14.「死にたい」と「死ぬ」の違い
翌朝。
湊は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
理由は分からなかった。
眠りが浅かったわけでもない。
悪い夢を見たわけでもない。
ただ。
目が覚めた。
時計を見る。
六時四十二分。
まだ早い。
もう一度寝ようと思った。
けれど。
眠れなかった。
布団の中で天井を見る。
昨日の死者の言葉を思い出していた。
――学校が嫌な日と、生きることそのものを終わらせたいってことは、同じじゃない。
その言葉が、頭から離れない。
湊は布団から出た。
顔を洗う。
歯を磨く。
制服に着替える。
鏡を見る。
そこには、いつもと同じ自分がいた。
特別なことは何も起きていない。
なのに。
昨日までと、少しだけ世界が違って見えた。
洗面台に置かれた歯ブラシ。
冷蔵庫の音。
窓から入ってくる朝の光。
全部、昨日までと同じだ。
でも。
同じものを見ている自分が、ほんの少し違う。
「……行きたくないな」
湊は呟いた。
すると。
「はい」
後ろから声がした。
「うわっ」
振り返る。
ミコがいた。
「お前、いつからいた?」
「今です」
「絶対嘘だろ」
「死神は嘘をつきません」
「昨日も勝手に部屋にいたじゃん」
「死神なので」
「それ理由になってないから」
ミコは首を傾げた。
「学校、行きたくないんですか?」
「うん」
「では、休みますか?」
湊は黙った。
以前なら。
この質問に迷わなかった。
休めるなら休みたい。
学校なんて行きたくない。
そう思った。
でも。
今日は少し違った。
「……行く」
「どうしてですか?」
「分からない」
「昨日の人みたいですね」
「そうかもな」
制服のボタンを留める。
「ただ」
「はい」
「行きたくないけど、行くことにした」
ミコはしばらく湊を見ていた。
「それは、すごいことですか?」
「知らない」
「立派なことですか?」
「知らない」
「生きる意味がありますか?」
「知らないって」
湊は笑った。
「でも、行きたくないって思いながら行ってもいいだろ」
ミコは少し考えた。
「……はい」
それだけだった。
◇
学校までの道を歩く。
足取りは軽くない。
むしろ重かった。
校門が見えてくると。
胸の奥が少し苦しくなった。
昨日までなら。
この苦しさを見つけると、
「やっぱり学校なんて嫌だ」
と思った。
今日は違った。
嫌なのは。
学校という場所だった。
少なくとも。
今、この瞬間の自分が苦しいということだった。
それ以上でも。
それ以下でもない。
だから。
その苦しさを人生全部にまで広げなくてもいい。
そう思えた。
◇
教室に入る。
誰かが笑っている。
誰かがゲームの話をしている。
誰かが宿題を写している。
いつもの朝。
湊の席に近づくと。
「おはよう」
声をかけられた。
湊は一瞬、誰が言ったのか分からなかった。
前に、自分を助けてくれた女子だった。
「……おはよう」
それだけ返した。
女子は席に戻った。
たったそれだけ。
何も変わらない。
でも。
湊は少しだけ、その「おはよう」を大事にした。
◇
授業が始まる。
黒板を見る。
先生が話している。
内容はよく分からない。
時計を見る。
まだ十時にもなっていない。
長い。
とても長い。
湊は思った。
学校が嫌いだ。
今も嫌いだ。
でも。
それでいいのかもしれない。
学校が嫌いでも。
学校にいることはできる。
学校にいるのが無理なら。
誰かに相談してもいい。
別の場所に行く方法を考えてもいい。
逃げることだってできる。
それは。
「生きることを諦める」
こととは違う。
湊はノートに小さく書いた。
――嫌な場所から逃げることと、人生から逃げることは違う。
書いたあと。
少し恥ずかしくなって消した。
こんなことをノートに書く自分が、妙に大人びているように感じた。
でも。
消した文字の跡は残った。
完全には消えない。
鉛筆の線が、紙に少しだけへこんでいる。
人間の考えも。
たぶん同じなのだ。
一度考えたことは。
消したつもりでも。
どこかに残っている。
それでいい。
過去の自分を消す必要はない。
あのとき本当に苦しかった。
死にたいと思った。
世界が嫌いだった。
それは嘘ではない。
でも。
今は少し違う。
それも嘘ではない。
両方とも、自分なのだ。
◇
放課後。
校門を出る。
ミコが待っていた。
「お疲れさまです」
「疲れた」
「学校はどうでした?」
「嫌だった」
「でも行きましたね」
「うん」
「なぜですか?」
「……知らない」
ミコは笑った。
「今日は、知らないが多いですね」
「仕方ないだろ」
「では、質問を変えます」
「何?」
「明日はどうしますか?」
湊は歩きながら考えた。
明日。
その言葉を以前は怖がっていた。
何が起きるか分からないから。
嫌なことが続くかもしれないから。
今度こそ耐えられないかもしれないから。
でも。
明日はまだ来ていない。
来ていないものを。
今日の自分が全部決める必要はない。
「明日になってから考える」
湊は答えた。
「それでいいと思います」
「死神が言うと変な感じだな」
「どうしてですか?」
「死神って、明日より死ぬ日のほうが詳しそうだから」
「失礼です」
ミコが少し頬を膨らませる。
湊は笑った。
「ごめん」
「許します」
「早いな」
「死神は寛大です」
「それも初耳だ」
二人は歩き続けた。
夕方の空が赤くなっていた。
「湊」
「ん?」
「昨日の人のこと、考えていますか?」
「……うん」
「怖いですか?」
「少し」
「何が?」
湊は考えた。
「死ぬこと」
少し間を置く。
「それと」
「はい」
「また、あのときみたいに思うこと」
ミコは黙った。
湊は続けた。
「もう二度とそう思わない、とは言えない」
「はい」
「また嫌になるかもしれない」
「はい」
「明日なんて来なければいいって思う日もあるかもしれない」
「はい」
「でも」
湊は足を止めた。
「そのときに、今日の自分まで否定したくない」
ミコが湊を見る。
「今日の自分?」
「今、生きてる自分」
風が吹いた。
制服の袖が揺れた。
湊は少しだけ空を見た。
「生きたいって思えない日があっても」
言葉を探す。
「生きていていいんじゃないかって」
ミコは何も言わない。
だから。
湊はもう一度言った。
「生きたいと思えないことと、生きていてはいけないことは、違うんだと思う」
ミコはゆっくり頷いた。
「はい」
その返事だけで。
十分だった。
湊は歩き出した。
死にたいと思ったことが消えたわけではない。
苦しかった記憶も消えない。
学校が嫌いなのも変わらない。
明日が怖い日も、きっとある。
それでも。
「怖い」と「進めない」は同じではない。
「逃げたい」と「終わらせたい」も同じではない。
「生きる意味が分からない」と「生きる意味がない」も。
きっと違う。
その違いを知っただけで。
世界が少しだけ広くなった気がした。
夕暮れの道を。
湊とミコは歩いていく。
死神と。
死ぬことを考えた少年。
二人とも。
生きることについては、まだ何も分からない。
それでも。
今日という一日を終えようとしていた。
それだけで。
今は十分だった。




