20.再び向けられる悪意
「……助けて」
その声が聞こえた。
湊は足を止めた。
夕暮れの道路。
人通りは少ない。
ミコが隣で、じっと前を見ている。
「今の……」
「はい」
「死者?」
「分かりません」
「分からないの?」
「聞こえたのは、私たちだけではないと思います」
湊は周囲を見た。
誰もいない。
ただ、少し先の路地から声がした。
「助けて」
今度は、はっきり聞こえた。
湊の背中に冷たいものが走った。
けれど。
ミコは走り出さなかった。
ただ、静かに歩き始めた。
湊もついていく。
路地を曲がる。
そこにいたのは、一人の少女だった。
制服姿。
湊と同じくらいの年齢に見える。
ただし。
彼女は生きている人間ではなかった。
そのことは、なんとなく分かった。
少女は道端に立ったまま、何かを探している。
「何を探しているんですか?」
ミコが聞いた。
少女は顔を上げた。
「……分からない」
「名前は?」
「分からない」
「死んだことは分かりますか?」
少女は少し考えてから頷いた。
「うん」
湊は黙っていた。
少女は、しばらく地面を見つめていた。
そして言った。
「私、最後に誰かに助けてって言った気がする」
「誰に?」
「分からない」
「何を助けてほしかったんですか?」
「それも……分からない」
ミコは困った顔をした。
湊は少女を見ながら考えていた。
助けて。
その言葉は、とても短い。
けれど。
その中には、いろいろな意味が入る。
危ないから助けて。
寂しいから助けて。
怖いから助けて。
どうすればいいか分からないから助けて。
自分一人では抱えられないから助けて。
同じ言葉でも、意味は違う。
「……助けてって言えるなら」
湊は口を開いた。
「まだ、誰かに頼りたいってことなのかな」
少女は湊を見た。
「そうなのかな」
「分からないけど」
湊は言った。
「僕も、最近そう思うようになった」
少女は少し笑った。
「変なの」
「よく言われる」
ミコが横から言った。
「私は言っていません」
「心の中では言ってそう」
「否定はしません」
「するんだ」
三人の間に、ほんの少しだけ笑いが生まれた。
少女はその笑顔のまま、静かに消えていった。
ミコが小さく息を吐く。
「行きましょう」
「うん」
歩きながら。
湊は何度も振り返った。
そこにはもう誰もいなかった。
◇
翌朝。
教室に入った瞬間。
空気が違うことに気づいた。
何かがおかしい。
視線が集まっている。
ひそひそと話す声。
湊が席に座る。
隣の席の男子が、スマートフォンを見ながら笑った。
「佐伯、お前これ知ってる?」
「……何?」
画面を見せられる。
そこには、湊についての書き込みがあった。
名前は伏せられている。
けれど。
読めば自分のことだと分かる。
学校での失敗。
以前のこと。
誰にも知られたくなかったこと。
それを面白がるような言葉。
湊は画面を見つめた。
頭の中が、一瞬だけ真っ白になった。
「……誰が書いたの?」
「さあ?」
笑い声。
「有名人じゃん」
別の誰かが言った。
湊は何も答えなかった。
スマートフォンの画面から目を逸らす。
教室のざわめきが、遠くなっていく。
心臓の音だけが大きく聞こえる。
手が冷たい。
呼吸が浅くなる。
嫌だ。
その感覚を知っている。
この場所にいるだけで。
自分という存在が、誰かの暇つぶしにされる。
昨日まで。
学校は世界の全部ではないと思っていた。
今も、頭では分かっている。
ここは小さな社会だ。
外にはもっと大きな世界がある。
相談できる先生もいる。
家族もいる。
ミコもいる。
逃げてもいい。
場所を変えてもいい。
それでも。
痛いものは痛かった。
「……っ」
湊は机の下で手を握った。
理屈では、心は守れない。
「学校が世界の全部じゃない」
そう理解したところで。
今、この教室にいる自分が苦しいことは変わらない。
人間の心は。
そんなに都合よくできていない。
◇
昼休み。
湊は一人で廊下にいた。
教室にいるのが嫌だった。
窓の外を見る。
校庭では、何人かの生徒が走っている。
笑い声が聞こえる。
普通の昼休み。
自分だけが、そこから少し外れているような気がした。
「……大丈夫」
自分に言った。
「大丈夫」
もう一度言う。
けれど。
大丈夫という言葉は、言えば言うほど遠くなる。
本当は大丈夫ではない。
怖い。
腹が立つ。
悔しい。
悲しい。
恥ずかしい。
全部混ざっている。
そして。
そんな自分が嫌だった。
前より強くなったと思っていた。
死者の話を聞いた。
明日のことを考えられるようになった。
学校は人生の全部じゃないと分かった。
だから。
もう、こんなことで傷ついてはいけない。
そう思ってしまった。
けれど。
湊は気づいた。
それもまた、自分を追い詰める考え方なのだ。
