03.死んだ人間は、明日の話をしない
翌朝、湊は学校を休んだ。
理由は特になかった。
行きたくなかったから行かなかった。
それだけだった。
母親には、
「体調が悪い」
とだけ伝えた。
嘘ではない。
体調というものに心まで含めていいのなら、確かに悪かった。
朝食のパンを半分だけ食べて、自分の部屋に戻る。
ベッドに横になった。
学校を休んだという事実に、少しだけ罪悪感があった。
けれど、それ以上に安心していた。
窓の外では、同じ制服を着た生徒たちが駅へ向かっている。
自分だけが、その流れから外れている。
そのことが妙に心地よかった。
「サボりですね」
突然、ベッドの横から声がした。
湊は飛び起きた。
「……お前、どこから入った?」
「窓です」
「二階だぞ」
「死神なので」
「またそれか」
ミコは窓際に立っていた。
昨日と同じ黒い服。
昨日と同じ鎌。
そして昨日と同じ、少し眠そうな顔。
「学校は?」
「休んだ」
「なぜですか?」
「行きたくなかったから」
「なるほど」
ミコは頷いた。
「では仕事に行きましょう」
「なんでそうなる」
「今日は仕事があります」
「俺は高校生だぞ」
「知っています」
「学校は?」
「休んだんですよね?」
「……」
正論だった。
正論というものは、ときどき腹が立つ。
「死神の仕事って、何するんだよ」
「死んだ人を送ります」
「それは昨日聞いた」
「今日は実際にやります」
ミコは嬉しそうに言った。
まるで遠足にでも行くような顔だった。
「死んだ人って、どこにいるんだ?」
「ここです」
「ここ?」
「この部屋ではありません」
「じゃあ?」
「少しだけ、世界の外側です」
「意味が分からない」
「私も完全には分かっていません」
湊はため息をついた。
死神というものは、どうやら説明が苦手らしい。
ミコが手を伸ばした。
「触ってください」
「嫌だ」
「仕事です」
「手をつなぐ必要あるのか?」
「あります」
「なんで?」
「迷子になるので」
「死神なのに?」
「死神だからです」
「……便利だな、それ」
ミコは湊の手を握った。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
音が消えた。
風の音も。
時計の針の音も。
遠くを走る車の音も。
全部が一度に消えた。
湊は思わず息を止めた。
次に目を開けたとき、そこは知らない場所だった。
駅前。
人がたくさんいる。
なのに、誰もこちらを見ていない。
信号が青になった。
人々が歩き出す。
湊の肩を誰かが通り抜けた。
「……え?」
振り返る。
誰もいない。
ミコが説明した。
「ここは、生きている人と死んだ人の境目です」
「境目?」
「はい」
「じゃあ、あの人たちは?」
湊が指差した。
駅前のベンチに、一人の老人が座っていた。
灰色のコート。
白い髪。
膝の上には小さな紙袋。
老人は、ずっと駅の時計を見ていた。
「死んでいます」
ミコが言った。
湊は老人を見た。
「……普通に見えるけど」
「死んだ人は、見た目が変わるわけではありません」
「じゃあ、どうやって分かる?」
「明日の話をしないんです」
「……」
その言葉が、妙に胸に残った。
老人は時計を見た。
そして、小さく呟いた。
「三時か」
湊には聞こえた。
「そろそろ来るはずなんだけどな」
「誰が?」
思わず聞いていた。
老人はこちらを見た。
湊と目が合った。
「おや」
老人が笑った。
「君には見えるのか」
湊は返事ができなかった。
ミコが一歩前へ出る。
「お迎えに来ました」
「そうか」
老人は驚かなかった。
むしろ安心したように笑った。
「じゃあ、行くか」
老人が立ち上がる。
紙袋を持つ手が少し震えていた。
湊はその紙袋を見た。
「それ、何?」
「プリンだよ」
「プリン?」
「ああ」
老人は紙袋を少し持ち上げた。
「妻が好きだったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、湊は黙った。
妻。
その言葉だけで、老人の表情が少し変わった。
悲しいのか。
嬉しいのか。
湊には分からなかった。
「死んでから買ったんですか?」
「そうだよ」
「……なんで?」
老人は笑った。
「最後まで買い忘れていたことを思い出したから」
「死んでから?」
「そう」
湊には理解できなかった。
死んでしまったあとに、そんなことを気にする意味があるのだろうか。
「食べられないのに」
「そうだな」
「じゃあ、なんで?」
老人は少し考えた。
「食べるために買ったんじゃないからだろうな」
湊は黙った。
老人は紙袋を見つめた。
「昔、妻がよく言っていたんだ。プリンは二個買ってこいって」
「二個?」
「自分の分と、私の分」
「じゃあ、一人になってからは?」
「一個」
老人は笑った。
「でも、今日は二個買った」
湊は、その言葉を聞いて胸の奥が変なふうに痛くなった。
どうしてだろう。
たかがプリンだ。
コンビニで売っている、どこにでもあるプリン。
それなのに、その二個が老人にとってどんな意味を持つのか、少しだけ分かった気がした。
「……奥さんに会えるの?」
湊が聞くと、老人は首を横に振った。
「分からない」
「じゃあ、渡せないかもしれないのに?」
「そうだな」
「それでも持っていくの?」
「うん」
老人は笑った。
「持っていけないかもしれないから、持っていくんだよ」
意味が分からなかった。
でも、その言葉を否定することもできなかった。
ミコが老人の前に立つ。
「そろそろ時間です」
「ああ」
老人は紙袋を抱え直した。
そして湊を見る。
「君も、何か持っていくといい」
「俺?」
「そう」
「何を?」
老人は少し考えてから、
「まだ分からないなら、分からないままでいい」
と言った。
「死ぬときに分かるから」
湊は、その言葉を聞いて何も言えなくなった。
老人はミコと並んで歩き出した。
少しずつ姿が薄くなる。
その背中を見ながら、湊は思った。
死ぬということは、
全部を失うことだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
死ぬとき、人は最後まで何かを持っている。
プリンだったり。
誰かの名前だったり。
言えなかった言葉だったり。
くだらない後悔だったり。
そんなものを抱えたまま、死んでいく。
だったら。
自分は何を持っているのだろう。
「湊」
ミコが呼んだ。
「何?」
「帰りますよ」
「……うん」
二人は歩き出した。
帰り道、湊は駅前のコンビニを見た。
ガラス越しに、プリンが並んでいる。
湊は立ち止まった。
「どうしました?」
「……いや」
財布を取り出した。
「プリン、買う」
「食べるんですか?」
「うん」
「二個?」
湊は少し考えた。
「一個」
「どうして?」
「俺、一人だから」
そう言ったあと。
なぜか少し寂しくなった。
そして、その寂しさが嫌ではなかった。
寂しいと思えるということは、
まだ何かを欲しがっているということなのかもしれない。
湊はプリンを一つ買った。
家に帰って食べた。
特別おいしくはなかった。
コンビニのプリンだった。
けれど。
その日、湊は初めて、
「明日も食べてもいいかもしれない」
と思った。




