18.生きる理由が見つからない
翌朝。
目が覚めた瞬間、湊は思った。
――生きる理由って、なんだろう。
昨日から、その言葉が頭の中に残っていた。
布団の中で天井を見る。
白い。
いつもと同じ天井だった。
別に特別なものではない。
傷があるわけでもない。
絵が描いてあるわけでもない。
ただの天井。
それなのに、湊はしばらく見つめていた。
生きる理由。
それを考えると、急に難しくなる。
家族。
友達。
将来。
夢。
好きなもの。
やりたいこと。
そういうものを一つずつ思い浮かべてみる。
けれど、どれも決定的ではなかった。
家族は大切だ。
漫画も好きだ。
プリンやシュークリームやメロンパンも好きだ。
ミコと話す時間も、最近では嫌いではない。
でも。
「だから生きるんだ」
と胸を張って言えるほどのものではない。
湊は布団から出た。
洗面所へ行く。
顔を洗う。
鏡を見る。
そこには、いつも通りの自分がいる。
眠そうな顔。
寝癖。
少し疲れた目。
特別な人間には見えない。
「……普通だな」
鏡の中の自分に言った。
鏡は何も答えない。
◇
学校へ向かう道で、ミコが待っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は早いですね」
「ミコが早いんだよ」
「死神なので」
「それ、時間に関係ある?」
「ありません」
「ないんだ」
ミコは真顔だった。
相変わらずだった。
その変わらなさに、湊は少しだけ安心した。
「ミコ」
「はい」
「昨日のことなんだけど」
「はい」
「僕、考えてた」
「何をですか?」
「生きる理由」
ミコは少し首を傾げた。
「見つかりましたか?」
「……見つからない」
即答だった。
ミコは驚かなかった。
「そうですか」
「うん」
「では、探すのをやめますか?」
「え?」
湊は足を止めた。
「生きる理由を探すことです」
ミコは平然としていた。
「見つからないなら、探し続けなくてもいいのでは?」
「でも……」
湊は言葉を探した。
「理由がないのに生きるって、おかしくない?」
「どうしてですか?」
「だって普通は、何か理由があって生きるものじゃないの?」
ミコは少し考えた。
「では、死神は?」
「え?」
「私が仕事をしている理由は?」
「……死神だから?」
「それは理由になっていません」
「じゃあ、何?」
「分かりません」
湊は思わず笑った。
「またそれか」
「本当に分からないので」
ミコは空を見上げた。
朝の空は薄い青だった。
「仕事を始めたから仕事をしています」
「それだけ?」
「はい」
「そんなのでいいの?」
「私は、それで困っていません」
湊は黙った。
人間は、いつから「理由」を必要とするようになったのだろう。
朝起きる理由。
学校へ行く理由。
勉強する理由。
働く理由。
誰かを好きになる理由。
生きる理由。
理由が説明できなければ、価値がないように思ってしまう。
けれど。
考えてみれば。
朝起きることに、毎回大げさな理由なんてない。
喉が渇いたから水を飲む。
寒いから上着を着る。
眠いから寝る。
お腹が空いたから食べる。
それで十分なこともある。
「……ミコ」
「はい」
「生きるって、理由が先じゃなくてもいいのかな」
ミコはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「また分からない」
「でも」
ミコは続けた。
「生きている途中で理由ができることは、あると思います」
湊は黙って聞いていた。
「最初から持っている必要は、ないのではないでしょうか」
その言葉は、妙に静かだった。
◇
その日の授業は、いつも通りだった。
数学。
国語。
体育。
昼休み。
誰かの笑い声。
廊下を走る足音。
教師の注意。
窓の外を飛ぶ鳥。
何も特別なことは起きなかった。
けれど湊は、授業中にふと思った。
自分は今、ここにいる。
それだけだった。
別に学校が好きになったわけではない。
嫌な視線もある。
思い出したくないこともある。
明日になれば、また嫌なことが起きるかもしれない。
それでも。
今は、窓の外を見ている。
教師の声を聞いている。
ノートに文字を書いている。
シャープペンシルの芯が少し短くなっている。
そんなことを考えていた。
以前の自分なら。
こんなことに何の意味があるのかと思っていた。
今も、意味があるとは思えない。
でも。
意味がないことと、無価値であることは違うのかもしれない。
その二つは、似ているようで全然違う。
湊はノートの端に、小さく書いた。
『意味がなくても、存在していい』
