24.今日も誰かが死ぬ
放課後。
教室の時計が、五時を指した。
窓の外は、もう少しだけ夕方になっていた。
湊は机の上に教科書をしまいながら、今日一日を思い返していた。
何も起こらなかった。
少なくとも、大きなことは。
朝、教室に入った。
何人かと目が合った。
そのうちの一人は、何も言わなかった。
別の一人は、少し笑った。
それだけだった。
先生は、昨日話したことについて、必要以上に触れなかった。
けれど、帰り際に、
「今日はどうだった?」
と聞いてくれた。
湊は、
「……昨日よりは、大丈夫でした」
と答えた。
先生は、
「そうか」
と言った。
それ以上、何も言わなかった。
そのことが、ありがたかった。
大丈夫ではない。
でも。
昨日よりは大丈夫。
そのくらいの言葉でもいいのだと思えた。
教室を出ると、廊下の窓際にミコが立っていた。
「終わりましたか?」
「うん」
「では、行きましょう」
「死者を迎えに?」
「はい」
ミコはいつもの調子だった。
湊は、少しだけ嫌な予感がした。
「……誰?」
「分かりません」
「分からないって」
「会ってみないと分かりません」
「そういうものなの?」
「死神なので」
「その答え、便利すぎない?」
ミコは真顔だった。
二人は学校を出た。
今日の仕事は、駅から少し離れた住宅街だった。
古い家が並んでいる。
小さな公園があり、その隣に一軒の家があった。
ミコが足を止めた。
「ここです」
湊は家を見上げた。
特別な家ではなかった。
洗濯物が干してある。
玄関の横に自転車がある。
窓にはカーテンがかかっている。
どこにでもある家だった。
「……この中?」
「はい」
それ以上は言わなかった。
ミコが玄関へ向かう。
湊も続いた。
中へ入ると、静かだった。
静かすぎる、というほどではない。
テレビの音が聞こえる。
台所から、水の流れる音もする。
人の気配がある。
だからこそ。
湊には、その家が普通の家に見えた。
そして、その普通さが少し怖かった。
死ぬということは。
もっと特別な場所で起こることだと思っていた。
病院。
事故。
大きな事件。
そういう、自分の日常から遠いところで起こるものだと思っていた。
けれど。
ここにもある。
普通の家。
普通の台所。
普通のテレビ。
普通の夕方。
その中に、死がある。
「……あの人です」
ミコが指さした。
居間に、男性が座っていた。
四十代くらいだろうか。
ソファに座って、テレビを見ている。
その横には、湯気の消えたコーヒーがあった。
男は二人を見ると、
「ああ」
と言った。
驚かなかった。
死んだ人は、死神を見ることができる。
もう、湊も慣れてきていた。
「迎えに来たのか」
「はい」
ミコが答えた。
男はテレビを消した。
そして、しばらく黙っていた。
「……まだ、行きたくないな」
湊は、その言葉を聞いて胸が詰まった。
以前なら。
死者は、もっと大きな未練を抱えていると思っていた。
家族に伝えたいこと。
叶えたかった夢。
やり残したこと。
けれど。
この人が口にしたのは。
行きたくない。
それだけだった。
「何か、やり残したことがあるんですか?」
湊が聞いた。
男は少し考えた。
「いや」
「じゃあ……」
「ただ」
男は窓の外を見た。
「今日、晩飯カレーだったんだよ」
湊は黙った。
「朝、妻が言ってたんだ。今日はカレーにするって」
男は少し笑った。
「だから、食べてからでいいと思ってた」
「……カレー」
「そう。カレー」
それだけだった。
夢でも。
使命でも。
大きな後悔でもない。
カレー。
それが今日、この人が行きたくない理由だった。
湊は、そのことがおかしくて。
でも、笑えなかった。
ミコが男に聞いた。
「食べたいですか?」
「そりゃ食べたいよ」
「では、食べてからにしますか?」
男は首を振った。
「いや」
「なぜですか?」
「もう、食べられないから」
男は穏やかに言った。
「そういうもんなんだろ」
その言葉が。
湊には妙に残った。
食べたい。
