17.俺を助けたのは間違いだった
朝、目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
湊は布団の中でしばらく天井を見ていた。
学校。
そう思っただけで、胸の奥が少し重くなる。
以前なら、それだけで一日が始まることが嫌になった。
今は違う。
嫌なのは、学校だ。
今日という一日そのものではない。
その違いに気づけるようになったことを、湊は少し不思議に思った。
机の上には、昨日コンビニで買ったプリンがある。
冷蔵庫に入れておけばよかったのに、買ったことに満足して、そのまま置きっぱなしにしていた。
湊はため息をついた。
「……朝から何やってんだ、僕」
小さく笑った。
それから、冷蔵庫へ向かった。
プリンをしまう。
制服に着替える。
顔を洗う。
朝食を食べる。
どれも、以前ならどうでもよかったことだ。
けれど今は、その「どうでもよさ」が少しだけ心地よかった。
人生は、毎日何かを決めなければならないものだと思っていた。
生きる理由。
将来の夢。
自分の価値。
そんな大きなものを持っていなければ、明日へ進んではいけないような気がしていた。
けれど実際には。
冷蔵庫にプリンを入れる。
靴ひもを結ぶ。
玄関を出る。
そんなことで一日は始まってしまう。
人生は、思っていたよりずっと雑だった。
その雑さが、最近の湊には少しありがたかった。
◇
学校から帰ると、ミコがいた。
部屋の隅に座っている。
小さな鎌を抱えていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「今日、学校はどうでしたか?」
「普通」
「普通とは?」
「嫌なことがあって、嫌じゃないこともあって、結局帰ってきた」
「なるほど」
ミコは真剣な顔で頷いた。
「それは、かなり普通ですね」
「死神に言われると、なんか変な感じだな」
「死神だからです」
「その説明、もういいよ」
ミコは首を傾げた。
「便利なのですが」
「便利じゃない」
そんなやり取りをしてから、二人は死神の仕事へ向かった。
その途中だった。
ミコが突然、足を止めた。
「……湊」
「なに?」
「少し寄っていきたい場所があります」
連れて行かれたのは、あの白い部屋だった。
死神の事務所。
何度来ても、病院とも役所とも学校ともつかない、不思議な場所だ。
壁には時計がある。
ただし、針は動いていない。
机の上には大量の書類。
その中に、一枚だけ見覚えのある紙があった。
「それ……」
湊は立ち止まった。
ミコは紙を持ち上げた。
そこには、名前が書かれていた。
佐伯湊。
その下に、いくつかの項目が並んでいる。
「救命対象者」
「選定日時」
「担当死神」
そして。
「救命理由」
そこだけ、空欄だった。
湊はしばらく黙っていた。
「……空欄なんだ」
「はい」
「僕を助けた理由」
「はい」
「書かれてない」
「はい」
ミコはそれ以上、何も言わなかった。
湊は紙を見つめた。
不思議だった。
前なら、理由がないことに安心していたかもしれない。
死神が間違えた。
ただそれだけなら、自分には何の意味もない。
そう思えた。
けれど。
今は違った。
意味がないことが、少し怖かった。
「ミコ」
「はい」
「本当に僕を助ける必要、あったの?」
ミコは答えなかった。
湊はもう一度聞いた。
「僕じゃなきゃいけなかった?」
長い沈黙があった。
やがてミコは言った。
「……分かりません」
いつもの言葉だった。
けれど、その「分かりません」は今までとは違って聞こえた。
「分からないってことは」
湊は紙を見た。
「僕じゃない誰かを助けたほうが、よかった可能性もあるってこと?」
ミコは目を伏せた。
「あります」
その言葉は、思ったより重かった。
胸の中に、何か冷たいものが落ちてきたようだった。
湊は笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
「……そっか」
自分は、誰かの代わりだったのかもしれない。
誰かが救われるはずだった。
その席に、間違って自分が座ってしまった。
そんな考えが浮かんだ。
今まで、自分が生きていることを少しずつ受け入れようとしていた。
学校へ行く。
明日のことを考える。
くだらないことで笑う。
プリンやシュークリームやメロンパンを買う。
それでいいと思える日も増えていた。
なのに。
もし、その全部が「間違い」だったら。
今まで積み重ねてきたものは何だったのだろう。
「じゃあ……」
湊は言った。
「僕を助けたのは、本当に間違いだったんだ」
ミコは否定しなかった。
「……そうかもしれません」
その返事が、逆に苦しかった。
「なんだよ、それ」
湊は紙を机に置いた。
「僕は、頑張って生きようとしてるんだよ」
声が少し震えた。
「前よりは、明日のことも考えられるようになった。
