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死神少女が命の源  作者: 和泉 きよ


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19/25

19.学校という小さな世界

 学校という場所は、不思議だった。


 朝、家を出る。


 決められた道を歩く。


 決められた時間までに教室へ入る。


 決められた席に座る。


 決められた授業を受ける。


 チャイムが鳴れば休み時間になり、また鳴れば授業になる。


 それが何年も続く。


 湊は以前、それを当たり前だと思っていた。


 当たり前だから、逃げられないと思っていた。


 学校が世界の全部だった。


 教室で笑われれば、自分という人間そのものが笑われたように感じた。


 誰かに無視されれば、世界中から無視されたように感じた。


 先生に何も言えなかった自分を、自分自身まで責めた。


 けれど。


 最近、少しだけ分かってきた。


 学校は世界ではない。


 ただの、小さな社会だ。


 人数が多くて。


 毎日顔を合わせて。


 席が決められていて。


 逃げにくいから。


 世界のように見えるだけだ。


   ◇


 「佐伯」


 昼休みだった。


 教室の後ろから声をかけられた。


 湊は振り返った。


 男子が二人立っている。


 以前、湊をからかっていた生徒たちだった。


 胸の奥が、ほんの少しだけ固くなる。


 体が先に覚えている。


 声を聞いただけで、肩に力が入る。


 嫌だ。


 怖い。


 できれば関わりたくない。


 その感情は、消えていなかった。


 「なに?」


 「いや、昨日の課題やった?」


 「……やったけど」


 「見せて」


 一瞬、湊は黙った。


 以前なら、断れなかった。


 嫌われるのが怖かった。


 何か言われるのが怖かった。


 だから、笑って渡していた。


 けれど今日は。


 「ごめん。自分でやって」


 そう言った。


 男子が少しだけ眉を上げた。


 「なんだよ」


 「いや……」


 湊自身も驚いていた。


 声は震えていた。


 手も少し震えている。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。


 それでも言えた。


 男子はしばらく湊を見ていた。


 やがて、


 「ケチ」


 とだけ言って、自分の席へ戻っていった。


 それだけだった。


 世界は、壊れなかった。


 誰も立ち上がらなかった。


 先生が飛んでくることもなかった。


 窓ガラスが割れることもなかった。


 ただ。


 昼休みが続いていた。


 教室の中では、別の誰かが笑っている。


 誰かが弁当を食べている。


 スマートフォンを見ている。


 眠っている人もいる。


 何も変わっていない。


 なのに。


 湊の中では、何かが少しだけ変わった。


 「……断っても、世界って終わらないんだ」


 小さく呟いた。


   ◇


 放課後。


 校門を出ると、ミコがいた。


 「今日は何かありましたか?」


 「あった」


 「嫌なことですか?」


 「うん」


 「では、帰りますか?」


 「うん」


 「その前に仕事があります」


 「そうだった」


 死神の仕事。


 それは、湊が学校の外にある世界を思い出す時間でもあった。


 駅へ向かう途中、湊はミコに言った。


 「ねえ」


 「はい」


 「学校って、変な場所だよね」


 「そうですか?」


 「うん」


 湊は歩きながら続けた。


 「同じ年くらいの人間を、同じ場所に集めて、毎日一緒に過ごさせるんだよ」


 「人間は、集まるのが好きですから」


 「そうかな」


 「死神は、あまり集まりません」


 「それはなんとなく分かる」


 「死者も、あまり集まりません」


 「それも分かる」


 少し笑った。


 「でもさ」


 湊は前を向いた。


 「学校って、そこにいる人間同士の関係が、すごく大きく見えるんだ」


 「大きく?」


 「うん」


 誰かと仲がいい。


 誰かと仲が悪い。


 誰かに好かれている。


 誰かに嫌われている。


 誰かが人気者。


 誰かが一人。


 「それだけで、人間の価値まで決まったような気がする」


 ミコは何も言わなかった。


 「僕も、そうだった」


 湊は続けた。


 「教室でうまくいかないから、自分は駄目なんだと思ってた」


 少し間を置く。


 「でも、違うんだよね」


 「何がですか?」


 「学校でうまくいかないことと、生きることがうまくいかないことは、同じじゃない」


 ミコが湊を見る。


 「学校は、人生の一部だけど」


 「はい」


 「人生全部じゃない」


 その言葉を口にしたとき。


 湊の胸の中に、少しだけ空間ができた気がした。


 今まで、学校に押しつぶされていた場所。


 そこに、ほんの少しだけ風が入った。


   ◇


 その夜。


 湊は自分の机に座っていた。


 教科書を開いている。


 けれど、勉強は進まない。


 窓の外を見る。


 住宅街の明かり。


 向かいの家の窓。


 道路を走る車。


 どこかで犬が鳴いている。


 同じ時間。


 同じ街。


 けれど、そこには学校とは違う人生がいくつもある。