でも、食べられない。
行きたくない。
でも、行かなければならない。
人は。
いつだって、自分の望み通りにはならない。
湊はそのことを、以前なら残酷だと思っただろう。
でも今は。
少しだけ違って見えた。
男が立ち上がる。
「じゃあ、行くか」
ミコが頷いた。
湊も歩き出す。
玄関へ向かう途中。
台所から、カレーの匂いがした。
まだ作っている途中なのかもしれない。
スパイスの匂い。
玉ねぎの甘い匂い。
ご飯の匂い。
湊は思った。
人が死ぬ日にも。
誰かはカレーを作る。
誰かはテレビを見る。
誰かは宿題をする。
誰かはコンビニでプリンを買う。
そして。
誰かは明日の予定を考えている。
世界は。
誰か一人がいなくなったからといって、止まらない。
それは冷たいことなのだろうか。
それとも。
生きているということなのだろうか。
外へ出ると、夕方の風が吹いた。
男は振り返った。
「……あの」
「はい」
ミコが振り返る。
「妻に伝えてもらえないかな」
「何をですか?」
「カレー、食べたかったって」
ミコは少し考えた。
「分かりました」
男は笑った。
「ありがとう」
それから。
男はミコの隣を歩き始めた。
湊は少し離れて、その後ろを歩いた。
やがて。
男の姿が、夕暮れの中に溶けていく。
最後まで。
大きな言葉はなかった。
ただ。
カレーの話をした。
湊はそれでいいような気がした。
駅へ向かう道を歩く。
しばらくして、ミコが言った。
「今日は、どうでしたか?」
「……分からない」
「そうですか」
「でも」
湊は空を見た。
「死ぬって、もっと特別なことだと思ってた」
ミコは黙っている。
「でも、今日の人も普通だった」
「はい」
「カレーを食べたかっただけだった」
「はい」
「……なんか、変だな」
「何がですか?」
湊は考えた。
「人って、生きているときは、死ぬことなんて考えないで生活してるのに」
「はい」
「死んだあとも、最後まで考えてるのは、案外どうでもいいことなんだなって」
ミコは少し考えた。
「どうでもいいことではないと思います」
「え?」
「カレーを食べたいと思えることは、その人にとって大事だったのではないでしょうか」
湊は黙った。
確かに。
人生にとって大切なことと。
その人にとって大切なことは。
同じではない。
世界から見れば小さなことでも。
本人にとっては、今日を今日にするものだったりする。
「……そうかもな」
湊は言った。
そのとき。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
母親からだった。
『夕飯、何がいい?』
湊は画面を見た。
少しだけ考える。
以前なら。
何でもいい。
そう答えていた。
でも。
今日は違った。
『カレー』
そう送った。
送信したあと。
自分でも少し笑った。
隣からミコが覗き込む。
「カレーですか?」
「うん」
「今日の人の影響ですか?」
「……たぶん」
「では、私も食べます」
「死神は食べられないだろ」
「雰囲気だけでも」
「なんだよ、それ」
二人で歩いた。
夕方の道を。
今日も。
誰かが死んだ。
それは悲しいことだった。
でも。
その悲しさの隣で。
誰かが夕飯を作っている。
誰かが家に帰っている。
誰かが明日の予定を決めている。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
そして。
湊もその中にいる。
少し前まで。
そのことが怖かった。
世界に自分が取り残されているように思っていた。
けれど今は。
世界が自分を待ってくれるわけではないからこそ。
自分から、その中へ戻っていってもいいのだと思えた。
今日も誰かが死ぬ。
だからといって。
今日も誰かが生きている。
その二つは。
矛盾しない。
湊は歩きながら思った。
明日は。
何を食べよう。
まだ決めていない。
決めていないけれど。
明日になれば。
また決めればいい。
それだけで。
今は十分だった。




