19.学校という小さな世界
学校という場所は、不思議だった。
朝、家を出る。
決められた道を歩く。
決められた時間までに教室へ入る。
決められた席に座る。
決められた授業を受ける。
チャイムが鳴れば休み時間になり、また鳴れば授業になる。
それが何年も続く。
湊は以前、それを当たり前だと思っていた。
当たり前だから、逃げられないと思っていた。
学校が世界の全部だった。
教室で笑われれば、自分という人間そのものが笑われたように感じた。
誰かに無視されれば、世界中から無視されたように感じた。
先生に何も言えなかった自分を、自分自身まで責めた。
けれど。
最近、少しだけ分かってきた。
学校は世界ではない。
ただの、小さな社会だ。
人数が多くて。
毎日顔を合わせて。
席が決められていて。
逃げにくいから。
世界のように見えるだけだ。
◇
「佐伯」
昼休みだった。
教室の後ろから声をかけられた。
湊は振り返った。
男子が二人立っている。
以前、湊をからかっていた生徒たちだった。
胸の奥が、ほんの少しだけ固くなる。
体が先に覚えている。
声を聞いただけで、肩に力が入る。
嫌だ。
怖い。
できれば関わりたくない。
その感情は、消えていなかった。
「なに?」
「いや、昨日の課題やった?」
「……やったけど」
「見せて」
一瞬、湊は黙った。
以前なら、断れなかった。
嫌われるのが怖かった。
何か言われるのが怖かった。
だから、笑って渡していた。
けれど今日は。
「ごめん。自分でやって」
そう言った。
男子が少しだけ眉を上げた。
「なんだよ」
「いや……」
湊自身も驚いていた。
声は震えていた。
手も少し震えている。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
それでも言えた。
男子はしばらく湊を見ていた。
やがて、
「ケチ」
とだけ言って、自分の席へ戻っていった。
それだけだった。
世界は、壊れなかった。
誰も立ち上がらなかった。
先生が飛んでくることもなかった。
窓ガラスが割れることもなかった。
ただ。
昼休みが続いていた。
教室の中では、別の誰かが笑っている。
誰かが弁当を食べている。
スマートフォンを見ている。
眠っている人もいる。
何も変わっていない。
なのに。
湊の中では、何かが少しだけ変わった。
「……断っても、世界って終わらないんだ」
小さく呟いた。
◇
放課後。
校門を出ると、ミコがいた。
「今日は何かありましたか?」
「あった」
「嫌なことですか?」
「うん」
「では、帰りますか?」
「うん」
「その前に仕事があります」
「そうだった」
死神の仕事。
それは、湊が学校の外にある世界を思い出す時間でもあった。
駅へ向かう途中、湊はミコに言った。
「ねえ」
「はい」
「学校って、変な場所だよね」
「そうですか?」
「うん」
湊は歩きながら続けた。
「同じ年くらいの人間を、同じ場所に集めて、毎日一緒に過ごさせるんだよ」
「人間は、集まるのが好きですから」
「そうかな」
「死神は、あまり集まりません」
「それはなんとなく分かる」
「死者も、あまり集まりません」
「それも分かる」
少し笑った。
「でもさ」
湊は前を向いた。
「学校って、そこにいる人間同士の関係が、すごく大きく見えるんだ」
「大きく?」
「うん」
誰かと仲がいい。
誰かと仲が悪い。
誰かに好かれている。
誰かに嫌われている。
誰かが人気者。
誰かが一人。
「それだけで、人間の価値まで決まったような気がする」
ミコは何も言わなかった。
「僕も、そうだった」
湊は続けた。
「教室でうまくいかないから、自分は駄目なんだと思ってた」
少し間を置く。
「でも、違うんだよね」
「何がですか?」
「学校でうまくいかないことと、生きることがうまくいかないことは、同じじゃない」
ミコが湊を見る。
「学校は、人生の一部だけど」
「はい」
「人生全部じゃない」
その言葉を口にしたとき。
湊の胸の中に、少しだけ空間ができた気がした。
今まで、学校に押しつぶされていた場所。
そこに、ほんの少しだけ風が入った。
◇
その夜。
湊は自分の机に座っていた。
教科書を開いている。
けれど、勉強は進まない。
窓の外を見る。
住宅街の明かり。
向かいの家の窓。
道路を走る車。
どこかで犬が鳴いている。
同じ時間。
同じ街。
けれど、そこには学校とは違う人生がいくつもある。
会社で働いている人。
夕飯を作っている人。
テレビを見ている人。