 会社で働いている人。


 夕飯を作っている人。


 テレビを見ている人。


 誰かと喧嘩している人。


 誰かと笑っている人。


 一人で静かに過ごしている人。


 湊は思った。


 教室の中で、自分の人生が決まるわけではない。


 当たり前のことだった。


 なのに。


 それに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。


 「……小さいな」


 学校が小さいのか。


 自分が学校を大きく見すぎていたのか。


 たぶん、その両方だった。


   ◇


 翌日。


 担任に呼ばれた。


 「佐伯、少しいいか?」


 放課後の教室。


 他の生徒はほとんど帰っている。


 湊は少し緊張した。


 「はい」


 教師は机の上の書類を整理しながら言った。


 「最近、少し様子が変わったな」


 「そうですか?」


 「前より、授業中に顔を上げるようになった」


 湊は何と答えればいいのか分からなかった。


 「……そうですかね」


 「ああ」


 教師は笑った。


 「何かあったのか?」


 湊は黙った。


 死神のことを話すわけにはいかない。


 話せるはずもない。


 だから。


 「ちょっと……考え方が変わっただけです」


 そう答えた。


 「何について?」


 「……自分のこととか」


 教師は、それ以上聞かなかった。


 「そうか」


 そして、少し間を置いて言った。


 「もし困っていることがあるなら、言ってくれ」


 湊は顔を上げた。


 「……はい」


 「すぐに解決できるとは限らないけどな」


 教師は苦笑した。


 「それでも、言ってくれれば一緒に考えることはできる」


 湊はその言葉を聞いていた。


 一緒に考える。


 それは、思っていたより大きな言葉だった。


 誰かに全部解決してもらうわけではない。


 自分の代わりに生きてもらうわけでもない。


 ただ。


 一人で抱えなくていい。


 それだけ。


 それだけなのに。


 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 「……ありがとうございます」


 教室を出る。


 廊下にミコが立っていた。


 「何かありましたか?」


 「先生と話した」


 「何を?」


 「学校で困ってることがあったら、相談していいって」


 「それはよかったですね」


 「うん」


 湊は少し歩いてから言った。


 「でも、まだ相談するのは怖い」


 「はい」


 「迷惑かなって思う」


 「はい」


 「何でも一人でできる人のほうが、ちゃんとしてる気もする」


 ミコはしばらく考えた。


 「私は、そうは思いません」


 「なんで?」


 「死神も、一人では仕事ができません」


 「そうなの?」


 「書類を書く人がいます」


 「うん」


 「予定を管理する人がいます」


 「うん」


 「死者を迎える人もいます」


 「うん」


 「それぞれ違う仕事をしています」


 ミコは湊を見る。


 「一人で全部できる死神は、たぶんいません」


 「……人間も?」


 「たぶん」


 湊は少し笑った。


 「たぶんなんだ」


 「人間については、まだ勉強中なので」


 「そっか」


 二人で歩く。


 夕方の校舎は静かだった。


 昼間はあれほど大きく感じた場所が、今はずいぶん小さく見えた。


 廊下。


 階段。


 教室。


 職員室。


 たったそれだけだ。


 ここで起きることが、自分の人生の全部ではない。


 湊は、そう思えるようになっていた。


 もちろん。


 明日また嫌なことがあるかもしれない。


 怖くなるかもしれない。


 何もかも嫌になる日が来るかもしれない。


 それでも。


 そのときは、学校の外にも世界があることを思い出せばいい。


 相談してもいい。


 逃げてもいい。


 場所を変えてもいい。


 誰かに助けてもらってもいい。


 そして。


 それでも苦しいなら、また別の方法を探せばいい。


 人生には、意外と選択肢がある。


 ただ、苦しすぎるときには、それが見えなくなるだけなのかもしれない。


 校門を出る。


 空が赤く染まっている。


 湊は振り返った。


 校舎は、ただの建物だった。


 昨日まで自分を閉じ込めていた巨大な箱ではない。


 「ミコ」


 「はい」


 「学校って、小さいね」


 「はい」


 「でも、いると大きく見える」


 「不思議ですね」


 「うん」


 湊は歩き出した。


 学校という小さな世界の外には。


 もっと大きな世界がある。


 その世界が、必ずしも優しいとは限らない。


 けれど。


 少なくとも。


 一つの場所で傷ついたからといって。


 人生そのものまで、終わりにする必要はない。


 そのことを。


 湊はようやく、自分の言葉として考え始めていた。


 そしてそのとき。


 少し先の道路から、聞き慣れない声がした。


 「……助けて」


 湊が足を止める。


 ミコも同時に立ち止まった。


 二人は顔を見合わせた。


 死神の仕事だった。


 けれど。


 今度の声は。


 いつもの死者のものとは、少し違っていた。


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