「傷つかないこと」と「生きること」は違う。
強い人間になる必要なんてない。
傷ついたら。
傷ついたと言っていい。
怖かったら。
怖かったと言っていい。
助けてほしかったら。
助けてと言っていい。
それは敗北ではない。
むしろ。
一人では抱えきれないものを、一人で抱え続けないための言葉なのだ。
そのとき。
向こうから、ミコが歩いてきた。
「湊」
「……ミコ」
「顔色が悪いです」
「そう?」
「はい」
「ちょっと寝不足」
「嘘ですね」
湊は黙った。
ミコはそれ以上聞かなかった。
ただ、隣に立った。
それだけだった。
それが、ありがたかった。
「……昨日の子」
湊が言った。
「助けてって言ってたよね」
「はい」
「僕もさ」
湊は窓の外を見た。
「今、ちょっとだけ言いたい」
ミコは湊を見る。
「助けてって」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少し動いた。
「でも」
湊は続けた。
「まだ言えない」
「はい」
「怖い」
「はい」
「先生に言ったら、もっと大ごとになるかもしれない」
「はい」
「家族に知られたら、心配される」
「はい」
「誰かに相談したら、自分が弱いみたいに思われそう」
ミコは黙っていた。
そして。
「では、今日は言わなくてもいいです」
湊は驚いて振り向いた。
「え?」
「助けを求めることは、大事です」
ミコは言った。
「でも、今すぐできなければいけないわけではありません」
「……うん」
「言えるときに言えばいいと思います」
「死神なのに、ずいぶん人間っぽいこと言うな」
「勉強していますから」
「そっか」
湊は少しだけ笑った。
◇
放課後。
担任が教室に入ってきた。
「佐伯」
「はい」
「昨日、少し話したこと。覚えてるか?」
湊は頷いた。
「困っていることがあるなら、相談してくれって言っただろ」
「……はい」
先生は教室を見回した。
「今日、少し気になったことがあってな」
湊は黙った。
「話せる範囲でいい」
湊の喉が動く。
「……先生」
「ん?」
言葉が出ない。
「僕……」
そこまで言って、止まった。
言えない。
まだ怖い。
でも。
昨日までとは違った。
言えなかった自分を責める必要はない。
今日言えなかった。
それだけだ。
明日言えるかもしれない。
誰かに相談する方法だって、一つではない。
直接話す。
紙に書く。
家で話す。
別の先生に話す。
学校以外の大人に相談する。
選択肢はある。
それに気づけたこと自体が、以前とは違っていた。
「……少し、考えてからでもいいですか」
先生は頷いた。
「ああ」
「すみません」
「謝らなくていい」
先生はそう言った。
「考える時間も必要だからな」
その言葉に、湊は少しだけ救われた。
◇
帰り道。
空は曇っていた。
ミコが隣を歩いている。
「今日は、言えなかった」
湊が言った。
「はい」
「助けてって」
「はい」
「でも、明日は言えるかもしれない」
「はい」
「……なんでそんなに何でも『はい』なんだよ」
「湊が言ったことなので」
「それだけ?」
「それだけです」
湊は笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
昨日までなら。
今日みたいなことが起きたら、世界全体が嫌いになっていたかもしれない。
今も、嫌だ。
学校も。
あの書き込みも。
笑っていた人たちも。
全部、嫌だ。
けれど。
嫌なものがあることと。
世界の全部が嫌いになることは違う。
それだけは分かっていた。
「ミコ」
「はい」
「僕、強くなったのかな」
ミコは少し考えた。
「分かりません」
「またそれか」
「でも」
ミコは続けた。
「今日、怖いと言えました」
「……うん」
「それは、以前とは違います」
湊は前を向いた。
強くなったのかどうかは、分からない。
傷つかなくなったわけでもない。
怖くなくなったわけでもない。
ただ。
怖いままでも。
一歩だけ進める日がある。
それでいいのかもしれない。
湊は歩きながら思った。
人間は、強くなることで生き続けるのではない。
弱いままでも。
誰かに頼りながらでも。
立ち止まりながらでも。
時には逃げながらでも。
生き続けることはできる。
そのことを。
まだ完全には信じられない。
けれど。
少しずつなら、信じてみてもいい。
夕暮れの向こうに、明日がある。
その明日が怖いことも知っている。
それでも。
明日になったら。
今日とは違う方法を、一つ試してみよう。
湊はそう思った。
そして。
その小さな決意を、まだ誰にも言わなかった。
けれど。
心の中では。
もう一度だけ。
あの言葉を繰り返していた。
――助けて。
今度は。
誰かに届く言葉として。