誰かと喧嘩している人。
誰かと笑っている人。
一人で静かに過ごしている人。
湊は思った。
教室の中で、自分の人生が決まるわけではない。
当たり前のことだった。
なのに。
それに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
「……小さいな」
学校が小さいのか。
自分が学校を大きく見すぎていたのか。
たぶん、その両方だった。
◇
翌日。
担任に呼ばれた。
「佐伯、少しいいか?」
放課後の教室。
他の生徒はほとんど帰っている。
湊は少し緊張した。
「はい」
教師は机の上の書類を整理しながら言った。
「最近、少し様子が変わったな」
「そうですか?」
「前より、授業中に顔を上げるようになった」
湊は何と答えればいいのか分からなかった。
「……そうですかね」
「ああ」
教師は笑った。
「何かあったのか?」
湊は黙った。
死神のことを話すわけにはいかない。
話せるはずもない。
だから。
「ちょっと……考え方が変わっただけです」
そう答えた。
「何について?」
「……自分のこととか」
教師は、それ以上聞かなかった。
「そうか」
そして、少し間を置いて言った。
「もし困っていることがあるなら、言ってくれ」
湊は顔を上げた。
「……はい」
「すぐに解決できるとは限らないけどな」
教師は苦笑した。
「それでも、言ってくれれば一緒に考えることはできる」
湊はその言葉を聞いていた。
一緒に考える。
それは、思っていたより大きな言葉だった。
誰かに全部解決してもらうわけではない。
自分の代わりに生きてもらうわけでもない。
ただ。
一人で抱えなくていい。
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
「……ありがとうございます」
教室を出る。
廊下にミコが立っていた。
「何かありましたか?」
「先生と話した」
「何を?」
「学校で困ってることがあったら、相談していいって」
「それはよかったですね」
「うん」
湊は少し歩いてから言った。
「でも、まだ相談するのは怖い」
「はい」
「迷惑かなって思う」
「はい」
「何でも一人でできる人のほうが、ちゃんとしてる気もする」
ミコはしばらく考えた。
「私は、そうは思いません」
「なんで?」
「死神も、一人では仕事ができません」
「そうなの?」
「書類を書く人がいます」
「うん」
「予定を管理する人がいます」
「うん」
「死者を迎える人もいます」
「うん」
「それぞれ違う仕事をしています」
ミコは湊を見る。
「一人で全部できる死神は、たぶんいません」
「……人間も?」
「たぶん」
湊は少し笑った。
「たぶんなんだ」
「人間については、まだ勉強中なので」
「そっか」
二人で歩く。
夕方の校舎は静かだった。
昼間はあれほど大きく感じた場所が、今はずいぶん小さく見えた。
廊下。
階段。
教室。
職員室。
たったそれだけだ。
ここで起きることが、自分の人生の全部ではない。
湊は、そう思えるようになっていた。
もちろん。
明日また嫌なことがあるかもしれない。
怖くなるかもしれない。
何もかも嫌になる日が来るかもしれない。
それでも。
そのときは、学校の外にも世界があることを思い出せばいい。
相談してもいい。
逃げてもいい。
場所を変えてもいい。
誰かに助けてもらってもいい。
そして。
それでも苦しいなら、また別の方法を探せばいい。
人生には、意外と選択肢がある。
ただ、苦しすぎるときには、それが見えなくなるだけなのかもしれない。
校門を出る。
空が赤く染まっている。
湊は振り返った。
校舎は、ただの建物だった。
昨日まで自分を閉じ込めていた巨大な箱ではない。
「ミコ」
「はい」
「学校って、小さいね」
「はい」
「でも、いると大きく見える」
「不思議ですね」
「うん」
湊は歩き出した。
学校という小さな世界の外には。
もっと大きな世界がある。
その世界が、必ずしも優しいとは限らない。
けれど。
少なくとも。
一つの場所で傷ついたからといって。
人生そのものまで、終わりにする必要はない。
そのことを。
湊はようやく、自分の言葉として考え始めていた。
そしてそのとき。
少し先の道路から、聞き慣れない声がした。
「……助けて」
湊が足を止める。
ミコも同時に立ち止まった。
二人は顔を見合わせた。
死神の仕事だった。
けれど。
今度の声は。
いつもの死者のものとは、少し違っていた。