学校だって、怖いけど行ってる。
笑える日だってある」
ミコは黙っている。
「なのに、それすら全部、間違いだったかもしれないって言われたら……」
言葉が続かなかった。
生きることは、誰かに許可してもらうものではない。
そう思いたい。
でも、自分を救った人間が目の前にいると。
どうしても聞きたくなる。
自分は、生きていていいのか。
救われてしまってよかったのか。
湊は拳を握った。
「僕、ミコに迷惑をかけてるんじゃない?」
「どうしてですか?」
「だって、間違えて助けたんだろ」
「はい」
「そのせいで、僕の面倒を見ることになって」
「はい」
「だったら……」
言葉が喉につかえた。
「僕は、ちゃんと生きなきゃいけないんじゃないの?」
ミコは少し驚いた顔をした。
「ちゃんと?」
「……幸せになったりとか」
湊は自分で言って、妙な気持ちになった。
「笑ったりとか。学校に行ったりとか。将来のこと考えたりとか。そういうの」
ミコはしばらく湊を見つめていた。
そして、静かに言った。
「それは、私への返済ですか?」
湊は何も言えなかった。
返済。
その言葉が、胸に刺さった。
生きることが、借金になっていた。
救ってもらったから。
助けてもらったから。
死なずに済んだから。
だから、幸せにならなければならない。
だから、前向きにならなければならない。
だから、もう苦しんではいけない。
そうしなければ、救ってくれた人に申し訳ない。
けれど。
それは、本当に「生きる」ということなのだろうか。
ミコは続けた。
「湊」
「……なに」
「私は、あなたを救いました」
「うん」
「でも、あなたの人生を買ったわけではありません」
湊は顔を上げた。
「救われた人は、救った人の期待通りに生きる必要はありません」
静かな声だった。
「だから、幸せにならなくてもいい」
湊は目を見開いた。
「え?」
「毎日笑わなくてもいいです」
ミコは淡々と言った。
「学校が嫌な日があってもいいです。何もしたくない日があってもいいです。
私に感謝しなくてもいいです」
「……感謝はしてるよ」
「そうですか」
「でも」
湊は言った。
「それと、生きることは別なんだね」
「はい」
ミコは頷いた。
「別です」
湊は、もう一度紙を見た。
そこには、相変わらず空欄がある。
救命理由。
何も書かれていない。
それは、自分の人生に意味がないという証明のようにも見えた。
けれど。
同時に。
誰かが勝手に決めた意味に縛られなくていい、ということにも思えた。
「……じゃあ」
湊は小さく息を吐いた。
「僕を助けたのは、やっぱり間違いだったのかもしれない」
ミコは答えた。
「そうかもしれません」
「否定しないんだ」
「はい」
「普通、そこは否定するところじゃない?」
「私は死神なので」
「またそれかよ」
湊は思わず笑った。
ミコも少しだけ笑った。
そして、二人の間に静かな時間が流れた。
間違いだった。
そう言われると、以前の湊なら、その言葉だけで全部を終わらせたくなったかもしれない。
でも今は違った。
間違いだったとしても。
今日という日は存在している。
今日、学校へ行った。
今日、嫌なことがあった。
今日、少し笑った。
今日、家に帰ってきた。
それらは、間違いだったかどうかとは関係がない。
湊は紙を見つめながら思った。
人生には、最初から正解が書かれているわけではない。
間違って始まることもある。
誰かに間違われることもある。
自分自身が、自分の選択を間違えることだってある。
それでも。
次の一歩まで間違いになるわけではない。
「ミコ」
「はい」
「明日、プリン食べようかな」
「はい」
「それって、生きる理由にはならないよね」
「ならないと思います」
「だよね」
「でも」
ミコは少し考えてから言った。
「食べたいなら、食べればいいと思います」
湊は笑った。
「……そういうところ、ずるいよな」
「褒められていますか?」
「たぶん」
白い部屋を出る。
廊下の先には、何もない。
いつもの世界があるだけだった。
家に帰る。
ご飯を食べる。
風呂に入る。
眠る。
そして、明日が来る。
それだけ。
それだけなのに。
湊は、少しだけ安心していた。
自分は、誰かに救われたから生きなければならないわけではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
正しい人間になるためでもない。
ただ。
間違いだったとしても。
今ここにいる自分が、明日の自分に何をするかくらいは、自分で決めてもいい。
◇
その夜。
湊は冷蔵庫を開けた。
プリンが一つある。
少し迷ってから、扉を閉めた。
「……明日にしよう」
その言葉を口にしたあと。
湊は、自分でも気づかないほど小さく笑った。
明日にする。
それは、たいした決断ではない。
けれど今の湊にとっては。
自分の人生について、自分で決めたことだった。