書いたあと、恥ずかしくなってすぐに消した。
誰かに見られたら、変だと思われる。
そう思って消したのに。
消し跡だけは残った。
薄い灰色の線。
完全には消えない。
湊はそれを見ていた。
そして、少しだけ思った。
――別に、消えなくてもいいか。
◇
放課後。
ミコと合流すると、いつもの仕事が待っていた。
今日は、駅から少し離れた公園だった。
そこに一人の女性がいた。
見た目は、湊の母親くらいの年齢だった。
ベンチに座っている。
手には、古いスマートフォン。
画面には、家族との写真が表示されていた。
「死者ですか?」
「はい」
湊は女性の隣に座った。
女性は気づかない。
ただ、写真を眺めている。
しばらくして、女性が呟いた。
「明日、片づけなきゃ」
湊は少し驚いた。
「……明日の話、してる」
「はい」
ミコも驚いていた。
女性はスマートフォンを見つめたまま続けた。
「冷蔵庫の中、どうしよう」
「冷蔵庫?」
「牛乳が残ってるから」
女性は笑った。
「もったいないでしょう?」
湊は、思わず笑いそうになった。
死んだあとに心配することが、それなのか。
もっと大きなことではないのか。
人生の意味とか。
家族への最後の言葉とか。
そんなものではないのか。
けれど。
「……牛乳か」
湊は呟いた。
女性は立ち上がった。
「行きましょう」
ミコが言う。
女性は二人を見ているようで、見ていない。
ただ、最後にもう一度だけスマートフォンを見た。
そこには家族の写真があった。
そして女性は、静かに消えていった。
湊はしばらくその場から動かなかった。
「ミコ」
「はい」
「生きる理由ってさ」
「はい」
「牛乳みたいなものなのかもしれないね」
ミコは首を傾げた。
「牛乳?」
「いや、なんでもない」
◇
帰り道。
夕方の街は、少しずつ暗くなっていた。
店の明かりがつく。
自転車が通る。
信号が変わる。
どこかの家から夕飯の匂いがする。
人間は、今日も普通に生きている。
誰かは仕事へ行き。
誰かは学校から帰り。
誰かはスーパーで夕飯を買う。
誰かは明日の予定を確認する。
その一つ一つに、壮大な意味があるわけではない。
それでも、人は明日の予定を入れる。
「明日、何時に起きよう」
「明日、何を食べよう」
「明日、学校か」
「明日、仕事か」
そうやって未来を細かく切り分けながら、生きていく。
湊は歩きながら考えた。
生きる理由が見つからない。
それは、今も変わらない。
夢があるわけでもない。
人生を賭けたい何かがあるわけでもない。
「生きたい」と強く思える日ばかりでもない。
それでも。
明日の朝、目が覚めたら。
冷蔵庫を開ける。
プリンを食べる。
学校へ行く。
嫌なことがあったら、帰ってくる。
ミコと話す。
そして、また眠る。
それくらいなら。
できる気がした。
「ミコ」
「はい」
「僕、まだ生きる理由は分からない」
「はい」
「でも、理由が分からないままでも、明日を迎えていい気がする」
ミコは黙っていた。
やがて。
「それでいいと思います」
と言った。
湊は空を見上げた。
夕焼けは、もうほとんど消えていた。
暗くなっていく空を見ると、以前なら不安になった。
夜が来る。
また一日が終わる。
そして、また明日が来る。
終わらない。
そのことが怖かった。
けれど今は。
終わることよりも。
続くことについて、少しだけ考えられる。
「明日も学校か……」
「はい」
「嫌だな」
「はい」
「でも行く」
「はい」
ミコは笑った。
「では、明日も会えますね」
湊は一瞬、言葉を失った。
そうか。
明日も会える。
それは、たいしたことではない。
約束でもない。
人生の意味でもない。
ただの予定だ。
けれど。
湊には、それで十分だった。
生きる理由が見つからなくても。
生きている間に、明日の予定くらいは作れる。
そして、予定を一つずつこなしているうちに。
いつか理由と呼べるものが、後ろからついてくることもあるのかもしれない。
湊はまだ、それを信じることはできなかった。
ただ。
否定もしなかった。
それだけで、今日は十分だった。
「帰ろう、ミコ」
「はい」
二人は歩き出した。
生きる理由は、まだ見つからない。
けれど。
明日食べるものは、決められる。
明日着る服も。
明日行く場所も。
明日、誰と話すかも。
人生全部を決められなくても。
明日一日くらいなら、自分で選べる。
湊はそう思いながら、夜の道を歩いた。
そして、その小さな選択の積み重ねが。
いつか「生きる」という言葉そのものになっていくことを。
まだ知らなかった。




