「お疲れさまです」
「……どこから見てた?」
「最初から」
「最初から?」
「はい」
「じゃあ、なんで助けなかったんだよ」
少し強い声になった。
ミコは黙った。
「死神なんだろ」
「はい」
「人を助けることができるんだろ」
「……はい」
「じゃあ、俺を助けろよ」
ミコは悲しそうな顔をした。
「私には、人間の人生を代わりに生きることはできません」
「そんなの分かってる」
「では、何を助ければいいですか?」
「……」
湊は答えられなかった。
ミコは続けた。
「昨日の人も、今日のあなたも、私が助けることはできません」
「……」
「そして、生きている人が誰かを傷つけることまでは、止められません」
湊は黙っていた。
それは当たり前のことだった。
死神は死者を送る。
生者の世界は、死神の仕事ではない。
だからミコには何もできない。
そう思った。
けれど。
「じゃあ、死神って無力なんだな」
湊が言った。
ミコは少し考えた。
「そうかもしれません」
意外な答えだった。
「でも」
ミコは湊を見る。
「人間も、たぶん同じです」
「え?」
「誰かを完全に救うことはできない」
「……」
「だから、できることだけするんじゃないでしょうか」
湊は何も言わなかった。
今日、自分を止めた女子生徒。
たった一言。
それだけだった。
でも、その一言がなければ、自分はもっと傷ついていたかもしれない。
人間は無力だ。
死神も無力だ。
それでも。
完全に何もできないわけではない。
湊は空を見上げた。
夕方の空は、昨日と同じように青くはなかった。
赤かった。
少し紫がかっていた。
「ミコ」
「はい」
「俺、明日も学校行く」
「そうですか」
「嫌だけど」
「はい」
「怖いけど」
「はい」
「それでも行く」
ミコは笑った。
「それなら、明日の仕事もできますね」
「学校と死神の仕事を同列にするなよ」
「でも、どちらも大切です」
「何が?」
「明日が来ることが」
湊は少しだけ黙った。
それから、
「……そうだな」
と答えた。
◇
家に帰る途中、コンビニに寄った。
プリンが二つ残っていた。
湊は二つとも買った。
「また二個ですか?」
ミコが聞く。
「うん」
「誰かと食べるんですか?」
「違う」
「では、なぜ?」
湊は少し考えてから言った。
「明日も生きてる自分の分」
ミコは笑った。
湊も笑った。
その夜。
湊は机の上にプリンを一つ置いた。
冷蔵庫には、もう一つある。
明日の自分のために。
そんなことをする意味があるのかは、まだ分からなかった。
けれど。
意味が分からないまま何かをすることも、
生きるということなのかもしれなかった。




